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噂の二人 THE CHILDREN'S HOUR(1961・アメリカ) | |||||
| ■ジャンル: ドラマ ■収録時間: 108分 ■スタッフ 監督・製作 : ウィリアム・ワイラー 原作 : リリアン・ヘルマン 脚本 : ジョン・マイケル・ヘイズ 撮影 : フランツ・プラナー 音楽 : アレックス・ノース ■キャスト オードリー・ヘプバーン(カレン) シャーリー・マクレーン(マーサ) ジェームズ・ガーナー(ジョー) ミリアム・ホプキンス(リリー) フェイ・ベインター (ティルフォード夫人) ヴェロニカ・カートライト(ロザリー) |
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■あらすじ 学生時代から大親友で、教員資格を持つ20代後半の二人の女性カレン(オードリー・ヘプバーン)とマーサ(シャーリー・マクレーン)は、寄宿学校を経営していた。ようやく順調に生徒も集まりだしたその時、一人の女生徒の心無い嘘が、カレンとマーサが同性愛だという風評につながり、寄宿学校は閉鎖に追い込まれる。そして、さらなる悲劇が二人に襲い掛かるのだった。 ■社会的風潮が、「生きる」喜びをより気薄にしていく ![]() 人間が最も醜くなるとき。それは全ての恋愛観念が法体系に侵害されたとき。 1930年代、アメリカで、一人の15歳の少女が30歳の男性と結婚した。戦国時代は言うまでもなく、世界中で古来よりざらにあったことなのだが、多くの人は「ロリコン趣味」という風にこの男のことを影で囁き合った。しかし、この夫婦は生涯夫婦であり続け、15歳だった彼女は25歳の時にこう書き記した。 「15歳であろうとも愛を感じることは出来る。そして、この結婚が、不幸な家庭から私を脱出させ、愛情に満ち溢れた家庭を築くきっかけになった」 彼女の母親はアル中で父親は義理の父親だった。そういった側面など一切見ずに人々は無責任にこう言う。「あの男、ロリコン趣味なのね」と。しかし、こういった人々の貧しき固定観念が、今の日本においても当たり前のようにまかり通っている。 自由は、何者かが決めたわけの分からない観念によって、鎖でがんじがらめにされている。そもそもヌード写真にボカシを入れるという概念も、今の時代にとっては笑止千万である(どんな善良そうな男性でも、生涯100回は女性の裸でオナニーするものである)。日本という国は臨機応変に対応する能力に欠けている。二世三世議員が世襲制政治を繰り返し、政府官庁も馴れ合いの汚職を蔓延らせている。 ![]() この作品を観て感じたことは、実はあの嘘をついた情悪な少女は、そういった権力の姿そのものだった。少女は大金持ちの孫娘であり、叔母は権力者であった。この姿はそのもの今の日本の歪んだ姿に当てはまる。我々の道徳観念は凝り固められ、欺瞞と虚偽の中でもがき苦しんでる! 同性愛、未成年者との恋愛、有色人種間(例としてタイ人やフィリピン人と日本人)の恋愛。その全てを偏見の目で囁き合う醜い言葉の存在は、そのもの「悪意」以外の何者でもない。同性愛に対してはその自由奔放ぶりを、未成年者の恋愛は若さを、有色人種間の恋愛は未知の交流を見せ付けられることが、我慢ならない人たちがいるということである。 しかし、その男女が同性愛を望み、少年少女が年上の男女との恋愛もしくは好奇心からの性行為を望み、異人種間が興味本位からであろうと恋愛を望み何が悪いのだろうか?それほど、批判者達は素晴らしい恋愛実績者なのだろうか?「1+1=2」のようなありきたりな恋愛ばかり皆がしたいと思うのだろうか? 答えは否である!彼らは「自分と同じように生きて」「自分よりも少しランクの劣る生活をしてもらいたいと望む」偏屈者なのである。日本の悪意の根源はこういった時代遅れの権力者≠フ存在である。そう日本の悲劇は、権力を持つべきでないものが、権力を持っていることから生まれている。 ■シャーリー・マクレーンの感情の波打ち際の素晴らしさ ![]() 本作において何よりも素晴らしいのがマーサを演じるシャーリー・マクレーン(1934− )の繊細な芝居だ。彼女はコメディの上手い女優だと一般的に認識されているが、実際の所は悲喜劇が得意な女優であり、女性の悲しさを表現する能力は、他のほとんどの映画でも見事に発揮されている。 「強そうに見えて、実は誰かが支えてあげないと倒れていく・・・」そんな女性を演じさせたら彼女は抜群に上手い。こういう役柄を見事に演じあげるからこそ、彼女は男性よりも同性のファンが多いのだろう。この物語はマーサの一挙手一投足に注意して見ればますます味わい深いものになるはずである。 一方、オードリー・ヘプバーン(1929−1993)は、その存在だけで、マーサの苦悩が観ている側にも十分に理解できるほど偶像的な美しさを誇っている。元々舞台においても、マーサの役柄がどうしても目立ってしまう中で、オードリーはやはりその凛とした美しさを発散させ、個性を埋まらせていない。 ![]() 一方、この二人の女性に関わるカレンの婚約者ジョーを演じるジェームズ・ガーナー(1928− )がかなり素晴らしい。その素晴らしさは役柄の現実感にある。頼りがいがありそうで、出切る範囲以上のことはやはり出来ない男。去っていくカレンを追うことが出来ず見送るだけの男。 「男らしさ」といった次元ではなく「現実的に」の姿勢で行動する男性の姿がそこにはある。カレンの逞しさにジョーはついていけない確信をしているので、ラストは見送るしかなかった。悲しい過去を背負う人間と悲しみを共有することの難しさを見事にガーナー自身も演じ上げていた。 それが、女性にとっては頼りがいのない男に映る可能性はあるが、現実的に二人が手に手をとって生きていくよりも、別々の道を歩んでいった方が自然だろう。「悲しみは一人で背負うよりも二人で背負う方が辛いものなのだから」 ■メアリーが示す子供の生み出す純粋悪 ![]() この作品の重要な役柄を担っているのが映画史上最強ともいえる情悪な少女メアリーを演じたカレン・バルキン(1949− )である。元々父親がCBSのGMだったこともあり、この役柄と同じく大金持ちの娘であった。誰もが憎悪を抱くであろうこの少女の存在が、多くの現実を観ているものに伝えてくれる。 子供を野放図に育ててしまう怖さ、学校の教師と生徒の親の関係、少年犯罪やイジメの本質といったものが、このメアリーに濃縮されている。本質的にこの少女の姿は、幼さのみが生み出せる歯止めの利かない残酷さである。その残酷さは常に自己憐憫からきており、ほぼ全ての少年犯罪も自己憐憫が根底にある。 自己憐憫とは、人一倍自分がカワイイ甘ったれ感情の事を言うのだが、その甘ったれを矯正してくれる親近者がいない場合は純粋培養されていくのである。心の中の強烈な孤独感が、自己憐憫に与えられる餌のように育ち、増長し、歯止めの利かない人格が形成されるのである。この根本は、過保護に育てられた二、三世議員の精神構造の本質にも相通じるものがある。 ![]() メアリーに脅迫される盗み癖のあるロザリーを演じるベロニカ・カートライト(1949− )も実に素晴らしく。悪の連鎖の構図を見事に見せ付けてくれている。 ■マーサは決して成就せぬ愛に殉じたのだった ![]() 少女の悪意ある嘘によって、生活を破壊された二人の女性。そして、もっと皮肉なことは、少女の嘘が、実は嘘ではなかったことである。それはマーサがカレンに同性愛の感情があるかもしれないと告白する遥か前、メアリーが二人の女性を覗き見していた時に、同性愛の臭いを嗅ぎ付けていたという皮肉なのである。 感性の鋭い少女が、本人達も気付かない事実を嗅ぎ付け、それを悪意ある嘘でくるめこんだことが悲劇の始まりであり、子供の天性の英知の怖さでもあるのだ。子供は大人よりも感覚が優れている分、その力の使い方を誤るととんでもない方向にその力が暴走してしまうものだ。 このポイントがこの作品の素晴らしさである。だからこそ、マーサは自分自身も気付いていなかった心を見透かされ、驚愕し、カレンに告白せずにはおれなくなってしまったのである。