HOME
■サイト内検索

■洋画
 □カタカナ順
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
 □クラシック
 □ドラマ
 □コメディ
 □サスペンス
 □アクション
 □ポリス
 □スパイ
 □犯罪
 □カー
 □ミュージカル
 □史劇
 □文芸
 □戦争
 □西部劇
 □アドベンチャー
 □パニック
 □ギャング、マフィア
 □SF
 □ホラー
 □スポーツ
 □香港
 □ドキュメント
 □アニメ
 □エロス
 □B級
 □アカデミー賞
 □カンヌ映画祭
 □ヴェネチア映画祭



■邦画
 □ひらがな順
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
 □名作
 □ドラマ
 □喜劇
 □サスペンス
 □アクション
 □刑事
 □時代劇
 □戦争
 □文学
 □パニック
 □東映ヤクザ
 □ギャング、ヤクザ
 □特撮
 □怪奇
 □ドキュメント
 □アニメ
 □エロス
 □B級
 □海外映画祭受賞
ロンリー・ブラッド   AT CLOSE RANGE(1985・アメリカ)
■ジャンル: ドラマ
■収録時間: 115分

■スタッフ
監督 : ジェームズ・フォーリー
製作 : エリオット・ルウィット / ドン・ゲスト
原案 : エリオット・ルウィット / ニコラス・カザン
脚本 : ニコラス・カザン
撮影 : ファン・ルイス・アンシア
音楽 : パトリック・レナード

■キャスト
ショーン・ペン(ブラッド・ホワイトウッド・ジュニア)
クリストファー・ウォーケン(ブラッド・ホワイトウッド・シニア)
メアリー・スチュアート・マスターソン(テリー)
クリス・ペン(トミー・ホワイトウッド)
クリスピン・グローヴァー(ルーカス)
ロンリー・ブラッド
ロバート・デ・ニーロがショーン・ペンの父親役を拒否した理由「暗すぎる・・・」。この言葉がこの作品の性質を明確に物語っている。そして、音楽がなんともセンスのない暗さの増長を産み出している。この当時のデ・ニーロは実に冴えていた。彼はペン=マドンナ夫婦と友人フォーリーの内輪の満足の世界には参加しないことに決めたのだ。そうこの作品には広がりは無く、ただただ、閉塞感のみが感じられる。こういったファミリー映画は、よほど注意して作らないとただの根暗な映画に成り下がるのである。

■あらすじ


1978年のペンシルヴァニアで、定職も持たずにぶらぶら日々を過ごしている10代のブラッド(ショーン・ペン)の元に、家族を捨ててギャング団を組織する父親(クリストファー・ウォーケン)がふとやって来る。金回りのいいこの父親にすっかり憧れたブラッドは、父親に認められる為に悪事に身を染めることになる。そんな中ブラッドにテリーという恋人も出来るのだが、知性的なテリーが気に入らない父親は2人を引き離すために、テリー(メアリー・スチュアート・マスターソン)をモーテルに連れ込み・・・


■二つの個性が空回る


ロンリー・ブラッド クリストファー・ウォーケン
最もいい時期に二つの個性が衝突したはずだったのだが・・・。クリストファー・ウォーケンとショーン・ペン。折りしも1985年ウォーケンは『007/美しき獲物たち』でゾーリンという頭のいかれたクローン人間を演じているのだが、これまた同じ年に息子を殺そうとする父親という狂気に満ちた役柄を演じているのである。一方ショーン・ペン(1960− )はまさにこれからだと注目されている演技派の若手俳優だった。

ウォーケンの前でリアルにやばかった時代のショーン・ペンが対峙することにより、この二つの個性の対峙が何を生み出したかと言うとそれは、
残念なことにその「実話」に相応しいほどの空っぽな暗い<Xトーリーの再現だった。

基本的に「実話を元に映画を作る場合」二つの方法論がある。まず一つは、真剣に事件の悲劇性を訴えかけたいならば無名の役者達をキャスティングする。一方、事件をフィルターにかけて何らかの人間の持つ普遍性=神話的要素を描きたい場合は、名の通った役者達をキャスティングするものだが、この作品の場合、悲劇性を訴えつつも、さらに神話的要素を生み出そうとしてどっちつかずの結果を生み出してしまっている。

このことが
物語全体に「嘘くささ」を呼び起こしているのである。役者の名が通り、芝居が巧みであればあるほど、更にそういった中で冴えない音楽と切れ味の悪い脚本が組み合わされば、その映画は最低レベルにまで到達するのはしょうがないことである。結果的に魅力的な二つの個性は空回り、後味の悪さのみが置き去りにされたのである。


