HOME
■サイト内検索

■洋画
 □カタカナ順
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
 □クラシック
 □ドラマ
 □コメディ
 □サスペンス
 □アクション
 □ポリス
 □スパイ
 □犯罪
 □カー
 □ミュージカル
 □史劇
 □文芸
 □戦争
 □西部劇
 □アドベンチャー
 □パニック
 □ギャング、マフィア
 □SF
 □ホラー
 □スポーツ
 □香港
 □ドキュメント
 □アニメ
 □エロス
 □B級
 □アカデミー賞
 □カンヌ映画祭
 □ヴェネチア映画祭



■邦画
 □ひらがな順
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
 □名作
 □ドラマ
 □喜劇
 □サスペンス
 □アクション
 □刑事
 □時代劇
 □戦争
 □文学
 □パニック
 □東映ヤクザ
 □ギャング、ヤクザ
 □特撮
 □怪奇
 □ドキュメント
 □アニメ
 □エロス
 □B級
 □海外映画祭受賞
駅 STATION   (1981・東宝)
■ジャンル: ドラマ
■収録時間: 132分

■スタッフ
監督 : 降旗康男
脚本 : 倉本聰
撮影 : 木村大作
音楽 : 宇崎竜童

■キャスト
高倉健(三上英次)
倍賞千恵子(桐子)
いしだあゆみ(三上直子)
烏丸せつこ(吉松すず子)
根津甚八(吉松五郎)
田中邦衛(菅原)
永島敏行(三上道夫)
駅 STATION
高倉健が自分だけに適応される恐るべき演技メソッドを熟成させた作品。彼がこのイメージを作り出したことが、演技の幅を狭めたという批判は全く的を得ないものである。「スーパーマン」という作り上げられたイメージに俳優が合わせていく作業と、健さんが自らあるイメージを作り上げた作業の差には天と地の差があり、役者自身が自分のイメージをそういった形で作り上げることは奇跡的なことである。

■あらすじ


1968年1月、刑事であり射撃のオリンピック強化選手でもある英次(高倉健)は妻直子(いしだあゆみ)の一回の不実を許せず別れる。そして、時は過ぎ、1976年夏、赤いスカートの女性ばかりを強姦して殺害している吉松五郎(根津甚八)の妹すず子(鳥丸せつ子)を張り込みする英次。事件は解決し、そして時は過ぎ、1979年12月30日、駅のホームで一人佇む女の姿があった。その夜ふと居酒屋の暖簾をくぐるとその女桐子(倍賞千恵子)がいた。


■降旗康男と倉本聰


駅 STATION
降旗康男の演出と倉本聰の脚本には物足りなさを感じるが、どうやらこれは意図的なことのようだ。時折見える生活観から浮き上がった芝居臭い演出も実に巧妙に意図されたものである。
つまり彼らにとって映像を風化させないためにも、見ている側の消化不良を生み出すことを意図しているのである。だから本作は一回見る限りにおいてはカタルシスはない。

何回も見て噛み砕いてくれと意図した作りである。見ている側は1回目はストーリーを追い、2回目は人物を追い、3回目は風景を追うという風に、1回だけでは喉に刺さった骨のような感覚を与えさせる意図を彼らは作品を作るにおいて念頭においているのである。

つまりこの才能溢れる二人は、反復させることによって見ている人々自身の肉づけによって作品の価値を高めてもらおうと意図する二人なのである。だから物足りなさを残すのである。



■高倉健の本当のスター性


高倉健
高倉健50歳。そして、この魅力。『東映』時代らしからぬこの健さん像はこの作品から作り上げられたと言う人も多いが、実際本作の多くの演技の中には、東映時代的なすっとぼけぶりなども見受けられ、やはりあの時代の積み重ねが合ったからこそこの健さん像は作り上げられたと実感する。

背中で言葉を語る名優の一人であり、一種渥美清的であり、その存在自体がもはやオリジナルとである。東映時代からの健さんが変貌した部分は、
驚異的なほど演技メソッドからかけ離れた素人芝居を見せつけるところである。そして、高倉健という勤勉家の天才性はここに隠されているのである。

『花と嵐とギャング』や『網走番外地』などを見ても、芝居はうまいわけではないが、どんなダサい役柄でもその場の空気を一身にさらってしまう魅力があるのである。しかし、その魅力がやくざだけに固定してしまうことを恐れ、打開する方法について健さんは熟考したことだろう。そして、1970年代後半から彼は究極の演技メソッドである
「針の穴に糸を通すような芝居」をし始めたのである。

