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シティ・オブ・ゴッド   CIDADE DE DEUS / CITY OF GOD(2002・ブラジル)
■ジャンル: 犯罪
■収録時間: 130分

■スタッフ
監督 : フェルナンド・メイレレス
製作 : アルドレア・バラタ・ヒベイロ / マウリシオ・アンドラーデ・ラモス
原作 : パウロ・リンス
脚本 : ブラウリオ・マントヴァーニ
撮影 : セザール・シャローン
音楽 : アントニオ・ピント / エド・コルテス

■キャスト
レアンドロ・フィルミノ(リトル・ゼ)
アレクサンドル・ロドリゲス(ブスカペ)
マテウス・ナッチェルガリ(セニューラ)
セウ・ジョルジ(マネ)
ダグラス・シルヴァ(リトル・ダイス)
シティ・オブ・ゴッド
短パンにビーチサンダルのチビのアフロ男のこのカリスマはなんだ!「今日から俺の名はリトル・ゼだ!」この名乗りあげのシーンの格好良さに身震いしない男はいないだろう。やはりただのハンサム・ガイよりもブ男の方が人間味があって味わい深いということか?しかもコイツがまだチビの時代に歯を剥き出しに高笑いしながら拳銃を撃ちまくるシーン・・・『説得力』あるこの凄みはなんだ?

■あらすじ


1970年代のブラジル・リオ・デ・ジャネイロの貧民街「神の街」を支配しようとする若干18歳のストリート・ギャング・リトル・ゼ(レアンドロ・フェルミノ)が、繰り返す殺戮の果てに「神の街」の頂点に君臨することになるが・・・その前に恋人をリトル・ゼに犯され、親類を虐殺された二枚目マネ(セウ・ジョルジ)が立ちふさがる!


■今日から俺の名はリトル・ゼだぁ!


リトル・ゼ リトル・ゼ リトル・ゼ
間違いなくこの作品の主役はリトル・ゼ(リトル・ダイス)を演じたレアンドロ・フェルミノ(1978− )だろう。今現在において21世紀最強に凶暴なチンピラを格好良く演じた男である。今のところどの国の映画でもこの男を凌ぐナチュラルに凶暴な若者を演じた芝居を見たことがない。

とにかくリトル・ゼの短パンにビーチサンダル姿が基本の70年代ファッション、アクセサリー、ヘアスタイルがある意味新鮮だ。すぐに拳銃を振り回すチンピラなのだが、それでいながらナンパに失敗したり、親友に恋人が出来て淋しい気分になったりと苦い青春の部分もさりげなく描かれているのである。

しかし、肩が当たるとすぐに銃を撃とうとしたり、うるさいボケがいたらクズのように撃ち殺したり、口説き落とせなかった女がいれば恋人の前で犯したりと・・・基本は人間のクズなのだ。そのクセなぜかすごく魅力的なのである。共感の欠片も生み出さないこの男が・・・

それはやはりその溢れんばかりの生命力ゆえだろう。良い映画の登場人物は必ず生命力に満ち満ちている。
このリトル・ゼには、究極に自己中心的な「パワーに対する崇拝」のみを追及する男の秘められた願望を体現している部分が少なからずあるのである。だからこそ彼は生命力に満ちているのである。

そして、もう一つ最大のリトル・ゼの魅力は、かなり語弊のある言い方をすると、よく不良少年のドラマにあるような「環境がこんなオレにしたんだ」という卑下なぞ欠片もなく、改心の余地もない究極のクズっぷりの清さからも生まれているのだろう。


実際の彼も「神の街」の住民だが、かなりシャイで、かなりの家族思いらしく、役者のような浮ついた仕事よりも将来的には、家の仕事を継いで堅実な生活を築いていきたいらしい。ちなみに実の兄弟もリトル・ゼの子分役で出演している。


■素晴らしいアマチュアによるプロにはない何か


シティ・オブ・ゴッド
しかし、これほど知的にぶっとんだ作品にはなかなかお目にかかれない。よく対比される『パルプ・フィクション』とも『仁義なき戦い』とも全く雰囲気の違う臨場感に溢れている点は、ほとんどの役者がアマチュアだという点である。

日本を含め多くの国のように自尊心ばかり強く、扱いにくい芝居にアマチュアな芸能人を使うのではなく、実際にファベイラ(スラム街)に住む住人である若者2000人を監督達は、4ヶ月かけてオーディションをしたという。そして、その中から200人を選抜し、半年間毎日芝居についての指導をした上で、メインキャストとなりうる数十人を選抜してさらに4ヶ月のトレーニングを施したという。

