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地獄に堕ちた勇者ども LA CADUTA DEGLI DEI / THE DAMNED(1969・イタリア/スイス)
■ジャンル: ドラマ
■収録時間: 155分

■スタッフ
監督 : ルキノ・ヴィスコンティ
製作 : アルフレッド・レヴィ
脚本 : ニコラ・バダルッコ / エンリコ・メディオーリ / ルキノ・ヴィスコンティ
撮影 : アルマンド・ナンヌッツィ / パスクァリーノ・デ・サンティス
音楽 : モーリス・ジャール

■キャスト
ダーク・ボガード(フリードリッヒ)
イングリッド・チューリン(ソフィ)
ヘルムート・バーガー(マルティン)
ヘルムート・グリーム(アッシェンバッハ)
シャーロット・ランプリング(エリザベート)
ルネ・コルデホフ(コンスタンチン)
ウンベルト・オルシーニ(ヘルベルト)
地獄に堕ちた勇者ども
ココに描かれているものは何も特別な世界観でも何でもない。今世界中に氾濫する資本主義の落とし子である世襲制に蝕まれた組織の、内部崩壊とそれに伴なう社会への害毒が描かれている。今の日本にも氾濫する、あの全く何も出来なかった、(世襲制の固まりとも言える)国を治める役割に立った男の無能さと幼児性を見るにつけて、日本は底からだけでなく上からも腐り果てようとしていることが良く分かる。こういったヤツラの一族こそこのエッセンベック一族のような価値観で国を食い物にしているのだろう。だからこそこの作品には今に通じるものがある。だからこそ恐ろしく凡庸に見えるほどの普遍性に包まれている。

■あらすじ


1933年初め、ドイツでも有数の名家であり鉄鋼会社を率いるエッセンベック家の当主ヨアヒム男爵の誕生会が、一族を集めて厳かに行なわれていた。その夜、晩餐の席上ドイツを揺るがすニュースが伝えられた。国会議事堂が放火された≠ナある。かくして、ナチス・ドイツによる独裁政治の開始は告げられた。エッセンベック一族も政治的混迷の中内部分裂の様相を見せていく。そして、ヨアヒムの孫にあたるマルティン(ヘルムート・バーガー)によって一族崩壊へと導かれていった。


■世襲制という名の人間性の欠如した内部崩壊のシステム


地獄に堕ちた勇者ども
ナチスドイツによる第三帝国の形成という素材を用いて、ヴィスコンティが完膚なきまでに伝えたかったこと。
「民にモラルを押し付ける支配階級こそインモラルの極み」であるという歴史上繰り返されてきた真実。権力者はその権力の後ろ盾のもとに、たがが外れたようにインモラルに励んでいる。

その説得力がこの作品にはある。支配階級に抑圧された民でさえもインモラルな行為を好む。それは人間の本能である。ならば抑圧が緩い支配階級においては、よりインモラルな行為を突き進んでいく傾向があるのではないか?

つまり、過去の歴史においても実証されているように、支配階級とは結局のところインモラルな集団であり、インモラルな集団が、同じインモラルな民だと支配できないことから当人達は、
全く実践していない道徳観念を国民に押し付け監視し、コントロールもしくは誘導(民を羊化し)しようと目論むのである。

そして、こういった一族が内部崩壊した人間関係を引きずりながら、一族の優位性を誇示していたことが、ナチスドイツの台頭と、一般の民の叛乱を招いたのである。
つまるところナチスドイツとは、世襲制に対する抑圧された階級の反発だった。ヒトラーもこの物語に登場するアシェンバッハもそうだった。

つまり世襲制に胡坐をかく状態をその国が許していたからこそ、下からの反発の度合いはより強くなったのである。
ナチスドイツの本質は、それ以前の支配階級に対する愛憎渦巻く反発の姿にある。だからこそ鉤十字をまとった新しい支配者達は、貴族の偽りで塗り固められた見掛け倒し≠否定するかのように洗練された力の象徴=制服等≠作り出し、偽りではなく真実の暴力支配に徹底したのである。


■非常に分かりにくい登場人物の相関図


つまりこの作品の恐ろしい所は、ナチズムの本質を描いたのではなく、ナチズムも含めて権力者の本質を描いたところにある。もっと端的に言うと
ナチズムは世襲制の落とし子≠ノすぎず、ナチズムも民主主義国家もその中に蠢く権力者の本質は、罷り間違えばそう変わらないと言っている点にある。

