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ハスラー   THE HUSTLER (1961・アメリカ)
■ジャンル: ドラマ
■収録時間: 135分

■スタッフ
監督・製作 : ロバート・ロッセン
原作 : ウォルター・テヴィス
脚本 : ロバート・ロッセン / シドニー・キャロル
撮影 : ユージン・シャフタン
音楽 : ケニヨン・ホプキンス

■キャスト
ポール・ニューマン(エディ・フェルソン)
ジョージ・C・スコット(バート・ゴードン)
パイパー・ローリー(サラ・パッカード)
ジャッキー・グリーソン(ミネソタ・ファッツ)
マーレイ・ハミルトン(マコーミック)
ハスラー
男と女の決定的な違いを、プロのハスラーの物語の中で見事に描きあげた不屈の名作。男と女はこうして出会い、こうして一緒になり、こうして片方の心が離れていき、こうして別れ、こうして失った後に大切なものに気づくといった一つの男女関係を見事に描きあげた作品。21世紀の男女関係を先導していくバイブルとして、20歳以上の男女は少なくとも3回は見る価値のある作品である。

■あらすじ


15歳から流れ者のハスラーとして生計を立てていたエディ・フェルソン(ポール・ニューマン)は、名うてのハスラー・ミネソタ・ファッツ(ジャッキー・グリーソン)に挑戦する機会に恵まれる。そして、圧倒的なテクニックでファッツを打ち破るかと思いきや、酒を煽るという油断が命取りとなり負けてしまう。すっかり落胆したエディは、ロッカーを住処に再出発を計る。そんな時バス・ステーションのカフェでサラ(パイパー・ローリー)という女性に出会う。


■ビリヤード 男のクールネスの体現


ハスラー
さて、男を磨く勉強になる映画がこれ『ハスラー』である。ポール・ニューマン扮するさすらいの若手ハスラー(賭けビリヤード選手)が、この世界の頂点に立つミネソタ・ファッツを倒すまでの物語なのだが、ストーリー展開は、ただの勝負事映画では終わらない。かなりの哲学性がちりばめられている。

オープニングのバーテンダーを相手にかもってやったぜと財布の膨らみを相棒に示してにやりとするニューマンの魅力的な横顔と共に、素晴らしいケニヨン・ホプキンスのテーマ曲が重なりこの作品は始まる。このジャジーなテーマ曲がかなりクールで格好良い。

ビリヤード・クラブに現れるエディとその相棒。そこでのエディのしぐさに男なら身震いを感じずにはいられない。くわえタバコで、立てかけてあるキューを手に取り、台の上でキューを転がし、手で台の布地をチェックし・・・とこのプロセスがすごくいかすのだ。


まさにビリヤードとは、男のクールさが最も良く表現されるテーブル・ゲームであると私は考える。つまり鏡の前に立って自分自身の姿に、うっとりするように、ビリヤード台の前に立って、自分自身の亡霊であるボールの動きに、うっとりする行為なのだから。


■ミネソタ・ファッツ


ミネソタ・ファッツ ミネソタ・ファッツ
そして、一回目のミネソタ・ファッツとの勝負が始まる。当時のビリヤード・チャンピオンに15回輝いたウィリー・モスコーニがテクニカル・アドバイザーとして雇われ、ニューマンとミネソタ・ファッツ役のグリーソンにプロのキューさばきや立ち振る舞いを指導した。ニューマンは、クランクインまで、自宅にビリヤード台まで設置して猛特訓したという。1カット(マッセ・ショット)を除き他のショットは二人の俳優自身で演じた。実際は元々プロ級の腕を持つグリーソンの方が、ビリヤードの腕は上だったらしい。それにしても、この映画のニ人のキュー捌きには驚くばかりである。

ハスラー
ちなみに、当初ポール・ニューマンはエリザベス・テイラーと競演する作品に出演する予定だったので、エディ役を一度は辞退したという。しかし、テイラーが『クレオパトラ』の撮影を優先したため、ポール・ニューマンはエディ役を引き受けたという。

アメリカ50州総合ビリヤード・チャンピオン・ミネソタ・ファッツを演じたグリーソン。まさに『太陽にほえろ』の裕次郎並みのダンディズムを漂わせている格好いいオヤジである。昨今の勝負事映画にもこのくらい倒し甲斐のある大人の色気漂う王者を配してもらいたいものである。ミネソタ・ファッツの存在感なくして、この映画は語れない。そして、写真右上こそは実際のミネソタ・ファッツ(1913−1996)その人である。


■ジョージ・C・スコット オスカー拒否!


