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愛の嵐 IL PORTIERE DI NOTTE / THE NIGHT PORTER(1973・イタリア/アメリカ) | ||||||
| ■ジャンル: ドラマ ■収録時間: 117分 ■スタッフ 監督 : リリアーナ・カヴァーニ 製作 : ロバート・ゴードン・エドワーズ / アメディオ・パガーニ 原作 : リリアーナ・カヴァーニ / バルバラ・アルベルティ 脚本 : リリアーナ・カヴァーニ / イタロ・モスカーティ 撮影 : アルマンド・ナンヌッツィ 音楽 : ダニエレ・パリス ■キャスト ダーク・ボガード(マックス) シャーロット・ランプリング(ルチア) フィリップ・ルロワ(クラウス) イザ・ミランダ(スタイン伯爵夫人) ガブリエル・フェルゼッティ(ハンク) |
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■あらすじ ウィーンでホテルのフロントマンとしてしがなく働くマックス(ダーク・ボガート)は、ある日ホテルに宿泊した指揮者夫婦を見て驚く。この指揮者の妻こそ、マックスが第二次世界大戦中に収容所で弄び慰み者にしていたユダヤ人の少女ルチア(シャーロット・ランプリング)だったのだ・・・そして、再会した二人は、堕ちる所まで狂喜と愛欲の日々に溺れていくのである。 ■オーボエの哀愁を含んだ音色とダーク・ボガートの繊細さ この作品の世界観は、1969年のルキノ・ヴィスコンティ作品『地獄に堕ちた勇者ども』の世界観を引き継いで作り上げられている。そして、そのことの延長線上としてダーク・ボガートとシャーロット・ランプリングが主演を務める。さらにその思想的な影響としてジョルジュ・バタイユ(1897〜1962)の影響を受けている作品である。 オープニングから流れるテーマ曲が誠に素晴らしい。オーボエの哀愁を含んだ音色がヨーロッパの持つ陰鬱さを見事に感じさせてくれている。そして、全体的に色調を抑えた映像に実にマッチしている。また作品中で所々に流れるピアノ・ソロ・バージョンも素晴らしく良い。 ダーク・ボガート(1921−1999)の存在感はこういう繊細な役柄において最大限に発揮される。そして、黒髪のイギリス人でこれほどナチス親衛隊の制服が似合う男もいないだろう。実に奇妙なことなのだが、本当の彼は第二次世界大戦中はイギリス軍将校として戦争に参加しており、ベンゲル・ベウゼン強制収容所に最初にたどり着いた部隊に所属していた。この時の感想を彼はこう記している。「まるでダンテの描く地獄そのものの光景だった」 ■シャーロット・ランプリングのロリータ的存在感 時折挿入される回想シーンの中でも特に印象深いのが遊園地のシーンである。少女のようなシャーロットが登場するその姿の幼さぶりに軽くショックを受ける。それにしても『第三の男』にしてもそうだが、ヨーロッパの監督は、人生の急転の表現として移動遊園地をよく使いたがるものである。 ロリータ的象徴のシーンは、最後の最後にもルチアの服装によって表現される。この少女的な服装に対するルチアのこだわりは、明確に自分の人生は、その時から停止しているという認識なのである。だからマックスが最後に死を前にしてナチス軍服を着るように、ルチアは少女時代の服を着て共に歩くのである。 ■躍動と恍惚が生み出すものが、背徳・・・ この映画の中でかなりのインパクトを与える魅力溢れるシーンがこれである。バレエダンサー、アメディオ・アモディオ(1940− )が演じるバートが仲間のナチス将校達の中でグルックの「オルフェオとエウリディーチェ」を舞うシーンである。この躍動感と恍惚感に対するナチ将校達の無感動ぶりが実にシュールで独特である。 「書類を焼いても消せないものもある。ドブネズミで結構 私は静かに暮らしたい」と言うマックス。 ■禁断の扉をこじ開ける悪徳の香りに惹かれて・・・ ![]() そして、再会し愛し合う2人。「愛してる」とマックスは言うが、ルチアは何も答えずにキスをして口をふさぐだけ。リリアーナ・カヴァーニの素晴らしいところがここにある。