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ダーティハリー DIRTY HARRY(1971・アメリカ) | |||||
| ■ジャンル: アクション ■収録時間: 103分 ■スタッフ 監督・製作 : ドン・シーゲル 脚本 : ハリー・ジュリアン・フィンク / R・M・フィンク / ディーン・リーズナー / ジョン・ミリアス 撮影 : ブルース・サーティース 音楽 : ラロ・シフリン ■キャスト クリント・イーストウッド(ハリー・キャラハン) アンディ・ロビンソン(スコルピオ) レニ・サントーニ(チコ) ハリー・ガーディノ(ブレスラー) ジョン・ヴァーノン(市長) ジョン・ラーチ(署長) |
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■あらすじ サンフランシスコの高級マンションの最上階のプールで水泳中の女性が狙撃され殺された。狙撃した現場のビルに残されたメモ。そこには「市当局が10万ドルを払わないと、毎日1人殺害することになる スコルピオ」と書かれていた。スコルピオを逮捕するために、1人の腕利き刑事が選ばれた。その名はハリー・キャラハン(クリント・イーストウッド)通称「ダーティハリー」だった。 ■ダーティ・ハリーが、現在ほど求められる時代はない! ![]() 1970年代始めアメリカ社会から膿のような「ダーティ」なものが湧き出したこの時代に、1人の刑事が誕生した。その名も「ダーティハリー」。汚い仕事を片付ける損な役回りを引き受けることからそういうあだ名がついたのだが、この時期のアメリカは、麻薬、貧富の差、性犯罪、幼児虐待、性的虐待、教育の荒廃、政治家・官僚の腐敗といったものが、ベトナム戦争に対する疑問と共にどっと噴き出した時代だった。それは1950年代からもてはやされた汚れた心を持つ綺麗に着飾った人たちが生み出したものであった。 顧みて現在、拝金主義が蔓延り、人の顔を見たら「金、金、金」のたかり根性丸出しの守銭奴たちが、綺麗に着飾ったその心の貧しさが目立つからこそ、この作品は見ていて爽快なのである。人間にとって、当たり前のことをこなすよりも、誰もが嫌がるようなことをこなす方が遥かに価値があるんだぜと。 「街並みの汚さに反比例して、人々は着飾り、子供までも着飾っていく。しかし、街はゴミにまみれている」これが現在社会の汚染の度合いである。たとえ形だけ綺麗にしたところで、周りの環境から汚染されていくと全く意味をなさなくなるのである。現在のアメリカがいい例だろう。 ■ダーティ・ハリーは社会に対して潔癖症だった そう、この作品においては警察官僚や市長のその利己主義こそが、最もダーティであった。こういうヤツラに首根っこを掴まれながらも連続殺人犯スコルピオ逮捕に奔走する「ダーティハリー」。そのダーティさは社会の膿を放置しない掃除夫としての汚さだった。 男だったら迎合するんじゃなくて反発する必要のあることには反発しなよ!長いものに巻かれて生きて何が男だ?そして、周りの風評を恐れて何が男だ?このダーティハリーの格好良さは、もし自分自身がそうあだ名されたら到底我慢できそうにないあだ名を笑い飛ばしているところにある。 ダーティ・ハリーは社会に対する潔癖症であり、だからこそ夜の闇に紛れ込み、その潔癖症の嗅覚を働かさざるを得なくなるのである。だからこそそんなハリーの姿に、どんなに強引であっても共感を禁じえないのである。 ■『ブリット』で始まり『ダーティ・ハリー』で完成したその形 ![]() この作品のオープニングからして、その緊張感が只者ではない。ライフルの銃口のアップとスコープで覗き込む豪華マンション最上階のプールで泳ぐ美女の姿の対比。そして、ラロ・シフリンの不協和音たっぷりなスコア。やがて一発の銃弾が放たれプールに浮かぶ死体と成り果てた美女・・・ 一転しその死体を検分するハリー・キャラハンの登場。どこまでもが、コイツの格好良さをバックアップしている。ヒーローとは周りから支えられ作り上げられるものである。そして何よりも音楽が重要である。時に女のコーラスをかぶらせ実に素晴らしい70年代らしいスコアである。 優等生風の赤のセーターに肘パッチのジャケット。