そして、マーサは愛に殉じて死ぬことを選んだのである。 なぜ?死ぬことまで?その答えは明確である。マーサの精神的だったカレンへの愛が、肉体的な愛の領域まで達したからである。「分からない?あなたに触られると堪らないの!」の一言が表現するように。マーサはカレンの肉体を求める自分の苦しみと、そんな感情が子供の嘘を導き出し、カレンとの生活を破壊したことに対する「失われた希望」を死ぬことによって取り戻そうと考えたのである。 つまりマーサは、少女の嘘によって自殺に導かれたのではなく、本質的にカレンへの肉体を求める報われぬ愛のために殉じたのである。丁度最愛の男性を失った女性が後を追うように。 ■メアリーのその後の姿は、限りなくリリーに近いだろう マーサの葬儀が終わった後に、タクシーで去っていくマーサの叔母リリーに餞別を手渡すカレン。二人を肝心な時に助けようとしなかった叔母の姿は、まさしくメアリーの成れの果てそのものである。「老醜を晒す」というこの言葉は、高齢化社会において一種タブー視されている。しかし、高齢化社会だからこそ、「老いの美学」をもっと考えるべきではないのだろうか? この作品はワイラーが監督した「この三人」(1936)のリメイクである。そして、リリーを演じたミリアム・ホプキンス(1902−1970)は、マーサ役を演じていた。ちなみにワイラーはこの時カレンを演じていたマール・オベロンにティルフォード夫人役を依頼したが、断られたという。 ■愛の深さを胸に秘め二人は一つになった ![]() まさに『第三の男』のようにマーサの葬儀の参列者の誰にも目もくれずに、前を見据えて歩き去っていく姿でこの作品は終わる。一つの悲劇を乗り越え、それを糧に生きていく女。そこには無理した感じは一切なく、悲劇が肉付けしたごく自然な自信のみ存在した。 厳粛な空気とはまさしくこの瞬間である。一人の人間の死を継承し、一人が二人になり生きていくマーサは、さらに強く誇り高くなっただろう。それは「マーサが死ぬ前に私にだけ伝えてくれた愛の深さ」を実感しているからである。リリーが孫娘を失いさらに弱くなったのとは実に対照的である。 しかし、一つだけ実に残念なのは、この時代に多用されていた陳腐なジャンプカットである。マーサの自殺を察知し走るカレンの姿をその不安の高まりを示すように飛び飛びのカットで繋いでいるのだが、その繋ぐ映像のセンスが無さ過ぎて全く効果を発していなかった。 ■壮大なるカットシーンの数々 ![]() 本作は、ハリウッド史上初めて本格的に同性愛を取り上げた作品である。しかし、多くのシーンが当時の観客には受け入れられないという理由でワイラー自身によりカットされた。マーサの具体的な同性愛的趣向が描かれたシーンや裁判で敗訴し、マスコミにもみくちゃにされるシーン等である。同性愛描写の大幅なカットに二人の女優は落胆したという。 一方、当初ワイラーはマーサの自殺後カレンとジョーが結婚するハッピー・エンドを考えていたが、こちらはヘプバーンとマクレーンの反対により変更された。 ■原作者はリリアン・ヘルマン ![]() 『ジュリア』(1977)で描かれた女流劇作家リリアン・ヘルマンが恋人ダシール・ハメットから聞いた、エディンバラの寄宿学校のオーナーが同性愛者だと噂されたが為に学校が閉鎖に追い込まれたという話を元に記した処女作「子供たちの時間」(1934)が原作である。ブロードウェイで公開されるや否や600回もの長期公開されるほどのビッグヒットになった。 ![]() そんな原作を元にワイラー自身が二度目の映画化をする。当初ワイラーはキャサリン・ヘプバーンとドリス・デイの配役で考えていた。360万ドルの予算で、1961年3月から7月にかけて撮影された。アカデミー賞助演女優賞(フェイ・ベインター)、撮影賞(白黒) 、美術監督・装置賞(白黒)、衣装デザイン賞(白黒)、録音賞にノミネートされるも無冠に終わった。 − 2007年9月23日 − |
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