ハスラー
勝負の中で勝負を忘れ・・・JTSブラウン10年物をラッパ飲みし、余裕をかましているエディの前にジョージ・C・スコット扮する賭博屋バート・ゴードンが登場する。彼はこの役柄でアカデミー賞にノミネートされたが、
『俳優は、賞取りレースの馬ではない』と拒否したという。実際の彼はこの映画でのルックスそのままに、自分の意思を貫き通す格好いい男なのである。しかも、約10年後に『パットン大戦車軍団』(1970)でアカデミー賞を受賞しても拒否すると公言しながらも、受賞となってしまったのだから昨今のアカデミー賞を狙った脚本選びをしている俳優達とは地金が違うのである。


エディとファッツの最初の一騎打ちで実に印象的なシーンがある。長時間のゲームによる睡魔とアルコールにより、集中力が途切れてきたエディのボールを見る視線の先に、ミルクを飲んで妙に冷静なバートの姿が飛び込んでくるのだ。「おいっ、ミスター!」エディは叫ぶ。「私の名前はゴードン、バート・ゴードンです」この妙に冷静なバートの応対にさらにイライラが募ったエディは言う。「ミスター!そこは目障りだ 場所を移れ」それに対して静かに立ち上がって椅子をほんのちょっとだけさらにエディの視野に入る場所に移し、ふてぶてしく座るバート。

このある意味可笑しいシーン一つとっても、昨今の映画・ドラマのように妙に意識的な盛り上げ音楽や顔のアップを多用せずとも素晴らしい緊張感が生み出せることが分かる。
映画を良くも悪くもする要素は、音楽なのである。そして、ミュージカル以外で、音楽の氾濫する映画は、まず何も残らない暇つぶし的存在へと成り果てるのである。その中から学ぶものはせいぜいファッション・センスくらいである。その一例が『オーシャンズ12』だろう。


■若い男にとって女は仮の宿であることの方が多い


ファッツとの勝負に勝ち続けてはいるが、なかなかギブアップしないファッツに対して、エディが言う「俺は不出世の名人だ。たとえ負けても世界一だ」と。それに対してバートは、ファッツにささやく。
「試合を続けろ。やつは負け犬だ」このセリフが、私が素晴らしいと考えるバート・ゴードン理論の序論の始まりなのである。

バートの指摘通りエディは、精神面の脆さからファッツとの勝負に敗れ、コインロッカーがホテル代わりの生活へと転落していく。しかし、この映画にはその部分に関しての敗北感たっぷりの卑下したムードは全くないのである。エディは、若くして人生に疲れ果てているのである。そう今存在する多くの若者達のようになんとなく休みたいのだ。だから負けることによってほっと一息つけることに安堵感すら覚えているのである。

多くの女性よ、ここが最も重要なポイントなのだが、戦いに疲れた若者は、コインロッカーを求めてさまようものである。それが、貴方という仮の宿かも知れないのである。男とはそういう生き物である。


■女性から与えられて始まる恋愛のほうがうまくいく

ハスラー ハスラー
コインロッカーのあるバス停留所のカフェで、読書にふける一人の女性に話しかけコーヒーをおごるエディ。「ハロー・アンド・グッバイだね」と言いながら。しかし、すぐにエディは眠り込み、代わりにその勘定を払い去って行く女性。パイパー・ローリー(1932− )の登場である。片足が不自由な詩人。

