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ハイ・シエラ   HIGH SIERRA(1941・アメリカ)
■ジャンル: アクション
■収録時間: 100分

■スタッフ
監督 : ラオール・ウォルシュ
製作 : ハル・B・ウォリス
原作 : W・R・バーネット
脚本 : ジョン・ヒューストン / W・R・バーネット
撮影 : トニー・ゴーディオ
音楽 : アドルフ・ドイッチ

■キャスト
アイダ・ルピノ(マリー)
ハンフリー・ボガート(ロイ・アール)
ジョーン・レスリー(ヴェルマ)
アーサー・ケネディ(レッド)
アラン・カーティス(ベーブ)
ヘンリー・トラヴァース(パー)
ハイ・シエラ
男が惚れる男・・・ボギー。そして、女も男も痺れるいい女・・・アイダ・ルピノ。20世紀における最高峰の名女優アイダ・ルピノとボギーの掛け合いを見ているだけでも、今にはないクールネスが体感できる。クールな女とは、秘められた情熱をクールさで覆い隠しているからこそ、魅力的なのである。ただ黙ってきりっと澄ましているだけの美人ではないところに彼女の最大の魅力がある。

■あらすじ


終身刑を宣告されていた凄腕の強盗犯ロイ・アール(ハンフリー・ボガート)は、特赦により8年ぶりにシャバに出ることになる。早速仕事を再開するロイは、ホイットニー山山麓で3人の仲間と共に、リゾートホテルの貴金属を強奪する計画を建てる。一方、ふと知り合った老人夫婦の孫娘ヴェルマ(ジョーン・レスリー)に心を寄せるロイ。彼女は片足が悪かった。そして、そんな彼の姿を黙って見つめる仲間のマリー(アイダ・ルピノ)はロイに心惹かれていた。


■ほとばしるアイダ・ルピノの魅力


ハイ・シエラ ハイ・シエラ
何よりもアイダ・ルピノ(1914−1995)の情の深い女っぷりに、惚れずにはおられない。
映画史上これほど男性にとって理想的な女はいないのではないだろうか?男のためにどんな危険な橋でも共に渡ろうとし、悲劇を導く犬だと言われても決してその犬を見捨てず、自分の信じる道を進み続ける女。

あの最初の登場シーンの実に孤独な表情の彼女。そして、指輪を貰った時の彼女の満身の泣き笑顔・・・
「計算高い男も、計算高い女も、人間としての魅力に欠ける」。本当に魅力のある女とは、周りの反対を押し切ってでも、愛する男性への愛を貫き通せる女。そして、知性がなくとも情は人一倍多い女。

女に知性よりも情の深さを求める男を、バカだと笑う女は笑うがいい。
女が打算的になればなるほど、女の幸せは必ず遠のく。女ほど実は金だけで生きていけない存在はないのである。いい女は、いい男を愛し、愛され、情の深さをより深くしていく人のみに魅力≠ヘ与えられる。

男を愛さず、金や自分を愛する女なぞ、私は女と呼ばない。
なぜならそんな女は、「3分で飽きる」女に過ぎないからだ。その女は、男に何を求めているか?それでその女の大概は分かるというものである。


■ハンフリー・ボガートがボギーになる瞬間


ハンフリー・ボガート ハンフリー・ボガート ハンフリー・ボガート
この作品によりハンフリー・ボガート(1899−1957)はスターダムへと駆け上がっていった。正に40代前半で掴んだ栄光であり、それだけ忍耐強く待った上で与えられた栄誉である。いまだ魅了してやまないボギーの魅力は、
一言でいうと実際の彼の歴史が産み出す男の表情≠ゥら生み出されている。

それは40代になって若作りに励む元アイドルや、20代から親の七光りでそれなりの活躍をし、40代になって一端の役者になったつもりの俳優には、決してにじみ出てこない領域である。
己が一代で酸いも甘いも知り尽くせたからこそ、男も女も有無を言わさずに魅了する存在感が漂うのである。苦汁を舐めた時の多さだけ更に強く神々しく輝けるのである。

そういった意味においては、殆どの日本の総理大臣の表情が実に男としての魅力に欠けるのも、当然の話である。
総理大臣になる男は、殆ど、自分でお金を稼いだ経験もなく、何不自由なく暮らしてきたヤツラである。そんな輩が牛耳る国は、平安王朝とそう対して変わりないのではないだろうか?


