HOME
■サイト内検索

■洋画
 □カタカナ順
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
 □クラシック
 □ドラマ
 □コメディ
 □サスペンス
 □アクション
 □ポリス
 □スパイ
 □犯罪
 □カー
 □ミュージカル
 □史劇
 □文芸
 □戦争
 □西部劇
 □アドベンチャー
 □パニック
 □ギャング、マフィア
 □SF
 □ホラー
 □スポーツ
 □香港
 □ドキュメント
 □アニメ
 □エロス
 □B級
 □アカデミー賞
 □カンヌ映画祭
 □ヴェネチア映画祭



■邦画
 □ひらがな順
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
 □名作
 □ドラマ
 □喜劇
 □サスペンス
 □アクション
 □刑事
 □時代劇
 □戦争
 □文学
 □パニック
 □東映ヤクザ
 □ギャング、ヤクザ
 □特撮
 □怪奇
 □ドキュメント
 □アニメ
 □エロス
 □B級
 □海外映画祭受賞
ボーイズ・ドント・クライ   BOYS DON'T CRY(1999・アメリカ)
■ジャンル: ドラマ
■収録時間: 119分

■スタッフ
監督 : キンバリー・ピアース
製作 : ジェフリー・シャープ / ジョン・ハート / エバ・コロドナー / クリスティーン・ヴァッション
脚本 : キンバリー・ピアース / アンディ・ビーネン
撮影 : ジム・デノールト
音楽 : ネイサン・ラーソン

■キャスト
ヒラリー・スワンク(ブランドン・ティーナ)
クロエ・セヴィニー(ラナ)
ピーター・サースガード(ジョン)
ブレンダン・セクストン三世(トム)
アリシア・ゴランソン(キャンディス)
ボーイズ・ドント・クライ
決して声を張り上げずに、暴れたりしなくても、これほどの名演が出来るのである。本作においてのヒラリー・スワンクの素晴らしさは、見事に難しい性同一性障害者の役どころを演じたところにあるのではなく、「絶叫・大げさ・号泣」という悲劇芝居の三原則を利用せずに、悲劇的役柄を演じあげたところにあるのである。

■あらすじ


性同一性障害に悩むブランドン(ヒラリー・スワンク)は女性にもてる美少年だが、実は女性だった。彼は新天地を求めネブラスカの片田舎にやってくる。そこで出会ったジョンとトムと親友になり、やがてジョンの元恋人ラナ(クロエ・セヴィニー)と愛し合うことになる。しかし、思わぬことから自分が女性であることがばれ、元恋人を寝取られたジョンとトムは、ブランドンをレイプする・・・


■性同一性障害の本質的問題


ボーイズ・ドント・クライ
本作が描いた『性同一性障害』というものは、「男性の体で生まれてはいるが、自分は女性だと認識する人」「女性の体で生まれているが、自分は男性だと認識する人」の2パターンに分かれる。ただし、明確に答えだけ言うと、社会的に無償で性転換手術及びその過程に至るホルモン治療などを行ってもらわないと根本的な問題は解決できない。

私の大親友も去年、性同一性障害が認められ戸籍は無事女性となった。彼女は外見は女性そのものだが、トランスセクシュアルの方々が働くショーパブで女性に戸籍が変更された今も働いている。
つまるところ、女性になるために若いうちから高額の手術費を稼ぎ出すために、夜の仕事をするので、どうしても女性になってから地に足ついた一般の生活が出来なくなるのである。

これは個人の問題ではなく社会的な問題である。性同一性障害の人々はスタートラインから多額の金銭を必要とするゆえに、本来自分の望む肉体で生まれてきていないので、精神的な不安を抱えて生きているのである。こういったペナルティーを抱えているので、どうしても悪い男(女)に騙されたり、薬物依存症に陥ってしまうのである。

この主人公ブランドン・ティーナもまさしくそういった一人だったのだろう。彼は少年期から非行を繰り返してきたのだが、それは自分の今おかれている立場の不安定さからだった。
毎日胸の膨らみを隠して、下半身を靴下で膨らませて生きていくことは、想像以上に精神的に疲れるだろう。


■残酷描写の必要性?