良い映画はこういう見事なシチュエーションを作り上げてくれる。つまり、全てを失った男性が、女性にコーヒーを与えるが、眠り込んでしまい結局は女性に与えられてしまう形になるのである。この時点で、彼はこの女性に一つ与えられてしまったのである。つまりは、この時点で彼が彼女を追いかけても問題なしな動機作りは完成したのである。
そう純愛や恋愛は得てして、女性から与えられたスタートから始まるパターンが多いのである。そして、そういったスタートの方が、男性から与えられたスタートよりもはるかにうまくいくものである。

元々はこのサラの役は、キム・ノヴァクにオファーされたと言うのだが、結果的にはパイパー・ローリーで正解だったといえる。


■ジェイク・ラモッタ


ジェイク・ラモッタ ジェイク・ラモッタ
バーでエディとサラ(パイパー・ローリー)が再開するシーンで登場するバーテンダー(左上の写真の男)は、ジェイク・ラモッタである。この男こそ、ロバート・デ・ニーロの『レイジング・ブル』(1980)で描かれた人であり、世界最強の男に勝利し、エディット・ピアフの最愛の人をTKOし、世界ミドル級チャンピオンに輝いた男なのである。

そして、八百長疑惑でボクシング界を追放され、さらに1957年には刑務所行きにまでなった男。人生の荒波の中でもまれ、しかもノックアウトされずに立ち続けている男。真のタフガイである。そんな男の出所3年後の姿を見れるだけでも、価値があるのである。本作出演は意外に知られていない彼の経歴である。
ちなみに、彼のせりふは、3カットで「チェック!」と3回言うのみである。


■昼間に美女とアルコールをバーで嗜む


ハスラー
朝からバーでバーボンを飲み語らう2人。私も20代前半までは知らなかったのだが、お酒を飲める女性と静かなバーで酔いどれて語りあうのはすごく至福の時間なのである。
私は上手に酔える女性とのバーでの昼間のひと時が、セックスと同じくらいの快楽のひと時だと感じる人である。アルコールの力に抗し切れずに、美しい女性の表情が醜い瞬間を作るのを眺めるのが好きだ。

バーからサラのアパートに送ってくれたエディに、尋ねるサラ「WHY ME?」(なぜ、私?)サラにキスをするエディ。「あなたは飢え過ぎている」と振り払うサラ。
女性が男性に対して「なぜ?」と尋ねる時。それは、その男性がきづいていない本当の気持ちをかぎつけている時なのである。女性は知っている(彼は私を愛する事はないと・・・)そう感じた時に女性は男性に尋ねてしまうのである。「なぜ、私?」と・・・そして、彼女も愛される事はないと知りつつ彼を求めるのである。


■パイパー・ローリーという評価されて然るべき名女優


ハスラー
2人に共通しているのは、ただただ孤独・・・・・・

「エディ。私たちお互いに悩みのある人生みたいね。交渉しないほうがいいかもよ」とサラが言う。ここで観客はサラという女性が、今まで男性を愛したことのない女性だということに気づくのである。彼女は常に孤独を感じて生きていたからこそ、彼の中に自分を見てしまったのである。
私は孤独と共に生きてきた。だから孤独じゃない生活がちょっとだけやってきて、また孤独になるのが怖い。

そして、その日の午後彼女は言う。「プレゼントよ。わずか3日で世の中が変わったわ彼ができたのよ≠チてみんなに教えてまわりたいの」と。戸惑いの眼差しでそんな彼女を見つめるエディ。
この瞬間こそ、実によくある孤独と孤独の瓦解なのである。この時にお互いは、やはり一緒に住んだところでお互いが愛し合うことはないだろうと気づいてしまっているのである。しかし、女性はそれでも彼を愛してしまうのである。

そんな所にエディの相棒がやってきて、再び組もうぜと持ちかけるが、エディがつっぱねる。そのやり取りを聞いて、無表情に涙を流すサラ。
女性の無表情の涙が、これ程見事に表現されている映画は少ないだろう。その中に秘められているやるせない思い、同情、無関心さ、愛情・・・全てがこの一筋の涙に、表現されているのである。パイパー・ローリーという女優はもっと評価されてしかるべき女優なのである。


