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フランドル   FLANDRES(2005・フランス)
■ジャンル: 戦争
■収録時間: 91分

■スタッフ
監督・脚本 : ブリュノ・デュモン
製作 : ラシッド・ブシャール / ジャン・ブレア
撮影 : イヴ・カペ

■キャスト
アデライード・ルルー(バルブ)
サミュエル・ボワダン(デメステル)
アンリ・クレテル(ブロンデル)
インジュ・デカエステカー(フランス)
ジャン=マリ・ブルヴァール(ブリッシュ)
ダヴィッド・プーラン(ルクレルク)
パトリス・ルヴァン(モルダク)
フランドル
感情を信じない女がいた。物事を深く考えないもの静かな男がいた。二人のセックスは、男にとっては排泄行為であり、女にとってはコミュニケーションの手段だった。そして、男は戦場に、女は独りぼっちになった。戦場で男は、自分の中に眠る多くの欲望を呼び覚ました。「やりたい」「適応したい」「生き延びたい」という欲望を。そして、女は、孤独の中感情を信じ始めた。そして、発狂した。男は、ブロンデルを見殺しにした。女は、ブランデルとの間に出来た胎児を殺した。二人は再会した。そして、性交した。言葉の上で愛を交わしながら、お互いの距離は昔よりもかけ離れていた。

■あらすじ


フランス北部のフランドル地方で、黙々と農作業に励む青年デメステル(サミュエル・ボワダン)。彼は明日出征する予定だった。一方、彼には恋人ではないがセックスをする間柄である幼馴染のバルブ(アデライード・ルルー)という女友達がいた。バルブは誰にでもやらせる女として有名だった。やがて出征したデメステル。砂漠の戦場で、殺し、犯し、生き延びるという本能剥き出しの生活を送っていた。一方、故郷で待つバルブは精神を病んでいった。


■大いなる誇張の観念のもとに描かれた作品


フランドル フランドル
映画に対して感覚を研ぎ澄ませる事が出来る喜び。ヨーロッパの映画にはそういった作品が多い。楽しむために観るのではなく、映画を自分の感性を磨く旅に出るようにして観る。そんな中から発見される自分の新しい感性に対する驚き。これも映画独特の楽しみである。何も映画は表面的に楽しむモノだけではない。内面的に楽しめるものでもあるのだ。

そして、この作品には小粒ながらもそれがある。この作品に対して面白いとは思わない。ただ一生のうちで一回は見直しておく価値のある作品であることは確かだろう。私はこの作品に対して独自の視点で映画評論することに価値があるとは思えない。しかし、この作品に内包されている興味深い点に関しては指摘しておきたい。

まず何よりも気になるのが、作品を通してのセックスに対する淡白さである。
明らかにセックス本来の二つの要素を排除した描写。その二つとは、自分自身の身体で感じる快感≠ニ相手との結びつきによって感じる高揚感≠ナある。本作のセックス描写は、その二つを排除しただの排泄行為及び無感覚に終始させている。

そういったセックス描写から感じるのは、この男性・女性のコミュニケーションの気薄さなのである。お互いの気持ちがイマイチ理解できず、ただの友達だよと言ってみたりするのだが、
その根本にある(お互いの感情が一切交差しない)セックスシーンが、後の戦場のシーンを昇華させる役割を果たしている。つまるところ戦争こそが究極のコミュニケーション不足が生み出した状況であり、そんな中に放り込まれた主人公の男は、欲望の赴くままに邁進する。一方、コミュニケーションする相手が不在になった時に初めて女は、その状況に耐えられなくなり発狂してしまう。狂気とはつまり無感覚の世界の崩壊なのである。

セックスに対する描写からしてそうなのだが、この作品は、全てが誇張された作品である。
無感覚さえも誇張され、最後の愛に対する勘違いさえも誇張されている。そして、誇張することにより本質を見せつけようとしている。


■素人だけが生み出せる色気のなさ

フランドル フランドル フランドル
不思議な魅力を漂わせるバルブを演じるアデライード・ルルー。彼女をはじめとして、この作品に登場する役者は全て素人の役者(又は演技経験の浅い役者)である。監督は2年かけてこの作品に相応しい素人を揃えていったという。実際映画を観ても感じるのは、演技の巧みさよりも自然に調和した生活観溢れる身振り手振りである。

この監督の手腕の優れているところはここにある。
都会の売れている若手俳優を引き連れて白々しい田舎町の物語を作り上げているのではなく、実際にその地方で生活を営む人たちによって物語を作り上げていく姿勢。芸術と呼ぶに値する絵画のモデルがそこで生活を営む人々であったように、この映画の登場人物たちもそこで生活する人々だった。

それがこの作品に素晴らしい生活観を生み出した。もしこの男女の役柄を名の通った俳優が演じていたならば、全く別物の作品になっただろう。
無表情を演じているわけではなく、生活の中の無表情を見せているだけ。そして、こういった表情が映画に与えるインパクトの強さ。この作品には、ストレートに観る者に伝わる生活感が漂っている。誇張された世界観だからこそ、逆に現実的な生活観が重要視されたのである。


■観る者から勘違いを導き出す巧妙さ


フランドル フランドル
音楽の全く流れない中、生活観溢れるフランデル地方の生活が映し出される。何か1980年〜90年代の中国映画を見ているような鼻息、呼吸音、大地を踏みしめる音といった生活音だけが支配する映像空間。