この物語を分析していく前に、登場人物の人間関係を明確にしておこう。この部分が分かりにくいが故に鑑賞者の集中力も途切れがちになってしまう弱点を秘めている作品なのでこれは重要な補足点だろう。

ヨアヒム・エッセンベック(アルブレヒト・シェーンハルス)エッセンベック家当主、社長
コンスタンチン・エッセンベック(ラインハルト・コルデホフ)ヨアヒムの甥
ギュンター・エッセンベック(ルノー・ベルレー)コンスタンチンの息子
ソフィ・エッセンベック(イングリッド・チューリン)ヨアヒムの息子の未亡人
マルティン・エッセンベック(ヘルムート・バーガー)ソフィの息子
フリードリヒ・ブリンクマン(ダーク・ボガード)ソフィの愛人、エッセンベック鉄鋼の重役
エリザベート・タルマン(シャーロット・ランプリング)ヨアヒムの姪
ヘルベルト・タルマン(ウンベルト・オルシーニ)エリザベートの婿、エッセンベック鉄鋼の重役
アッシェンバッハ(ヘルムート・グリーム)ヨアヒムの遠縁、ナチス親衛隊幹部


■その可憐さ シャーロット・ランプリング


シャーロット・ランプリング シャーロット・ランプリング
モーリス・ジャールの優雅さに欠ける扇情的なオープニングスコア(どこか『ドクトル・ジバゴ』の「ラーラのテーマ」に似た)。そして流れるように優雅な大豪邸の住人達が映し出される。調度品の全てが本物の今の陳腐な言葉で言えばセレブ≠ネ雰囲気だが、早々に人間関係の気薄な寒々しさが映像全体から漂っている。

その調度品の金銀が磨きこまれて光り輝けば光り輝くほど、そこに住む住民の心はくすんでいく様が見事に描かれている。

シャーロット・ランプリング 地獄に堕ちた勇者ども
とにかくそんな中でもシャーロット・ランプリング(1946− )の美しさが、その線の細い体のラインを包み込むドレスの清楚な優雅さと共に映えている。そして、本作の4年後に『愛の嵐』でダーク・ボガードと再共演することになる。


■その猥雑さ ヘルムート・バーガー


地獄に堕ちた勇者ども 地獄に堕ちた勇者ども 地獄に堕ちた勇者ども
〜 若い男に用はない 欲しいのは本当の男 〜♪

当主ヨアヒム爺様の誕生パーティーでマレーネ・ディートリッヒの女装をして「ローラ」を唄うマルティン。演じるのはヘルムート・バーガー(1944− )。
美しいというよりも中世的というよりも、ドラッグ・クィーンのような男っぽい猥雑さに満ちている(ワキ毛もすね毛も剃っていない所もポイントとして高い)。

しかも、この猥雑なショーが行なわれるのが、『個人教授』(1968)で一躍アイドルになったルノー・ベルレー(1945− )扮する好青年ギュンター君がバッハの無伴奏チェロ組曲を弾いた後という無茶苦茶ぶり。

ヘルムート・バーガー ヘルムート・バーガー ヘルムート・バーガー
そんな息子マルティンの出し物をステージの影から恍惚とした表情で見つめる母ソフィ。
女装したマルティンと赤々としたライトで映し出されるソフィの表情は表裏一体であり実に似ている。つまる所、二人の本質は同じであり、マルティンの行く末はソフェであることを見事に暗示している(母の影響力が子を支配するのはいつの世も同じである)。

ここでこの作品により一躍国際的なスターになったヘルムート・バーガーについて語ろう。まずこの作品において共演者が長身揃いなのでバーガーは背が低く感じられるが、実際は184pと長身である。彼はオーストリアでホテルを営む両親のもと生まれた。

幼少の頃より女装癖があり、父の稼業を継ぐ事を嫌いロンドンに出てウェイターをしながら演劇を学ぶ。1964年に『熊座の淡き星影』を撮影中のヴィスコンティに出逢いその時から(1976年のヴィスコンティの死まで)12年間に渡る二人の同性愛の関係は続く。彼が生きていた時は『ルートヴィヒ』(1972)『家族の肖像』(1974)など作品に恵まれていた。