男は「愛」を口に出し、女は「愛」を口に出さないのである。つまりは男は愛を知っており(もしくは誰かに愛を求め)、女は愛を知らない(もしくは誰に対しても愛を求めない)のである。愛を知らない女だからこそ、我侭で名指揮者の夫に対しても不誠実なのである。つまりは愛を知らぬ人なのであるルチアという人は。 この人はかつて少女の頃、ナチスの強制収容所でマックスのペットであり、その退廃的な数々の行為に居心地の悪さを感じないように順応していったのである。そして、ナチス崩壊後解放されるのだが、マックスと13年ぶりに再会することによりペットとして培われた本能により、ひたすら食欲と性欲の欲求を満たそうとするのである。そして、最後は散歩に連れて行かれて果てるのである。 「忘れた過去が― 再び蘇えった、亡霊が 再び私を支配しようとしている 私はあの声と肉体から 逃げられない」とマックスは独白する。 ちなみに二人が再会し愛し合うシーンで、カットされているが、ルチアの足の指の先から舌を這わせていくマックスの姿があった。この官能のシーンは残すべきであった。 ■カヴァーニの考えるナチズムの本質とは ナチスの残党のマックスと、収容所に入っていた過去を持つユダヤ人女性という究極の対極的存在。ルチアから人を愛する気持ちを奪い去ったマックスには過去のルチアに対する行為に関する悔恨の念は全くない。ただ独りよがりに愛を叫び、その身勝手さからろくな愛情表現も出来ずにルチアを再びペットとするのである。そして、2人は人間らしくとは程遠い、人形のような無感覚の状態で射殺されるのである。 この2人の過去が生み出したものこそが、人生に対する無常観である。ナチズムの生み出すものの本質は、人間的感情の喪失であり、そういった人間と同調することでしか生きながらえなかったこの娘も、その影響をこうむってしまったのである。人間的感情の喪失感は、過去の奴隷となり、人生は全て後ろ向きに走り出し、幸福感という曖昧な状況よりも、絶望感という明確なる状況を求めるようになるのである。 そして、そこにあるのは愛ではなく愛を失った孤独な2人なのである。彼らが性行為をするのは、ただ単に孤独の隙間をうめているためだけなのである。そして、愛なき性行為ではあるが追いつめられた状況の中での性行為であることが、不感症の2人を敏感にさせてくれるのである。 つまりは、この作品の本質的なテーマは、心の閉ざされた人間同士の唯一の共通語は、絶望感の中でだけ感じ取れる心の恍惚感であるということである。 ジョルジュ・バタイユ曰く、人間がエロスそのものに取り付かれる理由は、美しいエロスの持つ幻想的な香りによるものではなく、禁断の扉をこじ開ける悪徳の香りからだ。というものである。そして、あの有名な写真。中国人が処刑で手足を切断されて、死の寸前に恍惚とした表情を浮かべている姿が写った4枚の写真から影響を受けたというバタイユの「エロティシズムと死は密接に離れがたい存在である」という感覚がこの作品の背景に流れている感覚なのである。つまり逆説的に言うと逃れがたい究極的な絶望の状況は、究極のエロス=恍惚を生み出すということである。しかし、そこには愛は不在なのである。
■人間の本質は『溺れて死にたい』である ![]() マレーネ・ディートリッヒの唄を歌いながらのナチス将校達のための余興をさせられるまさに『夏の嵐』のハイライト・シーン。とにかく、シャーロットのこの肉体が凄い。がりがりでしかも貧乳でたれ乳なのである。しかし、この肉体こそがカヴァーニがルチア役に臨んだ理想の肉体なのだろう。10代で強制収容所に入れられている美貌の少女そのものである。そして、そんな彼女が踊る姿は退廃的としかいいようがない。 カヴァーニは基本的に対比法で映画的解釈をしていく作家であり、この有名なシーンは最初の方のバレエのシーンの対称軸に置かれている。バレエの方はナチス親衛隊隊員のバレエ・ダンサーが踊り、こちらは、収容所のユダヤ人女性が踊ると言うよりは唄うのである。両方とも中性的なムードを漂わせることによって、2つの踊りの同義性と異質性をくっきり浮きだたせているのである。 