HOME
■サイト内検索

■洋画
 □カタカナ順
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
 □クラシック
 □ドラマ
 □コメディ
 □サスペンス
 □アクション
 □ポリス
 □スパイ
 □犯罪
 □カー
 □ミュージカル
 □史劇
 □文芸
 □戦争
 □西部劇
 □アドベンチャー
 □パニック
 □ギャング、マフィア
 □SF
 □ホラー
 □スポーツ
 □香港
 □ドキュメント
 □アニメ
 □エロス
 □B級
 □アカデミー賞
 □カンヌ映画祭
 □ヴェネチア映画祭



■邦画
 □ひらがな順
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
 □名作
 □ドラマ
 □喜劇
 □サスペンス
 □アクション
 □刑事
 □時代劇
 □戦争
 □文学
 □パニック
 □東映ヤクザ
 □ギャング、ヤクザ
 □特撮
 □怪奇
 □ドキュメント
 □アニメ
 □エロス
 □B級
 □海外映画祭受賞
天国の門   HEAVEN'S GATE(1981・アメリカ)
■ジャンル: ドラマ
■収録時間: 149分(ノーカット版・219分)

■スタッフ
監督・脚本 : マイケル・チミノ
製作 : ジョアーン・ケアリ
撮影 : ヴィルモス・ジグモンド
音楽 : デヴィッド・マンスフィールド

■キャスト
クリス・クリストファーソン(ジェームズ・エイブリル)
イザベル・ユペール(エラ・ワトソン)
クリストファー・ウォーケン(ネート・チャンピオン)
ジェフ・ブリッジス(ジョン・L・ブリッジス)
ジョン・ハート(ビリー・アーバイン)
サム・ウォーターストン(フランク・カントン)
ジョセフ・コットン(博士)
天国の門
ある意味において神の領域。ただし、地獄というものも神が作り出したものであるならば。最後の入植者達と牧畜業者組合の雇うガンマン達の死闘は、西部劇史上においては素晴らしい決闘シーンであるが、そこにもっていくまでの物語が長すぎた。無駄が多いということは芸術的範疇においては既に致命的なまでの芸術的価値の欠陥なのである。

■あらすじ


ワイオミング、1891年。移民たちがごった返す機関車の中に連邦保安官エイブリル(クリス・クリストファーソン)がいた。ジョンソン郡に就任することになったエイブリルは、旧友のビリー(ジョン・ハート)から、牧畜業者組合が125人の入植者の暗殺リストを作って雇われガンマンたちに殺させようとしていると伝えた。そして、その中にエイブリルが愛している娼婦エラ(イザベル・ユーペル)の名前も記されていた。


■冒頭の20分


天国の門
まずは純粋に完全版を鑑賞してみよう。冒頭の20分にわたるハーバート大学においての卒業パーティーの大舞踏会のシーンから早くも映像美を越えたくどさに満ちている。たしかにジョセフ・コットンの思わぬ名演。ジョン・ハート演じるビリー・アーバインの素晴らしいイギリス英語の台詞回しは魅力的だったが、映像からはそれを超える締りのなさを感じる。

クラシック音楽においても、絵画、バレエ、オペラ、小説全てにおいて、
美しい描写を鈍重に延々と垂れ流す行為を芸術とは呼ばない。それは創作過程の作品であり未完成に等しい。写真、絵画、日記、音楽、踊り、プライベートなものならいくらでも自己満足に浸ってよい。ただし、そこに芸術性が絡み合わさると自己満足は芸術の天敵になってしまうのである。

芸術には必ず客観性が求められる。


本作に対する世間一般の一つの勘違いの認識として、「芸術家であり天才であるチミノが、その才能を浪費したゆえに失敗した作品」といわれているが、そうではない。
「デビッド・リーンに憧れた映像作家が、芸術を札束と時間の浪費と勘違いした行為」だったのである。


■登場人物の描写の怪

天国の門 天国の門
『ディア・ハンター』は人種差別的ではあるが、大傑作である。ただし、それは多分にロシアン・ルーレットというもののショッキング性と、デ・ニーロとウォーケン、カザールの神がかりな芝居の融合にもある。しかし、本作においては、芝居の融合はなく、ショッキング性も存在しない(物語の上でのショッキング性は何箇所か存在するが)。それよりも何よりもまず脚本が問題ありなのである。