レイバンのグラサンをつけてガムを噛みながらハリー・キャラハンが登場したその瞬間に刑事映画の全ての概念は書き換えられたのである。この作品から不良刑事の活躍するアクション映画の図式は始まるのである。そういった意味においては歴史的作品である。 ■ダーティ・ハリーには孤高さがあった ![]() 「誰かにこのことを話したか?細君、恋人、友達・・・」(市長) 「誰にも」(ハリー) このセリフがハリー・キャラハンの魅力を伝えている。彼には話す相手なぞ元々いないのだ。この孤独感を無表情に押し隠せる男のやせ我慢振りが、ハリー・キャラハンの魅力であり、このころのハリーには女臭さが全くしないところがまた魅力的だった。 「裸の男がナイフを持って女を追いかけてりゃ、まさか赤十字の為の募金活動とは思わないだろ?」 と市長に言い放ち去っていくハリー。そして、なじみのホットドッグ屋でホットドッグを食いながら、銀行強盗を逮捕するのである。この作品、スコルピオとの対決以外にも、ハリーのキャラ付けをする挿話が多く挿入されているところがまた魅力的だった。そして、本作が大ヒットし、シリーズ化されるにつれて魅力が失われていったのもそのキャラ付けの必要のなさを持て余したが故だろう。 ■それでもオマエは幸運に賭けてみる勇気があるか? ![]() 「オマエが考えてることを当ててやろうか?この銃には弾が6発入る。俺が全部弾を使い果たしたかどうか考えてるんだろ?実を言うとオレも撃ちまくったので覚えてない。しかし、この銃は世界で最も破壊力のあるマグナム44だ。弾が残っていたらオマエの脳みそは跡形もなく吹っ飛ぶ。それでもオマエは幸運に賭けてみる勇気があるか?どうだ?チンピラ」 銀行強盗の生き残りを追いつめてハリーが吐くセリフの格好いい事。逃走を諦めた銀行強盗を逮捕し、去っていくハリーにこの強盗は聞く。「へい!どっちなんだ」マグナムを男に向け撃つハリー。空だった。このセリフを始めジョン・ミリアスが脚本で考え出したセリフがとても良い。 実はこの時に、ハリーは二発の銃弾を足に食らっていたのだが、警察病院で「赤チン塗ってくれ」と一言。もうこの時点でほとんどの観客をハリーは虜にしているのである。刑事モノはアクションではなくセリフと仕草で作り上げられた魅力的な主人公の造形があって始めて見ている側も惚れ込むというものである。 ■自殺志望者は冷たくあしらえ! そして、「ダーティハリー」のキャラ付けの信憑性の積み重ね作業の極め付けである投身自殺をしようとしている男に言うこのセリフ。 「死にたきゃ勝手に死ね。頼むから俺を道ずれにしようとすんなよ!」 「止めないのか?」 「そんな気さらさらないよ。ただな飛び降りたらぐちゃぐちゃになって身元が分からなくなるから今のうちに名前と住所教えといてくれ」 そして、無事救出したハリーが、相棒にこう言う。「俺はな汚い仕事専門だからみんなはダーティハリー≠ニ呼ぶのさ」。実に素晴らしい脚本の組み立てである。練り上げられた複雑な構成の脚本ではないが、狙いは全てはずしていないところが見事である。 ちなみにこの自殺を食い止めるシーンと、ハリーが公園でホモに迫られるシーンの撮影をイーストウッド自身が監督代行として行っている。丁度この時シーゲルが風邪で寝込んでいたためである。イーストウッドは一週間の撮影予定のこれらのシーンを一晩で撮りあげたという。 ■なぜか「黄色」にこだわるスコルピオ 神格化するためには、神に対する強敵の存在が、いつの時代にも必要とされた。 スコルピオの存在である。ベトナム帰還兵であるこの男が、今見ても全く見劣りしないほどに、緻密に精神異常者なのである。彼は作品の中で分かっている次元においてでも以下の異常行為を行っている。 1.ゴルゴ13並みに、プールで泳ぐ黄色い水着を着た美女を狙撃して殺す 2.アイスクリームを食べるホモカップルのうちのオカマの黒人を狙撃しようとするも未遂に終わる 3.スラム街で10歳の少年を殺害する 4.教会の神父を狙撃しようとするも未遂で終わる 5.14歳の白人少女を誘拐し、強姦した上で殺害する。しかもペンチで歯を抜いている 6.身代金を黄色いバッグに入れさせ、それを運ぶハリー・キャラハンを殺そうとするが、同時に足を刺される。