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夕陽のギャングたち   GIU LA TESTA / DUCK YOU, SUCKER(1971・イタリア)
■ジャンル: 西部劇
■収録時間: 156分

■スタッフ
監督 : セルジオ・レオーネ
製作 : フルヴィオ・モルセラ
脚本 : セルジオ・レオーネ / ルチアーノ・ヴィンチェンツォーニ / セルジオ・ドナティ
撮影 : ジュゼッペ・ルッツォリーニ
音楽 : エンニオ・モリコーネ

■キャスト
ロッド・スタイガー(フアン・ミランダ)
ジェームズ・コバーン(ジョン・マロリー)
デヴィッド・ウォーベック(ショーン・ノーラン)
ロモロ・ヴァリ(ビィエガ)
マリア・モンティ(アデリータ)
夕陽のギャングたち
「ガキのココロを持った男必見!」。世界中の映画の中で最も美しくも儚いエンニオ・モリコーネの「ショーンのテーマ曲」に涙せよ。このスコアを聞くだけで何故か「昔の楽しかった日々が甦り」しんみりとなるはずだ!そして、どこまでも男クサイこの2人スタイガーとコバーンが男泣きに泣かせてくれる。男として生まれたからには一度ぐらいこの映画で涙したいね!

■あらすじ


20世紀の初頭、革命中のメキシコで、革命なぞに興味のかけらもなく山賊の頭として狡猾に生きるフアン・ミランダ(ロッド・スタイガー)の前に突如現れた、ジョン・マロリー(ジェームズ・コバーン)。彼はアイルランドの解放を目指していたIRAの闘士だった。そんな彼のダイナマイトの技術に目をつけ、フアンは念願のメサ・ヴェルデの国立銀行を襲う計画を立てる。


■このオープニングの巧みさ


蟻の巣のこびりついた樹木に小便をかける冴えない乞食オヤジの姿からこの壮大な物語は始まる。意識していないとまず間違いなくこの小汚い乞食がロッド・スタイガー(1925−2002)とは気づかないだろう。それくらいレオーネらしく役柄に対する作りこませ方が徹底されている。

「“人間は子供っぽい愚かなる振る舞いをしない限り、再び子供に戻ることは出来ない。だが人は子供の自然な振る舞いを楽しむのではないか?より高い次元の真実を求めて努力してはいけないのか?完璧なまでに自然に対して忠実なあらゆる時代の人物は、子供の特質を持っていたのではないか?もっとも美しい発達ぶりをみせる人間社会そのものの子供時代は、二度と帰らぬ永遠の魅惑として力を発揮し続けるのではないか?”(マルクス『資本論』)西部劇を撮ろうとする映画監督は心のどこかに、他のどんなことよりも、この真理を留めておくべきだと私は信じている。・・・こんな子供時代の自然な生き方を表すもの、象徴するものとして西部を描いたのだ」セルジオ・レオーネ

「そういった自然な振る舞い≠発見し、より成熟した目で見つめなおすことで、観客に夢を見させることは良いことだと私は信じている」

この主人公フアンの髭面の小太りぶりと、その無知ではあるが、子供のような単純さがこの作品の魅力でもあり、「大人のお伽話」に相応しい様相なのである。


■一瞬にして形勢逆転するカタルシス=革命


オープニングで金持ちの馬車に相乗りさせてもらう農民フアン。その姿を見世物でも見ているかのようにいびり倒す金持ちの乗客たち。

「君、父親を知ってるかね?自分の年はいくつだ?」「動物は手なずければ可愛いが、こいつらは野獣だ」「みんな一つの部屋で寝るので、夜になると母親姉妹やらなり振り構わずまぐわうのですよ」

ちなみにこの駅馬車は本物のルイ・ヴィトンのスーツケースが積み重ねられ、豪華な内装がしつらえているのだが、そんな中で
“エイゼンシュテインのような顔、眼、拭われていない肛門を連想させる食べ物が詰め込まれた口のクローズ・アップのモンタージュ”が映し出される。

ただただ卑下・非難する言葉を受け止め涼しい顔で聞き流すフアン。やがて、フアンの山賊仲間が馬車を襲撃し、いびられる対象から、一瞬にして支配する側に形勢逆転するのである。まさに
革命の構図「エリート意識」→「偏見」→「暴力」→「短略的解決」→「掠奪」が一瞬にして示されているのである。そして、さんざん傲慢にフアンを笑いものにした金持ち夫婦(夫人役はマリア・モンティ(1935− ))は、オープニングから早速強姦という手痛い復讐を受けるのである。