ベッドの上で、一度も愛し合うシーンがないこの作品において、セックスは土、草、車の中、家畜を飼う場所で行なわれる。そして、レイプも土の上で行なわれる。

デメステル(主人公の男)は、バルブ(主人公の女)が他の男と愛し合う姿を見て、得体の知れない何かが体内から込み上げてきた。
そんなバルブに対する強烈な欲望が、暴力へと転換していく。それが戦場の描写へと繋がっていく。この戦場は、まさにデメステルの願望の砂漠でもあった。バルブを忘れるために、女を犯し、赤ん坊を殺すように、少年をとりあえず℃Eし、そして、バルブを身篭らせた友人までも見殺しにし、結局自分だけが生き残り帰ってきて、バルブの優しさに付け入ろうとする。

そして、観ているものにさえも、それが救いだと勘違いさせる巧妙さ。実に巧妙で皮肉な作品である。
デメステルのバルブに対する欲望の爆発が、女を狂わせ、女を怒らせ、女の許しを導き出したと観ているものは、自己完結したい。しかし、この作品は、この程度の作品ではない。監督は哲学を学び教えていた人である。


■リアルに乾いた戦場の描写


フランドル フランドル
「それは私が政治的な戦争に全く興味がないからでしょう。私が興味があるのは、人間の内的な戦争です。我々の内側にある戦争、この作品の場合、デメステルの内側にある戦争を描きたかったのです」デュモン監督

一転して砂漠の戦場で戦う男。中東らしき戦場で、広大な自然の中で繰り広げられる殺し合い。最初は指揮官がいた。しかし、指揮官が殺されてからは、デメステルの小隊は、欲望の赴くままに、殺し、犯し、殺されていった。特に印象的なのが、強姦シーンである。なんとこの主人公までもが強姦に参加してしまうのである。しかも、後に敵の捕虜になった(デメステルを含む)一行の前に、先程強姦された女兵士が姿を現し、下半身を切り取らせ殺害させたのは、唯一強姦しなかった男という理不尽さ。

男にとってどんな女であろうとも欲望の捌け口になればいいと考えるように、女にとっても憎悪の捌け口になればどんな男でもいいという考える人間の本能の怖さ。欲望があらたな欲望を生み出し、暴力と連動し、それがやがて憎悪へと転化していく姿が見事に描き出されている。

そして、そんな無秩序な状況の中、デメステルは、ブロンデル(バルブが身篭っていた子の父)を見殺しにする。この戦争シーンが空想であることを理解させる描写は、明確にこの脱走の瞬間にある。つまりこの戦場のシーンは、デメステルの願望の現われだった。


■愛とは、馴れ合いではなく、見限りである


フランドル フランドル
そして、デメステルは戻ってきた。バルブは精神の不安定なまま彼を迎え、まず最初に性交により安らぎを与えた。そして、彼を責めて傷つけ、その後で彼に優しい声をかけて安らぎを与えた。「愛してる」「私もよ・・・」そういって物語は終わっていく。

しかし、数分後にはこう言われるだろう。
「彼を置き去りにしたんでしょ!私が彼の子を宿していたから!」
永遠に女の愛憎は消えることなく、男もその不安の波に呑み込まれていく。
こんな程度でお互いに安らぎが得られるほど人生とは退屈なものではない。男は、戦場ではない違う場所に去るべきだろう。田舎町で待ち続けた女を切り捨て、彼も本来の人生の荒波の航海に乗り出すときがやってきたのだろう。

足を撃たれ逃げ切れそうにない友人を見捨てること。精神的に不安定な恋人を見捨てること。それは実は見捨てることではなく彼が取れる最善の選択だった。
一緒に悪い方向に進むのではなく、自分がその人の分生きていく心。犠牲の精神よりも、経験を糧にする精神。

前向きな人生を歩んでいくためのヒントがこの作品には、込められている。共倒れすることが、美徳ではなく、愛を感じる対象だからこそ、(距離を置いて)共に歩まない勇気が必要であるという事を、この作品は教えてくれている。

最後に
デメステルの犯した罪を知りながら、それを受け止め赦すのだったという一般論は、全く当て外れであることを言及しておきます。少なくともそういった類いの作品ではないことは、バルブの人物造形を観ていても確かである。彼女は、父親でさえも愛せず、男も女友達も愛せない、そして、自分の子供さえもあっさり堕ろしてしまう。そういう類いの女性が、人を赦すという次元の立場に身を置けるのだろうか?そもそも彼女は自分自身に対しても赦せない気持ちが一杯渦巻いている人であるにもかかわらず・・・。


■創造力のみが、新たな可能性を生み出しうる


フランドル フランドル
「もちろん俳優の次の反応を予想することは不可能です。私はシナリオは書きますが、その中の私のイメージと現実との断絶を期待しています。そこに対立や真実が生じることが大切なのです。そして両者の間のバランスを見つけるのが私の仕事であり、また、興味をひかれるところでもあります。俳優はそういう意味では創造的で、ある意味調和的であると言えるでしょう。私は、俳優が監督の操り人形と化すことに全く興味がありません。私が演技指導をすれば、彼らは反応します。時にいやだと言うこともあります。この関係性こそが創造力だと思うのです」デュモン監督

本作は2006年カンヌ国際映画祭審査員グランプリを受賞した(審査員長ウォン・カーウァイ、審査員パトリス・ルコント、モニカ・ベルッチ、ティム・ロス、サミュエル・L・ジャクソン、チャン・ツィイーなど)。監督のブリュノ・デュモン(1958− )は、哲学教師、広告業界、ジャーナリストを経て監督になった人であり、長編第一作目『ジーザスの日々』で1997年カンヌ国際映画祭カメラドール特別賞(新人賞)を受賞。続く『ユマニテ』で、1999年カンヌ国際映画祭グランプリ、主演男優賞、主演女優賞を受賞した。

本作は45日間で撮りあげられた作品である。

− 2008年2月21日 −


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