しかし、1976年3月17日にヴィスコンティが死去し、バーガーの生活も荒んでいく。アルコールとドラッグに溺れるバーガーは、ヴィスコンティ死去の一年後の1977年3月17日に睡眠薬自殺を図る。


■1933年 ドイツの民主主義は崩壊した


イングリッド・チューリン ヘルムート・バーガー
「我々エリートは個人の道徳を超越する」アッシェンバッハ

「傍観していた我々の罪だ!今頃騒いでも遅いもう救いはない。ドイツの民主主義は死んだ」
ヘルベルト

1933年1月30日アドルフ・ヒトラーは(民主的に)首相に就任する。同年2月27日夜に国会議事堂が放火される。そして、議事堂付近にいた上半身裸(当時のベルリンは零下だった)の男マリヌス・ファン・デア・ルッベが逮捕される。彼は24歳のオランダ国籍の共産党員だった。1934年1月斬首刑に処される。

本人自身犯行を自供していたのだが、16歳の時の事故で極度の弱視だった。そんな彼が国会議事堂を単独放火できたのだろうか?そんな疑惑をよそに翌日28日ヒトラーはヒンデンブルグ大統領のもとに赴き、「国家と国民の防衛のための大統領緊急命令」の署名を得て即日発効させる。

この命令によりヒトラーは国民からワイマール憲法で保障された言論・集会の自由、令状によらない家宅捜索の禁止など基本的な諸権利を一時停止する権限を手に入れた。そして、共産党員の弾圧にかこつけて政敵を含むヒトラー政権にとって目障りな約5000人が逮捕された。こうして民主主義は崩壊していった。


■臆病さに支配された人間ほど怖いものはない


地獄に堕ちた勇者ども 地獄に堕ちた勇者ども
親戚の少女に投げかける怪しいマルティンの視線。少女の手の甲にキスするときの恍惚とした表情。そして、愛人の娼婦のアパートの隣に住む少女リサとの性的な一時。

マルティンは幼少期に父親を失い、母親の愛をひたすら求めた。しかし、母親は自分には全く愛を与えてくれず、他の男性に愛を求め与え続けていた。
それ故に彼は女性というものに対して絶対的な不信感を持つようになった。母親の愛を求め、愛に対して敏感になるあまり彼は神経質になり、純粋無垢な少女を愛するようになった。

この時点においては、彼はまだ憎悪を解き放っていなかった。それは彼の中で絶えず臆病さが支配していたからである。これはいつの世にも通じるのだが、
臆病な人間が何かをきっかけにして背中をぽんと押された瞬間に、歯止めの利かない悲劇は起こりがちなのである。

マルティンにとってのきっかけは少女リサの首吊り自殺であり、背中をぽんと押したのはアッシェンバッハだった。


■ソフィの恐るべき性欲


地獄に堕ちた勇者ども 地獄に堕ちた勇者ども 地獄に堕ちた勇者ども
ナチス政権に反発していたヘルベルトは、ヨアヒム殺害容疑をかけられ、逃亡を余儀なくされる。こうして彼は単独でドイツから逃亡せざるをえぬ羽目に追いやられた。筋書きはアッシェンバッハとフリードリッヒ&ソフィによって書かれたのである。

ソフィは義理の父親をフリードリッヒに殺害させ、自分達がこの王国の長になろうと考えていた。フリードリッヒと息子マルティンという手駒を駆使して勝てぬわけはないと考えていた。

エリザベートのか細い肉体に対して、ソフィの逞しい肉体。まさにヴィスコンティが示唆したように
彼女は恐るべき性欲の持ち主で、男だけでなく巨大な鉄鋼会社全体をおのれの性器の中にねじ込みたい欲望を所有しているだった。


■彼女はゲシュタポに逮捕されマルティンの密告者になった


地獄に堕ちた勇者ども 地獄に堕ちた勇者ども 地獄に堕ちた勇者ども
まず最初に嬉しいこの人。ナチスドイツものと言えば、やっぱり出てきてくれたカール=オットー・アルバーディ(1933− )。この憎々しい表情が実にいいんだよな。

余談はさておき、マルティンが娼婦オルガのアパートを訪れる姿が頻繁に映し出される。そして、どうやらこの時だけが彼にとって心を許せる時らしい。彼女こそが安酒場の歌手でもあり、マルティンに「ローラ」を教えたのだろう。