まさに
「復讐というものは、冷めてから食べると一番美味しいご馳走のようなもの」である。実はこの時からフアンは小さな革命の要素を満たしていたのだ。つまり一瞬にして立場が逆転するカタルシスが革命の原動力であり、だからこそ無政府状態になりかけない残酷さをフアンは体現している。


■掛け値なしにロッド・スタイガーの最高傑作


夕陽のギャングたち ロッド・スタイガー
ワン・カットの撮影回数は多くても4回まで、それ以上になると
《自発性を喪失することになる、つまり本能を裏切ることになる》と常々公言するスタイガー。この頃『夜の大捜査線』(1967)でアカデミー主演男優賞を受賞している彼は、ナポレオンを演じた『ワーテルロー』(1970)においては撮影回数の長さにセットから立ち去る程の芝居に対するこだわりの姿勢の強い役者だ。

そんな彼が、延々と撮影回数が続く、炎天下の撮影(ジョンが馬車を爆破させるシーン)に対し、コバーンに共に帰ることを促した。それに対しレオーネは
「私が二十四時間撮影したいと思ったら、私はそうする。それに、おまえがロッド・スタイガーで、ちょっとした間違いで、オスカーを受賞したことなんか、私にはどうでも良いことだ。なぜならオマエはクソ以上の何物でもないんだからな!」とぶち切れたと言う。4日間の冷却期間の末スタイガーが折れ、以後25回もの撮り直し要求にも応える様になったという。

結果的にはレオーネが絶賛するほどの名演を見せたスタイガーだったが、レオーネがある時に呟いたと言う。
「その演技力がメソッドに基づいてるうちは、ホアンのような役柄は演じられない。だからテイクを重ねて疲労させるんだ。そうするうちにホアンらしい生々しさが生まれてくる」

ちなみにレオーネは当初ホアン役にイーライ・ウォラックを考えており、他の仕事の予定を決めていたウォラックに頼み込んで、その仕事の予定をキャンセルまでしてもらったが、なんと行き違いでスタイガーを決めてしまっており、この事が原因でレオーネとウォラックの友情は消え去ったという。


■白いダスター・ジャケット


夕陽のギャングたち 夕陽のギャングたち
爆音と砂塵と共に登場するジェームズ・コバーン(1928−2002)のファッションのカッコよさ。
白いダスター・ジャケットにゴーグルにスカーフの出で立ちで現れた瞬間に流れる「ギッギッギッ!」というモリコーネのスコアの身震いするほどの渋さにコバーンの横顔がむくっとマスクの中から現れる。

「やめとけ!俺なら撃たん」と言ってダスター・ジャケットの裏地に差し込まれたダイナマイトを見せるジョン。
「もし、その引き金を引いて俺を撃つなら、俺はくたばる。俺がくたばれば、すべての地図を書き直さなきゃならなくなるだろう。というのも、もし俺がぶっ飛んだら、この国の半分も俺と一緒にぶっ飛ぶことになるだろう。君も含めてな」

その瞬間「メサ・ヴェルデ国立銀行」と後光がさす時に流れる音楽とテロップの愉快さ。まさに完成されたレオーネのユーモアである。

ちなみにマロリー役は当初ジェイソン・ロバーツ、クリント・イーストウッドを経て、コバーンにオファーされた。彼は『荒野の用心棒』の主役、『ウエスタン』も断っていたのだが、
この作品を引き受けたのはヘンリー・フォンダと食事していて「今まで仕事した監督の中で彼はベストだ!」と言われたことからだった。

ちなみにレオーネは
「コバーンは、より堂々としていてユーモアを備えたクリント・イーストウッドだ」と絶賛していた。


■やはり、ションション〜♪に尽きる


夕陽のギャングたち
唐突に砂煙のメキシコから美しいイングランドの自然が映し出される意外性。そして、「タ〜ンタタタタタタタタ〜 タラタララララ〜 タラララララ〜ララ〜 ションション〜ションション〜♪」このエッダ・デッロルソとカントーリ・モデルニのスキャットの美しさ。当初は「ワー、ワー、ワー」だったという。

あの美しすぎるレオーネの前作『ウエスタン』のテーマ曲を軽く越えたこの素晴らしいテーマ曲。あまりにも美しいその調べに涙まで浮かんでしまうほどの響きである。これらのスコアは撮影前からすでにモリコーネによって作曲されていたのである。だからこそこの作品のサントラをまず聞いてから映画を見ることをお薦めする。
絶対に西部劇のサントラとは思えないはずだ。この美しい曲の数々がどういったシーンで使われるのかという姿勢で初見してみるのもまた楽しいものだ。

