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チャップリンの独裁者   THE GREAT DICTATOR(1940・アメリカ)
■ジャンル: コメディ
■収録時間: 126分


■スタッフ
監督・製作・脚本 : チャールズ・チャップリン
撮影 : カール・ストラス / ロリー・トザロー
音楽 : メレディス・ウィルソン


■キャスト
チャールズ・チャップリン(独裁者ヒンケル/床屋のチャーリー)
ポーレット・ゴダード(ハンナ)
ジャック・オーキー(ベンツィーノ・ナパロニ)
レジナルド・ガーディナー(シュルツ)
ヘンリー・ダニエル(ガービッチ内相兼宣伝相)
ビリー・ギルバート(ヘリング陸軍元帥)
チャップリンの独裁者
1930年代アドルフ・ヒトラーは「演劇界のスター」でもあった。そのスター性にチャップリンは着目し、「いつか私も独裁者という役柄を演じてみたい」と渇望した。それがこの作品のスタート・ラインだった。そして、彼は喜劇の題材として「独裁者と床屋」の物語を作り上げたのである。やがて本作製作中の世界情勢の激変に対応し、急遽チャップリンは最後の演説を、自分自身のナマの言葉で語り、付け加えた。だからこそ、この映画はちぐはぐである。しかし、だからこそ時代の混乱の中でのみ一人の天才が生み出せる「ヒトラーに憧憬し」世界平和を願った矛盾に満ちた大傑作なのである

■あらすじ


ヨーロッパの大国トメニアの独裁者ヒンケル(チャールズ・チャップリン)は、世界征服とユダヤ人排斥を旗印に、世界に君臨しようとしていた。一方、ユダヤ人のゲットーの床屋であるチャーリー(チャールズ・チャップリン)は、ヒンケルと容貌が似ていた。そして、ふとしたことからチャーリーがヒンケルに間違われてしまうのである。


■チャップリンがヒトラーを演じた真意


チャップリンの独裁者 チャップリンの独裁者
私の20代から30代にかけての同世代の知人たちの多くはチャップリンの映画を観たことがない。そんな彼らにとってチャップリンのイメージは浮浪者スタイルより、独裁者スタイルのイメージが強い。

そんなチャップリン=ヒトラーのイメージが生まれたのも、この作品からである。そして、アドルフ・ヒトラーとチャップリンはわずか数日違いで生まれた同い年なのである(ヒトラー、1889年4月20日生まれ、チャップリン、1889年4月16日生まれ)。そして、2人は1930年代後半において、片や世界一有名な指導者であり、片や世界の喜劇王だった。

チャップリンは、ヒトラーの存在の危険さには気づいていたが、「世界平和」の為に、本作の製作に取り掛かったわけではなかった。それは、この作品を作る為に、ヒトラーのニュース映像を観ている中で、「素晴らしい役者だ」と感嘆している言葉や、撮影中に「ヒンケルの衣装を着ていると、すごく興奮するんだ。そして、その日に他の仕事が手に付かなくなるんだ」という発言からも汲み取れる。
そうチャップリンは時代の熱狂を喜劇にしたかったのだ。

つまりこの作品の本質にあるものは、チャップリンのヒトラーに対する役者としての興味であり、本質は「独裁者」を演じてみたかったところにある。だからこそ独裁者を演じるチャップリンはあんなに輝いているのである。
この作品はただ「独裁者」をタイムリーに演じてみたかったから作ってみたのである。最初のきっかけはそこにあった。

現在においては、マハトマ・ガンジー並みの扱いでチャップリンを一くくりにする人も多いが、これはチャップリンにとって迷惑な評価だろう。確かに最後の演説を当初予定していたラストシーンから差し替えはしたが、それは当初はヒトラーに興味を持ち演じているうちに、「自分がその芝居を楽しんでしまった」ことに対する自己修正と世界情勢の激変に適応してのことだった。

「アウシュビッツの事実を知っていたらこの作品を作らなかっただろう」と後述しているように、チャップリンはただ純粋にヒトラーを取り巻く熱狂に興味を持ち、自分がそのシステムを喜劇として茶化してやりたくなったのである。