後にナチス親衛隊に入隊してからのマルティンがソフィとフリードリッヒを死に至らしめる最後のパーティーにおいても彼女は登場しているが、その前に彼女がゲシュタポに捕まっている事実を忘れてはいけない。つまり、彼女はアッシェンバッハの言うところの内通者になったはずであり、マルティンはそうとは知らずに彼女に監視されているわけなのである。

最も心を許せる場所に落とし穴を掘る。北朝鮮を始め全体主義の国の怖さはこういった社会的弱者の弱みに付け込んで、ますます弱者を卑下させていく所にある。オルガもまた使い捨てされる運命なのだろう。

フロリンダ・ボルカン フロリンダ・ボルカン フロリンダ・ボルカン フロリンダ・ボルカン
このオルガという女性を演じているのは、後に主にイタリアンB級ホラー映画に出演する事になるフロリンダ・ボルカン(1941− )である。ブラジル出身というだけあって褐色の肌が艶めかしい美女である。


■ナチズムによって露呈する世襲制一族の結束の弱さ


地獄に堕ちた勇者ども 地獄に堕ちた勇者ども
ドイツから逃亡した夫ヘルベルトの後を追うためにエリザベートはソフィに懇願する。快諾したソフィは、実は裏で策を弄しており、エリザベートはダッハウ強制収容所(ナチスによる最初の政治犯収容所)に娘二人と共に収容されることになる。ヘルベルトが戻って来て(無実の罪に対して)自首するための囮として。

そして、思惑通りヘルベルトがゲシュタポに逮捕される覚悟でドイツに戻ってきた時には、既にエリザベートは収容所で死んでいた。ヘルベルト自首後辛うじて二人の娘だけは解放されたが、勿論それは冤罪をヘルベルトが被ったという証でもあった。

この二人の少女が豪邸に帰還してくるシーンには、その淡々とした描写の分だけ善良な家庭を崩壊していく全体主義国家に対する憎悪の念が込み上げてくる。


■その逞しさ イングリッド・チューリン


地獄に堕ちた勇者ども 地獄に堕ちた勇者ども
この作品の主役は間違いなく一組の母と子であろう。ソフィとマルティン。
世襲制=一族の名を誇りにする家名崇拝者の家庭は、実のところ、全ての物事において物言わぬ召使が存在する分、親子の間柄においても正常な関係を築きあげにくい。

表向きは貴婦人の如く取り澄ましている名家の婦人や子女の多くは、愛情や人間的な繋がりに欠けた状況で生活してる為に、精神的に不安定な人たちが多いはずである。昨今の陳腐なセレブブームでも露呈されているように、金持ちの子息程薬物及びアルコール中毒に陥りやすいというのもそういった部分からだろう。

それも一重にソフィもそうだが、子に対してどう接したらいいのか親が分からなくなり、金を与えたりといった安易な方法に走った結果が、マルティンのような青年を生み出す結果になるのだろう。全ては心の交流を放棄した所(心の貧しい親から心の豊かな子は決して生まれない)から、悲劇は始まるのである。全体主義も大日本帝国も元凶は同じである。

イングリッド・チューリン イングリッド・チューリン イングリッド・チューリン
イングリッド・チューリン(1926−2004)。スウェーデン出身の女優でありイングマール・ベルイマン監督といえば彼女を連想させるほどの名女優。元々はバレリーナを目指していたのでその立ち振る舞いの優雅さには一種独特なものがある。そして、全裸になったときの筋肉質な肉体美も、ソフィという女性の役柄に見事に命を吹き込む結果を生み出した。


■ヴィスコンティの描くデカダンス


地獄に堕ちた勇者ども 地獄に堕ちた勇者ども
「ドイツを征服するには突撃隊が必要である。しかし、世界を征服するには国防軍が必要である」

そして、1934年6月30日早朝に行なわれる「長いナイフの夜」のシーンが映し出される。ヒトラーの盟友でもあり突撃隊隊長エルンスト・レームが逮捕・殺害される一連の突撃隊粛清劇である。この事件によってハインリッヒ・ヒムラーの率いるナチス親衛隊は突撃隊から独立し、ナチスドイツの中でも最高の恐怖機関として跋扈することになる。