つまり、アイドルがぱっと出て芝居してるレベルとは、アマチュアと言っても違うのである。しかも撮影にあたっては、脚本なぞは存在させずに役柄を簡単に説明して出演者たちのアドリブで場面を作り上げていったという。

つまり臨場感を見ている側が、感じるのが当然な製作過程を経て生み出されている作品なのである。
まさに芸術作品は全て意図的に生み出されるのである。出来上がったものがどういう形になるにせよ。適当に偶然に中途半端なやる気のなさから芸術=アートは生み出された試しはないのである。

おい!読んでるか?日本の映画製作者や監督たち!おめえら観客に媚びてんじゃねえよ!もっと新しい目線で新しい感覚示してやろうって色気ぐらい出せよ!商売っ気ばかり出すか、つまんねえ世を拗ねたオタク映画ばかり屁みたいにやる気なく生み出しやがって。


■素晴らしいオープニング


シティ・オブ・ゴッド
いい映画には素晴らしいオープニングが存在する。軽快なサンバに乗せて、炎天下のファベイラでナイフを研ぐ映像から物語は始まる。そして、生きた鶏をさばいている途中に逃げだした一匹の鶏をむじゃきな若者たちが追いかける。
その原始的かつ不衛生な描写になぜかぐいっと映像に惹きつけられる。

やがてこの若者たちの何かが違うことに気づくのである。そうまだ10歳にも満たない子供までもが、拳銃を振りかざして、しかも乱射しながら鶏を追っかけまわすのだ。しかもその辺にいる大人を弾き飛ばして完全にゴミ扱いしている。なんだこの世界観は・・・

そして、驚く隙も与えずにカメラを持った少年が逃げた鶏と一緒に、拳銃を持ったガキ集団と武装した警察集団の間にゴールキーパーのように挟まれるのである。この時のカメラワークが実に素晴らしい。そして、回転するカメラワークと共に軽妙に12年前に舞台は遡るのである。もうこの最初の約5分間で誰もがこの作品の非凡な臭いをかぎつけるだろう。

この車に轢かれそうになりながら、銃弾の中を生存本能に従って逃げる鶏の姿は、そのもの「神の街」に住む人々の姿でもあるのだ。

世界はハリウッドだけじゃない・・・ちなみにこの作品を作った人たちのハリウッドの一連の暴力映画に対する嫌悪感は凄まじい。実際本作はかなり残酷な内容の作品なのだが、視覚的に残酷な描写はほとんどないのである。
このこだわりの姿勢によって新しいアプローチによる人間に渦巻く暴力に対する渇望を表現できたのである。

つまりこの作品は、たまに勘違い論者が言うような、展開の速い吐き気だけ催す、ただのドキュメンタリー描写の残酷映画ではないということである。この作品の怖さは
エモーショナルに子供が弱肉強食の世界に飲み込まれている姿を描いているところにあるのである


■リトル・ダイスの大人のような顔つき


シティ・オブ・ゴッド
物語は、サッカーボールを蹴り上げ拳銃で撃つシーンと共にセピア(そして、イエロー)を基調とした1960年代の「優しき三人組」の物語と展開していく。ちなみにカベレイラと青年期のベネを演じるているのは、実の兄弟である。しかし、誰よりもリトル・ダイスという10歳にも満たない少年がいかつすぎる。しかもマジで迫力あるこの大人びた精悍な顔つき。

三人組とリトル・ダイスは「モーテル・マイアミ」(実際に操業中のラブホテルで撮影している)を襲撃する。ここでもリトル・ダイスの生意気さが常軌を逸している。
「俺が考えた計画だぜ!マヘクにさせとけよ!コイツは何にもできないん役立たずなんだから!」と10歳も年上のマヘクに言い放つのである。

ここらあたりで分かってくるのだが、本当の弱肉強食の世界には、年齢による年功序列なぞ存在しないと言うことである。つまり子供が大人びてくるのである。
ここに一つの不気味なメッセージが隠されている。そう、無邪気な子供に大人の要素を掛け合わせると、子供はかくも野蛮になりうるのである。それは現在の無責任・無関心な親に放任された子供にも適応されるということである。この作品は実は地球の裏の過去の物語ではなく、私達の近くのある子供にも起こりうる内部崩壊の過程の物語でもあるのである。

ちなみに監督はマヘク役のレナート・デ・ソーザに撮影の前の2週間、リトル・ダイス役のダグラス・シルヴァをいじめる様命じたと言う。そして、いざ撮影に入りリトル・ダイスがマヘクに頭を張られた後、シルヴァは大泣きに泣いたという。このリトル・ダイスのマヘクを見る目の憎悪と凄みは、本心に満ちているからである。