■命を張って芸術の創造に邁進するその姿


チャップリンの独裁者
多くの人にとってもそうだろうが、ヒトラーという存在は「超越した個性」を一瞬にして感じさせる。それは作り上げられたイメージというものかもしれないが、いかにメディアの力が強かろうとも、現在のアジアの独裁者や首相、欧米の大統領などが、メディアの力を持ってしても全く魅力が無いところを見れば、如何にヒトラー自身の存在感にスター性があったかということを認めざるをえない。

ヒトラーという時代の波に乗ったスターの存在感と対等に張り合えたものは、政治家では後にケネディくらいのものだろう。そんなヒトラーという男の存在に惹きつけられたからこそ、チャップリンは興味を感じ、徹底的にコメディの題材にしたくなったのである。
そして、この作品は、結果的にヒトラーが望まなくとも二人三脚で作り上げた作品だったのである。

そして、当時世界的なイコンでもあったこの男を、もう一つのイコン=「喜劇王チャップリン」が茶化したからこそ、「世界は震撼したのである」。
世界征服を目論む男に、喜劇で一人の男が対峙した瞬間である。しかも命を張って。私が、チャールズ・チャップリンが凄い芸術家だと思う点は、「彼が世界平和のために命をかけたのではなく、芸術の創造のために命をかけた」ところにあるのである。

ナチ党
ちなみにこの作品が作られた当時のアメリカの各都市では、こういった親ナチ団体が行進している状況だった(写真1939年ニューヨーク・パレード)。しかもアメリカのナチ党リーダー・フリッツ・クーンは1939年にマディソン・スクエア・ガーデンにてナチ党大会まで開催している。そして、チャールズ・リンドバーグやウォルト・ディズニーといった人々も当時はナチ信奉者だったのである(もちろんナチス崩壊寸前には掌返ししているが)。

こういった1930年代末の共産主義の防波堤としてナチスがもてはやされていた親ナチ的なアメリカにおいて、この作品を作り出す危険性は、並みではなかったはずである。


■過去の再現を堪能させるサービス精神


チャップリンの独裁者
この作品、とにかくチャップリンの喜劇が冴え渡っている。特に第一次世界大戦で始まる冒頭のコメディ・シークエンスは、最高に愉快である。何と言っても馬鹿でかい大砲を使ってのネタが面白く、昔の便所についてたようなヒモを引っ張ると弾が飛び出すというシュールな作りの大砲で予想通りのネタが展開するのである。

発射準備OK!ヒモを引っ張るも、砲弾はぽとりとみんなの目前に落ちる。そして、一瞬の沈黙の間があって、それからみんなでするジェスチャーが最高に面白い。そうドイツ人であるにも関わらずアメリカ人のように両手を広げるのである。

他にも
進軍中のチャーリーが、砂塵の中を暗中模索するうちに砂塵が晴れ、ほっと一息しているとなんと敵のど真ん中にいるシーン。このシーンを笑えない人は、どこか回路がやられてるんじゃないかといいたくなるほど目で見て分かる面白さである。逆さ状態でのコントなど、オープニングには昔のサイレント時代のチャップリンの笑いがたくさんつまっている。


■世界に申し訳ないが、この充実感!


チャップリンの独裁者 アドルフ・ヒトラー
そして、時は過ぎ、チャップリン演じるヒトラーそっくりのヒンケルが登場し、演説するのである。まったく出鱈目なドイツ語風の言葉で巧みに演説している。しかもところどころ英語らしき単語も挿入されており、おおよその演説の内容が分かるという入念さなのである。

まさにヒンケルを演じたいがために撮っただけのことがあって、
ヒトラーの演説に対する「チャップリンの挑戦状」とでもいわんばかりの熱演振りである。それにして前の作品までは浮浪者役ばかり演じていたこの男が、何の違和感も無く瞬時に独裁者を演じてのけるこの凄さ。