最初にハーバードが登場し、20年後のワイオミングに場面は移っていくのだが、ここで一つの問題点が発生する。
登場人物についてなんら説明がなされないのである。といって物語が進行するにつれて登場人物が何者かわかるような工夫もされていない。

結局エラはどこの国からの移民か?なぜ売春婦になったのか?エイブリルは自室に女性との写真を飾っているがそれは何のため?彼は何年ぶりに帰ってきたのか?なぜエラとエイブリルは認識があるのか?チャンピオンとエイブリルの関係は?そもそもエイブリルはなぜエラに固執するのか?エイブリルにしてもしかり。そういった部分が全くはっきりしない。

「こういった部分は作品の中から読み取るべきである」という意見もあるだろうが、その考えは明確に間違っている。90分の作品ならまだしも223分の作品は、小説で言えば長編小説である。説明不足なトルストイが存在しないように、説明不足な長編映画は、映画監督が長編を選んだ意味を履き違えているのである。

その世界に見ているものを埋没させるためには、物語が長ければ長いほど登場人物の説明は最低限必要である。ゲームの中の約束事のように物語を都合よく勝手に進めて行くことは間違いである。


■ラスト・・・結局何を言いたいのか?


天国の門
「人は人生の中で、色褪せていくものを愛するものである」


本作のテーマがこれである。確かに素晴らしいテーマだが、そのテーマがラスト・シーンに集約されているかというとはなはだ疑問である。1903年に物語は転化し、一人生き残ったエイブリルは船上の上でかつては美しかったが、いまや美貌も衰えつつある繊細で薬物依存症の何も出来なさそうな妻と上流階級の暮らしをしているのだが、デッキに出て一人物思いにふけるのである。エラとの楽しい日々を・・・。そして、物語は終わりを告げる。しかし、よく考えればこの男、1891年にワイオミングにいた頃から結婚していた可能性が映像の端々で見受けられるのである(写真立てやエラに決して求婚しないところなど)。

結局この終わり方は本来は魅力的なはずだが、映画が長い割にはカタルシスのない=救いようのない終わり方と感じる。その原因も全てこの主人公エイブリルの妻とエラを天秤に図るような行動に感情移入しづらいからである。そんなエイブリルなら、まだエラと一緒に死んだ方が、映画として完結していたと見ている側は感じるのである。

そして、このシーンを見ながらふと思い出すので、エラとの美しい日々よりも、鞭を振り回しアルコールに溺れ入植者を一度は見捨てたあの姿を・・・


■西部劇性を打ち消したかった


こういった具合に219分の映像は実に締りのない独りよがりの余韻を残して終わっていく。結果的に絵画のような映像美にこだわるあまり登場人物の描写があまりにおろそかになってしまっているので、本作の一つのテーマでもある娼婦が2人の男を同時に愛せるか?といった魅力的なテーマが見事感情移入できない状態で唐突に登場するのである。

見ている人たちはこう思うだろう?冒頭のハーバード大学のビリー・アーバイン(ジョン・ハート)と「美しき青きドナウ」にのって一緒に踊るあの美しい女性が本作の主人公に絡んでくるのだな?と・・・実際はビリーとは前半のビリヤード台でしか絡まず、ラストの死闘でビリーが死んでいることさえもエイブリルは無頓着な始末である。

さらに唐突にラスト船の上で、結局は拒んでいた上流階級の暮らしに戻るエイブリルがあの美しい女性=妻と一緒にいるのである。なんだそれ?それだけの関わりのためにこの二人を冒頭で登場させたのか?

実はこの冒頭とラスト・シーンの挿入には明確な意図があり、製作会社のユナイテッド・アーティスツ(以下UAとする)もチミノも本作が西部劇だと思われたくなかった。だから東部色の強いハーバードと船上のシーンにこだわったのである。これらのシーンが頭と尻尾に入れば誰も本作を西部劇とは思いもしないだろうし、見る側の興味も惹かれるだろうと・・・

しかし、UAもチミノも気づいていなかったのだが、1980年代初頭に西部劇はお呼びでなかったことは事実だが、それ以上に事実なのは、ハーバードやヨット生活をしている人々を描いた作品なぞいつの時代でも誰も興味がないということだった。


■映像の美しさが生み出す窮屈さ


チミノは本作を映像化するにあたって、脚本的な部分よりも19世紀末の西部を冷酷なまでに再現することに重点を置いていた。だから彼は何かに取り付かれたかのようにディテールに拘った。ただし、脚本を除いて。まずはモンタナの何もないところにレールを敷き、機関車を運び込み駅と町を作らせた。

