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ディパーテッド THE DEPARTED(2006・アメリカ) | |||||
| ■ジャンル: ドラマ ■収録時間: 152分 ■スタッフ 監督 : マーティン・スコセッシ 製作 : マーティン・スコセッシ / ブラッド・ピット / ブラッド・グレイ / グレアム・キング 脚本 : ウィリアム・モナハン 撮影 : ミヒャエル・バルハウス 音楽 : ハワード・ショア ■キャスト レオナルド・ディカプリオ(ビリー・コスティガン) マット・デイモン(コリン・サリバン) ジャック・ニコルソン(フランク・コステロ) マーク・ウォールバーグ(ディグナム) ヴェラ・ファーミガ(マドリン) |
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■あらすじ ボストンのアイルランド系マフィアのボス・フランク(ジャック・ニコルソン)は、幼少の頃から目をつけていた聡明なコリン(マット・デイモン)を州警察へ潜入マフィアとして送り込む。警察内で出世街道をひた走るコリンによって漏らされる情報によって、フランクもビジネスを順風満帆に拡張していた。しかし、州警察から送り込まれてきた潜入捜査官ビリー(レオナルド・ディカプリオ)の登場によって、全ての雲行きが怪しくなっていく。果たして潜入が発覚するのはコリンとビリーどちらが先か!? ■リメイク作品は比較されてこそ華 ![]() 今ハリウッドで最ももてはやされている二人の役者、レオナルド・ディカプリオ(1974− )とマット・デイモン(1970− )。二人ともとても実に魅力的な役者だ。しかし、どうやらここ10年あまりハリウッドでは、優れた役者というものは、つまらない作品を取り繕うためだけに存在しているらしい。 この作品も、そういった風潮の中で作られた作品である。つまり日本のようなテレビ局主体の映画作りほど末期的ではないが、もはや魅力的な題材を自ら生み出すことさえ出来なくなったハリウッドという世界最高の映画産業の中枢が完全に傾き始めている兆候がココに垣間見える。 少しだけ現実を直視してみよう。この作品の一般的な評価はかなり高い。特にアメリカにおいての評価が高いのだが、それはオリジナルを見ていない人達の評価だろう。逆にいうと元々の原案がそれだけ魅力的だったということである。それにスターが組み合わされれば退屈凌ぎの作品は出来上がり好評を博すのである。 しかし、オリジナル作品である『インファナル・アフェア』三部作を観ている人にとっては、この作品の出来は恐るべき程幼稚臭い。そうこの作品こそは多くの鑑賞者の前に、ハリウッド映画が蔓延させている深みのない感性の羅列を実感させてくれるのである。ちなみにオリジナルとリメイクを比較するのはバカバカしいという人がたまにいるのでこれだけ言っておこう。そういった比較をする喜びもまた映画を楽しむ方法であり、感性を磨く近道なのである。 ■その薄っぺらなテンションの高さは何処からやって来た? ![]() この作品において『インファナル・アフェア』(2002)のあの情感は完全に消えうせていた。そして、スコセッシ作品の最大の魅力である焦燥感の高揚も完全に消えうせていた。この作品は、キャリア的に順風満帆な人々が鈍くなった感性で作った緩い雰囲気で満ちていた。そして、ここにあるのはただのゲームのような薄っぺらな殺し合いの世界観でしかなかった。 英語圏では1000人に1人くらいしか観ていない『インファナル・アフェア』を英語圏の大衆向けに作ったらこんな作品になりました。ここに今のハリウッドを包み込む本質が見えてくる。つまり単純な人間的な感情の積み重ねだけで映画を作り上げていく底の浅さ。 無機質な携帯電話の着信音、小悪党の変態ジジイ、尻軽な女、連発されるFUCKと罵詈雑言。それに反比例するかのように薄っぺらな葛藤、人間味溢れる会話の欠落、愛情・友情の存在しない世界観。何か白い粉をやっているヤツラのような感覚。やけにテンションは高いが、中身は何もない生き様の登場人物が多く登場するなんとも空しい大作映画だった。 ■全てのはこの名優の暴走から始まった ![]() 「ガキの頃言われた。警官か犯罪者になるとな。オレならお前にこう言う。銃と向き合えば違いはねえ」コステロ 脚本、演出はともかくとして、潜入捜査官と潜入マフィアを演じる二人の役者自体はそう悪くなく、その周りに配された役者も全く悪くなかった。