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太陽はひとりぼっち   L' ECLISSE(1962・イタリア/フランス)
■ジャンル: ドラマ
■収録時間: 124分

■スタッフ
監督 : ミケランジェロ・アントニオーニ
脚本 : ミケランジェロ・アントニオーニ / トニーノ・グエッラ / エリオ・バルトリーニ
撮影 : ジャンニ・ディ・ヴェナンツォ
音楽 : ジョヴァンニ・フスコ

■キャスト
モニカ・ヴィッティ(ヴィットリア)
アラン・ドロン(ピエロ)
フランシスコ・ラバル(リカルド)
リッラ・ブリニョーネ(ヴィットリアの母)
ルイ・セニェ(エルコーリ)
ミレッラ・リッチャルディ(マルタ)
太陽はひとりぼっち
「いまだに感情を信じない人間を主人公にしました」ミケランジェロ・アントニオーニ
それがこの作品を評するに値する最高の言葉。

■あらすじ


真夏のローマ。翻訳家のヴィットリア(モニカ・ヴィッティ)は外交官のリカルドとの婚約を解消した。そして、ヴィットリアは、証券取引所で働く仲買人のピエロ(アラン・ドロン)と時を過ごすようになる。やがて彼に抱かれ、相思相愛の甘い言葉とデートの約束をお互いに囁きあいながら別れる。しかし、二人とも待ち合わせ場所に姿を現さなかった・・・


■分からないから、人間には死が存在する


モニカ・ヴィッティ 太陽はひとりぼっち
「分からない・・・」

という言葉が、実は「分かった」よりも曖昧ではない明確なる答えだということに気づかされる映画。
「分からない」事から人生は始まり、やがて「分かり」、そして、また「分からない」になる。

そして、この作品の主人公も、何かを分かろうとする気力さえも失い、分かることすら無意味なんだろうということに薄々気づいてしまっている。もはや彼女は流れに身を任せることも出来ずに、倦怠の中を生き、「分からない」気分を引きずりながら、誰も愛さず誰にも愛されず、誰も理解せず誰にも理解されず、静かに舞台から降り去っていくのだろう。


■「退屈」な人間の物語を描くことにより、観る側に恐怖を感じさせる


繊細に自分を見つめなおした時。そして、周りの関係を見つめなおした時。自分自身に倦怠が襲い掛かってくる始まりになる。
全ては調和が重要。いわゆるバランス感覚。これを失った時全てに新鮮さが失われ、急激に腐食してゆく。

本作の原題は「月蝕、日蝕、失墜」。そう、その意味するところは、愛が生み出した声=音に意味を求めた繊細な現代人が、合理的な資本社会の中に、明確な答えを見いだそうとしたが、整理整頓された都市の喧騒の中にも何ら答えは見いだせなかった失望感。

そして、
「分かりたい」という強迫観念が、その人本来の輝きを覆い隠し、ただただ退屈な人間に変えていくその姿。映画の退屈さと同じくらい退屈な女ヴィットリア。リカルドも執着しない実に退屈な女にピエロもまた、執着はしなかった。


■二人の空間が二分割されている冒頭


太陽はひとりぼっち 太陽はひとりぼっち
『月影のナポリ』のミーナが熱唱する軽快なツイストが流れる中、その音楽は急に耳をつんざくばかりの不協和音で押しつぶされる。何か警告を発するかのようなその音の響き。

う〜〜ん。退屈・・・まだあなたはいるの?それとも私が出て行けばいいの?

「いつから愛が消えた?」リカルド「本当に分からないの・・・」ヴィットリア


私たちの後ろにそびえるあの建物は、<終焉の象徴>だろうか?そして、一つの部屋で別の出口を求め彷徨う二人。
「明確な答えを求める男」と「分からないまま立ち去ろうとする女」。その行動が答えそのものだった。しかし、女にも男にもそれは分かっていない。


■芸術家とは、必要を削ぎ落とし、不必要を膨らませたがる人種


太陽はひとりぼっち モニカ・ヴィッティ
私は、自分の半分しか誰にも見せようとは思わない・・・

柱越しのヴィッティとドロンの配置。
アントニオーニにとって、俳優とはオブジェであり、最も高級なオブジェである。そして、その配置によって人間心理の深層を掘り下げていく。

柱越しに身体を仰け反らせて会話する二人。別にそうする必要はないのだが、そうする。それが映画に深みを与えてくれる。会話よりも表情と体の動き、そして、二人の対峙関係により物語を紡ぎだしたことが、アントニオーニを芸術家たらしめた事実なのである。


■もはや人間に対してはときめかないある種の人々を描く


太陽はひとりぼっち 太陽はひとりぼっち
「テーブルもクロスも本も男と同じ、すぐに飽きが来るのよ」

私は倦怠している・・・でも何かに執着したい・・・


二人の男女ヴィットリアとピエロは淡々と別れていく。しかし、この男との出会いは、確実に彼女の倦怠に満ちた心を波打たせていた。そして、彼女は、アフリカの原住民の様相で踊り狂う。熱狂・・・しかし、その踊りから原住民に対する卑下を感じ取った友人は「もうやめて」と熱狂を無残に打ち砕く。

「彼らは幸福を追求せず、自然のままに生きている」

倦怠する人にとって、唯一の救いは熱狂のみ・・・動物の芸、揺れる大きなポール・・・彼女の心はもはや人間に対してはときめいていない。


■今の世の中、落ち着いて何かいいことがあるのかい?