本作の魅力は、「完膚なきまでに二度と見たくない気持ちにさせるリアリズム」と「未知の領域に対するとまどい」と「強烈な余韻」である。理解ではなく、「記憶に留めよ」と訴えかけるパワーのある作品である。


しかし、一方で残酷描写がストレートすぎて、その分真実をぼやけさせてしまっている事実も存在する。
レイプ描写、殺人描写がストレートすぎるとその臨場感があればあるほど、思考は停止してしまう。本作において、素晴らしい作品かもしれないが思い出したくもないと考える人が多いのも、残酷さを有りのまま描写しすぎている表現に対しての拒否反応からだろう。

ここまで臨場感溢れる残酷描写をする必要性は全くないのであるが、監督自身は主人公に対する強い思い入れゆえに、自己満足の領域に入ってしまい描写の範囲を誤ってしまった。そして、折角のいい作品が台無しになった。
結局は人間の想像力を断ち切り思考の余地を差し挟まない作品となってしまった。


■ヒラリー・スワンク


ヒラリー・スワンク ヒラリー・スワンク ヒラリー・スワンク ヒラリー・スワンク
ヒラリー・スワンク(1974− )は間違いなくハリウッドの至宝だろう。少しミック・ジャガーに似た風貌であり、不思議な魅力に溢れる女優である。本作において、性同一性障害者を見事に演じた以上に、おどおどしつつも優しさに溢れた眼差しと、時にすさみきった雰囲気、そして、レイプされている時、された後の恥辱感。すべてが見事だった。

彼女の芝居を見ていると、日本のこういった役柄(レイプされる女性、もしくは不満の塊の女性)における芝居がいかに独りよがりであり、役に対しての掘り下げ方が浅い芝居が多いことかと感じられる。明確なる一つの例をあげよう。
彼女はほとんど本作において叫び声や怒鳴り声を吐いていないのである。それでいてこれほどの感情の幅を演じ上げているのである。

このヒラリー・スワンクは一言も言葉を発さなくても全ての感情表現が出来る女優である。
そして、これがプロの女優と、素人に毛の生えた女優の違いである。特にあのレイプ前、レイプ後の芝居の見事さは私でさえも二度と再見したくないと思っているほどに見事すぎる。

ブランドンを演じるにあたり、6週間ヴォイス・トレーニングを受けながら、4週間男性として暮らし、女性に声をかけたりして日記をつけて自分の役柄を固めていったという。ちなみに撮影のレイプシーンにおいて、ヒラリーは監督に「あまりに男役にはまりすぎて、私自身の女の部分がなくなっていくのがとても恐い」と相談したという。

そして、撮影中はずっとスタッフに対しても男でいたという。そののめり込みのあまり、撮影終了後、夫のチャド・ロウとレストランに言った時、ウェイターに「サー」と声をかけられたという程だったという。


■共演者たち


『KIDS』(1995)『ゾディアック』(2006)のクロエ・セヴィニー(1974− )がブランドンを理解する少女ラナを演じる。監督が撮影してきた何時間もの実際のラナのビデオを見てラナを観察し、役作りをしていったという。クロエらしいいつもながらのフェイントの芝居をここでも披露している。
最初は大根芝居、いつの間にか見事な芝居というパターンが彼女の毎度のパターンとなっている。元々クロエはブランドン役のオーディションに参加し、ラナ役に抜擢されたという。

ちなみに監督は、元々ラナ役をドリュー・バリモアに、ラナの母役をダイアン・キートンにオファーしていたが、相手にもされなかったという。

そして、『フライトプラン』(2006)『ジャーヘッド』(2006)のピーター・サースガード(1971− )がなかなか良い。ブランドンを殺すジョンを演じた役者だが、暴力に至る過程がただのぶち切れ芝居ではなく、カリスマ的とでもいえる臭いをぷんぷん漂わせながら他を圧倒していく狂気を見事に演じあげている。


■辛辣なメッセージ性


ブランドンとラナの性別を越えた愛については、正直なところ監督もあまり興味のない描写をしている。この点に関しては20代前半の2人の人間が生み出す純愛と言う概念が、嘘臭いと感じている監督らしい手堅い描写で、
ラナは、愛よりもティーナに対して明確な同情と友情を示しているのである。