■バナナを温めるとね・・・


シティ・オブ・ゴッド シティ・オブ・ゴッド
モーテル襲撃後、マヘク(主人公ブスカペの兄)は近所の人妻とバナナを使ってエッチしているところをダンナに見つかってしまう。そして、この女はダンナにスコップで殴り殺される。このエピソードがこの「神の街」がただ単に暴力に包まれた街だけでなく、絶望と倦怠感に満ちた街であることを見事に示している。

そして、「優しき三人組」のリーダー・カベレイラがボロ雑巾のように撃ち殺されて物語は70年代に突入する。切なすぎるブラジル音楽のリズムと共に・・・


■この作品の姿勢と現実に隔たり


シティ・オブ・ゴッド
カラフルな映像と共に舞台は太陽の恵み満点のビーチへ。「童貞を失うなら彼女に・・・」とブスカペが憧れる美女(?)アンジェリカ役で『蜘蛛女のキス』で有名なソニア・ブラガの姪アリス・ブラガ(1983− )が出演している。彼女はウィル・スミスと共演したりとコンスタントにキャリアを重ねている。

しかし、この作品ストーリー・テーリングが素晴らしくうまい。「アパートの歴史」といい「リトル・ダイスの歴史」といい実に映像的に見せてくれる。

「これから俺の名前はリトル・ゼだ!」
と言い放った瞬間の音楽がいかついほどに格好いい!「神の街」から抜け出そうと考えるのではなく、君臨しようとした男リトル・ゼの誕生である。しかし、リトル・ダイス時代の子供時代に歯をむき出しに楽しそうに人を射殺するシーンは衝撃的過ぎる。
人の痛みとかそういったことが全く分からない子供が簡単に人を殺せる道具を持ったらどんなに怖いかということをこれほどストレートに伝えている映像はない。

「殺しのたびに彼は成長した」

そういった歪んだ成長の果てに何があるのかを直視すべきである。一定の倫理観を超えた少年が大人になるともはや修正は不可能なのである。それを現す見事な描写が、物語の最後に見られる。つまり警官に逮捕されたリトル・ゼは、しゅんと静かに凶暴性の欠片もなくしおらしくしているのである。

つまりこういうタイプの人間は、
恭順の姿勢も裏切りと同じくらい軽く考えているということである。だからこそ恭順の姿勢をいともあっさりと取れるのである。そして、警官を買収して釈放されるのだが、ガキ集団にクズのように射殺されて死に絶えるのである。リトル・ゼに相応しい死に様である。

シティ・オブ・ゴッド
ちなみにこの名乗りのシーンでリトル・ゼに足を撃たれるネギーニュ役を演じたルーベンス・サビノ(1984− )は、2003年6月にリオのバスの中で女性のハンドバッグ(中には携帯電話と9ドル)を盗もうとして、見つかり逃げた末に逮捕された。理由は「お腹がすいていたから」だった。実際彼は歯ブラシを買うほどのお金もなく、歯も腐食してぼろぼろだった。彼は人生の大半をストリートで過ごしてきたという。

映画は巨万の富を生み出したが、彼自身は一銭の金も得られなかったという。実際200名とも言われる街の住人の参加者たちはどういう人生を歩んでいるのだろうか?非常に興味深い。


この映画の背景にはブラジルの軍事独裁があった!


世界で最後の奴隷制を敷く国ブラジルは1888年に奴隷解放令を発令した。元々はブラジルを占領したポルトガル人が、アフリカから購入した黒人達はここに解放されることとなった。そのことによりヨーロッパ、日本人が移民として流れ込み産業発展の労働力になる。しかし、学問も技術もない黒人が、そういった賃金労働に従事することは稀だった。

そして、1930年代の産業発展を背景に農村部にいた黒人層がリオ、サンパウロといった都市部に移動することになる。そして、日雇い労働で安い賃金で不定期に雇われながら、不法占拠したスラム街=ファベイラを形成することとなった。

最大貿易国ナチス・ドイツとべったりの独裁国家に君臨していたジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガス(1882−1954)大統領は1930年の軍事クーデターによりブラジルの独裁者の座に君臨していたが、45年10月の軍事クーデターにより失脚する。51年選挙により再選するも、54年8月再び独裁化していた政治体系を国際的に追求される中、大統領官邸でピストル自殺した。

つかのまの民主化の中1958年にコーヒーの国際価格が大暴落し、一瞬にして国家財政が破綻する。そして、共産主義が台頭している事実を危惧したアメリカの黙認の中、1964年軍事クーデターが成功する。ここからブラジルの軍事独裁が始まる(〜1984)。ウンベルト・カステロ・ブランコが大統領に就任する。