太陽はひとりぼっち 太陽はひとりぼっち
「じゃあ、株で損した人のお金はどこへいくの?」株に対するヴィットリアとピエロの一連の会話そのものが恋愛に対する対比でもあるのだ。株価の上昇・下降と同じように恋愛も唐突に始まり、唐突に終わりを告げるものである

「落ち着きのない人」ヴィットリア「落ち着く必要があるかい?」ピエロ

倦怠を感じてる私は、落胆している人間に興味が湧くの・・・


株の投機によって、巨額の富を得ていたヴィットリアの母は、暴落により一瞬にして破産する。そして、同じように破産した男の後をつけてみるヴィットリア。男はアスピリンを飲み気を鎮めながら、紙切れに花の絵を描いていた。

アントニオーニは、ことあるごとにインタビューでこう言い放っている。
「私には、お金を崇拝する趣向はない」と。お金はただの天下の回りモノであり、男女の恋愛さえも天下の回りモノなのかもしれない。

ちなみに証券取引所の熱気は、実際にそこで働いている全員を雇って現場の熱気が再構成されたという。


■退屈すぎる・・・だから、愛の代用品を見つけてそれにすがりつく


太陽はひとりぼっち 太陽はひとりぼっち
「向こう側でキスする?」ピエロ

新しい男の存在に、心のときめきを隠せないヴィットリア。スプリンクラーの水を指で弾いたり、指笛の悪戯をしたり、風船を飛ばして射撃させたり・・・。しかし、あと一歩踏み込む気のしない彼女。

キスをした時点からその恋愛は終わりに近づいてくの・・・

心のときめきよりも、肉体的な欲望を満たしたい思いに駆られている男。二人のギャップが、男には征服欲を、女には悪戯心を呼び起こさせる。しかし、
それって愛?いやただの退屈しのぎに過ぎないのだろう。


■いつの時代も男は女から無邪気さを奪い去る


太陽はひとりぼっち 太陽はひとりぼっち
「人はなぜ質問ばかりするの?愛し合うのに互いを知る必要ないわ。愛し合う必要もないかも・・・」

ガラス越しのキスのあと本当にキス・・・。ガラス越しのキスに没頭でき、本当のキスには没頭できないヴィットリア。相手の温もりを直接感じるよりも間接的に感じたい自分。「無邪気な恋愛」がしたいの・・・でも大人になると男は女性にそれを許さない・・・


これが倦怠の理由の全てだった。男はどれもほとんど同じ。まず唇を求め、身体を求めるだけ・・・。


■倦怠とは、情欲に対する渇望の疼きである


太陽はひとりぼっち 太陽はひとりぼっち
「明日会おう 明日もあさっても」ピエロ
「次の日もその次も」ヴィットリア
「その次も」ピエロ
「今夜も」ヴィットリア
「8時にいつもの場所で」ピエロ


しかし、カップルの時間は終わり、8時に二人共現れなかったそのいつもの場所が無機質に映し出される。そして、FINが唐突に現れる。二人の恋愛は倦怠の中で終わり去った、かもしくは一時休止した。そして、この作品は、
感情のない人間を描いた作品ではなく「感情を信じない人間」を描いた作品だった。

しかし、彼女の倦怠も、一瞬の熱狂を求め、ピエロへの電話という行為に駆り立てるのだろう。二人が再び口づけを交わすことだけは間違いない。そして、二人は成熟した何者かになっていくのである。アントニオーニの見事さ。
それは倦怠に満ちた女は、実際の所、内面は情欲に対する渇望で疼いているという本質を描ききった所にある。


■芸術とは激情を静かな流れに放流する行為である


太陽はひとりぼっち 太陽はひとりぼっち
本作は、1962年度カンヌ国際映画祭審査員特別賞を受賞した。イタリア国内での評価よりも海外において評価された作品であり、特にアントニオーニ自身も認めるように日本で大ヒットしたという。

本来アントニオーニは、本作を二本の映画として製作したかったと言う。一つはヴィットリアの立場から見た作品と、もう一つはピエロの立場から見た作品としてだった。

− 2007年11月6日 −


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