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或る殺人   ANATOMY OF A MURDER(1959・アメリカ)
■ジャンル: サスペンス
■収録時間: 160分

■スタッフ
監督・製作 : オットー・プレミンジャー
原作 : ロバート・トレイバー
脚本 : ウェンデル・メイズ
撮影 : サム・リーヴィット
タイトルデザイン : ソウル・バス
音楽 : デューク・エリントン

■キャスト
ジェームズ・スチュワート(ポール・ビーグラー)
リー・レミック(ローラ・マニヨン)
ベン・ギャザラ(マニオン)
ジョージ・C・スコット(ダンサー)
アーサー・オコンネル(パーネル・マッカーシー)
或る殺人
ジョージ・C・スコットの存在感とデューク・エリントンの軽快な音楽を堪能する為の作品と言ってもいいくらいこの二人がいい。特にスコットの目の動きと口元の歪みだけで存在感をかもし出す演技メソッドは今の役者に見てもらいたい。画面上に彼が出ていなくても、裁判の動向を見据えている彼の視線が映像上から感じるくらいの恐るべき存在感である。

■あらすじ


舞台はミシガン州。釣りとジャズを愛する弁護士ビーグラー(ジェームズ・スチュワート)の元に、愛妻ローラ(リー・レミック)がレイプされ、そのレイプ犯を射殺したという陸軍中尉マニオン(ベン・ギャザラ)の弁護を依頼される。ローラの奔放な性格ゆえに、レイプではなく不倫ではないか?という疑問が高まる中、法廷でビーグラー弁護士とダンサー検事(ジョージ・C・スコット)の論戦が繰り広げられる。


■ソウル・バスとデューク・エリントン


本作の魅力はこういってしまうと元も子もないが、法廷ドラマよりも、ソウル・バスのタイトル・デザインとデューク・エリントンの音楽とジョージ・C・スコットの芝居である。全体的には法廷ドラマ自体の緊張感はその話の筋のおかしさから破綻してしまっているが故に、イマイチである。

ソウル・バス(1920−1996)はさすがに『80日間世界一周』(1956)『北北西に進路を取れ』(1959)『ウエスト・サイド物語』(1961)など数え切れないほどの傑作タイトル・デザインを担当しただけあって、本作においての
死体を弄ぶという発想のタイトル・デザインの独創性には驚かされる。そして、このタイトル・デザインこそ『ウルトラマン』のタイトル・デザインの創造的刺激を与えたのである。

デューク・エリントン(1899−1974)は本作でグラミー賞3部門を受賞した。代表曲は誰もが聞いたことがあるジャズ「A列車で行こう」である。作中でも現れるこの人のジャズしている雰囲気が最高で、
本当に楽しんで音楽に触れ合ってる姿が垣間見えるところが妙に感動する。最近の商業主義にまみれた金を手にするための方便としての音楽を歌ったり、演奏したりする人々との音楽家として、さらには人間としての格の違いが一目で分かるオーラのある人である。

デュークがスチュワートと共にピアノを弾くシーンは音楽をする喜びを素直に伝えてくれている素晴らしいシーンである。


■ジョージ・C・スコットの存在感


或る殺人
一番目立っていたのが一時間過ぎに登場するこの男である。タイトルでは全く目立たないポジションにクレジットされているスコットだが、その検事としての迫力、駆け引き、冷静沈着さには抜群の役柄的説得力があった。本作のもったいない部分として、ジェームズ・スチュワートがユーモアと直情径行でキャラクターの性格づけをされていること故に、どう考えても彼がこの検事には勝てそうではない印象を与えてくれているという、法廷ドラマとしては最高に美味しいシチュエーション(敵役が強敵)でありながら、原作・脚本の意図は違う方向性にあった故に文句なしの傑作になり損ねたのである。

当時30代前半のスコット(以下JCS)が50代前半のスチュワートに「青二才が・・・」というシーンの迫力はある意味においての名シーンである。この芝居によりJCSはアカデミー助演男優賞にノミネートされた。



■悪くないスチュワートとギャザラ


JCSの好演は、好演という表現の域を遥かに超えていた。一方ジェームズ・スチュワートとベン・ギャザラは好演と言う域の中で好演していた。スチュワートは期待通りの役柄で魅力的な弁護士像を演じていたし、ギャザラも実に難しい役柄を見事に演じきっていた。

特に二人のこの会話が印象的である。
「陪審は今のを忘れられるのか?」「無理さ忘れられるわけがない」所々にこういった軽妙なセリフが散りばめられている。他に、ビーグラーが言うこのセリフも印象的である。「しかし、検察は動機と行為を分けたがる。リンゴを傷つけずに芯だけ抜こうというのです」