この監督の描写の鋭さはここにある。ラナは男っぽさを強調しているブランドンが好きであり、髪形が女性的な雰囲気になった途端に現実を直視してしまうのである。2人が惹きつけられたのは、薬物依存症であり社会に閉塞感を感じているラナにとっては、新鮮な関係からの興味だった。
そもそも性別を越えた愛は不可能であって、意識して性別を超える愛こそ可能と言うことを。監督は残酷に描いている。

ちなみにラナを演じたクロエ・セヴィニーはこう語っている。「ブランドンはラナがこれまで会ったどの男とも違ってた。彼はとてもロマンチックで優しかったし、彼女はそれまで男たちにそんな風に扱われたことがなかったのよ。あんなに情熱的な人生を生きる人間を見たことがなかったし、それがラナの心を開いたのね。
彼女は彼をある種の逃避の対象とみなしていたし、自分を開放してくれると考えていたんだと思う。私も小さな町で育ったからラナが理解できるし、町から出て行きたいという気持ちも分かるの」

このブランドンとラナに対する深い描写こそが、本質的に、表面的なきれいごとで物を語りがちな私たちに対する監督からの辛辣なメッセージでもあるのだ。こういった視点はこの監督の凄いところである。

ちなみに監督のキンバリー・ピアースは、シカゴ大学でイギリス文化と日本文化の博士号を取り、コロンビア大学で映画のMFAを取得している。神戸に2年間滞在したこともあり、日本文化に対する造形は深く、彼女に影響を与えた日本映画は、
黒澤明の『羅生門』、溝口健二の『雨月物語』、小津安二郎の『東京物語』だという。特に『雨月物語』は、男が目覚めると女が傍で死んでいるという場面を今回、ラナが正気になるとブランドンが死んでいるという場面で引用されたという(残念ながら映像的・表現的効果を生み出してはいないが・・・)。

ちなみに彼女に最も影響を与えた映画は『レイジング・ブル』(1980)と『暴力脱獄』(1967)だという。そして、本作の脚本を書いていくにあたりモンゴメリー・クリフトのイメージをブランドンに同化させていったという。


ブランドン・ティーナ(1972〜1993)


ブランドン・ティーナ ブランドン・ティーナ ブランドン・ティーナ

1972年にネブラスカ州リンカーンに生まれる。少女の頃、定期的に親類から性的暴行を受けたことも影響し、自分を男性っぽく見せることによって性的暴行から自衛するようになったという。そして、高校時代から本格的に男性の格好をして女性と付き合うようになった。1993年、フォールズ・シティに一人で移る。そこで、ラナと元囚人ジョン(1971− )とトム(1971− )と知り合う。(左からラナ、ブランドン、ジョン、トム)

12月15日小切手偽造の罪でブランドンは拘置所の中に入った。22日ラナが保釈金を払い出所させる。そこでラナはブランドンが女性であることを知る。そして、地方新聞にブランドンの記事が掲載されてしまう。ブランドンの真実を知ったジョンとトムは、クリスマス・イブに酔いどれた勢いで、ブランドンを牛肉工場に連れて行き2人で強姦する。

強姦後、トムの家に連れて帰られたブランドンはバスルームから逃亡し、警察に駆け込む。そして、2人は事情聴取を受けるも否定する。一方ブランドンは友人のリサの家に身を潜めていた。1993年12月31日早朝、2人がラナの母親からブランドンの居場所を突き止め、リサの家に押しかけ、ベッドの下に隠れていたブランドンを引っ張り出し、リサとブランドンとリサの友人を射殺する。

事件後ジョンとトムはすぐに逮捕され、トムは減刑の取引に応じ罪を認め、終身刑に。ジムは死刑判決が下される。そして、今現在も2人とも収監されている。トムの保釈審議会は2016年まで行われない。


■ジョンとトムの本質


しかし、ジョンとトムはなぜブランドンをレイプしたのだろうか?実際の一番のテーマはこの辺りに秘められている。つまるところジョンとトムという2人の仲間がブランドンに騙された怒りから、レイプしたというよりは、ラナを同性愛に引きずり込んだという、2人(特にジョン)の常識の範囲を超えた事実に驚愕し激昂し、制裁を加えることになったのである。

ジョンとトムは、ラナとその母という一つの自分達の小さな世界を、ブランドンによって破壊されたと感じたのである。極端な例を出せば「あなたの妹が、プレイボーイのような洗練された男性の格好をした女性になびいてしまった」場合感情的にどう感じるだろうか?