さらに、衣装に化学繊維を使用することを禁じ、数百に及ぶ衣装を全て手縫いで作らせ、細部に気を配って再現された二輪や四輪の馬車や手押し車、小道具は本物を集めた。さらに、
入植者の貧乏くささを出すために大金を投じた。

全ては当時を再現し、『ディア・ハンター』で気心も知れた名カメラマン・ヴィルモス・ジグモンドの映像美に酔いしれようという算段からである。そして、画面上に映し出された映像の数々は文句なしに芸術的な美しさに満ちていた。最初に登場するエラの家の風景や、エラが全裸で水浴びする姿、ビリーが煙に飲み込まれていくシーンなど挙げればきりのないほどの映像美の洪水だった。

しかし、魅力的な要素は、それと最後の戦闘シーンだけだった。その映像美だけで219分間では、次は何かという興味にも飽きがくるものだろう。
そもそも約4時間もかけて描きたいことが1891年の数日間の出来事というのが閉塞的過ぎるのである。『アラビアのロレンス』『十戒』『ベン・ハー』『風と共に去りぬ』にしても約4時間の作品はどれももっと長いスパーンを描いているのである。


■唐突にやって来たサム・ペキンパー


天国の門
本作の戦闘シーンは一ヶ月もかけただけあり、素晴らしいほどに冴えている。ただし、サム・ペキンパー的な感覚においてである。つまり一個の作品としては素晴らしい戦闘シーンだが、明確に本作の映像美からは浮き上がっていた。そして、むしろ共食いしていた。

実際にサム・ペキンパーは戦闘シーンの第二班の撮影監督をする予定だったが、心臓麻痺でそれが不可能となり、ロケ地に4日だけ滞在し、チミノにアドバイスを与えたという。

かなり目を背けたくなるシーンも多い残酷描写は『ディア・ハンター』のロシアンルーレットにも似た感覚を見るものに与えるほどショッキングだが、
チミノはある意味において、映像を見ている人々に最大級の映像美と、最大級の残酷美(?)を相対的に提示したいという考えに取り付かれていたのだろう。それが彼の天才性の証明とでも言うように。

1981年カンヌ映画祭にてチミノはこう語っている。
「ケネディが暗殺された時、気分がすっきりした人間がたくさんいたんだ。彼の姿が眩しすぎて、自分の人生に嫌悪感を抱いていた連中がたくさんいたからさ。もちろん自分をケネディになぞらえるつもりはないがね。しかし同じような理由で、ジャーナリストたちが僕をやっつける機会を持っていたのは確かだよ。僕が成功と才能そのものだからさ」

このコメントが当時の本作の理路整然とした物語の破綻ぶりを示しているのである。


『天国の門』は閉ざされ、「地獄の門」が開かれていた


■ジョンソン郡戦争

全てはこの実際の歴史事実から始まった。1891年、ワイオミング州で起こった入植者と牧場経営者の間での小競り合いである。実際は戦争というような戦闘行為は行われていず、殺されたのはウォーケン演じたネート・チャンピオンとその仲間1人だけだった。

事件の発端は1862年に当時の大統領リンカーンの後押しにより制定されたホームステッド法である。その法律により21歳以上の米国市民権を持つ者が、移住して5年間定住し耕作した場合、160エーカーの公有地を無料で与えられることになった。しかし、ワイオミングではこの法制度を利用して入植してきた公有地は、そもそも放牧地として牧場経営者達が利用していた土地だったので、牛泥棒やリンチが横行した。そして、この事件の以前にも1889年に2人の男女が吊るし首にされ私刑されていた。

ジェームズ・エイブリルとエラ・ワトソンの2人である。。つまり本作の主人公の2人である。実際のエイブリルはコーネル大学出の郵便局長で雑貨屋も営んでいた。一方、エラは妻であり、地元の売春宿の女主人だった。常々牧場経営者の横暴に対抗した事により吊るし首にされた2人は入植者にとって殉教者扱いされていた。一方殺害されたネートは2人とは全く接点がなく、実際はただの牛泥棒だった。ただし殺され方は本作の通りだったらしい。

■アラン・ラッド

1953年この事件を元にアラン・ラッドの『シェーン』が作られた。そして、1959年アラン・ラッドは『ジョンソン郡戦争』を本格的に映画化しようとしていた。しかし、話は流れてしまった。

