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ファニーゲーム   FUNNY GAMES(1997・オーストリア)
■ジャンル: サスペンス
■収録時間: 108分

■スタッフ
監督・脚本 : ミヒャエル・ハネケ
製作 : ファイト・ハイドゥシュカ
撮影 : ユルゲン・ユルゲス

■キャスト
スザンヌ・ロタール(アナ)
ウルリッヒ・ミューエ(ゲオルグ)
アルノ・フリッシュ(パウル)
フランク・ギーリング(ペーター)
ステファン・クラプチンスキー(ショルシ)
ファニーゲーム
さあ人類の最終段階に到達した。オレの人生はただの夢に過ぎない。この夢はゲーム感覚に支配されている。オレは押し付けられたルールに死ぬほどうんざりしている。映画を見ていても悪党が勝利する瞬間を見たくてウズウズしている。そして、そんな悪党を非現実的にやっつける主人公を見ると、そいつにヘッドロックをかましてやりたくなる。そんな現在の若者に潜む健全なる狂気を応援してくれる作品
って若者が履き違えるとでもいうのか?今の若者は暴力の欲求に苛まれているとでも?そんなの全く嘘っぱちだぜ!この作品に登場する理由なき殺人者2人は、第二次世界大戦中に大した理由もなくユダヤ人を弄び殺していた奴らそのものにすぎない。そんな古来昔から存在する暴力の本質を、現在に置き換えて描いた作品が本作である。

■あらすじ


富裕なショーバー一家は、ウィーン郊外の湖のほとりの別荘で毎夏バカンスを過ごす。ゲオルグ(ウルリッヒ・ミューエ)と息子がボート・セイリングの準備をしている間に、台所で食事の準備をする妻アナ(スザンヌ・ロタール)。まさに幸せに満ちた朗らかな午後だった。そこへ一人の青年が卵を借りにやってきた。それが、ファニーゲーム=¥Iわりの始まりだった。


■戦争に駆り立てられる若者こそ最強のファニーゲームズ


若さとは暴力的であり、遊戯的である。それは古来昔からの若さの特権だった。そして、今若さの特権の多くが去勢されつつある。
終点の定められたコンピューターゲーム、想像力に乏しい直感的なアニメ・漫画、自然環境の欠如、そんなものによって若さが去勢されていく社会で、若者は若さの証明を果たすために暴力的に無慈悲になりたくなる。

実は若者の暴力の暴走とは、(昔から果てしなく繰り返されてきた)全ての価値観を頭ごなしに押し付けた大人に対する赤信号なのである。それに気づかずにもっともっと押さえつけないといけないと考えがちな中高年にこの作品はつきつける。
「ライフルの引き金をボクと一緒に引こうとしてるのはあなた自身なんですよ」と。

ところで、そもそも昔から大人の都合で若者に暴力的になれと言っていた時代が人類=戦争≠フ歴史だったのではなかったのか?まずは暴力の本質を見つめなおし、その不快感を感じ取り、それがどこから増長されていくものなのか再認識すべきだ。この作品の最後の若者の笑顔は、被害者ではなく本当の加害者に向けられた笑みかもしれない。


■不条理な生殺し=現在社会 だからこそ条理的


あまりにも人生の多くの要素が、何の変哲も無い他人に支配されていくことに気づき、覚醒してしまった若者。
この若者達は、ゲーム感覚で殺人を犯す快感に取り付かれているのではなく、むしろ自分が他人の人生を支配する行為=小さな戦争行為≠ノ取り憑かれているのである。

そして、あなた達がオレ達を放り込んだ状況を見せ付けてやろうと決意した。オレ達が選択肢を決めてやる。丁寧に追い込んでやる。そして、徹底的に搾取してやる。絶対的な権力であなたの成功を握りつぶしてやる。
実はココには現在の若者を包み込む閉塞感に対する反逆のメッセージが明確に込められている。

そうオレ達の姿は、オレ達が生きている世界そのものの姿であり、そんな世界に対する僅かな反抗・・・それがコイツラだった。だからこそこの作品は、極めて不条理的ではなく条理的である。そして、実はハリウッド製のスーパースター映画の方が不条理的であり、非現実的であることを観客に気づかせてくれる。