■一筋の涙の意味


彼女が酔いつぶれて書いた一文を読んで失望するエディ。私たちは堕落への契約を結んでいる。あとはブラインドを下ろせばいい=u私たちはただ黙って部屋に閉じこもって、飲んで愛し合うだけ・・・赤の他人同士だわお酒とお金がなくなったら?私にも(元相棒に言ったように)同じ事を言うの?のたれ死にしろ≠チて私はどうなるの?」

そして、頬を張るエディに言う捨て台詞がしびれるくらいに格好いい!
「泣くのを待ってるの?あなたなんか最低よ!」私達は、ここで気づくのである、彼女の流した一筋の涙の意味を・・・


■バート・ゴードン理論


ハスラー
「エディ、お前は生まれながらの負け犬だ。あの時ファッツをあと一押しで奈落へ落ちたのに果たせなかった。(酒のせいだと)弁解するつもりなら、負けるのはたやすいそれに反して勝つことは大変な重荷だ。だから人は口実を作って重荷を降ろそうとする。そして、悔恨の念にひたるのをたのしむんだ。特に生まれながらの負け犬はな」

負け犬とは、いや人生を楽しめない人とは、たえず言い訳を作って自分の世界に浸る人のことを言う。あまりに自分というものについて考えすぎることは良くないことである。
そんなことを考えるよりも、ハッピーに生きることを考えたほうが遥かに意味のあることではないだろうか?


■愛に殉じる瞬間がなければ女とは言えない


エディはバートの申し出を断り、賭けビリヤードで、素人の振りをしてカモろうとするが、プロであることがばれてしまい、両手の親指を折られてしまう羽目に。サラの手厚い看護を受け、再起を図るエディ。そんな2人のピクニックでのひと時・・・・

サラ「アイ・ラブ・ユー」
エディ「言葉が必要かい?」
サラ「イエス、私には今すごく重要なことよ。でも、言ったら取り消しできないわよ」

愛深き上に悲しみ深き女サラ。
酒に溺れる彼女に対して、エディは人生の隠れ場として、自分を選んだことをエディ本人よりも早く気づいてしまっているサラ。彼が愛してくれたら、私の人生も今までと違ったものになると考えたいサラ。女性とは、どうしても男性から100%の確証を得たくなる生き物なのである。だからこそ、結婚が存在し、永遠の愛の誓いも存在するのである。本当は一瞬の愛の誓いにすぎないと知りながらも・・・女性は本質的に愛に殉じて生きていたいのだ。そして、そんな女性が一番美しく輝き続けられるのである。一瞬の愛の誓い殉じる女が・・・


■去っていく男は幻・・・でもあなたは本物でいて欲しかった


エディは両手のギブスが取れたことによって、再びビリヤードでミネソタ・ファッツに勝利する使命に燃える。
サラは、エディのギブスが取れたことによって、彼の中での自分がどんどん小さくなっていくことに気づかされるのである。男女の心のすれ違いを見事に描き出した名シーンそれがギブスが取れた手をドア越しに見せるシーンである。エディの手にキスをするシーンこそ決別のキスといっていいだろう。そして、このキスは2人の終わりの始まりなのである。

バートをマネジャーにすることに決めたエディは、高級レストランでサラにしばらく留守にすると打ち明ける。そのとたんに雨の路上に飛び出すサラ・・・それを追うエディ。

サラ「今日食事したのは、戻る気はないからよ。私を利用したのね。最初からそうだった」「座って待てと言うの? 暗い部屋であなたを信じて待つわけ? あなたは好きなときに戻って私と寝て、また出かける。それが愛なの?」
エディ「愛なんて分からないよ。目に見える物じゃないし、勝手に決めないでくれ」
サラ「私にはわかるわかるのよ。私をどうするつもりよ・・・愛してるわ」
エディ「愛ってのは鎖か?」

この一連の会話にこそ女性と男性の決定的な恋愛感の相違があるのである。
男性は愛に自由を求め、女性は愛に拘束を求める。しかし、最近はその逆も多いらしい。愛を拘束と考える女性は、男性が成長することを恐れ、愛を自由と考える男性は、なぜか女性も自由を求めることを恐れるのである。