■マイケル・チミノ

天国の門
1973年末にチミノは『サンダーボルト』のヒットをうけマックィーン、ニューマン、レッドフォード、イーストウッドのいずれかとマッグロー、フォンダ、ウェルチのいずれかでこの『ジョンソン郡戦争』を題材に映画化する話を勧めた。

やがて、話は本格化し、当初クリス・クリストファーソンの役にジョン・ウェイン、クリストファー・ウォーケンの役にジェフ・ブリッジス、そして傭兵役にヘンリー・フォンダ、バート・ランカスター、ジェームズ・スチュワート、ロッド・スタイガー、バート・レイノルズ、ジェームズ・カーン。移民役にはイングリッド・バーグマン、ジーン・ハックマン、リチャード・ウィドマーク、ジョン・ヴォイト、カーク・ダグラス。連邦騎兵隊隊長にはウィリアム・ホールデン、アル中のビリー役にはジャック・レモンという超大作化も現実化しようとしていたが、その割りには題材がもう一つなのでボツとなった。

■ユナイテッド・アーティスツ

天国の門 イザベル・ユペール
1978年9月マイケル・チミノがUAに750万の予算で『ジョンソン郡戦争』は撮影出来ると断言。そして、UAも検討の結果、予定撮影開始日1979年4月2日、完了日6月22日、編集作業7月20日〜9月4日、総予算1158万8000ドルで、2時間半〜3時間に内容を収めることという条件で、全ては1979年のクリスマス公開に向けての予定で製作決定された。今回は完璧主義者のデ・ニーロもいないし、東南アジアでの撮影じゃないので撮影遅延、予算超過の事態は起こりえないだろうと・・・

そして、キャスティングへ。UAはジェーン・フォンダかダイアン・キートンを希望したが、フォンダは
「人種差別主義者の作った作品だ」と『ディア・ハンター』を批判していたので叶わず、キートンも辞退した。そこで、チミノはイザベル・ユペール(1953− )というフランス人の女優を指名した。

ユペールは今でこそフランスを代表する名女優だが、当時アメリカでは無名だった。UA首脳部は彼女の英語力がつたないことと「彼女の顔はじゃがいもみたいだ」という理由で、アメリカ人の女優を使いたがった。しかし、チミノは強固にユペール起用を主張し、彼女は役柄を掴んだ。

■天国の門は開かれた

やがて、UAが頭をひねる事態が勃発した。チミノがモンタナ州でのロケを主張したからである。それだけならまだわかるが、ロケ地に町まるごとと鉄道のセットを建設すると主張したのである。通常セットはスタジオで組まれ、製作費のかさむロケ撮影をする場合はロケ地の施設を使ってするものだが・・・

機関車とレールのゲージだけで15万ドルもの予算を使った。(結局、作中ではほんの数分しか使用されなかった)しかも撮影は雪崩の影響でセットが組めず、撮影開始日は4月16日に延期された。そして、撮影が開始され、UA首脳部は恐るべき事実を聞かされるのであった。
一週間目にすでに約6万フィートのフィルムを使いそのうち使えるのは1分30秒程度だった。つまりすでに5日の撮影の遅れである。

■『ディア・ハンター』で予算の二倍を使う

この時UAは、当初チミノが弾き出した予算の二倍の出費を覚悟した。1500万ドルである。しかし、6月1日の時点で脚本133ページ中107ページを残していた。チミノは何度も気に入らないシーンを延々と撮り直していたのである。しかも
エイブリルが鞭をベッドルームで振り回すシーンにいたっては53テイク重ねていた。ここで、UAはチミノを首にしてノーマン・ジュイソンに引き継いでもらおうと、交渉したが、ジュイソンは前向きに検討したうえで、辞退した(既にチミノが撮り終えてるフィルムを見るだけで数週間はかかるよと)。UAは公開予定を来年の1980年にずらすことにした。

UAがせかしたものの10月2日にようやく撮影終了した。カントンが鉄道線路脇で傭兵を集めるシーンがロケにおけるラスト・ショットだった。この時点で2700万ドルが使用された。しかし、さらにプロローグとエンディングの撮影が残っていた。
その上、ハーバード大学での撮影許可下りず、チミノはフロリダにハーバード大学を建てようとした。

さすがにUAも激怒し、あと300万ドルの予算内で両方の撮影を終えないと映画から手を引くとチミノに言い放つ。結局イギリスのオックスフォード大学マンスフィールド校で撮影をすることになる(クリストファーソンの母校でもある)。『エレファント・マン』の撮影を終えたジョン・ハートが演説するオープニングシーンはこのとき撮られたものである。実はハートは、モンタナでの撮影においても10週間ほど滞在していたのだが仕事は一日半しかなかった。