つまりこういうことである。
舞台には決して適応されない映画の為だけの芝居をするのである。健さんの恐ろしいところは、映画の為だけに必要なこと。つまり演劇はよく話し、映画はよく話す必要がなく、テレビもよく話し、映画は良く話す必要がなく・・・というように削ぎ落としていったところにあるのである。

それは
健さんの到達した領域「静」の芝居の誕生である。この「静」の芝居に必要なものは、きざに見えないように周到に不器用さで包み込むことが重要であることを健さんはいち早く考え、自分を不器用が許される炭坑や雪国、漁師、前科者と言ったキーワードに同化させることにした。

健さんはつまり「静」「不器用」→「素人芝居」という本人のみ実績可能な演技メソッドを年輪の中から編み出したのである。
だからこそ「ジュリーはアイドル」が流れようとリーゼントの宇崎竜童が出てこようとも、それすらも心地よく感じさせてくれるのである。

そう彼の本当に凄いところは、健さんは地味な役柄であっても輝ける役者なので、その分周りの風景、共演者が否応無しに輝けるところにあるのである。ここに彼が最後のスターといわれる所以があるのである。つまり健さんと共演すれば八百屋のオヤジでさえも輝けるのである。


■倍賞千恵子はある意味において渥美清を超えた


倍賞千恵子40歳。『男はつらいよ』という国民的な人情喜劇シリーズを通して、彼女は渥美清という人間と密接に関わり、さらに多くの女優と関わることになった。このことにより元々松竹で色々な役柄を演じることを得意としていた彼女は、70年代以降『男はつらいよ』以外の作品の方が魅力的であると見ている側に感じさせる名演を連発する。

本来倍賞千恵子は、究極にキュートな風貌の女性で、20代の彼女は、道を歩いているとそのゴージャスかつ可愛らしい風貌に誰もが振り返るような類の美人だった。そして、30代になって、大人の色気が加わるにつれてその色気が、『男はつらいよ』で彼女がミニスカートをはかなくなると同時に封印されていくのである。

このさくらの封印されたイメージが、こういう作品に出演することによってどっと発散されるのである。まさに
国民的色気のない綺麗なお母さんである彼女が、色気漂う女に変貌したその役柄に見ている側は当初、違和感を覚えつつも欲情させられるのである。

そして、ここからが倍賞千恵子の恐ろしいところなのだが、ものの2分もすれば見ている側もすんなりとさくらを忘れ、「舟唄」を聞きながら英次にしなだれかかるその色気で、もう桐子という1人の女を受け入れるのである。この確固とされた演技力は、ある意味メリル・ストリープ的である。


■この幸の薄そうな健気な笑み


いしだあゆみ
いしだあゆみ33歳。この人を見るといつも『北斗の拳』のユリアを思い出す。彼女が出演しているのはわずか冒頭の約3分である。正確には回想シーンなどで同じ冒頭の映像が繰り返し使用されているのでそれ以上になるが、わずか数分には変わりない。それだけの出演で印象を残した理由は明確に脚本の良さといしだあゆみ自身の魅力が合致した点によるだろう。

降旗・倉本の天才性は、人間の感情をコントロールしようと言う狡猾さに秘められており、いしだの走り去っていこうとする電車の中での敬礼のシーンなどはまさにそれである。このシーンが沸き起こす感情は、最初は「しらじらしい」「いしだの泣き笑いがぶさいく」といったものだが、何回も回想でそのシーンが流れるにつれ「切ない」「いしだの泣き笑いが美しい」と感じるようになるのである。

降旗・倉本の見事さは、人間の感情の流れを捉えているところなのである。


■同調できない男性像を惚れこませる健さん


1968年の浮気をした直子(いしだあゆみ)との英次(高倉健)の別れ。刑事という仕事柄、そしてオリンピック強化選手であるがゆえに妻をないがしろにしてしまい、その寂しさゆえに浮気してしまった妻。彼女を愛するがゆえに許せないという自分の気持ちに忠実なこの英次と言う男。

彼は「話し合い」ということをしない人であることが分かる。基本的に内向的で拒絶するタイプである。そして、それは一つの日本人の男性の典型でもあり、決して理想的な男性ではない所に注目してもらいたい。ある意味において健さんの演じる主人公に、見習うべき所はあまりないのである。そして、女性にとっても、こういう男性を好きになると幸せはつかめなさそうと感じるのである。

だからこそ魅力的なのである。日本人の島国的メンタリティーでもある滅び行くものを愛する気持ちを呼び覚ますからこそ健さんのこの役柄はいつの間にか大いなる同調を生むのである。
この理性とは違う相反した感情を呼び覚ますところに健さんの特別性があるのである。


