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ハーヴェイ   HARVEY(1950・アメリカ)
■ジャンル: コメディ
■収録時間: 104分

■スタッフ
監督 : ヘンリー・コスター
製作 : ジョン・ベック
原作 : メアリー・チェイス
脚本 : メアリー・チェイス / オスカー・ブロドニー
撮影 : ウィリアム・H・ダニエルズ
音楽 : フランク・スキナー

■キャスト
ジェームズ・スチュワート(エルウッド)
ジョセフィン・ハル(ヴィータ・シモンズ)
ペギー・ダウ(ミス・ケリー)
ビクトリア・ホーン(マートル・メエ)
チャールズ・ドレイク(サンダーソン医師)
ハーヴェイ
時間という概念に支配されて生きる多くの現代人。「全ての物事を効率よく進めたい」という観念に支配された人々は、映画を含めた芸術全般の理解においても速く、快適に、そして、楽に≠サのエッセンスを汲み取りたいと望んでいる。しかし、速さ、快適さ、楽さ≠ノ慣らされることは、時間を超越した芸術≠ニいう分野が理解できなくなる去勢への第一歩でもあった。なぜなら芸術≠ニは「そこにあるお砂糖の味を試す行為ではなく、そこにかつてあったお砂糖の味を妄想する行為だからである」。一人の人間の人生において、現実感よりも想像力の方が、遥かにその人を支配するように(男女間の愛憎や、友情などの感情の源)、一般社会も想像力により支配されている。そして、それが陳腐になればなるほど社会も陳腐になり、それが豊穣になればなるほど社会は豊穣になる。『ハーヴェイ』という作品は正に警告である。あなたは時間=速度に支配されていないか?考えること・味わうことを放棄して、受け止めることのみに終始していないか?そんな人間にとってのリトマス試験紙のような作品。それが40代の男性と2メートルのウサギの物語である。

■あらすじ


母親の莫大な遺産で悠々自適に暮らすエルウッド(ジェームズ・スチュワート)は、毎日お気に入りのバーで相棒のハーヴェイと一緒に酒を嗜んでいた。誰にでも紳士であり人当たりの良いエルウッドだが、そんな彼にも一つだけ問題があった。実はそのハーヴェイという友人はエルウッド以外の誰にも見えない2メートルのウサギだったのである。やがてだれかれ構わずにハーヴェイを紹介するエルウッドに、嫌気がさした姉ヴィータ(ジョセフィン・ハル)とその娘は、彼を精神病院に入院させる決心をしたのだった。


■年をとるごとに優しさ・寛容さ≠ノ包まれた人になりたい


ハーヴェイ ジェームズ・スチュワート
この作品の魅力は、「重要ではない」と一般的に思われていることが、実はかなり「重要なこと」だったという点にある。この作品の主人公エルウッドには、ハーヴェイという名の2メートルのウサギが見える。しかし、映画を見ている私達にはハーヴェイは見えないので、彼は絶えず空気を相手に会話しているように見える。映画の始まりにおいて、けったいなオジサンが主人公の映画だなぁと誰もが感じるはずである。

しかし、この作品の素晴らしさは、そんな思いで見ている観客も、
いつの間にかハーヴェイは居るんじゃないか?いや居て欲しいと願うようになる所にある。存在しないものに存在価値を求める≠アとが、いかに人間にとって心の安らぎにつながるか?この作品ほどそれを明確に描いた作品はない。

ハーヴェイを、人間の心の拠り所に置き換えて考えてみよう。ハーヴェイを持つ人、ハーヴェイを求める人、ハーヴェイが見えない人。人は年を取るごとに心の拠り所を必要とする。そして、それがあるかないかで人間としての魅力の度合いも左右されていく。

逆に言うと40才を越えて、優しさを魅力に出来ない人間は、大した人間ではないと言い切れるだろう。エルウッドの優しさ・寛容の精神は、今の時代に忘れかけている何かを観ている側に、投げかけてくれている。誰かを出し抜こうとあくせくするのも30代までは良いだろうが、40代を超えてそれをしていたら、人間味気ないんじゃないかと・・・

この作品が、現代における世界的な殺伐とした空気の原因を解明してくれる。実はその殺伐さの理由は、無軌道な若者にあるのではなく、優しさ・寛容さ≠ェ気薄になっている40代以上の人間にあるという事を。


■ハーヴェイという、新種のドラッグをキメろ!