バイエルン地方の郊外の保養地で、コンスタンチンら突撃隊幹部と美青年の隊員を集めて催される酒池肉林の乱痴気騒ぎ。皆が同性愛に耽り寝静まった夜明け、親衛隊が騙まし討ちの形で乗り込み、その場にいる突撃隊員を全て射殺する。

このシーンはレームとその側近が同性愛者として悪名を馳せていた為、全ての隊員が退廃的な集団乱交を好んでいるかのような描写で描かれている。そして、この17分間に及ぶ突撃隊粛清の過程が、一つの真実を導き出してくれる。褐色の軍服、女装の為のガーターベルト、鉤十字、親衛隊のブーツ、制服・・・
結局の所ファシズムの本質とは、普通の人間が何か違う存在に変わりたいという願望にすぎないのではないかという真実に。

男性が美しくなって不思議な力を手にしたいというのが女装願望(豊胸や性転換は女装願望ではない女性化願望である)ならば、ファシズムの根本にある制服に対する拘り、規律とは、一種の変身するための過程であり、自分にはない新たな力を手に入れたいという女装願望によく似た変身願望の表れなのではないだろうか?



■アッシェンバッハの本質にあるものは、人を不幸にしか導かない


地獄に堕ちた勇者ども 地獄に堕ちた勇者ども
「権力には必ずそれに対抗する権力を用意すること。それが政治の基本です」アッシェンバッハ

「母は私を辱め、愛を求める私の心を理解しなかった。私の愛は憎しみに変わった」マルティン

親衛隊将校アッシェンバッハは、温室育ちのエッセンベック一族の人々のぬるい野心、心の闇、倒錯した情欲を巧みに利用し、自身の権力の保持のため操り人形へと人間を貶めていく。
マルティンもギュンターも肉親に対する愛憎渦巻く感情を見事にアッシェンバッハに刺激された事から堕落への道は始まった。

なぜ愛されることが大切であり、人を愛することが大切なのか?
この作品はそういった普遍的なテーマにも触れている。愛で得られなかったものを憎しみで得ようとしても、得られるものは「人間不信」の中に佇む自分ひとりに対する怯えであって、それ以外の何者でもないという真実。

「君は今夜驚くべき何かを身につけたのだ。父の冷酷さ、フリードリッヒの野心、マルティンの非情さ、だが君にはそれ以上のものがある。憎悪だ。君には憎悪があるのだ。若く純粋で絶対的な憎悪・・・来たまえギュンター。教えようその力が最上に生かせる方法を」アッシェンバッハ

間違いなくアッシェンバッハは、そう遠くないうちに孤独の中で打ちひしがれる自分に直面することになるだろう。


■母を破滅させ、マルティンも破滅する


地獄に堕ちた勇者ども 地獄に堕ちた勇者ども
「母上!あなただ!昔からあなたが私の悪夢だった。あなたはあらゆる方法で私を屈服させようとした。時には醜いそのカツラや口紅で」

少女リサの病み衰えた姿に衝撃を受けたように、収容所から解放されたエリザベートの娘二人が帰宅した姿を見て慄くマルティンは、麻薬を血管に打ち込むことによって平静を保とうとした。しかし、そんな姿を母に見咎められる。初めて母が自分自身を気遣い始めたその瞬間に、マルティンの憎悪の念は頂点に達した。

母に対する究極の愛情表現であり、究極の憎悪の表現とは何か?そして、答えは自然に導かれた。その肉体に記憶させ、母に自分の愛憎の混乱を植えつけてやろうとマルティンは言い放つ「あなたを破滅させます!」と。そして、母の中に愛憎の印を打ちつけ二人は暫しの安息を迎えるのだった。

地獄に堕ちた勇者ども 地獄に堕ちた勇者ども
母がマルティンに犯され、母であることを自覚してしまった瞬間に、年齢相応に衰え、マルティンという息子の記憶を辿り、その記憶が「マルティンはお母様を殺す」という少年時代の絵くらいにしか残されていない現実に直面し茫然自失になる。

母はマルティンに犯されたことによって、愛を知り、息子が愛を失ったことも知ってしまうのだった。そして、何よりも自分自身が誰一人愛さなかったという事実を知り母ソフィは呆然としてしまうのだった。


