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嘆きの天使   DER BLAUE ENGEL(1930・ドイツ)
■ジャンル: ドラマ
■収録時間: 107分


■スタッフ
監督 : ジョセフ・フォン・スタンバーグ
製作 : エリッヒ・ポマー
原作 : ハインリヒ・マン
脚本 : ロベルト・リーブマン
撮影 : ギュンター・リター
音楽 : フリードリッヒ・ホレンダー


■キャスト
エミール・ヤニングス(ラート教授)
マレーネ・ディートリッヒ(ローラ・ローラ)
クルト・ゲロン(座長キーペルト)
嘆きの天使
人間が新しい人生の喜び≠覚える時、今の生活が崩壊する危険性が絶えず生まれてくる。しかし、この教授はローラと出会わずに、生徒にも尊敬されず、欺瞞に満ちた名誉ある生活の中に埋没するだけで幸せだったのだろうか?恐らくそんな事はないだろう。彼は温室の中で育てられた教授だった。他人と心を通じ合わせることは出来なかった。だからこそローラと心が通じ合った瞬間に彼の中で何かが弾けた。生真面目なエリートと言われる人間の落とし穴を描いたドラマでもあるが、実際人間らしい心も持たずに生き続けるのなら、一度は堕ちてみた方が人生遥かに有意義になるはずである。ラート教授は心の痛みを知った。そして、死んでいった。しかし、彼はローラと出会わない人生よりも、やはりローラと出会う人生で良かったと思っているだろう。

■あらすじ


ギムナジウムの教授ラート(エミール・ヤニングス)は、堅物として生徒からもバカにされていた。そんな彼が、生徒が夜な夜な押しかけているという安キャバレーを視察することにした。そして、そこで美しい脚を披露しながら、甘い唄を聞かせる歌手ローラ・ローラ(マレーネ・ディートリッヒ)を見て、彼女の魅力の虜になってしまうのだった。


■マレーネ・ディートリッヒ 芸術の第三帝国の始まり


嘆きの天使
マレーネ・ディートリッヒという一つの象徴≠ェ生み出された瞬間。この作品の誕生により女性の美の概念は急激に変わり、
映画という芸術の中での女性の脚線美に対する比重は飛躍的に高まった。

尤もこの作品の後半までのマレーネにはぞくっとするほどの美しさはまだない。どちらかというと脚は細くて長いが、胴回りに肉のついた、1920年代においては美の基準にあてはまったのだろうが、現在においてはスタイルが良いとは言いがたい体つきである。

そして、ルックスも美しいというよりもカワイイ田舎娘という感じである。しかし、後半になると全く違う時期に撮影されたかのようにマレーネに美の輝きが灯される。
つまりラートを冷たくあしらいだした辺りからマレーネが俄然美しさに満ちてくる。それはまさしく監督のスタンバーグが意図した演出なのだが、この作品が撮影された1929年11月始めから1930年1月末にかけて、撮影の順番は物語り通りに進行されている。

つまり本作が本格的な映画デビュー作のマレーネが、後を追うごとに洗練されていく過程を意識的に見せ付けているのである。だからこそ終盤において豹柄のコートを羽織っているマレーネは、凄まじいほどの美の化身と化しているのである。そして、その過程が本作において強烈な説得力になっている。


■世界大恐慌の中から生み出された耽美


1933年にナチス・ドイツ=第三帝国が誕生する寸前に生まれたこの作品。百害あって一利なしだったワイマール共和制下の1929年。空前の世界大恐慌の中本作は作られた。人々は仕事もなく、希望もなく、安キャバレーに通うか、女は体を売ってしのいでいた。そんな時代だからこそ生み出された猥雑な雰囲気に満ちた作品である。

本作において、ギムナジウムに通う特権階級の生徒達の
大人に対する反乱=ワイマール的な高圧的な権威に対する反乱≠ニ、「紗に構えたナルシシズム」が、のちのナチス・ドイツにおける歪んだエリート意識へと転生していくのである。

ちなみに本作は1933年にナチス・ドイツにより上演禁止処置が決定された。原作者がハインリヒ・マン(1933年フランスに亡命し、反ナチ活動を展開する)だったからである。原作は1905年に発表された長編小説『ウンラート教授』である。