チャールズ・チャップリンの凄さは、まさにこの成り切りぶりにあるのである。


■ヒンケル総統の一日


チャップリンの独裁者 チャップリンの独裁者
ヒンケルの一日の公務の描写が実におかしい。官邸をただただ落ち着きなく動くだけなのだが、時間が空いた3秒間くらいを利用して、絵と彫刻を作らせたり、秘書に欲情したり、子供じみた実験をまんざらではない表情で見学したりと全くこれでもかというほどにヒトラーを茶化しているのである。

チャップリンの独裁者
しかし、今見てみると執務室で欲情していたビル・クリントンをはじめ全方位的に権力者の幼児性を揶揄したシーンとなっているところが、さらにこの作品の普遍的な凄さである。


■世界をもてあそぶ独裁者


チャップリンの独裁者 チャップリンの独裁者
特にヒンケルが一人執務室で地球儀を弄ぶシーンは、もう天才の技としか言いようの無い芸術的な動きである。そして、このシーンのバックに流れるリヒャルト・ワーグナーの「ローエングリン」の前奏曲の神秘性と幻想感が実にマッチしている。
世界中を手にしようとする妄想するその姿が、「狂気そのものではないところにチャップリンの凄さがある」このシーンからは、何となく赤ん坊のような無邪気さが満ちあふれているのである。

チャップリンの独裁者 チャップリンの独裁者
そして、風船が割れ、泣き伏せるヒンケル。この僅かなシーンに、
幻想の果ての孤独感が見事に描かれている。何かの頂点を極めようとする人間は、おのずから妄想と孤独を抱えていくという現実。それはチャップリンという「孤高の喜劇王」が、ヒトラーの妄想と孤独に目をつけていた証明でもあるのだ。

実は2人のその姿は表裏一体なところがある。だからこそ、チャップリンはヒトラーの本質を誰よりも早く見抜いたのだろう。


■ヒトラーとムッソリーニ


チャップリンの独裁者 チャップリンの独裁者
そして、このヒンケルの別の一面を映し出す鏡のような存在=「近隣国の独裁者ナパロニ」が現れた時からこの物語は、この独裁者の悲しい本質を描き出していくのである。人間は決して強くなれず、王にも神にも相応しくないという現実。
つまり飾り立てられた人間の悲劇である。

そこには独裁者同士の喜劇そのもののくだらん見栄の張り合いから、多くの悲劇が生み出されていくプロセスが、見事に描かれている。そして、もっとぞっとするのは、
独裁者に振り回されている側近の姿が、実は独裁者を隠れ蓑に野心を実現しようとする側近の姿であるということなのである。

ヒトラーとムッソリーニ ヒトラーとムッソリーニ
そういった当時のドイツとイタリアの独裁者たちの姿を見事なまでに茶化しているのだが、自分を見上げさせようと設置した低い椅子や、美容室の椅子を使ったシーソーゲームなんかは、喜劇としての側面だけでも十分に可笑しいシーンである。

しかし、この独裁者2人のシーンを見ていると、この作品は、ハリウッド・スターたちのバカげた誇大妄想ぶりも茶化していたように思えてくる。豪勢に着飾り、話してる内容はつまらん会話ばかり、ってこの2人そのものではないか?特に今のハリウッドを始めとするほとんどの有名人に適応されそうな誇大妄想振りである。

まさに21世紀のメディアによって、多くのミニ・ヒトラーが生み出され、その小心ぶりを周りから(もしくは白い粉で)支えられながら、誇大妄想を発散しているのではないか?