■欲望を剥き出しに疾走する時代が迫っていた

ハイ・シエラ ハンフリー・ボガート ハンフリー・ボガート
「一時間も待ったぞ」「俺は八年間待った」

「失望させるなよ?」「俺が失望させたことがあったか?」


物語開始早々に30年代のギャング映画特有の気の利いたセリフがポンポン投げかけられる。こういったセリフの応酬もまたギャング映画の魅力である。ロイ・アールの強盗に協力する若造の一人レッド役にデビューしたてのアーサー・ケネディ(1914−1990)が出演している。

本作の骨格として重要なのは、強盗犯ロイ・アールの性質である。彼には強盗に対して犯罪という認識は全くなく、むしろ最高峰の腕が必要とされるプロの職業と考えている。だからこそただの悪徳警官や犯罪者と一緒くたにされることを拒んでいる。

そして、贅沢な生活を好む訳でもなければ、普通の市民に対してはむしろ紳士的でさえもある。しかし、彼はどうやら時代から取り残されつつある男でもあった・・・40年代から早くも時代は欲望に向ってまっしぐらに疾走していく気配を見せ始めている。そして、
欲望に向って疾走するとは、そのものずばり義理人情の世界は古いものとなり、裏切りの氾濫する孤独な犯罪者の時代への突入する事なのである。


■本当にいい女の姿がここにある


アイダ・ルピノ ハイ・シエラ
「役に立たないケンカなんてやめて」

友達のいない少女のように棒で土をいじっているルピノ扮するマリー。そんな彼女が顔を上げる初登場の姿から、観客の多くはその不思議な磁気に引き寄せられるだろう。マリーは孤独の中で生きてきた女性である。しかし、ただの淋しがりな女とはまた違うことも最初のこのシーンで見せ付けてくれている。孤独によって男に寄りかかる女性ではなく、孤独の中でも自分の居場所を必死に探そうとするその姿・・・

そして、このキリっとした意思の強そうな表情の中に秘められた彼女の優しさ(実生活においてもサム・ペキンパーを始めとする監督達が売れない時代に、仕事の世話をしてあげたりしたという)
。いい女とは優しさ(=情熱)を、クールさで覆い隠しているからこそより魅力的なのである。

ああ・・・
アイダの、クールさを押しのけて、その情熱を勝ち取りたい・・・男にそう願わせる女。これこそ男にとって本当にいい女というもの。


■男に多くを求めなくなった時、彼女は男をより愛せるようになった


ハイ・シエラ ハイ・シエラ
「逃げられると思うから生きていられる」

「はっきり言う。俺には計画がある。君抜きの計画だ。今さら変えることはできない」

女性の男運は、父親から始まる。
マリーにとって男運の悪さの始まりは、酔うと家族に手をあげるロクデナシの父親からだった。それ以降は、都会に出てダンサーをしていても全く男運に恵まれなかった。そして、心機一転を図り共にこの山麓にやってきたベーブという男もまた、すぐ彼女に手をあげるロクデナシだった。

マリーはそんな男運のない自分の生活に終止符を打つために、ロイという男を選んだ。
今まで男に多くを求めていた女は、男に多くを与えることにした。それは物質的なものを与えるのではなく心の安らぎというものを与えることによって・・・彼女は悪い男に囲まれてきただけに、男の本質をより知ることが出来た。

彼女は男に多くを期待しないことによって、男をより愛することが出来た。


■純粋無垢なヴェルマと浮世の垢にまみれたマリー


ハイ・シエラ ハイ・シエラ
ここにマリーとは全く違うタイプの女が登場する。貧困にあえぐ祖父母と共に実の母親(違う男性と再婚している)のもとに身を寄せることにしたヴェルマという20歳になったばかりの女性。彼女は先天的に片足が悪かった。そして、彼女の純真な美しさに惹かれたロイは、ヴェルマに恋人が居るという事を知りながら、彼女の手術の為に金を工面した。

そして、歩けるようになった彼女に会いに行くロイ。この作品の一つのハイライト・シーンである。ヴェルマは歩けるようになって、初めてやってきた恋人とその友達のカップルと共にダンスしている。それを見つめるロイ。

「彼と結婚するの。彼ならお金が困らないわ」

「オレはあんたも友達も好きではない!」ロイはヴェルマの恋人に言い放つ。
「ヤキモチなんて迷惑なだけだわ!」ヴェルマ

お金に困らない男が、なぜヴェルマの足を治してやろうとしてやらなかったか?そういう事さえも考えられない女。ヴェルマは自分の足が治ったことにより、大切なものを失った。もしかしたら彼女は一生そんな事に気づかないで生きていくかもしれない。

40代の凶悪犯よりも20代の純粋な女性に、観客が嫌悪を感じる瞬間である。
何かを得たときに、その事実に感謝できる人間は、そういない。そして、ロイもマリーも無言で去っていく。無言で去っていく二人の姿と、取り残されたヴェルマ達の姿。感謝さえも知らない女性は、やがて夫に対しても感謝をせず、祖父母に対しても・・・というようになって、誰からも相手にされない孤独の中で、自分を見つめ直す時期がやってくるだろう。その時に気づくはずである。どうしてあの二人は無言で去っていったか?その意味を・・・その時にロイに感謝してももう遅いかもしれない。

ジョーン・レスリー ジョーン・レスリー ジョーン・レスリー
隙のないほどに美しいヴェルマを演じるジョーン・レスリー(1925− )は、本作の翌年に『ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディ』でジェームズ・キャグニーの、『青空に踊る』(1943)ではフレッド・アステアの相手役を務める事になる。絶世の美女でありながら、親しみやすい笑顔で1940年代、男性を魅了した女優である。