■ゲッペルスは昼は同性愛の禁止をがなりたて、夜は女同士の性行為を鑑賞することに喜びを感じていた


嘆きの天使
「死んだカナリヤは、歌をやめたのね」

ギムナジウム(大学進学が出来る良家の息子が通える学校)の教師であるラート教授。ある朝彼の大切にしていたカナリアが死んだ。そして、その日を境にラート教授が歌う事を始めるようになるのだった。

つまらん良家のボンボン生徒と何の変哲もない(人間的な魅力に著しく欠ける)ラート教授。双方とも全く相容れる要素はなく、ただギムナジウムという場所のみが双方を結び付けていた。そして、双方には、完全にラートを人間として認めていない生徒達の覚めた視線と、生徒と人間的な交流をするつもりのないラートの覚めた視線があった。

そんなラートは抜き打ちの視察として、生徒たちが入り浸っているという安キャバレーを訪れる。そして、彼自身がそこのローラ・ローラ(以下ローラ)という歌い手の魅力に参ってしまう。まさにミイラとりがミイラになった結果であり、
ラートという教授と呼ばれている男の本質は、生徒たちにバカにされるだけあって、知性だけが先走った、女性に関しては少年程度の経験しか持たないお粗末さが露呈されるのである。

まさにその象徴的なシーンが、ローラのブロマイドのスカートをヒラヒラと息を吹きかけてさせるシーンにある。

そして、ラートがローラの虜になる過程には、
「人間の拒否反応とは、それに直面した時に肯定することしか出来ないものに対して起こりがちな反応」である場合が多いという皮肉も込められている。


■若さを失いつつある男性は、若い女性の虜になる


嘆きの天使 嘆きの天使
ローラが数曲唄を披露する。特に有名なのが、「また恋したのよ(Falling In Love Again)」だが、私的には『地獄に堕ちた勇者ども』(1969)でヘルムート・バーガーが女装して唄っていた曲(真実の男を求めて・・・≠ニいう歌詞の)の方が良い。

あまり好きではないが、「また恋したのよ」の歌詞には、ローラの本質が歌われている。
私の心は、恋こそすべて。できるのはただ恋。ほかはダメなのローラは恋の火を灯されやすいが、その恋を愛として持続させられない女性。恋から恋へと飛んでいく夜光虫。

そんな彼女に惚れてしまうこと自体は、悪い事ではないのだが、そんな彼女だと理解できなくて惚れてしまう事は悲劇以外の何者でもなかった。私も20代において誰からも外見においては魅力的だといわれる女性≠ニお付き合いし、何回かラートのような経験をした。しかし、ラートはそんな経験を40代後半でしている。それが悲劇的であり、人生の全てを捧げる事態へと発展していかざるをい得なかったのである。

一方ローラはまだ20代である。なぜ若い女性が40代後半の男性の純愛に最後までつき合わされないといけないのだろうか?
公開当時ローラは悪女と称された。そして、現在この作品を見てほとんどの女性は、ローラは悪女でもなんでもないといい放つ。

彼女は、元々ラートを好きになったというよりも、ラートの持つ、今まで会った事のない男性像と、父親のような威厳(見せ掛けにすぎないのだが)に惹かれた。いや正確には惹かれたというよりもちょっと興味を持ったという程度に過ぎなかったのである。そして、それが若さ≠ナある。


■マレーネの微笑と眼差しの魔力


嘆きの天使 嘆きの天使
ラートは二回目の訪問で、アルコールの力もあり、すっかりローラの虜になってしまう。そして、ローラの部屋に泊まってしまい、ギムナジウムの授業に遅れてしまう。しかし、もはや恋に盲目になったウブな中年男性を止めることは誰にも出来ない。ラートは職を辞し、ローラに求婚する。

結婚などというものに何の思い入れもないローラは、あっさりと求婚を受け入れる。そして、新婚生活が始まる矢先にラートは、ローラがセクシーな自分の写真を歌の合間に売り歩いている事を知り、激怒しこう言い放つ「私の貯えがある。こんなものは売るな」と。

「そうしたければそうすれば・・・」と不敵に微笑むローラ。
ここで観客は気づかされる。果たして教授とローラ、どちらが人間についてよく知っているのだろうか?