この回想シーンで出てくるジョンの親友ショーン役を演じるデヴィッド・ウォーベック(1941−1997)は、ニュージーランド出身のイタリアのB級映画俳優だったが、この作品の芝居が評価され、3代目ジェームズ・ボンド役の候補に挙がったという。当初はこのショーン役はマルコム・マクダウェルで考えられていた。


■カイザー・ソゼ並みに炎の中立ち去る男の絵


夕陽のギャングたち
この作品でアイルランド男を描くにあたり、レオーネはジョン・フォードの『男の敵』を何回も見続けていたという。ちなみにジョン=ショーンの名前はフォードの『静かなる男』の主人公から取ったものである。

こういった振り返りもせずに爆薬を仕掛けて爆破させ、去っていく姿などはコバーン独特の男のダンディズムに溢れている。この人には、ブロンソンやマックィーン、イーストウッドがやると格好つけすぎになりすぎて、あざといシーンでも様になる。


■革命の英雄はこうして誕生する


セルジオ・レオーネ
「私は立って銀行を眺めているときに、手を握ったり、開いていたりしていた。それは、レオーネが撮影時に、よくしていた姿だったんだ」
ロッド・スタイガー

メサ・ヴェルデの銀行を襲ったつもりのホアン達山賊が実際には政治犯を解放することになる。このシークエンスでレオーネが思い描いていたのは、チャップリンの『モダン・ライムス』だった。何の気なしに通りで赤い旗を拾い上げてしまったチャップリンの後をデモ行進の参加者たちがぞろぞろ従い歩くシーンと同じく革命のきっかけの気ままさと偶発性を皮肉ったのである。

政治犯の扉、扉・・・のシーンで流れるスコアはモーツァルトの『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』からの数小節が引用されている。


■革命とは・・・


革命とは、
贅沢な食事でも言葉の遊びでもない。
刺繍の模様でもない。
優雅さと丁寧さを持ってなされるものでもない。
革命とは暴力行為なのだ

毛沢東の「湖南農民運動視察報告」(米英公開版からは削除されている)

そして、意図的に最後の一文
「それによって一つの階級がもう一つの階級を転覆させるのである」をレオーネは省略しているのである。階級の転覆よりも革命の本質は暴力に過ぎないとレオーネは主張しているのである。

「俺でも革命のことなんか全てお見通しさ!それが、どうやって始まるのかも知っている。本を読む連中が、本を読まない連中―貧しい連中―のところへやって来て、「さあさあ、そろそろ変革の時が来た」と言う・・・だから貧しい連中が変革するんだ、な?そして本を読んでいる連中と来たら、皆が皆ピカピカ磨かれたテーブルを囲んで、ペチャクチャおしゃべりをしたり、ムシャムシャ食べてばかりいる。それで貧しい連中はどうなった?ヤツラは皆死んだんだ!それが、あんたの言う革命だ!」

このホアンの吐き捨てるような言葉が、ジョンの心に一つのきっかけとなるのである。彼はマリファナを吸いながら読んでいたバクーニンの書物を泥沼の中に投げ捨てるのである。


■大人のためのお伽話


ジェームズ・コバーン
装甲車や武器・装備の数々は実際にドイツがメキシコに輸入した最初の型だった。レオーネはこう語っている
「映画というものは、ある特定のディテールが、とても正確でなければならない。・・・それはお伽話をもっと信じられるようにするためなんだ」

一方、1919年までIRAは設立されていない事実や、機関銃は第二次世界大戦まで使用されていないという事実はレオーネにとって瑣末なことなのである。

この「大人のお伽話」の面白さは
“革命家の方は革命に対する幻想から目を覚まし、友情を楽しむようになるが、百姓の方は知らず知らずのうちに革命に巻き込まれていってしまう”という微妙なジョンとフアンの情熱の行き違いの面白さでもあるのだ。

そして、サン・ホルヘ橋を爆破するシーンの美しさ。爆破の反動でがくんっと後ろに仰け反るジョンと満身の笑顔のホアン、そして、砂煙と戸惑う敵の司令官の物悲しさに重なる美しいモリコーネのスコア。
これぞ滅びの抒情詩である。美しさと無邪気さと悲しさは表裏一体なのである。


■メキシコ革命にナチスのイタリア占領を重ね合わせる


「メキシコは、戦争や革命を引き起こすためのいい口実となってしまった。いくつかのシークェンスで、私は、別の場所や別の時代に起きた出来事を思い起こさせるような仕掛けをした」
セルジオ・レオーネ

本作はメキシコ革命を描いたものであると同時に、第二次世界大戦後期のドイツ占領下のイタリアを描いた作品でもあった。長い塹壕や駅の側に掘られていた溝でドイツ軍が処刑している姿を10代のレオーネは見ていた。だから登場する大佐は、ナチスの将校のように見えるのである。


■暴力の本質が暴き出される!