ルチアのナチ帽に長手袋に裸にサスペンダーでズボン姿の方が、鍛え上げられた一流のバレエよりも印象に残ってしまうというその部分に、人間性の一切欠けている空間においての無常観から生まれる退廃ムードの麻薬のような魅力が見事に表現されているのである。 このシーンを評して『エロくてカッコイイ』という語彙で表現することしか出来ない人はまさに不幸である。このシーンは、むしろエロくてカッコイイのではなく、エロくなくてカッコワルイ姿に、魅力を感じてしまうと言う人間の本質を感じてもらいたいシーンなのであるから。 ちなみに本作の衣装をピエロ・トージが担当している。ヴィスコンティ映画のほとんどの衣装を担当した人でつまり『地獄に堕ちた勇者ども』も彼が衣装を担当していたのである。さらに撮影のアルマンド・ナンヌッツィも『地獄に堕ちた勇者ども』の撮影を担当していたのである。 ナチズム=ファシズムとは、ある意味一昔前のソ連や中国と同じく、破壊と混乱と優越の概念によりもたらされる何でもありの思想を生み出す土壌なのである。現在においても中国では労働収容所ではあえて社会的に虐げられていた人間を看守として雇うその理由は、権力とは無縁の人間が権力を持ったときの残酷さゆえなのである。そして、マックスは収容所担当の親衛隊の将校である。恐らくナチスの台頭により恩恵をこうむった人物なのだろう。収容所でルチアの裸をカメラで撮影したり、寝床に潜り込んだりとかなりのせこさである。 ■不安を生み出す幸福感よりも、不幸せという安心が欲しい そんな男のおもちゃ同然の慰み物になり果てながらルチアは生き地獄を生き延びたのである。やがてルチア自身もナチズムが生み出す退廃の虜になってしまったのである。そして、戦後満たされぬ日々を過ごし、旧ナチス圏であるウィーンに10数年ぶりの夫と戻ってきたのである。そして、過去の亡霊は蘇えるのである。 マレーネ・ディートリッヒの「Wenn Ich mir was wunshendurfte」を唄うシーンにおいてのドイツ語をシャーロットは吹き替え無しで唄っている。ちなみに彼女はドイツ語ははなせない。それにしても歌詞の内容が実に皮肉である。 私が愛するのは生きるため そうでなければ楽しむためよ たまには本気で愛することもあるわ きっといいことがありそうな気がして 何が欲しいかと訊かれれば 分からないと答えるだけ いい時もあれば 悪い時もある 何が欲しいかと訊かれれば 小さな幸せとでも言っておくわ だってもし幸せすぎたら 悲しい昔が恋しくなってしまうから ■ルチアは人間であることよりも家畜であることを望む 鎖に繋がれ、地べたを這いつくばるルチアはまさにマックスのペット状態である。理性の伴う10数年を過ごしてきたルチアも強制収容所で覚えた退廃的な生活の恍惚の味を忘れられなかったのだろう。まさに麻薬と同じで一度覚えたら忘れられない未知の領域に少女にして不幸にも踏み込んでしまったのである。 ナチズムが生み出したものは、社会的弱者に絶対的な権力を与えることによる潜在的な異常性の覚醒である。そして、その1人がマックスなのである。彼がしていることは端的に言えば性的犯罪行為に過ぎないのではあるが、実は人間が権力を与えられると、善良なことに時間を費やすよりも、性的悪徳に身を埋没させたくなるものなのである。実際現在の社会においても、権力者は性的犯罪行為の数々に身をゆだねているのである。そして、そうした行為は捕まるような社会的弱者の性犯罪よりも、遥かに退廃的で悪徳の極みでもあるのである。 キーポイントは、絶対権力が生み出す。神の存在を忘れた時点においての男性の関心事なのである。それが大概は、性欲と征服欲の暴走に繋がると言うことをカヴァーニは描いているのである。しかし、彼女はまたその現実を否定しているわけではないのである。そういった退廃的な歪みきった男女関係が生み出す麻薬のような魅力に彼女も生々しく参加しているのである。 ■意思の確認作業の陳腐さと有効性 「僕はあえてドブネズミの人生を選んだんだ 夜働くのには訳がある 光だよ 私には光が眩しいんだ」 マックスが『ジーク・ハイル!』と突然叫んだと同時に敬礼する他四人のシーンに見事にナチズムの本質が隠されている。つまるところ、『天皇陛下万歳!』と良く似た響きであり、水戸黄門の印籠のような有無を言わせぬ理屈を超えた掛け声なのである。つまりはこの敬礼を何人かですることにより「我々は絶対的に正しいのである」という意思の確認ができるのである。 『ジーク・ハイル!』の掛け声もまた1930年代から1940年代にかけて流行した麻薬なのである。 この作品で、狂信的なナチ残党を演じる片メガネの男を演じるのが『黄金の七人』の教授役が印象的なフィリップ・ルロワである。
