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鳥   THE BIRDS(1963・アメリカ)
■ジャンル: サスペンス
■収録時間: 120分

■スタッフ
監督・製作 : アルフレッド・ヒッチコック
原作 : ダフネ・デュ・モーリア
脚本 : エヴァン・ハンター
撮影 : ロバート・バークス
音楽 : バーナード・ハーマン

■キャスト
ティッピー・ヘドレン(メラニー・ダニエルズ)
ロッド・テイラー(ミッチ・ブレナー)
ジェシカ・タンディ(リディア・ブレナー)
スザンヌ・プレシェット(アニー・ヘイワース)
ヴェロニカ・カートライト(キャシー・ブレナー)
鳥
自然≠象徴する鳥たちが、自然≠ノ対峙する作り上げられた合理的な美観≠フ象徴であるメラニーを破壊しにかかる。意図的に捻じ曲げられた美の再構築を繰り返し自然≠ノ対する脅威となっている美の構築者≠ノ対する答えがこの作品にはある。もし人工的な≠烽フが増長していることと同じように、自然≠ェ増長したらどうなるだろうか?自然≠フ英知は調和であり、それを無視し続けているといつか自然≠ヘ増長し、野生への回帰を見せつけてくれます。とこの作品は実に雄弁に物語ってくれている。

■あらすじ


ペットショップで出会ったミッチ(ロッド・テイラー)という男に惹かれ、彼が週末を過ごすサンフランシスコ郊外の港町ボデガを訪れるメラニー(ティッピー・ヘドレン)。彼女がボデガに着いた途端に鳥が不穏な動向を示し始める。やがて、ミッチとメラニーは親密になっていくのだが、それに比例するかのように鳥は凶暴さを増し、町の住民を襲い始めるのであった。無差別に襲撃してくる鳥に包囲される形で家に立て篭もったメラニーとミッチ達4人・・・


■もし「鳥=自然」が「ヘドレン=人工」を破壊しにかかったなら・・・


ティッピー・ヘドレン ティッピー・ヘドレン ティッピー・ヘドレン
この作品の魅力は、徹底的なまでのティッピー・ヘドレン(1930− )の絶世の美女ぶりであろう。
その造形された美女の様相は、意図的に人形的であり、演技の鋭さよりも、人形のような無機質さをかもし出している。まさにヒッチコックの狂気は、21世紀の美の基準が、一般的にマネキン化していくことを見抜いていた所にある。つまり人間的な表情の変化を生み出さない造形された人間の美貌がもてはやされることこそ、人類の進化の矛盾であることを早くから指摘している作品なのである。

この完璧に作り上げられた美貌は明確に、完璧に作り上げようとしてきた人間社会の象徴であり、その完璧な美貌を求めるあまりに表情一つろくに生み出すことも出来ない無機質感は、まさに現在及び当時の都市生活を覆いつつある無機質感そのものだった。


そして、その完璧なまでの人工的な美の鉄槌(インパクト、影響)が美しき地方都市に行き着いたときに巻き起こる不幸が何か?この作品のメアリーは、現在社会の合理さによって、何でも作り出そうとする自然の摂理の破壊の象徴であり、ミッチの母リディアはそういったものに対する抵抗者であった。そして、ミッチはその中間者である。(だからこそメアリーがやられればやられるほど、リディアは気丈になっていったのである)

「これがワシとかタカとかの猛禽類だったら、映画化はしなかったろう」ヒッチコック

最終的に人間が作り上げた合理的なもの(=洗練)なぞ自然の驚異の前では徹底的に無力であることが、証明されるのだが、鳥の襲撃と言うのは、猛獣であっても、津波であっても、紫外線であっても何にでも置き換えることが可能な一つの象徴にすぎない。鳥は人間に出来ない「飛ぶ」ことが可能な故に、人間とは全く違った世界で生きている上に、無害な存在というイメージがあるので象徴として選ばれたのである。