ジェームズ・コバーン
実は家畜運搬用貨車に載るシーンは当初はこうであった。ホアンが鳥篭の下に座り、やがて籠の中の鳥が、ホアンの頭に糞をする。ホアンはその鳥を見上げて、こう言うのだ。
「そんなおまえだって、金持ちには歌を歌うんだろ?」

結果的にホアンは子供6人を殺した張本人でもある総督と家畜運搬用貨車で偶然遭遇し撃ち殺すのである。この時ホアンは、初めて強奪といった目的以外で暴力行為を行うことになるのである。彼は初めて
「怒りに満ちた暴力行為」を行使したのである

そして、この行為によって図らずもホアンは、英雄となったのである。
同じ暴力でも、口先では誰もが暴力はどんな暴力でも暴力に違いないと言っているが、明確に暴力には「賞賛から見放された暴力と、賞賛から目をつけられた暴力」の二種類が存在することを示しているのである

もちろん暴力は暴力の連鎖のみを生み出すものなのではあるが・・・


■革命の本質は、人間性の損失である


夕陽のギャングたち
幻のビィエガ拷問のシーン。まさにナチスを髣髴させるシーン

「ダイナマイトを始めたころはいろんなものを信じていたが、今はもうダイナマイトしか信じない」

「俺はあんたを裁きはしない。俺は一生のうちで、たった一度だけ人を裁いたことがあるんだ」


拷問の末に裏切った医師ビィエガにジョンが放つこのセリフ。ジョンはかつて大親友のショーンがビィエガと同じような状況になった時に、自らの手で殺しているのだ。彼は革命のために、友情を捨てたのだった。このジョンの姿が革命のもう一つの側面を照らし出しているのである。

革命とは、何よりも優先されるべき事柄なのである。そして、革命家たちはそれ故に人間としては欠陥味溢れる姿へと変貌していってしまうのである。回想のシーンにおいてのジョンの人間味溢れる姿が、取り戻されるのは死に直面し、ホアンに抱きかかえられる時の一時だった。


■「良心」によって生まれた「さまよえる魂」


夕陽のギャングたち
「おめえが今、俺をおいてっちまったら俺は一体どうなるんだ、ええ?」「彼らはおまえを将軍にするだろうよ」「俺は将軍なんかには、なりたかねえんだ!」

「しかし、この映画の芯には、この映画を作る上での私の本質的動機でもあり、私にとって大切なものでもある、友情というテーマがあるのだ
」セルジオ・レオーネ

そして、マリファナをくゆらせるジョンの最後の回想。自分と少女と友人ショーンが木にもたれかかって交互にキスをする。このシーンは英米版においてはカットされた。女性を2人で共有している事の不純さゆえにカットされたのだが、レオーネは激怒した。
「これはただの自由主義や自由恋愛を意味しているわけではなく。この少女は誰もが自分たちのものにしたい、と望んでいた革命を象徴していたのだ」

はじめはすべてに無関心だったならず者が、革命に巻き込まれていく過程で大切なものを全て失ってしまい幼稚な革命家となってしまうことで、この映画は終わる。レオーネ
「このアイルランド人は、このメキシコ人に「良心」というものを与えてしまった。それ故に、彼は永遠に「さまよえる魂」となってしまったのだ」


■セルジオ・レオーネのビッグ・ミステイク


夕陽のギャングたち
本作は当初ピーター・ボグダノヴィッチが監督で、レオーネは完全に製作に専念という形を取っていたが、わずか3ヶ月後にあまりに作品に口を挟みすぎるレオーネの姿勢に不満を持ったボグダノヴィッチは解任される。その後サム・ペキンパーが監督に乗り気だったが、スタジオ側が許可せず、結局はレオーネ自身が監督することになった。ちなみに撮影はメキシコではなくスペインで行われ、室内シーンはローマのデ・ラウレンティス・スタジオで撮影された。

この映画には、121分版(1972年バージョン)、138分版(1989年ホーム・ビデオ・カット・英語バージョン)、154分版(1994年LDバージョン)、162分版(イタリア版)と多くのバージョンが存在している。

ちなみに公開当初の原題は「Duck, you sucker(伏せろバカ野朗)」だったのだが、このあまりに露骨な題名ゆえに全くヒットしなかったので、「A FISTFULL OF DYNAMAITE」の題名で再公開された。この最初の題名に対しボグダノヴィッチはこういった
「アメリカのどこにいったって、絶対誰もこんな表現口にしないよ」。そして、スタイガーもコバーンもタイトルの変更を助言していたが、レオーネは堅持した。

− 2007年7月29日 −


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