■パンケーキでロシアンルーレットする可笑しさ


チャップリンの独裁者 チャップリンの独裁者
一方、チャップリンが演じるもう一役が、ユダヤ人の床屋のチャーリーである。このオジサンは、第一次世界大戦で記憶喪失になってしまったので、ユダヤ人がゲットーに押し込められ差別されている事実を知らずに、自分の店に何十年ぶりかに帰ってくるのである。

そして、一人ぼっちで突撃隊に立ち向かう中で、唯一フライパンで助けてくれる女性がハンナだった。そんな彼女に間違ってフライパンで殴られ『雨に唄えば』のように、歩道をよたよた歩く姿が実に可笑しい。

しかし、この床屋の役柄のチャップリンにおいて最高におかしいシーンはこの二つのシーンだろう。ハンガリア舞曲第5番にあわせて髭剃りをするシーンとパンケーキでロシアンルーレットするシーンである。特にこのロシアンルーレット・シーンは普遍性のある面白さに満ちている。

ヒンケルと刺し違える人物を選ぶために、5つあるパンケーキの中の1つにだけ銅貨を入れて、チャーリーたち5人が食べていくのだが、最初の威勢とは違い、みんな死にたくないので、実はハンナが全部のパンケーキに銅貨を入れていたのだが、その銅貨を隠したり、飲み込んだりと必死なのだ。

こういった人間の浅ましさもチャップリンにかかれば人間愛に満ちた描写になるのである。


■ポーレット・ゴダード


ポーレット・ゴダード ポーレット・ゴダード
モダン・タイムズ』(1936)に引き続きヒロインのハンナを演じるのは、ポーレット・ゴダード(1910−1990)である。彼女はこの作品の撮影当時前作で共演したチャップリンと結婚(法的には結婚せず)していたのだが、すでに2人の関係は悪化していたという。

結局1942年に別れることになるのだが、ゴダードが1958年に『西部戦線異状なし』の作家レマルクと再婚し、スイスに住むようになり、チャップリンと何度も顔を合わせるようになるのだが、お互いに絶対に目さえも合わさず、会釈もしなかったという。


■チャップリンの生身の声


チャップリンの独裁者
そして、あの有名なヒンケルと床屋が入れ替わっての演説シーンである。そして、この演説の瞬間からヒンケルも床屋の面影も全て消え去り、チャールズ・チャップリンが生身の姿で登場するのである。以下演説の全文。


申し訳ありません。私は皇帝になんかなりたくない。誰も支配したくない。
できれば援助したい。ユダヤ人も黒人も白人も、人類はお互いに助け合うべきです。

お互いに惨めさではなく幸福を後押ししあっていこう!
お互いに憎しみあったり、軽蔑しあってはいけない。世界には全人類を養う富と英知が十分にある。

人生とは自由と美しさの謳歌である。しかし、私達はそれを忘れてしまっている。
貧欲が人類の精神を蝕み、憎悪をもたらし、悲劇と流血を招いた。

速度を求めた結果、意思の疎通が生みされ、機械化は貧富の差を作り、
私達の知識は皮肉さと独りよがりと自分さえよければという風潮を生み出した。

多くを考えることに費やしすぎて、感情を持つ事を忘れ、人間性が失われた!
知識より思いやりが必要である。思いやりがないと暴力だけが残る。

航空機とラジオは私達を接近させ、人類の良心に呼びかけて世界をひとつにする力がある。
私の声は全世界に伝わり、失意のどん底に嘆く男たち、女たち、子供たちにも届くだろう。

これらの人々は罪なくして苦しんでいる。人々よ、失望してはならない
貧欲はやがて姿を消し、恐怖もやがて消え去り、独裁者は死に絶える。

大衆は再び権力を取り戻し、自由は決して失われない!
兵士諸君!犠牲になるな!独裁者の奴隷になるな!
彼等は諸君を欺き、犠牲を強いて家畜の様に追い回している!

彼等は人間ではない! 心も頭も機械に等しい!
諸君は機械ではない!人間だ!心に愛を抱いてる。
愛を知らぬ者だけが憎み合うのだ!独裁を排し 自由の為に戦え!

新約聖書『ルカ伝・第17章』にこう書かれてある。「神の国は、人の内なるものにある」
一人の人間の中にではなく、すべての人間の中に! そう!諸君の中に!