■究極のコスチュームプレイ ![]() この唐突ながらも印象的な最後の2発の銃声の空しさがまたすごく良い。最後にナチス時代の制服を着たマックスと収容所で捕虜時代のロリータな衣装を着たルチアが橋を歩き殺されていく。愛の終焉ではなくまさしく愛を失った2人の加害者と被害者が。その関係を超えたぞっとするまでに空しすぎる瞬間である。 この作品の解釈においての明確な誤解は、ナチスの収容所において性的な関係に陥る2人という点である。2人が虜になっているのは愛に対してではないのである。10代半ばの少女が絶対権力を持つ陳腐な男性によって歪んだ性癖を埋め込まれ、その性癖の虜になっているのである。 お互いがではなく、一方的な強制から始まる物語なのである。そして、最後のシーンで収容所の頃の服装に着替えて殺されていく2人のこの行為は、明確に戦後の12年間が空虚な日々であったことを示しているのである。自業自得とまでは言い切れないがほぼ自分の意思で、そうなった男と、その男の犠牲者の女が最後には一緒に殺されていく所にこの作品の不思議な魅力の全てが凝縮されているのである。 ■デカダンスとは、芸術を理解するひとつの方法にすぎない ![]() (写真上)1984年 シャーロット・ランプリング/ダーク・ボガード カヴァーニの表現の素晴らしさをルキノ・ヴィスコンティは見抜いている。「私はリリアーナ・カヴァーニには一目置いている。彼女は首尾一貫している」と発言している。リリアーナ・カヴァーニ(1933− )は、映画界においては寡作な人ではあるが、彼女は現在においてはオペラ演出家としても名声を得ているので映画を作る時間がないのだろう。 この作品は愛情表現の歪んだ形と勘違いをさせる本質を秘めた、ルチアのマックスに対する憎悪と、マックスの陳腐さ加減を見事に描いている。ルチアは、もはや過酷な過去により、生に対する喜びを完全に失っているので、自分が最前列でこの男が滅び去っていく様をただ無感動に見ているのである。そして、本来は彼女に相応しい世界的指揮者である夫のような男性とではなくこんな陳腐な人間と殺されていくのである。 マックスがルチアの客室に忍び込み、抵抗しながらもルチアが狂ったように愛し合うところから、見事に表現されているのは、ルチア自身もマックスに収容所でおもちゃにされていた経験により、こういった自暴自棄な関係でしか性欲が満たされないようになってしまったということである。この狂気の表情が、のちのちの香水のビンの割れた破片をマックスに踏ませたり、マックスを足蹴にしたりすることに繋がるのである。 異常性愛は伝染し、エスカレートしていくのである。愛の倒錯という言葉がよく使用されるが、この2人の関係に関して言えば、人間にとって重要な感情である愛という感覚を失った女が、自分の過去の恍惚の体験を忘れきれずにその不幸の中に埋没し安心感を覚えながら死んでいくという話である。 この作品のテーマは明確に愛の喪失であり、この作品を見て、この2人の関係が究極の愛の形を感じたならば、究極の愛の形はこの人にとっては、『愛なき関係』なのだろう。映画を含め芸術というものはあらゆる個人的な解釈が許されるところに素晴らしさがあるのである。 ちなみに、日本題は『愛の嵐』となっているが原題は『ナイト・ポーター(夜の給仕)』である。 最後にルキノ・ヴィスコンティが1974年に言ったこの言葉を引用しよう。 「デカダンス。もはや決まり文句になってしまった言葉だ。この言葉を真の意味とは反対の意味で使っているのは残念なことだ。不健全なことを言うのに使っている。しかし、デカダンスとは、芸術を理解するひとつの方法にすぎない」 − 2007年2月21日 − |
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