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汚れた顔の天使 ANGELS WITH DIRTY FACES(1938・アメリカ) | |||||
| ■ジャンル: ドラマ ■収録時間: 98分 ■スタッフ 監督 : マイケル・カーティス 脚本 : ジョン・ウェクスリー / ウォーレン・ダフ / ローランド・ブラウン 撮影 : ソル・ポリト 音楽 : マックス・スタイナー / レオ・F・フォーブステイン ■キャスト ジェームズ・キャグニー(ロッキー) パット・オブライエン(ジェリー) ハンフリー・ボガート(悪徳弁護士) アン・シェリダン(ロッキーの恋人) |
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■あらすじ 幼少の頃よりつるんできたロッキー(ジェームズ・キャグニー)とジェリー(パット・オブライエン)。しかし、二人でやった盗みの罪をロッキーが一人で被って更正施設に入れられた時から二人の運命は別れた。15年の月日が経ち悪名高いギャングとして戻ってきたロッキー。一方、ジェリーは、神に仕える身となっていた。 ■お前の方が速く走っただけのことさ ![]() 『海賊ブラッド』(1935)『ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディ』(1942)『カサブランカ』(1942)『夜も昼も』(1946)のマイケル・カーティス監督作品である。本作が製作された1938年とは日本が大陸侵攻真っ盛りの時代である。そんな時代に生まれたこのタイトルは見事の一言である。「ANGELS WITH DIRTY FACES」=「汚れた顔の天使達」。まさに現代でも通用する見事なタイトルである。 話は、青年時代のロッキーとジェリーから始まる。万年筆泥棒をするも警察にロッキーだけ捕まってしまう。逃げ延びたジェリーが面会に来てロッキーに言う「俺も自首しようか?共犯がいれば罪が軽くなるよ」と。しかし、ロッキーは「かもしれんが、お前の方が速く走っただけのことさ」と言って断わる。 ■芸術=無駄な要素を切り落とす勇気 ![]() やがて15年の月日が流れ2人は再会する。ジェリー(パット・オブライエン)は神父として、ロッキー(ジェームズ・キャグニー)は、悪名高いギャングとして。この再会のシーンが実によい。ジェリーが町の子供たちに賛美歌の指揮をしている姿を見つめるロッキー。そして、今や神父とギャングという全く逆の思考の2人が交わす会話の妙。 この作品の見事なところは、ロッキーとジェリー、ロッキーとローリー(アン・シェリダン)という関係を、ロッキーとジェリーを優先することですっぱりとローリーの役割を切ったところにある。恋愛と友情の混合は90分のドラマに詰め込むには混乱をきたす要素になりえるからである。そう無駄な要素を思い切って切り取るところから、全ての芸術作業は始まるのである。映画において、真の意味で悪いことは何かといえば、長いことなのである。 ![]() アン・シェリダン(1915〜1967)『ボレロ』(1934)『栄光の都』(1940)『善人サム』(1948)『僕は戦争花嫁』(1949)。ちなみにアン・シェリダンといえばホワイト・ラムとオレンジ・キュラソーとライムで作るカクテルの名前になったことでも有名である。 ■リアルさよりもファンタジー とにかくジェームズ・キャグニーのしぐさに惚れる。最近のやくざ映画、マフィア映画に最もかけている部分をこの役者は持っているのである。リアルではなくファンタジーとしてギャングを演じていたのであるキャグニーは。ピクルスの瓶を投げて渡したり、パンを少年にバックパスするその姿、物腰のクールさ。こういうものがつまっている映画最近ではそうそう出会えない。映画とはストーリーも大切だが、役者の個性も重要な総合作業の要素なのである。 キャグニーは自伝の中で言っている。『この作品も、当時手当たり次第につくりだされた映画の多くと同じように、台本などあってなきがごとき代物で、役者達が現場で考え出す即興演技で、あちこち継ぎをあててやらねばならなかった』 ■デッド・エンド・キッズ ![]() 1937年ウィリアム・ワイラー監督『デッド・エンド』でデビューした6人組の不良少年グループで、後にB級映画シリーズが作られた。『CRIME SCHOOL』の撮影でも共演したハンフリー・ボガートをさんざっぱら脅かしていた。実際映画会社もキッズ達には自由にカメラの前で演じろといっていたので、その調子で最初のシーンである廃ビルの地下室のシーンで、台本を無視したキャグニーをおちょくったせりふをレオ・ゴーシー(6人組のうちの帽子を被ったいかにも生意気そうな少年)は言ったという。 つぎのテイクの時に、キャグニーはレオ・ゴーシーの鼻っ面めがけて、強烈なパンチを見舞ってこう言い放ったという。「いいか、キッズ、よく聞けよ。俺たちゃここで仕事をやってるんだ。ふざけたまねはお互いにしないようにしようぜ。撮影をやってるときは俺たちはプロだ。やるように言われた仕事はきちんとやることだ。わかったか!」 ■おはよう!今日は殺人日和だよな ![]() パートナーだった悪徳弁護士(ハンフリー・ボガート)に裏切られ殺されかけるも、逆に追い詰める。ジェームズ・キャグニーの迫力の前ではボギーも赤子同然である。