その時にハリーの相棒に銃弾を浴びせ病院送りにする 7.黒人の殴り屋に200ドルを払いボコボコにされる 8.酒場のオヤジを襲撃し拳銃を奪う 9.子供7人の乗る黄色いスクールバスをバスジャックし、子供に暴行を加える 10.釣りをしていた少年を盾にして、ハリーからの追跡をかわそうとする と言った具合に、その精神異常ぶりは凄まじくまさに鬼畜そのものである。こうして羅列すると不思議なことにスコルピオの行動が、ハリーの行動以上に実に詳細に描かれているのである。そして、この精神異常者を応援するかのように、夜の街にはストリップ・クラブ、エロ本ショップ、オヤジ狩り連中、乱交カップル、売春婦で溢れかえっている。 この時期のドン・シーゲルは何よりも「アメリカの病んでいる」姿を描き出したかったのだろう。そんなダーティアメリカだからこそ、ハリーも汚れながら戦うしかないのだった。しかし、この「黄色」にこだわるスコルピオの理由のなさが逆に気味悪い。 ■これほど猟奇的犯罪者の本質を描いた作品は他にない ![]() スコルピオが強姦した上で殺した裸の少女がマンホールのような穴から引き上げられる望遠ショットの無常観。子供の頃ゴールデン洋画劇場で見て、かなりトラウマになった。しかし、ある意味スコルピオは、現在ますます増える猟奇的犯罪者の姿そのものではないか?しかも今だこのリアルな造形を超える殺人鬼が登場する作品を見かけないほどに・・・その現実感が今見てもぞっとさせる由縁だろう。 この完膚なきまでに社会的な弱者を狙い殺していくスコルピオが、スタジアムでハリーに追いつめられ、足を撃たれ「コロサナイデクレ〜〜!」とヒィ〜ヒィ〜泣き叫ぶその姿。実際の精神異常者はこういう卑劣極まりない性質なんだろう。だからこそ少女や幼児を狙うのである。 そして、ハリーが傷ついたスコルピオの足を踏みつけていたぶるシーンで、スコルピオの悲鳴が響く中、カメラがだんだんと引いた絵になっていき、スコルピオの記憶が飛んでいくかのように空の彼方の別世界にフェイドアウトしていくのである。この描写はある種当時としては、そして今でも斬新な撮影技法だったはずである。この絶望的なまでのスコルピオの孤立無援振りをカメラワークで表現することが、皮肉な救いを生み出しているのである。
■アンドリュー・ロビンソン ミランダ警告をしなかったことにより放免されたスコルピオを逆ストーカー状態でつけ回すハリーの姿に恐れおののいたスコルピオは、執拗なハリーの影を追い払うために“黒人の殴り屋”に200ドル支払ってボコボコに殴らせる。そして、「ハリー刑事に暴行された」とマスコミを利用するのである。しかし、この黒人の殴り屋って・・・本当にこういう職業今もあるのか?ある意味『ファイトクラブ』を思い出すよな。かなり不気味なシーンである。そして、最後にスクールバスをバスジャックするスコルピオなのだが、子供に歌を歌わせ、「おうちに帰りたいよぉ〜」と言う子供をグーパンチでしばきあげる筋金入りのキチガイ振り。ここまでいくと芝居のレベルを超えてるよな? ここでこの当時サンフランシスコを実際に震え上がらせていた連続殺人鬼ゾディアックをモデルにしたというスコルピオを演じるアンドリュー・ロビンソン(1942− )について記そう。この人のこの精神異常な芝居は、多分に遺伝的なものが含まれている。彼の実母は、彼が3歳の時に父が死亡したことで発狂し、精神病院に入院させられ余生を過ごしている。そして、彼自身も精神病院に若年の期間を過ごしているのである。こういうと御幣があるが、あの目つきはやはり常人では出せないレベルなのである。 しかし、勉学には秀でていてフルブライト奨学金により演劇を勉強し、卒業後舞台で演じているところを本作のキャスティング・ディレクターを担当していたピーター・ハイアムズ夫人に認められスコルピオ役に抜擢されることとなった。実生活においては1970年に結婚した妻との間に1人の子供がおり、大変な子供好きで、小学校で演劇を教えたりもしていたという。 ちなみに当初この役柄はオーディ・マーフィー(第二次世界大戦で250人殺害し33個の勲章を手にした戦争の英雄であり映画スター。彼はこの戦争時の悪夢に生涯悩まされ、寝る時に枕元に必ず拳銃を忍ばせていたという)にオファーされていたが、飛行機事故で死去したことによりロビンソンが役を手にしたのだった。