1980年6月26日、2時間半〜3時間の約束でチミノに編集させた本作の
ファースト・カットは5時間25分にも及んでいた。しかもチミノは「あと15分はカットできるから安心してくれ」という始末だった。

■UA崩壊へ

1980年の12月一般公開に向けて、プレミア公開するために3時間39分バージョンが公開されたが、評判は散々なものとなった。ニューヨーク・タイムスは
「チミノ氏は『ディア・ハンター』の成功を手にするため、悪魔へ魂を売りに渡したのではないかと疑いたくなるかもしれない。そして、悪魔はそれを取りに来ていたのだ」「『天国の門』は近年まれに見る映画だ―掛け値なしの駄作である」と評価したほどだった。

やがて、酷評の嵐にチミノが耐えきれなくなり、自ら再編集をしたいと一般公開の先送りを申し出た。そして、1981年に149分に縮小され一般公開された『天国の門』は結局4400万ドルの予算をかけ、興行収入は350万ドルという史上最悪の事態を招く結果となった。

結果的に同年UAはMGMのオーナー・カーク・カーコリアン(1917− )により買収される。ここにUAは1919年にチャルズ・チャップリン、メアリー・ピックフォード、ダグラス・フェアバンクス、D・W・グリフィスの4人に創立された約60年の歴史を閉じることになった。

もちろん監督のマイケル・チミノはハリウッドを追放され、ディノ・デ・ラウレンティスによりようやく1985年に『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』を監督することになる。


■いまいち?いや良かった?


クリストファー・ウォーケン クリストファー・ウォーケン
「自由ってのは、もう失うものが何もないっていうことなのさ」


本作に出演した役者達の芝居もまた微妙である。確実に良い芝居をしていたのは、クリストファー・ウォーケン(1943− )ぐらいだろう。この頃のウォーケンには孤独と他を寄せ付けない危険な魅力に満ちていた。おそらく、このウォーケンの魅力を一瞬吸収したのが本作で弟役を演じたミッキー・ロークだろう。狼の舌の話でのロークの芝居なんかはなかなか魅力的である。

主役の2人は魅力的なのだが、その魅力はクリス・クリストファーソン(1936− )の魅力というよりも、イーストウッドの魅力をそのままコピーしたかのような芝居が魅力的という感じである。一方、全裸で水浴びするシーンやレイプ・シーンなど体を張った演技を見せてくれたイザベラ・ユペールは、少し硬い感じのメリル・ストリープといった感じで、もう一つ魅力が発揮されておらず無理のある芝居をしていた。

他に、ジェフ・ブリッジスやジョン・ハート、サム・ウォーターストーンといった演技派俳優が出演しているが、どちらかというと見せ場のない役柄を演じさせられている。ちなみにエキストラでウィレム・デフォーが出演している。


■「人は歴史を勝手気ままに使うものだ」チミノ


本作の音楽は実に素晴らしかった。特に冒頭のハーバード大学から1891年のワイオミングに舞台を転化するシーンにおいての音楽は鳥肌が立つほどに素晴らしい。当初ジョン・ウィリアムズが担当する予定だったが、製作の遅れにより降板し、デヴィッド・マンスフィールド(1956− )が担当することになった。

マンスフィールドは本作でローラースケートを履いてヴァイオリンを演奏している男の役柄で出演もしている。彼はボブ・ディランのコンサートに参加したりとディランに所縁の深い人物である。

− 2007年6月30日 −


当サイト内で使用している画像・映像キャプチャー等は、あくまで映画文化の熟成及び芸術復興を標榜する当サイトの意図により、
「映画を文章だけで云々することの不誠実さ」と「目で感じる芸術及び娯楽」である映画に対する敬意の姿勢で使用しております。よって著作権等は、全て各製作者・会社に帰属します。
画像・映像キャプチャー等の使用に関して表記の問題がある場合、又は削除依頼がある場合は迅速に応対させていただきますのでご連絡ください。
このサイトは、100%非営利に、純粋に「映画解釈の究極」を求めて運営されています。取り上げるべき作品・感想等ございましたらどんどんメールください。
当サイトはリンク・フリーです。
Copyright (C) 2007 Geijyutsu Taizen. All Rights Reserved.
Mail:webmaster@summaars.net