そして、それに対する報復が、男性であるとブランドンが言い切る誇りを完膚なきまでに壊す行為だったのである。激情的で猟奇的ではあるが、この2人も理由があってレイプしているのである。そして、彼らは彼女を殺したのである。自分達の行為を理解しなかった周囲も巻き込んで。そして、今だ自分達は間違っていないと塀の中から主張しているのである。

この精神構造の構図は、同調は出来なくとも理解できる要素は過分に含まれている。
性同一性障害の女性を虫けらのように殺したこの2人の男は明確に彼女を2回殺している。この憎悪はどこから生まれたのか?ある意味本作のこの2人はトルーマン・カポーティの『冷血』の2人に似ているのかもしれない。

ちなみにキンバリーはこうコメントしている。「ジョンとトムは子供のときから刑務所を出たり入ったりしているので、いつか爆弾が爆発する運命にあったのね。同時に彼らは、どうすれば男らしくふるまえるかを見極めようとしていた。
ブランドンと親しくなるにつれて、彼が示した親近感と彼が体現しているものが無意識に恐ろしくなったのだと思うわ。彼らがアンチテーゼとしていたブランドンが、本当は女なのに男として自分たちより巧くやっているのは、彼らの男らしさ、ひいては存在そのものを脅かすことだったのね。だから、ブランドンのファンタジーが消えたとき、彼を一時はアイドル視したのと同じように残酷に扱ったんだと思うわ。どこかで私の心はジョンに一番惹かれているの。幼いときに母親から引き離された彼には愛が必要だった。同時に彼は危険な意味でカリスマ性があった。愛を求める気持ちと、凶暴性の中にある優しさ。暴力には心惹かれる側面があって、ジョンはそれをつかんでしまったのね

女性にとって嫌悪すべきものでしかないこの男性という生き物の暴力による安易な女性に対する破壊行為。さすが女性の監督が撮っただけある。
男性の女性に対する暴力の構図が本作には見事に描かれている。そして、さらに不幸なことに、性同一性障害のブランドンは、ただ泣くだけでは許されず「自分が悪かったんだ。どうかしてたんだ」とレイプされた後にこの2人に弁明しないといけなかったのである。これは究極の屈辱である。


■200万ドルの低予算


本作は200万ドルという低予算で作られた(ヒラリーのギャラは3000ドルだった)。撮影はオールロケ撮影されたが、事件からまだ時が経ていないので、ネブラスカ州ではなく、テキサス州ダラスで撮影は行われた。全てのキャスト・スタッフはホテルに寝泊りしながら撮影を行ったという。

本作によりヒラリー・スワンクは1999年度アカデミー主演女優賞 、ゴールデン・グローブ女優賞などを受賞した。一方、クロエ・セヴィニーもアカデミー助演女優賞にノミネートされ、1999年全米批評家協会助演女優賞を受賞した。

− 2007年7月1日 −


当サイト内で使用している画像・映像キャプチャー等は、あくまで映画文化の熟成及び芸術復興を標榜する当サイトの意図により、
「映画を文章だけで云々することの不誠実さ」と「目で感じる芸術及び娯楽」である映画に対する敬意の姿勢で使用しております。よって著作権等は、全て各製作者・会社に帰属します。
画像・映像キャプチャー等の使用に関して表記の問題がある場合、又は削除依頼がある場合は迅速に応対させていただきますのでご連絡ください。
このサイトは、100%非営利に、純粋に「映画解釈の究極」を求めて運営されています。取り上げるべき作品・感想等ございましたらどんどんメールください。
当サイトはリンク・フリーです。
Copyright (C) 2007 Geijyutsu Taizen. All Rights Reserved.
Mail:webmaster@summaars.net