■未成熟な中年男に惚れられる運の悪さ


嘆きの天使 嘆きの天使 嘆きの天使
ここからの展開が素晴らしい。ラートが売るんじゃないと言っていた写真を、数秒後には(物語の中では数ヵ月後)、ラート自身が客席の間で売り歩いている姿が映し出される。すっかりローラのヒモに成り果てたラート。

そして、それ以上に無残な事実は、ラートは教授という職業により威厳を保っていたが、ヒモになってしまうとそんな威厳は消えうせローラの美しい脚の前にひざまずいて、ストッキングをはかせているという事実である。ココに人間の本質がある。
どんなに偉そうにしている人間も、ほとんどの人間は職業という肩書きの虎の威を借る狐≠ノ過ぎないという本質である。

そして、ラートが教授の地位を失ってしまった後には、ローラ以外何も残されていなかったのである。それを純粋さと呼ぶのか、独りよがりの自己中心的な迷惑と呼ぶのかは鑑賞者の見識に任されるだろう。


■本当の人間の価値を知るための良作


嘆きの天使
結果的に道化師としてドサ廻りの一座と行動を共にすることになったラート。そして、自分の教えていたあの町の(ローラと出会った)安キャバレーで、道化師の興行を行なわないといけないハメになる。かつての教え子や同僚が詰め掛ける中、鶏の真似をしろと言われるラート。屈辱に満ちたその視線を、舞台脇のローラに向けると、ローラは軟派な男と乳くり合っていた。

屈辱の瞬間に更なる屈辱が襲い掛かる。そして、鶏の真似(かつてローラとの結婚披露で二人は鶏の真似を楽しそうに、披露しあい抱き合っていた)を泣き声のような奇声をあげてするラート。もはや言葉もなく鶏の奇声をあげ、舞台脇のローラと軟派な男に突進し、殴りかかり、ローラの首を絞め、拘束着を着せられてしまうのだった。

本当の人間の価値とは、肩書きを失った時に発揮される=Bそういった意味においては、肩書き尊重主義の日本においては、ラートのような人はわんさといるのではないだろうか?


■教育者が陥りやすい危険性


嘆きの天使 嘆きの天使
もはやラートを持て余しているローラ。落ちぶれてもただただローラにしがみつくラート。ローラはどんなにつまらない男であっても、ヒョイヒョイとついて行くくらいに若さを持て余していた。舞台脇から見る彼女の眼差しは、励ましのように見えて、実際の所は蔑みだった。

男にとっては、ローラはラートを励まそうと舞台脇から見ていたと解釈したいが、それは男の論理であり、若い女にとってはラートは足手まとい以外の何者でもなかった。

そして、ラートは狂気の中、昔自分が教鞭を取っていた教壇に倒れこんで死んでいく。生徒にバカにされ続けていた教壇という場所。
ラートは偽りに満ちた生活をしてきた。そして、自分の感情の赴くままに生きた。しかし、偽りに満ちた生活をした場所に戻り死んでいった。

ラートが教壇にしがみついた半生は、ラートに人間としての生きる事との格闘を何ら教えなかった。だからこそラートは逃げるようにして、教壇にしがみつき死んでいった。
本作の最大の皮肉はまさにここにある。教育者こそ人間をもっともよく知らない可能性があるという・・・。


■20世紀最高峰のディーバの誕生


嘆きの天使
主役のラートを演じたエミール・ヤニングス(1884−1950)は、1920年代に『肉体の道・最後の命令』(1928年、スタンバーグ監督)で第一回アカデミー主演男優賞に輝いた俳優である。本作はヤニングスの初トーキー作品として企画され、スタンバーグが監督に指名された。

そして、スタンバーグはかねてからの念願だった『ウンラート教授』を映画化することにする。そして、ローラ役を探そうとする。当初グロリア・スワンソン、レニ・リーフェンシュタール、ロッテ・レーニャ達が候補に上がるが、スタンバーグがどれも気に入らずキャスティングは難航を極めた。

そんな最中ベルリンで大ヒット中のミュージカルを観劇する。そして、ディートリッヒに一目惚れし、早速楽屋を訪れ、ローラ役が決定する。本作の成功によってスタンバーグ=ディートリッヒ・コンビはハリウッドに上陸し、『モロッコ』(1930)などの傑作を作り上げていくことになる。

− 2007年12月28日 −


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