法廷内のカメラワークも文句なしにいい出来栄えである。つまり本作を駄目にしているポイントは物語の筋書きの破綻のみである。


■リー・レミックの役柄の不可思議さ


リー・レミック リー・レミック
リー・レミック(1935−1991)という女優は本作において、明確に芝居が物語から浮いてしまっている。法廷ドラマという現実に基かなければならない主題の中で、ローラの人物像が「男を見れば誰でも腰を振ってしまう」ある種の精神障害者的な役柄になっていた。彼女の首尾一貫しない行動が裁判の焦点を混乱させてしまう結果となった。

そして、彼女が夫のことをどう考えていたのか?夫が彼女のことをどう考えていたのか?実際にレイプは行われたのか?殴られた傷は全て夫の暴力によるものではなかったのか?という疑問に対して明快な答えや答えの暗示は本作ではなされない。

つまり、本作は最期の最後で尻切れトンボになっているが故に、ただのセンセーショナルな話題を取り上げた即席感が漂うのである。

ちなみにこのローラ役、当初はラナ・ターナーに決定していたが、プレミンジャーが土壇場で降板させたと言う。このラナ・ターナーの起用は1958年に話題になったラナの娘が、ラナの愛人のギャング・ジョニー・ストンパナードをナイフで殺害した裁判で無罪になり話題になったからである。



■物語の破綻点


或る殺人
1.なぜローラはビーグラーに弁護を頼んだのか?高名な弁護士として有名ならば、秘書の給料も払えないぐらい困窮するわけがない。

2.前金さえも払えないマニオンの弁護を引き受けることにしたビーグラーの決断の説得力のなさ。

3.なぜダンサーはマニオンの精神鑑定をしなかったのか?

4.ローラがレイプされたにしては、全く精神的なショックが伺えないのはなぜか?

5.なぜクィールの娘が証言する気になったのか?自分の父親がレイプしたという確証を女物のパンティだけで得られるものなのか?

6.冒頭では正義の塊だった、ビーグラーが、判決後、金を踏み倒したマニオンの行動に、もしかしたらレイプもなく、狂言殺人だったと新たな疑念に悩まされないのか?

他にも数点気になる物語の破綻点がある。



■芸達者な脇を固める俳優達


ビーグラーをサポートするアル中から立ち直ろうとしているオヤジがまたいい味を出している。この役柄を演じたアーサー・オコンネル(1908−1981)はアカデミー助演男優賞にノミネートされた。

ビーグラーの秘書を演じたイヴ・アーデン(1912−1990)は『ミルドレッド・ピアーズ』(1945)でアカデミー助演女優賞にノミネートされた人であるが、本作においても軽妙さなスチュワートとの掛け合いでいい空気を作ってくれていた。
こういう母性溢れる役柄の女性の存在は映画を愉快なものにしてくれる。

ちなみに
「冗談は弁護人に任せて」と言ったりする重厚すぎていない裁判官を演じているジョセフ・N・ウェルチは、有名な弁護士だった。映画初出演の彼はこの映画の翌年に死去した。当初裁判官役はスペンサー・トレイシーとバール・アイブスにオファーされていたという。さらにクィールの隠し子役メアリ・ピラントを演じたキャサリン・グラントは、1957年に結婚したビング・クロスビーの奥さんとして有名である。他の代表作は『シンドバッド七回目の航海』(1958)である。

これだけ魅力的な役者が揃いに揃っているだけの物語の破綻が本当に悔やまれる。


■時代の流れをもろに感じさせるパンティ・センス


本作は現役裁判官だったロバート・トレイバーの手になる法廷推理小説でありアカデミー作品賞、主演男優賞、助演男優賞、脚色賞、撮影賞(白黒)、編集賞にノミネートされたが無冠に終わる。しかし、ジェームズ・スチュワートはヴェネチア国際映画祭男優賞を受賞した。

プレミンジャーの作風は、センセーショナルなものを主題とする風穴的要素が強い所があるので、普遍性が伴っていない作品も多い。本作がレイプ裁判というものを本格的に取り上げた最初の映画と言われているが、厳密に言うとそれは間違っている。本作ではレイプされた女性の苦痛が全く描かれていないので、レイプ裁判の上っ面をなぞっただけの映画である。

そして、当時プロダクション・コードに引っかかる類の言葉である「パンティ」や「ビッチ」「レイプ」「精液」などといった言葉を連発しているが、この言葉も物語であまり有効な働きをしていない。本作品は『お熱いのがお好き』(1959)や『サイコ』(1960)と共にプロダクション・コードに挑戦した映画の一つとされている。

この際どい内容ゆえにジェームズ・スチュワートの父親は地元新聞で「汚らわしい映画」だから見るべきではないと言ったのであるが、改めて現在見てみても、マニヨン夫妻の行動に理解を示す人は少ないだろう。そして、この裁判でマニヨンが勝利するきっかけとなるメアリー嬢の行動に対する理解は皆無に等しいのではないかと思われる。

作品自体は結果的につまらない作品だが、JCSとデュークの存在が、一見するに値する作品だと言う結論を導き出してくれる。それほど本作においての二人は驚異的な素晴らしさを発散していると言うことである。

− 2007年5月16日 −


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