1966年1月にリオ・デ・ジャネイロにハリケーンが襲来し、5万人のファベイラの住人が家を失う。この後、神の街のようなファベイラが組織的に政府により形成される。1967年コスタ・エ・シルバ大統領就任。独裁政権の強化につながる国家安全保障会議が創設され、さらに軍部による検閲制度もしかれる。

1968年はもっとも反軍事独裁政権打倒運動が盛んだった年である。発端は3月にリオで高校生が軍警官に射殺された事件だった。6月21日「血の金曜日」事件勃発。国会に突入した400余名の学生のうち約30名が死亡。26日10万人の追悼デモに対し、7月国内における集会・デモを禁止する法令が制定される。
12月13日悪名高き軍政令5号が布告される。これにより、軍政による完全な報道管制及び軍事独裁政治が徹底されることになる。

この軍政時代より都市部でのストリート・チルドレンは膨張し、それにしたがい「死の部隊」が編成されることになった。一方カエターノ・ヴェローゾ,ジルベルト・ジルなど有名歌手が逮捕、収監されのちに亡命する(72年帰国)。
恐怖の秘密警察・作戦情報部隊(DOI)が各都市に設置される。一方で、貧困者には全く見返りのない抑圧の中での欺瞞に満ちた「奇跡の成長」が始まる。

1969年10月エミーリオ・ガラスタズ・メージシ大統領就任。ファビオ安田商工相の指導の下
「この国は前進する国である」のスローガンの下「ブラジルの奇跡」加速化。12月より軍事政権批判を禁止する「検閲法」が実施される。さらに1970年、ブラジル、ペレの活躍によりワールドカップ優勝。10月アマゾン・ハイウェイの建設開始により、原生林破壊深刻化する。1972年アムネスティ・インタナショナルにより「ブラジルにおける拷問の申立てに関する報告書」が発表され、拷問を受けた1081名と拷問実行者472名の名前が明らかになる。

1974年4月ガイゼル大統領就任。「政治開放(アベルトゥーラ)」をスタートする。しかし、大不況のあおりで翌年に挫折するも、1978年より言論の自由化へ。1985年に遂に民政移管される。軍政期間に核開発計画を進めていたが、1988年放棄を宣言。(
しかしルラ大統領は2007年7月10日、ウラン濃縮技術の向上や将来の原子力潜水艦の建造などを視野に入れた8年間で総額約5億4000万ドル(約653億円)を投じる核開発再開を発表した)現在にいたるまで、与党内部や官僚、警察の腐敗や汚職は蔓延したままである。


■足をひきずるな!


シティ・オブ・ゴッド
「手か?足か?どっちが撃たれたい?」「ステーキ。どっちか一人撃ち殺せ」「足をひきずるな!」

リトル・ゼが「神の街」で万引きなどの悪行を働くガキ集団を懲らしめるために、二人の子供を捕まえて、リトル・ゼの仲間の子供ステーキに初めての殺しをさせるのである。このシーンの子供二人の芝居が尋常ではない。実際のところどうだったのかはなかなか言えないだろうが、恐らく子供二人にとっては、トラウマになるほどの狂気芝居だったはずである。

このシーンの撮影をレアンドロは大変嫌がったと言うが、確かに後味の悪いシーンである。しかも足をひきずる子供もリトル・ゼは、背を向けて去るところを撃ち殺しているのだが、このシーンはさすがにカットしたという。

しかし、このシーンには、一つの残酷ではあるが理解出来る思想が込められているのである。
人間は本来最も残酷なのは子供の時期であり、それを管理するために親の存在がある。そして、社会的にも子供の残酷さにはお目こぼしがされる。だからこそ段々年を経るごとに残酷さが薄れていかなければいけないのである。そう考えると老人で残酷な人間(自己中心的に特権を保持しようとする欲の塊やら)は、かなりの大馬鹿者ではないか?と・・・

子供の残酷さを通じて、見ている側にそういうぞっとするメッセージが投げかけられているのである。

ちなみに現在リオ・デ・ジャネイロにおいて、抗争を繰り返している三大麻薬組織コマンド・ベルメーリョ、アミーゴ・ドス・アミーゴス、テルセーロ・コマンドのうち最大組織とされるコマンド・ベルメーリョを結成する三人をモデルに、このガキ軍団は描かれている。

この撮影当時もこの三大組織が対峙していたので、実際の撮影は、ほとんど「神の街」では行われなかった。
ちなみに今年1月〜6月の間にリオ警察により652人のストリート・ギャングたちが殺されたという。これは一日あたり3,6人殺されているということである。これは、あくまで正式な数字によるとである。