■決定的にミステイクな最初からの45分間


ティッピー・ヘドレン ティッピー・ヘドレン ティッピー・ヘドレン
ペットショップを訪れるメラニーの黒いスーツ姿から物語は始まる。ここから約45分間、実にセンスの悪いスクリューボール・コメディを見せ付けられるのである。
一人の大金持ちの娘。衣装はイーディス・ヘッド。車はアストン・マーティンのクーペ。喫煙者。表情は極めて無表情。そんな女に白々しいナンパを試みる弁護士の男。そのにやけた表情のご都合主義ぶり。

この冒頭の展開は、男女関係を描くことに興味のないヒッチコックらしく、ただつまらない会話と行動が繰り返され、舞台は都会から田舎の港町へと展開する。恐らくこの展開はヒッチコックだからこそ許されているのだろうが、他の監督であれば、ただのポルノ映画並みの安易で知性を感じさせない色情狂2人な展開としか言いようがないだろう。

グリーンの服を着たメアリーはクーペをオープンにして悠々自適に、港町を訪れる。さも金持ちのお嬢様が田舎町に明かりを照らしてあげてますよと言う表情で・・・。この鼻につく演出は明確に意図されているのだが、導入部分のドラマの弱さが、必要以上にメアリーを不愉快な存在へと変えていってしまっている。

ヒッチコックのこの作品における愚かさは、
「魅力的な男性、女性であればあるほど、自分も経験しうる軽薄さの可能性を見せ付けられる事を不愉快に感じると言う習性を、全く意にも介していない点である」特に、男性にとって、人間味のない美女が、好き勝手悠々自適に生きている姿を見せ付けられる事ほど苦痛なことはない。

いい男とは、本質的に美女の悩みの種を生み出せる才能がある男であり、そういったいい男は、自分の手の届かない画面上の悠々自適さには「手を出せないので」嫌気がさすものである。
そういう感覚を抱かせる女性の物語を45分間も延々と見せられることは、他のどんな人にとっても苦痛以外の何者でもないのである。


■このオヤジは二重顎でさえも使えるものは使い切る


アルフレッド・ヒッチコック アルフレッド・ヒッチコック ティッピー・ヘドレン
ロッド・テイラー(1930− 、『タイム・マシン』)演じるミッチは弁護士なのだが、裁判所で目をつけた女性をナンパする能力にも長けた人物である。さらに彼はいい年をして母親の影響下から抜け出せない息子でもあった。そんな男性に対し、30才を過ぎて父親に生活の全てを見てもらっている金持ち娘の恋のさや当て。

この登場人物の設定だけでかなりつまらなさそうなのだが、実際に最初の45分間の
「絶妙にずれにずれた描写」のおかげで主人公の2人にほとんどの観客はうんざりするはずである。現在だから冷静に言及できるのだろうが、この作品こそヒッチコックの終焉の始まりだったと言うことである。勿論そのことがこの作品以前の彼の偉大さに一切の曇りを与えるわけではない。

ちなみにヒッチコック自身も、映画が始まってまもなくペットショップから2匹の子犬を従えて出てくる姿で登場する。このさりげなさが毎回素晴らしい。ちなみにこの子犬は実際の彼の愛犬である。


■さすがに迫力に満ちた特撮


鳥 ティッピー・ヘドレン
前半ののめり込めない人物描写の展開と、後半の当時の特撮の技術を駆使した鳥が人間を襲撃する展開のギャップは、公開当時においては前半部を帳消しにするだけの出来栄えだった。しかし、現在においては、ヒッチコックの演出のあざとさが小学校から逃走するシーンなどにおいて、受け入れがたいほどに映像を陳腐にさせていることにより前半部を帳消しにするだけの映像的な説得力は薄れてしまっている。

ただし、屋敷内に暖炉から鳥が乱入してくるシーン、メラニーが徹底的に襲撃されるシーン、ラストの終末観漂うシーンの映像センスは今見ても刺激的である。


鳥の撮影のために、『終身犯』の鳥の調教も担当したレイ・バーウィックによって約3万羽もの様々な種類の鳥が集められた。それらの鳥を使用し、さらに機械仕掛けの鳥や剥製の鳥が見事に組み合わさり、当時画期的だったディズニーの合成技術との融合の上で構成された特撮映像は確かに素晴らしい出来栄えである。