■全てが意味のない暗さに満ち溢れた


音楽のセンスがとにかく悪い。全米No.1ヒットした当時のペンの恋人マドンナの「リヴ・トゥ・テル」がテーマ曲であり、そのインストゥルメンタルを何のアレンジもなく繰り返し流しているだけなのである。しかもこの曲がとことん暗い。音楽的なセンスから言うとマドンナの声と歌唱力をもってしても大した曲ではない。もちろん音楽を担当したパトリックレナードは80年代マドンナの多くのアルバムのプロデュースをした人であり、ポップスを作る能力は最高なのだが、こういう作品の音楽を作るには値しなかった。

ただただ暗い音楽が流される中、暗いヤツラが救いようのない物語を繰り広げるのだったら、映画の価値は見いだせないんじゃないか?救いようのない物語を観客に見せ付けて何を期待するのだろうか?たしかに救いようのない世界を見せ付ける映画の中でも良作は少なからず存在するが、そういったものに共通しているのは、主人公の前向きな姿勢なのである。そういった姿勢の欠けたこの作品からまさか『神話』のような完膚なきまでの悲劇的要素が生み出せると思っていたのだろうか?

そうであるならば、もっと相対的に物語を描き出さないといけない。この作品は人間的な交流の描写がほとんどなされていない。驚くほど呆れる陳腐な演出に満ちており、ウォーケンとペンの親子の葛藤などと言ったものは見事に描写されていない。


■ファミリー・ムービーの落とし穴


ロンリー・ブラッド
父親は兄弟と一緒になって少年の頃から犯罪の中で生きてきた男であり、罪悪感はほとんど持ち合わせていない男だった。そんな男がなぜ息子に会い、息子が犯罪に手を染めるように誘導し、結局は墓穴を掘ることになったのか?

この父親からは「残酷」なのか「情」があるのかさえもイマイチぴんとこない。「ああいうやつは長生きしないんだ」なんて嘯くウォーケンの芝居は見事なのだが、その見事さは、その場しのぎの広がりのない芝居に終始していた。ペンにおいては完全に内に入り込んだ自己満足的な見ていてつまらない芝居だった。

そして、この息子からは、なんとも生気が感じられなかった。ただ単に惰性の中、ほとんど何も考えずに、ドラッグに手を出し、強盗してといった生活をしているダメさ加減の中で、結局父親でさえも止めた方がいいと忠告していたトラクター泥棒をし、逮捕されているのだから、何とも情けなさ過ぎである。

これでは徹底的に運命に抗おうとしつつも、運命の引き潮に押し戻されていく神話≠フ世界からは程遠い、ただの同情する余地の少ない犯罪を行う一族の物語に過ぎないのである。そういった物語をペンのイエスマンである監督が、ペンの自己満足を反映させる役柄だけを勤めているので、ほとんどの映像センスは凡庸であり、退屈であった。特に冒頭のスローモーションは失笑ものである。


ブルース・ジョンストン・シニア(1939−2002)


この作品でクリストファー・ウォーケンが演じた人物は実在の人である。ペンシルヴァニアの悪名高いギャング団のボスであり、3兄弟で揃って悪事に手を染めたという言わば犯罪一族だった。1960年代から州をまたいでの犯罪行為は始まり、1978年に息子(1959− )の証言により、6件の殺人により6回分の終身刑を宣告された。

実際シニアの息子ジュニアも、父親がギャングであることをいい事に1977年から、傘下に10代の仲間を従えて組織的な窃盗行為を働いていた。結局映画の筋のように5人は殺害され、さらに長男のガールフレンドも殺害されることになった。重傷を負いつつも生き残ったジュニアのみが証人保護プログラムで生き延びている。シニアは2002年に服役中に死亡。他の2人の兄弟は一人は1999年に脱獄に成功したが再逮捕され、現在も服役中である。

ちなみにこのシニアの役柄を最初にオファーされたロバート・デ・ニーロは「この男のキャラクターはとてもダーク過ぎる」ので演じたくないと答えたという。


■かくして悲劇はただの独りよがりに成り下がった


ショーン・ペン ショーン・ペン
それにしても引っ張るだけ引っ張って肝心の裁判の描写は全くなしで物語を終了するセンスには閉口するばかりである。凡庸な演出→父親の登場→表面的に少し高揚感を感じさせる展開→親子の葛藤の陳腐な描写→父親の徹底的な異常ぶり→そして、最後の裁判。