最近氾濫しているマニュアル、年長者のアドバイス、社会の常識という名の押し付けの数々。若者の間違いさえも許さない大人の心に潜むのは、自信の無さである。自信の無い人間は極端に他者の意見を恐れる。そして、ルールを押し付けたがる。そういう人々にとって、この作品は、非常に危険なものに映るだろう。暴力に取り憑かれた若者を増長する≠ニ。しかし、
私から言わせればミュータントが発生しているかのように、自分達の世代以外がイカレていると嘆いているあんた達の方がよっぽど危険で不気味すぎる。


■オペラが喧騒にかき消される瞬間


ファニーゲーム
マスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」やヘンデルの「アタランタ」のいとしい森≠ニいったオペラの流れる心地良い雰囲気から一転してジョン・ゾーンのハードコア音楽が流れる不愉快さ。そして、真紅の題字がバンっと出る唐突さ。

優雅さが喧騒の中にかき消される瞬間。それは理性も知性も押し寄せる暴力の前ではかき消される対象に過ぎないという暴力のぞっとする本質を匂わせている。


■権力の名の下に暴力に駆り立てられた若者の姿がそこにある


ファニーゲーム ファニーゲーム
「礼儀正しく、挨拶をしろ、社交的になれ」・・・ハイ、わかりました。そうなったら「何をしてもいいですか?」

唐突に一家に襲い掛かる理不尽な殺人ゲーム。ココに2人の若者が登場する。小太りのペーターと短パンに猿顔のパウル。2人とも白手袋をはめている。しかも言葉使いが丁寧で、態度も慇懃なのだが、意図的に神経を逆なでするとしか思えない行動をする。

何も持たない2人は、凶器さえも持っていない。まずはペーターが「卵を拝借できませんか?」とやってきて、やがて合流したパウルと共に裕福な一家に居座る形で、ウダウダ言いながらなかなか引き上げようとしない。そして、相手を巧妙に挑発し、相手から手をあげさせる動機作りをする。

この流れが、まさに昔から存在する中学高校内でのイジメそのものの陰湿な憎々しさに満ちている。どんな対応を取っても、2人の中での答えは決まっているのが丸分かりな分だけ、被害者はどうすることもなく追い込まれていく。鑑賞者にとっても2人が決して屈強に見えない分だけ更にイライラは募る。

被害者とはまともな会話をするつもりもない2人の行動が醸しだす絶望感。
それはまさにこの2人が権力というものの擬人化であることを容易に連想させてくれる。そして、まさにナチス・ドイツ(オーストリアも当時併合されていた)においてアウシュビッツを始めとする収容所で行なわれていたような、囚人の命を弄ぶような行為の過程を連想させる。この作品は、決して未来の若者を描いた姿ではなく、かつての若者の蛮行を現在に置き換えた作品なのである。


■こちらに対する問いかけが救いである程救いようが無かった


「劇場映画の長さに足りないよ。納得のいくラストを見たいでしょ?」


2人が一家3人を嬲り殺しにする展開が延々と映し出されていく。そして、時々パウルは鑑賞者の方にウインクをしたりする。まさに鑑賞者も共犯者であるかのように。あまりにも淡々と救いようのない物語を見せつけられ映画を見るのをやめようかと自問自答している鑑賞者をつなぎとめる役割かの様にパウルは要所要所でコチラを直視し問いかけてくる。

このパウルの鑑賞者に対する対話がこの作品の中で唯一存在するご都合主義という名の良心であり、救いになる。私を含め多くの観客はこの露骨に物語(=正確には暴力描写)の腰を折るシーンが存在せずに物語として、完全に現実を作り上げていたなら最後まで見る気にはなれなかっただろう。

逆に言うと、これは断言はしたくないのだが、この鑑賞者との対話さえなければこの作品は、傑作だったのに・・・と言っている人は、知らず知らずのうちに暴力に対して麻痺している可能性があるのかもしれない。


■10分以上に及ぶ長廻しが生み出す緊張感


ファニーゲーム ファニーゲーム
本作の共演を縁に実際に夫婦になるスザンヌ・ロタール(1960− )とウルリッヒ・ミューエ(1953−2007)が、被害者夫婦を演じる。特にスザンヌ・ロタールの芝居が素晴らしい。