■黒いジャングルジム


ティッピー・ヘドレン ティッピー・ヘドレン ティッピー・ヘドレン
中盤において、メラニーが煙草をふかしている背後で、カラスの群れが増しに増していく描写こそ、
人間の絶え間ない欲望≠フ状況と酷似している。まさに鳥が人間のように行動し始めたらどうなるのか?∞鶏のように人間は鳥にとって美味しい食糧と考えたらどうなるのだろうか?という観点で描かれているのである。

そして、メラニーがふと目に留まった一羽を目で追うとすでにジャングルジムにぞっとするほどの黒いカラスが群がっているのである。よしあいつを食べてやろう≠ニ言わんばかりに。

止まることを忘れた欲望マシーンが集合する恐怖を描くことにより、実は人間こそが鳥≠ナあることに気づかされる映画なのである。つまりなぜ襲うかといった次元の問題ではなく人間がゴキブリを見逃さずに仕留める様に、鳥にとって人間は不快なものだと認識したからこそ、根絶やしにするために襲撃を始めている≠フである。この発見→即殺傷への習慣≠アそが見ている我々をぞっとさせる要素なのである。


■鳥は、人間のように生きてみようと考えた


鳥
「最小から最大へというヒッチコック映画の原理。かわいい鳥たちが人間の眼球をつついてえぐりとる。つぎは美しい花たちがその香りで人間を殺してしまうという話しでも作るんでしょうか?」
フランソワ・トリュフォー

「まさか鳥類が人類を襲撃して滅ぼしてしまうなんてことは、だれも考えない」ヒッチコック

ガソリンスタンドの引火と鳥の襲撃により混乱をきたしている町の姿を遥か上空から見つめる鳥たち。その姿はもはや群れではなく個々の戦略プランを話し合っている指揮官達のようである。人工的に作られた美観≠ェ破壊されていく様を冷静に見つめ、次なる襲撃計画を煮詰めているのである。

実に素晴らしいショットである。人間が蟻のように小さく見え、もはや勝ち目のない戦いに追い込まれ%ヲげ惑う姿の醜さ。結局人間も動物なのである。そして、極めつけは公衆電話ボックスの中に閉じ込められるメラニーの姿である。
これこそ人間と鳥の関係が逆転した象徴的な構図であった。人間が鳥篭に閉じ込められ、鳥が大手を振って外を飛び回るのである。


■ヒッチコックのリアルさへの追求心


鳥 鳥 鳥
「たしかに、わたしたちはシナリオを書きながら、よく、「さて、今度はどうやって殺したらおもしろいだろう」って話しあっているんだよ」ヒッチコック

ティッピー・ヘドレンは、この作品でほぼ全編に渡りグリーンのスーツを着ているのだが、このスーツは6着用意されたという。物語の終盤、立て篭もった家の二階で鳥の集中攻撃にあう彼女なのだが、実際の撮影も同じく危険に満ちた撮影だった。実際に左眼の下を鳥に傷つけられるほどの危険に満ちたこの撮影は、当初は機械仕掛けの鳥で行われる予定だったが、ヒッチコックが撮影当日に実物の鳥の一群を使用することに変更した。

鳥が逃げないようにヘドレンに糸でくくり付けられながらの死闘の様な一週間の撮影においてすっかり疲労困憊、精神的にも追いつめられたヘドレンは、一連の撮影終了後狂人のようにセットの真ん中で泣き叫び、一週間入院することとなった。

このシーンにおいて、ヒッチコックが徹底的にこだわったのが、『サイコ』(1960)のシャワー・シーンと同じく凄まじいほどのカットの使用なのである。
この極端なまでの動作の分断≠アそが人間の破滅≠象徴しているのである。動作の分断≠ニは混乱→思考停止→破滅というぞっとするほどに追いつめられた状況を容易に連想させてくれるのである。


■人間は目よりも音で恐怖を感じる


人間の息使いと鳥の羽ばたき、怪鳥音のみで構成された恐怖の演出の素晴らしさ。恐怖の基本が音≠セということを逆手に取った沈黙の使用法なぞはヒッチコックの天才性の証明である。

「音楽や効果音を入れると恐くなりすぎるので、あえて入れなかった」

という意図は、正しく音楽を入れることによる安易な恐怖ではなく、沈黙に則した音のみを加える事により、ぞっとする底から沸き立つような恐怖感を感じさせようという狙いがあったのだろう。