■愛なき結婚式を死化粧でするソフィ


地獄に堕ちた勇者ども 地獄に堕ちた勇者ども 地獄に堕ちた勇者ども
愛なき結婚式を行なうソフィとフリードリッヒ。調度品で美しく保たれていた邸宅ももはや鉤十字と娼婦が蠢くうす汚れた空間に過ぎない。麻薬常習を匂わせるうすら汗を顔中ににじませながら親衛隊制服に身を固める無表情なマルティンに導かれ二人は心ここにあらずの表情で淡々と結婚式を済ませていく。

そして、婚礼のサインを済ませ二人はマルティンに別室に導かれていく。二人にとって利用する手段でしかなかった青年によって、死を受け入れさせられる悲劇。フリードリッヒは元々が気の弱い方なので、運命を受け入れている様子である。一方、ソフィはその真っ白な化粧が彼女本来の人間らしさを浮き彫りにしている。

くしくもソフィは死化粧によって、人間らしさをほとばしらせ死を受け入れざるを得ないのだった。
そのとまどいの笑顔が生み出す人間らしさ・・・儚さ・・・可愛らしさ・・・死の寸前に人間らしさを取り戻したソフィだった。


■マルティンはディートリッヒから親衛隊員に転進した


地獄に堕ちた勇者ども ヘルムート・バーガー
母ソフィと義父フリードリッヒを死へと追いやりナチ式敬礼をするマルティン。もはやそこにはエッセンベック一族の長のあのテーブルをとんとんと叩く瞬間なぞ存在しなかった。彼が渇望したあの瞬間はナチ式敬礼にとって変わられ、今やマルティンは親衛隊員としての変身を貫き通す道しか残されていない。丁度アドルフ・アイヒマンが自分自身に対するコンプレックスを忘れようとしたかのように彼もまた埋没する。

そして、その変身が許されなくなった時、マルティン自身の滅びが加速度的に始まるだろう。それは恐らく遠くない。なぜなら後にはオルガもギュンターも、そして、アッシェンバッハも控えているのだから・・・


■ヴィスコンティ、三島由紀夫は語る


地獄に堕ちた勇者ども
本作でヴィスコンティは初めてドイツを描いた。そして、以後『ベニスに死す』『ルードヴィヒ』とドイツを描く作品が続いていく。これら3作をひっくるめてドイツ3部作≠ニ言われている。ヴィスコンティは本作についてこう語っている。

「犯罪が起きていながら実際には処罰がなされないそんな家族の物語を描いてみたかった。現代史のなかでそのような事態は、いつ、どこで、どのようにして起こりうるのか?それはナチズムの時だけだ。ナチズムの時代には殺戮が行なわれた。大量殺戮であれ個人に対するものであれ、決して処罰されることのない殺しが行なわれた」

「最初、私はすべての登場人物の中でギュンターだけを救おうと欲していた。しかし、だんだんと、それは現実にはそぐわないものであるということがわかってきたのだ。現実は、ギュンターはナチズムに閉じこめられ、彼もまた窒息死させられたのである。・・・ギュンターのように、映画の三分の二あたりまでは唯一の聖なるエスプリの持ち主である青年もまた、組織の中に吸収されてしまうのだ・・・他の人たちは自滅していく。エリザベートは死に、ヘルベルトはゲシュタポに箕を任す。この三人だけが映画の肯定的要素だったのに、その彼らも滅びてしまう。なぜならナチというのは、こんなものだったのだから、他の結果は考えられないのである」


そして、三島由紀夫はこう論じている。
「ヴィスコンティはおそらく政治的変質と性的変質のパラリズムを狙ったのである。マルティンの性的変質とそのやるせない胸のときめきは、やがては彼が陥ることになる政治的変質の兆候であり暗喩である。・・・しかも性と政治とのこのような対応は、もう一つのもっと恐ろしい逆説を秘めている。すなわち、この映画だけを見ても圧倒的な病的政治学の力の下で、むしろ人間性は性的変質者によって代表されているものであり、幼女姦のマルティンも男色の突撃隊も、その性的変質に於いてはじめて真に人間的であるのに反して、どこから見ても変質のカケラもない金髪の人間獣アッシェンバッハ(このヘルムート・グリームという俳優は素晴らしい)の冷徹な健全さ≠ェ、もっとも悪魔的な機能を果たして、ナチスの悪と美と健康≠代表しているものである。真に怖ろしいものはこちらにあるのだ」1970年4月

− 2007年12月23日 −


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