諸君は、幸福を生み出す力を持っている。人生は美しく、自由であり、すばらしい冒険だ!
諸君の力を民主主義の為に集結しよう!新しい世界の為に戦おう!
人々に働く機会を与え、老人に保障を与えよう

独裁者も同じ約束をした。だが彼らは約束を守らない!彼らの野心を満し、大衆を奴隷にした!
戦おう 約束を果す為に!世界に自由をもたらし、国境を取除き、貧欲と憎悪を追放しよう!
良心の為に戦おう!文化の進歩が全人類を幸福に導くように兵士諸君!民主主義の為に団結しよう!

ハンナ、聞こえるかい?どこにいようとも?見上げてごらん。

暗い雲は遠くの方へ流れていくよ。そして、太陽が輝きはじめている。
暗闇は去り、明るい光がさし始めたんだよ。
新しい世界が開けてきた。人類は貧欲と憎悪と暴力を克服したのだよ。

見上げてごらん。ハンナ。人間の魂は翼を与えられていた。そして、ついに飛び始めたんだよ。
虹の中に飛び始める。希望の光の中、未来に向かって・・・
輝かしい未来が君にも私にもやって来る。我々すべてに!ハンナ、元気をお出し!



最初の脚本には、この大演説は予定されていなかった。既に戦争が終わりユダヤ人と兵士が手に手を取って踊りを踊るというシーンが撮影終了されていたのだが、ヨーロッパがヒトラーに侵略されていく姿を見て、チャップリンは6分間のメッセージに差し替えたのである。

この最後の演説におけるチャップリンは、真剣そのもので、なんと瞬きを10回もしていないのである。そこにどれだけ集中してこのセリフは話されたかがわかるはずである。まさに「この作品は素晴らしい」と空褒めする演説の下手糞な日本の政治家や大学教授たちも、平和の理念云々の前に、この人前で話す姿勢からまず見習えと一言してあげたい。

チャップリンの独裁者
最後にこの作品の本質は、独裁者と床屋という2人の臆病者が本質的に全く同じであることを指摘している。環境が独裁者を生み、平和を愛する庶民を生み出すという本質を。この作品が世界中から愛され続け、そして、これからも愛されていくだろう由縁はこの「人間愛」の視点にあるのである。

チャップリンの作品は、このエリート臭さの微塵の欠けらもない、純粋さによって普遍性が生み出されているのである。


■チャップリンの最初のトーキー映画


チャップリンの独裁者
世界中の西欧諸国がナチズムの脅威よりも共産主義に脅威を感じていた時代だけあり、さまざまな圧力が加えられる中、チャップリンは製作費の200万ドルのうち、私財の150万ドルをつぎ込み本作を製作した。撮影の開始は、第二次世界大戦勃発(ナチス・ドイツ軍のポーランド侵攻)後すぐの1939年9月9日だった。

チャップリンは製作発表をしていた1939年1月からボディーガードを多数雇用していた。そして、撮影は1940年10月2日に最後の差し替えシーンの部分が終了した。1940年10月15日公開されるやいなや、チャップリン最大のヒット作品となる。そして、1940年アカデミー賞作品賞、主演男優賞(チャールズ・チャップリン)、助演男優賞(ジャック・オーキー)、脚本賞、作曲賞にノミネートされる。

チャップリンの独裁者 チャップリンの独裁者
しかし、この作品は、世界中で実に数奇な運命を経る。特にイタリアにおいては、2002年まで、ナパロニの妻のシーンはカットされていた。それはムッソリーニの妻に対する尊敬の裏返しからだった。スペインにおいては、フランコのファシズム独裁政権が終焉する1975年まで公開されなかった。そして、日独伊三国同盟を締結していた日本でも1960年まで公開されなかった。

チャップリンは完成当時この作品についてこう語った。
「笑いとは反逆の精神である。私はなんとしてもヒトラーを笑い者にしてやりたかった」。当のヒトラーはこの作品をポルトガルから取り寄せ2回観たというが、感想は残していない。チャップリンはその事実を知りこう言ったという。「彼が観てどう感じたか感想を聞かせてもらいたかったなぁ」と。

− 2007年9月11日 −


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