なかなか魅力的な風貌が、やがて硬直していき、メイクも取れて、茫然自失な無表情になり、究極の悲劇の中薄ら笑みさえも白痴のように浮かべ、殺されていく様。特に子供が殺害され2人が立ち去ってからの10分を越える長廻しの緊張感。またすぐにでも戻ってくるんじゃないか?という緊張感と、それ以前に全員殺されたのか?という興味本位の絶望感。

母親、妻、女としての尊厳なぞ全て吹き飛ばされたかのような姿勢で、自らの拘束を解き、色気も減った暮れもない様相(ガニマタ)で夫を支えて歩き出すその姿。それらの芝居が、舞台劇であるかのようにノーカットで映し出される。
そこに生まれるのは、ただ一辺倒の絶望感ではなく、安堵感、喪失感、恐怖感が織り交ざった捉えどころのない緊張感だった。

そして、この作品の世界では、無残に殺害された子供の元に駆け寄るよりも、それから目を背けようとする2人の親の姿が映し出される。


■そして、2人は一家惨殺を繰り返していく 


ファニーゲーム ファニーゲーム
ここに一人の女性がいます。そして、向かいに年配の男性がいます。彼には妻子もいます。社会的に地位の高い人です。まず彼女は考えました。この男性は、女性のどの部分に性的な魅力を感じるのか?それとも男性に性的魅力を感じるのか?

そして、マゾなのか?それともサドなのか?彼女は、それを見極めるために本を読みながらミニスカートの足を組み替えたり、胸元を強調させる姿勢をとったりします。やがて、男性が女性の足に興味があることを察知します。基本的に足フェチはマゾ的傾向が強いといわれています。

そして、この年配の男性を自分の巣に絡め取るが如く、彼女は様々な誘惑を投げかけていきます。ストッキングを直したり、サンダルを脱いだり、足を組み替えたり・・・やがて男の目を見据えます。男性はいつでも彼女から逃れる術はあります。しかし、やがて彼女の視線を求め、露骨にマゾヒズムを曝け出すようになります。

そして、1時間後には、こう叫んでいることでしょう。もっと虐めてください!と。まさにこの作品には、それに近い感覚があります。
逃げる機会、形勢逆転の機会がことごとく踏みにじられ、折角起死回生の一発を放つもリモコンで逆戻しされてしまうというもはや服従するしかない状況に堕とされていく感覚=快楽。


■ココにある暴力の本質


ファニーゲーム
「なぜ人々がこの映画に憤慨するのかははっきりしています。憤慨させる為に作ったのですから。暴力は撲滅できないものであり、痛みと他人への冒涜であることを伝えたい。だから、暴力を単なる見せ物ではなく見終わった後に暴力の意味を再認識するものとして描かなければならない。また、今やハリウッドでは暴力が快楽を求める手っ取り早い方法となりつつあり、ユーモアとして処理されている」ミヒャエル・ハネケ

本作は1997年のカンヌ国際映画祭パルム・ドールにノミネートされた。この作品は、
人間というものが、暴力と快楽の狭間の中で生きているという現実を突きつけている。例えばセックスは合意の上においては快楽だが、非合意の上においてはレイプであり、暴力であるという事実。親にほっぺを殴られるタイミングの違いによって、その行為が愛情表現にもなり、ただの暴力にもなる現実。

テレビにおいて、美男子美女の正義の味方が行使する暴力や、軍隊がどんぱちする暴力、アニメの中で繰り返される暴力は、カタルシスを生み出すが、それがあまりに現実味を帯びた描写になると不愉快になるというかつての現実と、より現実味の帯びた暴力描写じゃないとカタルシスを感じることが出来ない人が増えているというぞっとする現在の状況。

暴力が形を変えて人間に幸せをもたらしているという現実。そして、形を変えて暴力の暴発を抑止しているという現実。更に形を変えて暴力を誘発しているという現実。更に更に形を変えて若者に暴力を強要しているという現実(=戦争)。しかし、どんなに暴力が形を変えようともその本質はココで描かれたような不快なものなのである。この作品は、そんな暴力の本質を真摯に考えるきっかけになる作品ではある。ただし、芸術的ではなく、娯楽的でもない。

− 2008年1月27日 −


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