人生とは、時間に追われ、お金を追う(もしくは追われる)
だけで良いのか?この作品は1950年にして見事に現在にも適応されうる人々の姿を描いている。そして、精神病院(精神科、心療内科、神経科の象徴)で働く医者にも看護師にも心のゆとりは、殆どない。

これは現在においても大いなる問題なのだが、私の親友(=薬剤師であり保険薬局経営者)が言うのは、現代人は
「容易に予測できる同じことの繰り返しに対する倦怠」が原因で心を病みやすいという。そして、多くの人々は心の病を直すために専門医のもとへと足を運ぶのだが、心の病をケアする専門医ほど、精神が疲労困憊する仕事もないという。多くの専門医は自ら心の病を抱えているという。

だからこそ患者の心の疲労が理解できるのだが、その分多くの患者の苦悩に対峙しなければいけないので、心身的なストレスは並みではない。そして、多くの専門医は、的確なアドバイスを試みるよりも、もはや投薬に逃避する状態になっているらしい(心の病を持つ患者は、かなりの情報量を詰め込んでいる人が多いため、投薬を安易に求める傾向があるという)。

本作が公開された当時からアメリカでは、既に社会病として心の病が問題視されていた。そして、精神病院はそんな国の不名誉な¥ロ徴の一つだった。そんな象徴を舞台に、エルウッドにだけ見えるウサギに翻弄される人々を描いた本作は、間違いなく
60年代から押し寄せてくるドラッグによる幻覚作用やカルト宗教の到来の必然性を予見していたのである。

あまりこういう意地の悪い言い方をしたくないが、この作品は、一種のドラッグムービーでもある。
「コレをキメれば、オメエにも見えるぜ。楽園が」まさにその世界観がこの映画の片隅に存在している。



■人生を楽しく生きることを肯定する勇気


「僕はいつも素晴らしい時を過ごしているよ。どこにいても、誰といてもね」
エルウッド

エルウッドは莫大な遺産を相続しており、その遺産で姉とその娘を養っている。実際の所、二人は扶養家族であり、だからこそ、見栄を張ることに忙しい。本作に対して何もせずに陽の明るいうちから酒を飲んで、見境なく出会った人々を晩餐に呼ぶロクデナシ≠ニ見る人もいるかもしれないが、こう考えてみて欲しい。

エルウッドは、莫大な財産を相続しました。勤勉なエルウッドはその金を浪費しないように、未亡人となった姉とその娘の出戻りも拒否し、酒場にたむろする老人達を晩餐に誘うこともなく、朝から晩まで財産の増大に努めました。そして、街でも一番の財産家と言われる様になりました。

どっちの方が人間のあるべき姿かは、人それぞれの考え方次第なので、言明は避けたい。ただし、私は、一財産を何倍に増大させたかで人生の素晴らしさを考える人がいてもいいように、一財産を有効に浪費して充実した人生を過ごす事もなんら悪いことでも、ブルジョワ的なことでもないと考えている。

お金とは、貯める為にあるのか?人間性を削ぎ落とすためにあるのか?それとも素晴らしい時を過ごすためにあるのか?精神安定剤のようなものなのか?


■エルウッドに向けられる多くの羨望の眼差し


ハーヴェイ ハーヴェイ
オープニングから最後までエルウッドは、ハーヴェイに対してレディ・ファーストの対応をする。ハーヴェイのためにドアを開けてあげ、彼の帽子とコートを持ち、道路を横切る時も救いの手を差し伸べ、読書する時も朗読し、さらに椅子を引いてあげるという徹底振りである。

そして、人と会うたびに自分のフルネームの入った名刺を渡し、ハーヴェイを紹介しようとするのである。そして、だれかれ構わずにバーや晩餐に招待するのである。ところでエルウッドは仕事をしていない。つまり彼の名刺とは、そのもの彼の存在のためだけに作られた名刺である。

