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秋津温泉   (1962・松竹大船)
■ジャンル: ドラマ
■収録時間: 112分

■スタッフ
監督・脚本 : 吉田喜重
製作 : 白井昌夫 / 岡田茉莉子
原作 : 藤原審爾
撮影: 成島東一郎
美術 : 浜田辰雄
音楽 : 林光

■キャスト
岡田茉莉子(新子)
長門裕之(河本周作)
宇野重吉(松宮謙吉)
東野英治郎(船若寺住職)
秋津温泉
岡田茉莉子。日本の女優が失いつつあるものを兼ね備えた女優を超えた存在。彼女は本作で「日本の自然の中で朽ち果てていく日本女性の美」を見事に演じた。その目の力と優しさ、濃厚な口元、そして、うなじと仕草。髪をアップにした着物姿の岡田茉莉子に匹敵する女優を今の女優は目指せ!志は高く持とう。何も水商売の女を演じることだけが女の情念を演じる近道ではないのだ。

■あらすじ


1945年終戦間近の秋津温泉に結核で肺を病んでいる1人の作家志望の青年・周作(長門裕之)がやってくる。そこで甲斐甲斐しく看病してくれる17歳の娘・新子(岡田茉莉子)の姿に生きる勇気を見いだすが、やがて数年たち再び秋津温泉を訪れた周作は、人生に落胆し、新子に「一緒に死んでくれ」と言う。そして、新子は一緒に死ぬ決意をするのだが・・・


■岡田茉莉子が最も美しい瞬間


岡田茉莉子
本作の企画・衣装は岡田茉莉子自身によるものである。そして、出演作品100作記念などと銘打つところなど、やはりこの人は生粋の女優魂をもった人だと感じる。私がジャンヌ・モローという絶世の魅力的な女性をふと思い浮かべるときに必ず岡田茉莉子≠フ名前も脳裏に浮かぶ、それくらい彼女は世界的に認められるべき女優である。

彼女は日本が生んだ一つの奇跡であり、一つの宝であった。現在そういったレベルの女優を見つけることは出来ないが、それは恐らく映画界・演劇界の知的及び芸術的精神の低下によるものだろう。アニメの世界を現実に演じるレベルの人々を俳優と呼ぶべきではない。今の女優には、向上心があまり感じられない。どうも世俗性ばかり臭ってくる女優が多く、自分自身で磨き上げるよりは、マスコミに作り上げられている虚像に頼ってばかりなのでがっかりする。

それでは、ここで脱線して決定的な一つの現実を提示してみよう。


■人生の充実はどちらの逃避行為を行うかによって決定づけられる


人間が生きていくにおいて、自分であることを忘れる瞬間は、とても重要な瞬間である。人々はそういった時間を求め、お笑い番組を見たり、カラオケに行ったり、マンガを読んだりする。
この行為を私は、潜在的にさらに自分自身に不安を感じさせていく逃避行為だと定義つける

しかし、生きていくにおいて自己逃避は必然である。そこで、ある種の人々は、音楽や映画、演劇、絵画、文学といった芸術を鑑賞したり、大自然の中や歴史的建造物に圧倒されることにより自己逃避するのである。
この行為を私は、潜在的にさらに自分自身に満足を感じさせていく逃避行為だと定義つける。

つまり、現在において、前者が氾濫している状態に皆が気づき始めているのである。
前者は日々時間を敵に廻し、後者は日々時間を味方につけているのである。多くのものが失われていきつつある現在において、これほど芸術といったものに大いなる逃避を求めていく可能性のある時代はないのである。

感性の低下が生み出したものは、テレビで垂れ流されるうんざりするような右に習えの横並び主義、個性もかけらもないマンネリズム、自分で何かを作り出すことも出来ない影響を受け易い受け皿の小さな小鉢である脳みそである。こんな感性のままではどうやらまずいと皆が感じ始めているのである。


■岡田茉莉子の魅力に応え切れなかった長門裕之


秋津温泉
長門裕之の役柄の説得力のなさが岡田茉莉子の名演が、こっけいなものに見られかねない危うさを生み出した。やはりこういうメロドラマは説得力のある男性が相手役じゃないと物語の根底に影響してしまう。雪のシーンのロケまでは芥川比呂志が周作を演じていたが、病に倒れ急遽代役で長門が出演したので、役作りの時間がなかったのも確かなのだが・・・

「俺と死んでくれ?」と言う長門の姿は恐らく100人中100人がその答えとして「NO」を発するであろうセリフの力のなさである。逆に言うと小さくはないが、本作のアラはこの部分だけなのである。それ以外は全てが素晴らしいのである。

実は逆説的なことであるが、本作がこれほど評価が高い理由も長門という一つの欠陥が存在するがゆえではないだろうか?