この作品の撮影終了後に殺人予告電話が殺到したという。そして、この作品以降ロビンソンは、「オーディションを受けに行っても、僕を入出させない人もいたんだ」というくらいこの役柄のイメージが彼に付き纏ったという。 ■「Do I feel lucky? Well, do ya, punk?」 ![]() スコルピオの乗っ取ったスクールバスの軌道上の陸橋に立ちはだかるハリーのその格好良さ。独り佇むその姿はまさに西部劇そのものである。そして、バスの上に飛び降りるのである。ちなみにこのシーンを始め全てのスタントをイーストウッド自身でこなしている。 最後の最後に釣りをしていた子供を盾に取りスコルピオは逃げ延びようとするが、無情にもハリーは子供を気にせずにマグナムでスコルピオの肩を狙い撃ちする。その隙に人質にも逃げ去られ、川辺に追いつめられたスコルピオにハリーが前半で銀行強盗に言ったセリフと全く同じセリフ「俺が全部弾を使い果たしたかどうか考えているんだろ?」を吐き捨てるのである。そして、「どうだ?チンピラ!」の一言に反応してしまうスコルピオ。冒頭でプールで美女を射殺した男は、川べりで射殺され、水の中で死を迎えるのである。まさに因果応報、水で殺した男は水で殺されるのである。 そして、自分の誇りでもある警察のバッジを川に放り投げるハリー。本作の大ヒットに伴ないシーゲルは、続編の依頼をされたが断ったという。彼の中ではこれでもうこの作品は完結していたのだった。そして、私の中でも「ダーティハリー」はこの一作だけである。 ■難航したハリー・キャラハンのキャスティング ![]() この作品は、銀行強盗を挑発するシーン以外は全てオールロケで撮影された。このことが刑事ドラマのリアリティを生み出しているのだが、明らかに同じくサンフランシスコでオールロケの中作られたマックィーン主演の刑事映画の傑作『ブリット』(1968)を意識してのことだろう。そして、何よりもこの作品から注目を浴びたのがハリー・キャラハンの使用するスミス&ウェッソン製の44マグナムである。 ハリー・ジュリアン・フィンクとリタ・M・フィンク夫婦が、この作品の原案を書き上げた当時サンフランシスコではゾディアック事件が世間を恐怖に陥れていた。そんな風潮の中「犯罪者以上に凶暴な刑事の存在が必要だ!」というかなり安直な発想の中この作品の構想は練られた。 ハリー・キャラハン役は当初フランク・シナトラで考えられていたが手のケガを理由に降板した。そして、スタジオ(ワーナー)は、夫婦の反対を振り切りコメディ・タッチでウォルター・マッソーを抜擢しようとしたが、それも挫折し、本来の脚本でジョン・ウェインに出演を依頼した。 しかし、ウェインは、あまりにも粗野すぎる役柄と現代劇に対する不安から出演を断る。(本作大ヒット後、役柄を受けなかったことを悔やんだジョン・ウェインは1975年に『マックQ』を撮った)そして、次にポール・ニューマンにオファーを出すが、同じく役柄に抵抗を感じ、イーストウッドを推薦した。そこで、イーストウッドは監督にドン・シーゲルが担当するという条件で引き受けた。 結果的に低予算で作られたこの作品は2800万ドルの興行収入をあげ、1972年全米興行成績第5位に輝いた。 ちなみに1972年にオーストラリアで映画公開されたすぐ後にこの作品の内容をまねた犯罪が起きた。『ファラデイ・スクール誘拐事件』である。1972年10月6日、オーストラリアのヴィクトリア州で2人の男が小学校構内で、先生と6人の生徒を拳銃をつきつけ誘拐し、100万ドルの身代金を要求した。しかし、人質全員に逃げられダサく逮捕され15年の刑に処された。2人のうちの一人の名前はエドウィン・イーストウッドだった。そして、彼は1976年12月に刑務所から脱獄し、1977年2月に再び小学校で誘拐事件を起こすがまたもや逃げられ、足を撃たれ再逮捕された。そして、21年の刑期が追加されることとなった。フェラデイ・スクール誘拐事件は1986年にレイチェル・ウォード主演でテレビ映画化された。 − 2007年8月29日 − |
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