それを彼は人に必ず渡そうとする。一言話をするたびに彼は名刺を渡す。
基本的に名刺というものは、組織に所属するものの肩書きの証拠として使われるものであり、個人の存在の否定的な意味合いを持つものだが、エルウッドにおいては、自己の存在の肯定的な意味合いとして名刺を渡すという行為が行なわれる。

このエルウッドの開放感溢れる気質は、いつの時代においても人々の心を惹きつける。一切の肩書きを度外視して人々と付き合う。今も昔も人間にとって難しいのはまさにコレである。だからこそ、殆どの人はこのエルウッドの生き方に、羨望の眼差しを向けざるを得ないのである。


■ジェームズ・スチュワートだったからこそ・・・


ハーヴェイ ハーヴェイ
本作におけるジェームズ・スチュワート(1908−1997)の芝居は、自分の持ち味を生かした彼しか演じることが出来ない領域の名演である。
この人の素晴らしさは、人間でありながら人間ではないような所にある。そして、驚異的なところは、そんな彼が、極めて感情的な人間を演じるのも得意とする所にある。

本当の意味で、デ・ニーロの前にマーロン・ブランド。ブランドの前にジェームズ・スチュワートという位彼はカメレオン俳優だった。彼を見ているだけで微笑ましくなる男を演じているかと思えば、彼を見ているだけでイライラしてくる神経質な男を演じるという豹変振りを作品ごとにいとも簡単にやってのける。

「アメリカの良心」と呼ばれた彼だが、私はむしろ彼は「アメリカの多面性」を体現した俳優だと思っている。


■ペギー・ダウとジョセフィン・ハル


ペギー・ダウ ペギー・ダウ ペギー・ダウ
本作に登場する非常に魅力的な看護婦ケリーを演じたのはペギー・ダウ(1928− )という女優である。彼女は1951年に石油掘削の仕事をしている男性と結婚し、引退した。僅か3年間女優として活躍した人で、家庭生活は5人の子供に恵まれた幸福なものだったという。そういった家庭生活を営む能力のある女性だと分かって彼女を見ていると、この作品においてにじみ出ていた聡明さ・人の良さが地の部分であることを認識させてくれる。

この光り輝くような清純な看護婦ケリーと、エルウッドの不思議な交流が描写されていたからこそ、この作品は一種独特の幻想性を持ちえたとも言える。

ハーヴェイ ハーヴェイ
そして、エルウッドの姉ヴィータを演じる小太りの女性ジョセフィン・ハル(1877−1957)はブロードウェイの大スターであり、1944年の舞台においても同じ役柄を演じていた。そして、1950年度アカデミー賞助演女優賞とゴールデングローブ助演女優賞を獲得した。

ちなみにヴィータの娘マートル・メエを演じていたビクトリア・ホーン(1911−2003)の夫は、『チャップリンの独裁者』(1940)の独裁者ナパロニ役などで有名な俳優ジャック・オーキーである。


■スマート・オア・プレザント


ハーヴェイ
「どんな名前が好きだい?」「ハーヴェイ」「奇遇だね。僕の名前はハーヴェイなんだ」

ハーヴェイが何故ハーヴェイと呼ばれる事になったのか?この一連のスチュワートの語り口調が実に素晴らしい。そして、この二人の肖像画の雰囲気も、不気味というよりは心温まるものが感じさせられる。

「この疲れ果てた世間のどこで彼を見つけたんだい?」精神病院院長

「科学の発達で時間と空間は越えられるようになりました。でもハーヴェイは時間と空間だけじゃなくあらゆる対象を越えられるんです」エルウッド

ハーヴェイという存在に対するヒントが、以上のセリフの中に明確に込められている。現代人が何故疲労困憊しているのか?一生懸命に生きてるからか?否。実は何かに追われて加速させられているからである。
自分で考える能力を削り取られて、生存権を獲得していく。

そして、心も身体も疲労困憊し、思考能力は失われ、心の中で何かを幻想するというゆとりさえも失われていく。現代人の心の病の根源にあるのは、的確に言うと、
一生現実を直視して生きていこうとするその生真面目さの中にあるのである。