■二枚目マネの決断


シティ・オブ・ゴッド
「神の街」の住人に「リトル・ゼのブレーキ」と呼ばれたベネを演じるフィリピ・ハーゲンセン(1984− )も素晴らしい。彼をはじめこの作品本当に登場する多くの住民のキャラがたっている。このベネが白人でジャンキーのティアゴと自転車で競争するシーンは作品全体を包み込む空気とは全く違った空気を吹き込んでいて素晴らしい(最初見たときは絶対にティアゴ殺されるなと勘ぐったりもしたが・・・)。

「一度も踊ったことのないリトル・ゼもいた」のナレーションの中映し出される陽気なクラブシーンの中でベネは、リトル・ゼから助けたネギーニュの銃弾に倒れる。くしくも「神の街」から抜け出してアンジェリーナと落ち着いた生活をしようとしていた矢先だった。

「黙れ!チューバ!おめえはうるせえんだよ!」
暴走するリトル・ゼと堅気だった二枚目マネの悲劇が後半の物語の骨格となる。ここから映像はブルーを基本とした冷たい色感になる。特にマネという極めて善良な若者が、リトル・ゼによってギャングの世界に巻き込まれる姿が何とも見ていてやりきれない。しかもこの流れは事実なのである。


■実に感傷的なラストとエンドロール


シティ・オブ・ゴッド
さらにショックなのが、やがて数ヶ月も経つとあれほど善良で正直者だったマネがいっぱしのギャングとなって殺戮を平気で繰り広げていくその姿だ。そして、最後にエンドロールで二枚目マネの本物のインタビュー・シーンが流される。まさに死の直前の映像である。

しかし、それ以上に何とも不思議な感情を呼び起こすのが、ラストにガキ軍団の一番チビな子供が靴を履きそびれながら、必死に仲間に追いつこうと無邪気にかけて行くシーンである。あんな無邪気な子供がその前のシーンで、銃を持ってリトル・ゼを殺したのである。そう考えるとこの街の暴力の連鎖の根深さを実感させてくれる。

しかし、このラストのリトル・ゼ殺害のシーンで、少年が言うセリフが実に奇妙におかしい。
「ソ連の襲来だ!」。そうつまり当時反共であり軍事独裁政権だったブラジルそのものを否定したセリフなのだ。当時はこのセリフを言うだけで秘密警察に連れて行かれ拷問され処刑されたのだ。

そもそも当時の軍事政権自体が罪の無い人々を大いに血祭りにあげていたのである。


■ブスカペとセニューラ


便宜上の主人公であるブスカペは、そのキャラクターが見ている人に一番親近感が沸くように描かれている。特にリトル・ゼを避けて=危険を避けて生きていこうとしてもかならず彼にかち合ってしまうところが面白い。

ちなみにブスカペを演じたアレクサンドル・ロドリゲス(1983− )自身も「神の街」の住人であり、初体験する女性役の女優とベッドルームから聞こえる会話は隠し撮りであり、彼はこのシーンの撮影までシャワーや熱いお湯を体に浴びたことが無かったという。

そしてもう一人印象深い役柄である、白人の麻薬ディーラー・セニューラを演じたマテウス・ナッチェルガリ(1969− )は、当時すでに有名な俳優であり、アマチュアのキャスティングに固執していたメイレレス監督は、当初は配役に全く適していないと考えていたが、
「他のアマチュアのように扱ってください」という熱意に打たれて配役にくわえたという。さらにマテウスは、実際3ヶ月間「神の街」に引越ししてまで役作りに励んだという。


■結果的に彼らは何を得たのか?


原作は1997年にパウロ・リンス(1958− )が書いた小説である。パウロは11歳の時に「神の街」に引っ越して以来の住人である。しかし、この映画の存在がいかにブラジルの過去を通して、現在のファベイラに世界中の関心を向けさせたという点においては、映画の持つ影響力のすごさを感じる。

ただし、この作品の唯一の難点はなかなか女性には受け止めがたいハードな描写だろう。私も彼女に薦めて感じたのだが、
この作品は男性の感性の作品であり、正常な女性なら拒絶して当然の作品である。

本作品は監督が借金してかき集めた330万ドルの予算をかけてブラジルにおいて300万人もの観客動員数を記録した。さらに2003年アカデミー監督賞、脚色賞、撮影賞、編集賞にノミネートされ、アメリカだけで700万ドルを稼ぎ出し世界中であわせて2700万ドル稼ぎ出した。

しかし、ルーベンス・サビノには一円も手に入らなかった・・・

− 2007年7月19日 −


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