そのことは、アニーの死体の描写においても言える。あの実に奇妙な死体の死に様。片脚だけが階段の上に乗りあげている奇妙さ。一切死に顔が映らない描写が逆に呼び覚ます現実的な恐怖。最近の映画のように本当に彼女は死んでますよというカットなぞ存在せずにボロ雑巾のような姿で死体を映し出していることが、音と同じく底から沸き立つ恐怖を感じさせるのである。

それにしても、このミッチの元彼女アニーを演じたスザンヌ・プレシェット(1937− )は、『恋愛専科』(1962)でリズ・テイラーの再来とまで言われた女優だが、本作ではむしろ芋っぽさが突出していた。


■圧巻のエンディングの描写


ティッピー・ヘドレン ティッピー・ヘドレン ティッピー・ヘドレン
エンディングにおいてミッチがドアを開けた瞬間に見渡す限りあらゆる場所に群がる鳥たちの姿はぞっとするというよりも、むしろ理路整然と終結した処刑部隊と対峙するような清さに満ちている。そして、車を使用してどこともなく逃げていく瞬間のあの夜が明けようとする一筋の光。これは明確に、逃げていくのではなく、処刑部隊に促されて死への行進≠ヨと導かれている姿なのである。

これはもはやハッピーエンドではなく人類にとってはバッドエンド、他の生態にとってはハッピーエンドである人類の滅亡の序曲を連想させる。この作品にジ・エンドが存在しないのは、もはや人類が存在しないためである。見ている人々の身の置き場さえないラスト・シーンなのである。

ヒッチコック自身はさらに金門橋を埋め尽くす鳥のショットも収めたかったらしい。ちなみに最後にキャシーが連れて行くラブバード(ボタンインコ)≠ネのだが、ヒッチコックはこのインコの存在に関してはただこう言明している。
「そうLOVEというのは疑惑の影にみちた言葉だからね!不吉な言葉だろ?」


■ヒッチコックが生み出した最後のブロンド美女


アルフレッド・ヒッチコック アルフレッド・ヒッチコック
この撮影当時ティッピー・ヘドレンは一度目の結婚に終止符を打った後だった(彼女は4度結婚している)。ちなみに一度目の結婚で1957年に生まれた女の子がメアリー・グリフィスなのである。この作品のキャンペーンで
「ニュー・グレース・ケリーの誕生」と謳われたが、次作『マーニー』(1964)の失敗とヒッチコックとの関係悪化により、映画界から干されてしまう。

ちなみに彼女は1994年に『鳥U』というテレビ映画にも助演している。ミッチの母親リディアを演じたジェシカ・タンディ(1909−1994)は、50代には見えないほどの美貌と威厳に輝いていた。彼女はこの作品を最後に舞台に専念することになる。そして、80年代映画に復帰し、『ドライビング・ミス・デイジー』(1989)でオスカーを受賞することになる。

キャシー役のヴェロニカ・カートライト(1950− )は、『サウンド・オブ・ミュージック』や『宇宙家族ロビンソン』で有名なアンジェラ・カートライトの姉であり、『エイリアン』(1979)などにも出演し、今も第一線で活躍する女優である。

「わたしは観客にできるだけ精神的に実りのあるショックを与えたい。わたしたちは過保護な文明になれすぎてしまって、もうみずから衝動的にゾッと鳥肌の立つような戦慄すら覚えることができなくなっている。そんな麻痺した神経をよびさまして精神的なバランスを立て直すために、あえて作為的にショックをあたえる必要がある。映画はその最良の手段ではないかと思う」1947年、ヒッチコック

「『鳥』はとくにつぎに何が起こるか、絶対に予測できないようにつくったつもりだ」ヒッチコック

本作は実に3年近くの歳月をかけて250万ドルの予算で作られ、アメリカだけで1140万ドルの興行収入を挙げた。1963年アカデミー賞特殊視覚効果賞にノミネートされるが受賞には至らなかった。尚、1963年当時において、こういった動物パニック映画は画期的であり、後に続く動物パニックモノの先駆けともなった。

− 2007年8月10日 −


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