■夏の情欲を挿話する価値


鳥丸せつ子
1976年の主人公は鳥丸せつ子であり、あえて彼女はくさい芝居をさせられている。そして、この芝居が英次の相棒の刑事役を演じる小林稔侍に、
「三上さん、俺にはしんじられんすよ。あのとろい子が今までずっと俺達を芝居でだましてたんすか」という名セリフを誘発するのである。

この1976年は1968年が禁欲的なのに対して、かなり欲情的である。赤のミニスカート姿の襲われる女性の描写しかり、烏丸せつ子のミニスカートからのびる生脚しかりである。夏の開放感を物語の間に日本らしくねちっこく挿入しているところが実に素晴らしい。北海道が舞台なだけに冬の雪景色だけで物語を構成するとメリハリのない映像になるということを考えてのこの1976年である。

そして、根津甚八が駅の線路上で逮捕されることによって物語は、再び雪景色に転化していくのである。1979年の訪れ、倍賞千恵子の訪れである。
映画における場面転換の重要性を今の監督は情緒なくやってしまうので映画がガラクタと化することを本作より学んでもらいたい。


■水商売の女


直子、すず子、桐子。3人の女性に共通しているのは不幸の影だろう。そして、男運のなさである。こういう見方はしたくないのだが、やはり、男として女を愛することが不器用な男には、男運のない女が寄り付いてくるのだろうか?

直子はホステスをしている。すず子も都会に出て行く。恐らく夜の商売だろう。桐子はある夜英次にこう語っている。
「水商売やってる子にはね。暮れから正月にかけて自殺する子が多いの。なぜだかわかる?男が家庭に帰るからよ」桐子も札幌で水商売をしていたようである。

直子とすず子と桐子は、水商売という仕事を通じて、心が枯れた。もしくは枯れていくのだろう?
恐らく水商売は女性を成熟させるのではなく、枯れさせる仕事なのかもしれない。それは水商売の中での男女の出会いは安易に諦めを受け入れさせる出会いしか生まないからではないだろうか?


■大人の関係


駅 STATION 駅 STATION
桐子と英次の会話は、実に味わい深い。
「いっぺんみりゃわすれないよいい女は」のセリフから「魚座と山羊座ってうまいこといくんだって・・・合うのよ私たち」のセリフの間における二人のシーンはまさに中年男女のロマン的シーンの連続である。そして、桐子と英次を引き離す一つの事実により別れがラストを締めくくるのである。

ちなみに当初ラストシーンとして札幌でいしだあゆみと再会するシーンが撮影されているが、本作では使用されなかったという。おそらく、こういう別れになったとしても駅で待つかもしれない桐子の存在を薄めないための選択だろう。

本作においての技術的な功労として必ず挙げなければいけない名前は前記の2人と、撮影の木村大作と音楽の宇崎竜童である。宇崎の情緒溢れる音楽は手放しで素晴らしいといえるだろう。あのリーゼントの兄ちゃんの持つ様々な顔には誠恐れ入る次第である。


■唐突にMr.BOO


駅 STATION
本作には何気に笑わされるポイントがある。

1.なぜMr.BOO?しかも魚肉ヌンチャクのシーンでげらげら笑う桐子。ポップコーンを撒き散らしながらげらげら笑う桐子に男が惚れてもしょうがないよな?

2.電車で武田鉄矢に寄りかかって寝る健さん。うっとおしそうにする鉄矢。いつの間にか一緒になって寄り添って寝てる二人。この二人のコンビ最高にいいよな?

3.桐子
「ねぇ私大きい声出さなかった?前にそういうこと言われたことあるから」英次「大きな声なんかださなかったよ」そして英次の独白(樺太まで聞こえるかと思ったぜ)

いいよなあ。こういうさりげなくくすりと出来る描写。そして、こういう情緒溢れる映画を見ると、すず子が働いていた本来は「風待食堂」や、「増毛ホテル」を見てみたいと思うものである。

− 2007年6月13日 −


当サイト内で使用している画像・映像キャプチャー等は、あくまで映画文化の熟成及び芸術復興を標榜する当サイトの意図により、
「映画を文章だけで云々することの不誠実さ」と「目で感じる芸術及び娯楽」である映画に対する敬意の姿勢で使用しております。よって著作権等は、全て各製作者・会社に帰属します。
画像・映像キャプチャー等の使用に関して表記の問題がある場合、又は削除依頼がある場合は迅速に応対させていただきますのでご連絡ください。
このサイトは、100%非営利に、純粋に「映画解釈の究極」を求めて運営されています。取り上げるべき作品・感想等ございましたらどんどんメールください。
当サイトはリンク・フリーです。
Copyright (C) 2007 Geijyutsu Taizen. All Rights Reserved.
Mail:webmaster@summaars.net