「僕の母がこう言ったんだ。この世の中ではねエルウッド。抜群に抜け目なく(スマートに)過ごすか?抜群に親切でいることよ≠チて。そして、僕は何年も抜け目なくやってきたから、今度は親切な方にしようと思ったんだ」エルウッド


■その人の欠点が、実はその人の長所が生み出された源だった


ハーヴェイ ハーヴェイ
そして、エルウッドは精神病院で注射を打たれる事になる。姉ヴィータのたっての願いでそういう展開になったのだが、タクシー運転手の一言でヴィータは、注射を止めてしまう。

「みんなタクシーに乗ってここに来る時は心にゆとりがあるんだよ。でもね、帰りのタクシーではゆとりの欠けらもなくなるんだ」

例えハーヴェイを見ようとも今の弟のままで居て欲しい。
他人にとって欠点に見えることが、実はその人の素晴らしさの根源だったという事である。こういう作品を作れたこの時代のハリウッドは本当に素晴らしかった(実際の所スチュワートがこの作品の映画化を渇望した所から始まっているので、彼が素晴らしいといった方が正確である)。

あらゆる人間に欠点は存在する。そして、多くの人々は欠点を克服することだけを声高にヒステリックに叫び、
均一化した人間、もしくは規格外れの人間といった風に二種類に選り分けていく。しかし、この考え方は極めて文部省的であり、間違っている。

実際の所、
人間の個性は欠点から派生した長所によって象られているのである。その欠点を安易に消し去ろうと強制することは、その人間の長所が生み出される可能性を握りつぶしているも同然なのである。


■20世紀最高峰の芸術的傑作それが本作


最後にハーヴェイが見える精神病院の院長が、エルウッドにハーヴェイを置いていってくれないか?と頼む。そして、ハーヴェイと別れて一人帰路をとぼとぼと歩くエルウッドが、彼が戻ってきてくれた事を知り、「サンキュー」と言う。その表情の自然な輝き・・・

舞台でその役柄を演じ上げ、本当にその役柄を愛している役者が、その役柄を演じる姿を観る喜び。この作品の素晴らしさは、物語以上にジェームズ・スチュワートの
「惚れ込んだ役柄を演じることが出来る喜び」が映画全体からにじみ出ていることによるだろう。

そういった観点で本作をオープニングから再見してみると、あの自宅の門を開けるその仕草から、彼のワクワクしている心の躍動感を感じ取らずにはいられない。そして、
映画というものが、如何に一人の役者の心の躍動感を見事に閉じ込め、拡散する事のできる芸術であることを再認識させられるのである。

このエルウッドを演じるスチュワートの芝居は、上手いとかそういった次元を遥かに越えた、彼が渇望した心の躍動が見る人々に伝染していく芝居であり、これは役者が達しうる一つの最高峰の芸術の形と言っていいだろう。そういった意味においては、この作品は『風と共に去りぬ』になんらひけの取らない傑作である。


■ジェームズ・スチュワートの一番のお気に入り


ハーヴェイ ハーヴェイ ハーヴェイ
本作はメアリー・チェイスの原作をもとに1944年11月1日からブロードウェイで舞台公開され、5年間の大ロングランを記録した舞台劇を映画化したものである。ちなみにメアリー・チェイスはこの原作によってピュリッツァー文学賞を受賞した。

元々舞台においてフランク・フェイがエルウッドを務めていたが、1947年と48年の一時期(フェイの休暇時期に)ジェームズ・スチュワートがエルウッド役を演じていた。そして、彼はこの作品の映画化を渇望し、1950年に映画版の主役に決定する。ちなみにヴィーター役のジョセフィン・ハルも看護士ウィルソン役のジェシー・ホワイトも舞台で同役を務めていた。

1950年4月18日から6月6日にかけて撮影された。舞台版は、エルウッドがアルコール中毒だという事が容易に想像がつくように演出されているが、映画化においては、その点を無理にあやふやにして演出したという。そして、その事が本作に普遍性を生み出す結果となった。

1970年と72年にもスチュワートのエルウッドで『ハーヴェイ』はブロードウェイ公開された。


− 2007年12月24日 −


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