せめてこの裁判をしっかりと10分くらいで描いていたらこの作品はまた違ったものになっていただろう。少なくとも家庭の崩壊という子供が選びようのない状況から、生み出された悲劇といったメッセージは伝えることが出来ただろう。しかし、凡庸に物語は演出され、陳腐な感情表現で物語は締めくくられただけだった。

ちなみにウォーケンが最後の方でペンに銃口を向けられるシーンで、ペンに対して人間的に「何でも勢いでする危ないヤツ」という印象を持っていたウォーケンは、拳銃の銃創が空か絶えずチェックしていた。しかし、ある時チェックした銃を受け取ったペンは、監督の「スタート」の声がかかる寸前に、走り去って行きこう叫んだと言う「おい!他の銃をよこせ!」と。

そして、
他の銃を手にして、この最後の父親に銃口を向ける息子≠フシーンは撮影されたのである。つまりこのシーンのウォーケンは本気で怯えていた部分もあるのである。


■ショーン・ペンよりもグローヴァーの方が光っていた


しかしながら、この作品には、何とも印象深い3人の役者が出演している。一人はもちろんウォーケンであり、もう一人は若さもすべすべの生脚も艶めかしいマスターソン嬢(1966− )。
そして、もう一人。こいつが主役の方が絶対面白かったはず。そうクリスピン・グローヴァー(1964− )である。

まず第一に気になるのが、コイツの風貌である。髪型どう考えても「おかしいよな?」。あの『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(1985)の髪型もちょっと変だったが、今回は左右の長さといいもみあげの残り具合の微妙さといい、さらにはアイシャドーといい狙ってるとしか言いようのない変さである。

しかもいちいち行動に一貫性がなく、何気に思わせぶりな仕草=「寝ているテリーを見つめる危ない目つき」「川で水遊びする中で、いちゃつくブラッドとテリーを見つめる目つき」等が、物語の展開の付箋になっていくのかと思いきや、全く付箋ではなかったのだが・・・この素晴らしい存在感はこの作品で一番光っていた。

コイツがブラッドの方が絶対にこの作品傑作にならずともカルト的作品にはなったはずである。


■全く冴えない助演陣


しかし、クリス・ペン(1965−2006)のこの細さは驚きである。実際にショーン・ペンの弟なのだが、この細さをキープしていた方が女にはもてただろうが、役者としては大成しなかったかもしれない。

そして、何気にブラッドの母親役で『アンネの日記』(1959)でアンネ・フランクを演じたミリー・パーキンス(1938− )が、ほとんど目立たない役柄で出演している。更にブラッドの祖母を演じるのは実のショーン・ペンとクリス・ペンの母親アイリーン・ライアン(1928− )である。

他にもブラッドの父親の愛人メアリー・スー役で『アメリカン・グラフィティ』(1973)のキャンディ・クラーク(1947−)が出演したり、キファー・サザーランド(1966− )も最後の一瞬にだけ登場する。

本作は650万ドルかけて製作されたが、235万ドルの興行収入という興行的に大失敗した作品となった。結果的にこの作品によって、ペンとマドンナの出会いが生まれ結婚をしたのだが、
結婚式の時からペンは上空を飛んだヘリにライフルの実弾をぶっ放したりとその短気ぶりは増すばかりだった。

結局この夫婦はペンの暴行や服役など多くのトラブルの末に、1989年1月に離婚したのだが、この時期のショーン・ペンは、はっきり言うとろくな仕事をしていなかった。

− 2007年8月8日 −


当サイト内で使用している画像・映像キャプチャー等は、あくまで映画文化の熟成及び芸術復興を標榜する当サイトの意図により、
「映画を文章だけで云々することの不誠実さ」と「目で感じる芸術及び娯楽」である映画に対する敬意の姿勢で使用しております。よって著作権等は、全て各製作者・会社に帰属します。
画像・映像キャプチャー等の使用に関して表記の問題がある場合、又は削除依頼がある場合は迅速に応対させていただきますのでご連絡ください。
このサイトは、100%非営利に、純粋に「映画解釈の究極」を求めて運営されています。取り上げるべき作品・感想等ございましたらどんどんメールください。
当サイトはリンク・フリーです。
Copyright (C) 2007 Geijyutsu Taizen. All Rights Reserved.
Mail:webmaster@summaars.net