ちなみにこの作品の4年後同監督の『カサブランカ』でボギーの人気は爆発することになるのである。それにしても、このボギーの神経質な風貌が実にこすい犯罪者役にマッチする。特にキャグニーの前でボスと話すときに、ウィンクして合図しながら話すシーンでの演技力と存在感はさすがである。 「Good Morning,gentleman. Nice day for murder.(今日は殺人日和だ)」こんなセリフをばしっと決めるスターは、キャグニーしかいないだろう。 ■創造性の欠けた悪徳行為 ![]() いつの時代も同じである。高級ドレス・タキシード・シャンパン・カジノ・眠らない街・・・・・貴族的な行為というものは、得てして創造性の欠けた悪徳行為であることが多いのである。貴族はそれを熟知した上で息抜きをし、貴族にあこがれるものはそれが全てだと勘違いするのである。 そして、のし上がったロッキーは、ジェリーに匿名で1万ドルを郵送する。「(少年達の)レクリエーションセンターに1万ドル寄付します」と。しかし、「汚いお金はもらえない」とロッキーに返しに来るジェリー。「目的のためには手段を選ばずというが、それでは子供はどうなる子供は純粋だ。外にでれば汚職や犯罪が子供を取り巻く。君も含めてだ。子供たちは犯罪者にあこがれ犯罪者を崇拝する。・・・・私が何を教えても無駄だ。楽な道に走る。拳銃が一番早道だ。」 ■キャグニーの魅力 ジェリー神父は子供たちを悪の道の誘惑から救うためにギャング追放のキャンペーンを行い、親友のロッキーを追い詰めていく。そんな中、ロッキーは遂に悪徳弁護士を殺害する。ボギーもこういった役を経て、クールでタフな主役を得るようになったのである。この作品などの『カサブランカ』以前のボギーの作品を見ているとボギーのダンディズムは裏打ちされた演技力の上に築き上げられていることがわかるのである。 警官隊に追い詰められるシーンこそ、キャグニーの真骨頂である。究極の1人芝居を延々と見せていきながらも緊張感たっぷりなのである。そして、脚を撃たれ1人の警官に悪態をつくシーンが最高である。「なんだコイツの持ってた拳銃はカラだったのか・・・」「そうだよ。おまえの頭と一緒でな」と言ってにやり。 ジェームズ・キャグニーは実に文才に恵まれた人で読書の好きな人だった。本来は物静かな紳士であるが、芝居モードに入ると誰よりも激しいギャング・スターであった。20世紀でもっとも偉大なギャング・スターはジェームズ・キャグニーである。しかし、彼のすごいところは、それ以上に踊って歌えるミュージカル・スターであったところである。だからこそ、彼は体全体でギャングを表現し、今に至るまで多くの俳優に影響を与えるギャング像を作り上げれたのである。 つまるところジェームズ・キャグニーの魅力は、奥行きの深さなのである。 ■ラスト・マイル ![]() 死刑を前にロッキーに面会するジェリー神父の口から驚くべき言葉が発せられた。「最後の頼みがある。今だからこそできることだ。電気椅子を怖がってくれ。最後の瞬間に泣き喚いてくれ。これは別の種類の勇気だ。天国で生まれる勇気だ。英雄的行動とは違う君と私と神だけが知る勇気だ。ロッキー。ここに来る時子供たちに頼まれた。お手本になる死に方をして見せてくれ。怖がらずに、笑って・・・≠ニ。その期待を裏切ってくれ」 ロッキーは言う「俺の最後の砦を捨てろというのか?人生の最後を飾るのになんて事を頼むんだ」と。ジェリーの頼みを断りながら、電気椅子へと向かうロッキー。The Last Mileである。キャグニーはこの瞬間の芝居のために2キロやせて臨んだという。 ■私より速く走れなかった少年のために祈ろう そして、電気椅子の前で殺さないでくれと見苦しく泣きもがくロッキー。彼はジェリーの頼みを聞いたのだった。このロッキーの見苦しく暴れる姿をシルエット越しに演出するセンスはさすがである。舞台と映画の違いは、実際に見せるか実際に見せないかの違いでもあるのである。そして、パット・オブライエンもまた最高の芝居を見せてくれるのである。 ロッキーの死を新聞で知った6人のキッズ達はジェリー神父に尋ねる「神父様。教えてください。ロッキーの死に様は?臆病でしたか?本当に?」と。その質問に対しジェリーは静かに答える「本当だよ。新聞のとおりだ。臆病者だった。さあ行こう。私ほど速く走れなかった少年のために祈ろう」と。 ■文句なしに感動的なギャング・ムービー これほど素晴らしいギャング映画はなかなかないだろう。キャグニーの魅力もさることながら、パット・オブライエンがかなりよい。ボギーは配役的には実に小悪党な役だが、そんな役でも輝くオーラで包まれている点はさすがである。最後のロッキーが死刑を宣告されてからの展開のシャープさは、見事すぎるほど見事である。最近の長くてくどくどと説明の多いアカデミー賞級の作品に比べて、この時代の作品はいかに切れ味が鋭かったかがよくわかる。特に人を見下すような横柄な看守達に連れられて最後の道のりを歩いていくロッキーの描写がすごくよい。 最後の電気椅子のシーンでジェームズ・キャグニーは、本当に臆病風に吹かれ見苦しくもがいたのか、親友の神父のためにああしたのかわざとあいまいに演じたらしい。観客がどちらでも解釈できるようにということである。 − 2007年5月2日 − |
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