■日本にはその美しき風土という世界遺産が存在する


日本映画がいかに日本の大自然の恩恵のもと製作されていたかということを多くの名作を見れば見るほどに実感するのである。
基本的に日本では大都会の映画は存在する価値はないのである。大都会を舞台に映画を描いている時点で、島国であり、多文化国家でもないこの国の映画はすべて内向きになるのである。

日本映画を見る場合に都会を舞台にしているもの、あとアニメを原作にしているものは見る必要がないと言い切っていいだろう。本作において、岡山の奥津温泉周辺の大自然がここぞとまでに映像上に美しく投影されている。この美しい風景と岡田茉莉子の和服姿が本作のすべてと言ってよいのである。

そして、タイトルで題字が出るあの背景の日本和紙的風情も素晴らしく良い。更にこの日本情緒あふれる映像美とは対極的な林光によるヨーロピアン・テイストな音楽が一種の魔法のように本作を普遍的なものに変貌させている。やはり映画における音楽の存在は軽視してはいけないものだ。


■「一緒に死ぬ」意味合いの違い


秋津温泉
本作の物語の妙は、2度目に秋津温泉で2人が出会ったときには、周作が新子に「一緒に死んでくれ」と頼むのだが、それが10数年経つと、新子が周作に「一緒に死んで」と頼むようになるのである。この年月を経てお互いの立場が入れ替わっていく様が実に物悲しい。

結局新子は一人ぼっちで桜の木の下で手首を切って死に絶えるのだが、この2人には愛と言うよりも、周作にとってはもはや遊びであり、そんな感情を分かりすぎるほど分かってしまっている新子にとって後悔にも似た感情が自殺に走らせたように思える。
それは秋津温泉と言う戦後の復興とは全くかけ離れた場所で若さをもてあました自分と、何の変哲もない周作という年を経つごとにお互いの心が離れていく男としか愛し合える状況にめぐり合えなかった自分に対しての後悔だろう。

新子にとって愛はすでに価値のないものであり、遅すぎる春である。だから彼女は失ったものを取り返せない代わりに絶ち切りたかったのである。


■周作が象徴する戦後の日本男性の魅力のなさ


「8月15日新子さんは泣いたね?僕は人間てあんなに泣けるもんだと思わなかった。あの時以来僕はどうしても生きたいと思った」このセリフに象徴される周作という青年の清々しさと、僅か数年後の
「新子さんに酒を飲むなと怒られた。怒られたから生き延びたのか?怒られるために生き延びたのか?」というセリフに象徴される清々しさと醜さの対比が時の残酷な事実を浮き上がらせる。

周作という男は、まずはふてくされて、そして、情熱に目覚め、さらに自己憐憫と自己嫌悪に思い悩み、やがて、諦めることによって安定をつかむのである。ただし、最終的に周作がつかんだ安定は、若者から見れば誠にしょうもない安定である。妻を顧みず、職場の尻の軽い売店娘と浮気するも捨てられ、うじうじしているしがない安定なのである。


■吉田喜重の愛すべき緻密さ


「松竹ヌーベルバーグ」というくくりは、現在においてはピンとこないのだが、吉田喜重という監督の芸術的才能は堪能できた。彼の映像の表現は東大フランス文学部卒所以なのか、非常に緻密な文章的な説明臭さが本作においては、存在するが彼は感性よりも知性で撮る監督なのだと理解して見れば、そういったくどさも気にならなくなる。

本作における彼の素晴らしさは、じめじめした展開のメロドラマをじめじめとした映像感覚で撮らなかったことだろう。つまり3年間思い悩みましたとかそういった事を感じさせない淡白な時間の運びが本作を鑑賞に値するレベルに引き上げたのである。


■岡田茉莉子だからこそ言えるセリフ


「あたし後悔するとか諦めるとかそんなつらい思いするくらいなら死んだ方がよっぽどまし」


岡田茉莉子はこのセリフを言いたいがために本作の映画化を企画したのではないかとというほど、このセリフこそが岡田茉莉子という女優を象徴する素晴らしいセリフである。彼女のセリフ廻しを是非とも今の若き才能を浪費している女優達拝見し、拝聴せよ!それほどこのセリフの岡田茉莉子は身震いするほどのクールさである。


■襖越しに必ず「周作さん」と一言


秋津温泉
「相変わらずっていうのはもっとしょっちゅうあっているもの同士がいう言葉よ」


年を経るごとに、男と女の腐れ縁と言うものが生まれてくるものである。しょっちう会う訳ではないが、会えば愛し合える二人。私はこういった形の恋愛も純粋な恋愛の形として認める。ただし、本作の2人の関係はそうではない。周作が俗物になればなるほどその関係は変わっていく。

単に周作にとって都合のいい女に成り果てていくのである。こういう視点で見てみると最後の新子の自殺は、周作の思うツボに生きてしまい、最後くらいは周作の思う都合のいい女にはならないぞという悲しい女の抵抗なのかもしれない。

ちなみにつやま駅から飛び出して町を歩くシーンのカメラワークは、想像を絶するほどの日本的な美しさに溢れるカメラワークである。



■松田優作は語る


基本的に出演者の名前に宇野重吉、神山繁、小池朝雄、名古屋章、殿山泰司、高橋とよ、吉田輝雄、西村晃、清川虹子、山村聡、東野英治郎とかなりの豪華キャストの名が並んでいるが、どの出演者もほんの一分くらいのチョイ役である。

本作は直木賞作家・藤原審爾(1921−1984)が1947年に書いた小説に惚れこんだ岡田茉莉子が企画した。そして、吉田喜重が依頼を岡田から受け、脚本を自ら書くことと原作に忠実にならない可能性を認めることを条件に引き受けた。本作で意気投合した2人は撮影中に恋愛関係になり、1964年に結婚する。

ちなみに本作の大ヒットにより、数年間は奥津温泉ブームが起ったという。

最後に吉田喜重の『嵐が丘』(1988)で主演をつとめた松田優作は本作についてこう語っている。
「この前テレビで『秋津温泉』やりましたね。前に見たときは、かったるくて、つまんねえなと思ったんだけど、いや、すごかったなあ。岡田茉莉子さんはすごかったですけどね、主演の男の人がね・・・ぜんぜんわかってないね。あの世界に入れない人だ、あの人は。自分もだけどね」

− 2007年6月11日 −


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