■加速度的に面白味を増す展開


ハイ・シエラ
「かわいそうに・・・独りぼっちなのね」マリー
「犬と女を連れて仕事か・・・俺も落ちぶれたもんだ。犬が邪魔したら・・・」ロイ
「口ばっかり、本当は嬉しいくせに」マリー

パードという雑種の犬は、当時実際にボギーの愛犬だったゼロ≠ェ演じている。愛犬と女を引き連れリゾート・ホテルを襲撃するロイと仲間達。さすがにこういうシーンを演じつくしてきたボギーだけあって、その凄味が画面上を圧倒する。そして、ココから物語は加速度的に、裏切りの渦巻くギャングムービーとしての面白さを増していく。


■二人の女は、実は表裏一体だった


ハイ・シエラ ハイ・シエラ ハイ・シエラ
「俺と一緒だと苦労するばかりだ」ロイ
「何があってもあなたについていく」マリー

そして、ロイは盗んだ宝石の一つから、指輪を選んで、外で健気に待っているマリーの小指にはめてあげる。涙を流して喜ぶマリー。指輪を小指から人指し指にはめ変えロイに呟く。「指が違ってるわ。あなたらしいわね」と。

盗んだ指輪であろうとも、男の不器用な愛に心から喜んで応える女の素直さ。実際はあのヴェルマよりもマリーの方が、相手への感謝の気持ちを知る女であり、その素養は数段も上の女性だった。しかし、
本作が何よりも見事なのは、この二人の女性の立場の違いが性格の違いを生み出している訳ではないことをさりげなく示している点にある。

ヴェルマの母親も一時は娘を捨て、極貧の祖父母に預けられて育てられ、しかも片足は先天的に悪かった。マリーに匹敵するかそれ以上の悲劇的な境遇の中で、ヴェルマも育ってきた。つまりは、
悲劇的な境遇は人を優しくするか?人から優しさを奪うか?もしくは、悲劇的な境遇は、その人に他人に対する優しさを忘れない心を与えるか?その人に他人なぞには構ってられない自分さえよければの姿勢を生み出すか?

同じような境遇で育った二人の女の全く違った素養を示すことによって、本作はただのギャング・ムービーを超えてしまったのである。そして、その事実がボギーをギャング・スター以上の存在へと飛躍させたのである。


■ギャングムービーの終焉はアイダ・ルピノの名演によりもたらされた


ハイ・シエラ ハイ・シエラ ハイ・シエラ
当時主流だった特殊効果を使わずに見せるハイ・シエラ山道での壮絶なカーチェイス・シーン。その臨場感と、追われるものと追うものの壮絶な感情の露呈。そして、山麓に追いつめられたロイが、大自然の中で警官隊に包囲され、四面楚歌になっていく悲壮感。

ロイにとっての救いは、マリーとパードが生きながらえてくれる事だけだった。そんなロイが、逃げ延びたと思っていたマリーの叫び声に驚愕し、身を乗り出したと同時に狙撃者に撃ち殺され、山麓を転げ落ちて死んでいく。大自然の中で展開される人間の生き死に。

「逃げるってどういうこと?」

ロイの亡骸に抱きつきながら涙ながらに問いかけるマリー。そして、パードを抱きかかえ放心した表情で呟くマリー。「それは自由なのね」まさに最後の瞬間にアイダ・ルピノがボギーを喰った瞬間だった。
しかし、ボギーの昇華へのきっかけは、この女神ルピノに喰われたことによって導かれたのだった。


■そして、苦難の中ボギーは伝説になった


1940年に書かれたW・R・バーネット(『犯罪王リコ』『アスファルト・ジャングル』などの原作でも有名)の原作を元に当初ポール・ムニを主役に映画化の予定がされていたが、ムニは第一稿を読んで、ありきたりのギャングムービーだという事で降板した。

そこで、ジョージ・ラフトに主役の話が流れていく。そんな時ボガートも原作を読み、虎視眈々と主役の座を狙っていた。そして、ある時ラフトに原作について質問された時にこう答えたと言う。
「君の人気だけで売ろうとする駄作だ。ロイは撃たれるだけの悪党だ」と。そしてラフト降り、ボギーが主役を手にした。

45万5000ドルの予算で、1940年8月15日に撮影が開始された。9月17日に撮影終了するまでの間、ボギーは初主演のプレッシャーだけでなく、アルコール依存症で落ち目の女優であり妻であるメイヨ(1938年結婚、45年離婚、1951年オレゴンの安宿でアルコール中毒により急死。数日後死体が発見された)とのセット内での衝突や、共産主義者として証人喚問を受けるなど、他の要因でも相当ナーヴァスな状況だった。

さらにクレジットにおいては、当時既に人気のある女優だったアイダ・ルピノの方が先に出て、ボギーは大変落胆したという。しかし、映画が公開されるや否や大ヒットし、ボギーの人気に火がついたという。そして、この作品からボギーの本格的な伝説は始まるのだった。

− 2007年12月8日 −


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