ただ一人の役者の暴走を除いては・・・そうジャック・ニコルソン(1937− )の暴走である。その芝居の質の高さが映画の雰囲気をとことんぶち壊していた(ポルノ映画館で張りぼて露出のアイデアはニコルソンによるものだった)。 ニコルソンの存在がこの映画を大味なものにした。チンピラがオヤジになったかのような雰囲気であり、その上、恐るべき利己主義者であり、現実的にはこんな男には誰もついていかないだろうという負の存在感に満ちていた。しかも、女をはべらし中途半端な教養と下品な言葉を織り交ぜるという良くも悪くも、ハリウッド的なダサい演出。女性蔑視の態度をとって威張り散らし、シェイクスピアや聖書を唱えながら人を撃ち殺したりする悪党像って、どう考えてももう古すぎだろ? 当初はニコルソンはフランク役を辞退していた。しかし、スコセッシとディカプリオの説得により、最近悪役を演じていなかったこともあり、フランク役を自分の解釈で膨らませていいという条件で出演を許諾した。
■唯一輝いていたディグナム ![]() 「警官になりたいのか?警官に見られたいのか?どっちだ」クイーナン 一方、本作でいい味を出していたのが、ディグナムを演じるマーク・ウォールバーグ(1971− )である。さすがマーキー・マーク(&ザ・ファンキ・バンチ)だけある。この役柄の演出だけがスコセッシ作品らしかった。マークはディグナムを演じるにあたって、少年時代に20回以上捕まった時の警官をモデルにしたという。 ちなみに彼は14歳で中学校を退学し、ボストンの下町でドラッグを捌いたり、盗みやカツアゲをして生活していたという。そして、16歳の時に50日間刑務所に入る。これがきっかけになり犯罪から手を洗ったという。当初ディグナム役はレイ・リオッタが演じる予定だった。ちなみにマーティン・シーン(1940− )が演じたクイーナン役は当初メル・ギブソンにオファーされていたという。 ちなみにFBI捜査官フランク・ラッツォに扮するロバート・ウォールバーグ(1967− )はマークの実兄である。本作はマークにとって『バスケットボール・ダイアリーズ』(1995)以来のディカプリオとの共演になった。 ■ラブ・シーンに主題歌を重ねるのはそろそろダサくないか? ![]() 『インファナル・アフェア』においてサミー・チェンとケリー・チャンという私好みな女優によって演じられていた役柄が、本作においては一人の女性に統合されていた。精神分析医マドリンである。エレベーターでナンパされホイホイついて行き、分析していた別の男にもホイホイついて行く役柄であり、精神分析医としての冷静さ、聡明さに著しく欠けた役柄を演じるのはヴェラ・ファミーガ(1973− )である。 ウクライナ系の魅力的な女性で、美人というよりもスラブ系独特の神経質そうな雰囲気に満ちている。当初ケイト・ウィンスレットやヒラリー・スワンクが候補に挙がっていたが、スコセッシは彼女に固執したという。 ![]() 残念ながら、演出が悪いので『グッドフェローズ』のロレイン・ブラッコのような魅力を発散していない。折角の見せ場であるコリンがマフィアの一員であることを気づくシーンやビリーの葬式で『第三の男』ばりにコリンを無視して去っていくシーンにおいても、鑑賞者の感情を心地良く揺れさせる程のモノはそこにはなかった。 ■携帯電話は、映像空間を陳腐にしてしまう ![]() 「失うものがないやつは信用できん」フランク 冒頭のローリング・ストーンズの「ギミー・シェルター」や、ドロップキック・マーフィーズ(ボストン発アイリッシュ・パンクバンド)の「アイム・シッピング・アップ・トゥ・ボストン」と中々素晴らしい選曲もあるのだが、全体的に音楽の効果がよろしくない。 しかし、そんな事よりももっとも致命的なのは、コリンとビリーの描写の落差である。ビリーはディカプリオの芸達者な部分もあり、潜入捜査官の葛藤と人間らしい交流の渇望がそれなりに描かれていたのだが、コリンの方の葛藤の描写は徹底的に欠落していた。 全てがその場しのぎの自己保身に走り、人間味のない利己主義な役柄になってしまっている。だから、そんなコリンとビリーが初めて対面するシーンも、ビルの屋上で対峙するシーンもカタルシスを全く生み出さない結果となってしまった。この作品の最大のミスはこの二シーンよりもフランクの狂気の描写に力を入れすぎていた所だろう。 ちなみにこの作品においてFUCKという言葉が237回出てくる。かつての映画においてこの言葉が日常の生々しさを生み出す一因になっていたのだが、今日的には、携帯電話の着信音と同じくFUCKという言葉の響きはもはや人間的な感覚の欠落を実感させる役割しか果たしていない。 それにしても、潜入している双方が、携帯でピコピコする姿は映画的に全く美しくなく、緊張感を見事に削いでいる。携帯電話という機器がいかに映像的に映えない代物であるか・・・。とにかくこそこそ携帯をいじる姿は、俳優の価値を加速度的に下落してしまう。更に言いたいのは、「マナーモードにしとけや」の一言である。 ■悪党が陳腐さに包まれる所作 若い女を侍らす行為 ![]() フランクの愛人グウェンを演じるクリステン・ダルトン(1966− )がなかなか色っぽい。それはそれとしていいのだが、今どきのハリウッド映画に締まりのない作品が多いのも、どんなシーンでも女をちょろちょろ登場させているからじゃないだろうか? この作品においても、彼女は引き締まった会話を台無しにするちゃちゃを入れる役柄で登場している。つまり彼女の存在は、この作品においてフランクをただのチンピラ・ジジイへと貶める役割となってしまっていた。ハリウッドのパーティ好きな映画人にとっては若い女を侍らす事は当たり前なんだろうが、映画の中でジジイが若い女を侍らす姿は美しいとは正反対に醜さのみを照らし出し、そのジジイの存在価値の低さを増長してしまう結果しか生み出さない。 ■携帯電話の着信音並みに無機質な銃声 ![]() 結果的に登場人物全員が殺されていく。まずはクイーナン(マーティン・シーン)の墜落死から始まる。ビリーの目の前に落下し血しぶきを上げて死んでいくその姿。いかにもCGな血しぶきが全てを台無しにしている。しかも叩きつけられるのは地面という平凡さ。ビリーの目線の角度的にも車の上の方が絵になっただろう。 そして、フランク殺害のシーンも、コリンが彼に対する尊敬の念を感じさせない状況で殺害しているので、カタルシスを全く生み出していない(本来はここでコリンがフランクの呪縛から解放されるという重要なシーンなのだが・・・)。更に、エレベーター内で殺害されるビリーの死を皮切りに始まる殺戮ショー。ビリーが言葉も残さずに死んでいく描写は良いのだが、その後の連鎖殺人の描写がただ殺し合うだけというもったいなさ。 もはや2時間20分も過ぎれば淡い期待なぞ消えうせているので、最後にディグナムにヒットされるコリン暗殺のラスト・シーンも割り切った意味で面白かった(勿論ヌケヌケと生きているという終わり方も良いだろうが、こういった大味な作品にはこういう終わり方こそ相応しい)。ここでコリンは買い物から帰って来たばかりであり紙袋を抱えて帰ってくる。これは冒頭で少年期のコリンが紙袋を抱えて去っていくシーンとの対比である。紙袋を手渡され登場した少年は、紙袋を抱えて殺され去っていく。 ちなみに全ての殺害シーンに「X」の印が登場する。これは『暗黒街の顔役』(1932)へのオマージュである。 最後の最後に登場する市議会をバックにネズミが歩く姿。このシーンこそまさにこの作品の登場人物の姿そのものだった。人間的な感情を持たない登場人物が延々と繰り広げる殺戮ショー(作品内で殺害された人数は22人)とそれに喝采する観客達。何かがおかしくないか?おそらくこれからの世界は、こういった人間味にかける無慈悲な風潮に流れる可能性があるんじゃないだろうか? ■それでも日本アカデミー賞よりは遥かにマシ ![]() 本作は2003年に175万ドルでリメイク権をワーナー・ブラザーズが購入した事から始まった。当初製作者の一人であるブラッド・ピット自身がコリンを演じる予定だったが、年齢的に厳しいという事もあり降板した。そして、9000万ドルの予算をかけて、2005年4月25日から9月15日にかけて撮影された。 結果的に全米だけで1億3200万ドルの興行収入をあげる大ヒットとなり、世界中の興行収入を合わせると2億9000万ドルもの収入をあげる結果となった。そして、もっともスコセッシが興行的に成功した作品となった。さらに2006年アカデミー賞作品賞、監督賞、脚色賞、編集賞を受賞し、助演男優賞にマーク・ウォールバーグがノミネートされた。 ![]() 『インファナル・アフェア』の主役を演じたアンディ・ラウは本作について「ディパーテッドは3部作を繋げ合わせたのはわかるけど、ちょっと長すぎるよね。更に感情がこもってない作品だったね」と答えている。 − 2008年3月17日 − |
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