そして、このサラの名文句。
「去っていく男は幻だって私は決めてるの。でも・・・あなたは本物でいて欲しかった・・・」
素晴らしい!!!こんな言葉を女性に言われて、その女性を置き去りに出来る男性はいないだろう。


■相手の弱みをずけずけ指摘する意味・・・


ハスラー
エディはサラを連れて、ハスラーとしての玉突きの旅に出ることを決意する。

バートは言う「(反省は大切だ。前のファッツとの試合は)お前は自分から負けたんだ。くたびれ果てて栄光と酒に酔って、敗北の道を選んだ」
サラ「エディの心境をそこまでお分かりになるの?」
バート「誰もが経験した事だからだ」

バートの言っていることは全て的を得ている。
しかし、相手の弱みを指摘することは、人間性とはかけ離れていく作業なのである。つまり、他人の弱みを指摘することから人間の人間性の喪失の一歩は始まるのである。それは、他人の弱みを指摘することが悪いのではなく、そういったごく普通の人間も持ちうる性質が、人間の良さを消しているという現実問題なのである。

ジョージ・C・スコットの瞬間のにやりは、おそらく世界中の俳優の中でも有数の凄みぶりだろう。
彼の演技の根底にあるのは、表情豊かに感情を押し隠す事なのである。無表情のフランケンシュタインよりも、表情豊かなバート・ゴードンの方が怪物に見えてくるのは、ひとえにジョージ・C・スコットの表現力の賜物なのである。


■安く値切って明日だって買い取るんでしょ!


旅先のホテルにてサラにバートが言う「いがみ合うのはお互いのためによくない。特にエディにとってはな」
サラ「じゃあ何がいいの?」
バート「勝つことさ」
サラ「何のために勝つの?」
バート「世界を牛耳ってるもの。金と名誉のためさ」
サラ「それは一体誰のため?」
バート「今日は私、明日は彼自身のためだ」
サラ
「あなたに明日はないわ。安く値切って明日を買い取るんでしょ」
バート「売るから買うのさ」
サラ「あなたは最低ね!」
バート「よく聞け!お前は指一本でぶら下がってるんだ。エディが栄光を手に入れたらドブに捨てられるんだ!世話をやかせずに人生を楽しめ!今のうちだ!」

これこそ、他人(お互い)の弱みを指摘しあい、喧嘩になる典型的なパターンである。真実を指摘し続けることが、どういう結果をもたらすかが、この映画のテーマの一つでもあるのだ。しかし、上記の会話は、何とも現代社会にも適用できる内容ではないだろうか?今だにこれ程つまらぬ次元で人生を捉えている大人が存在するのである。そして、そんなバートみたいな人々によって、若者達も歪んだ金と名誉の亡者に成り下がっているのが現代社会の現状である。


■何でもするから頼む!見捨てないでくれ!


ハスラー
エディが対決する大富豪のパーティーに出席するサラ。大勢の中での孤独感がすごく表現されているシーンである。
人間が最も孤独に感じるときは、一人ぼっちの孤独ではなく、大勢の中での孤独である。片手にアルコール、片手にタバコを持ち、不自由な足を引きずりながらパーティの中、孤独感満点のサラ。

そして、実はバート・ゴードンも孤独な人だったのだ。彼もまた孤独の中一人でアルコールを飲んでいる。サラの姿を目に留めたバートは、サラのそばに近寄り、耳元でさげすみの言葉をつぶやく。見る見ると顔色の変わったサラは、シャンパンをバートの顔に投げかけ、泣き崩れる・・・このバートの理解不可能な行動が、つまるところこの男の求めているもののむなしさを表しているのである。
彼は、世界を牛耳っているものを手に入れないと誰からも相手されないと思っているのだ。そう、そういうレベルでしか物事の判断が出来ない人間は、人間関係をぶち壊してまでも進んでいってしまうのである。

大富豪との対決でルールの違いから負け続けるエディ。「わずか一点差で負けたんだ!続けさせてくれ!何でもするから頼む!見捨てないでくれ!」とバートに頼み込むエディ。それを見ていたサラが言う。
「頭を下げないで!あなたは、まだ目が覚めないの?まだ懲りないの?この人達もこの家も・・・みんなマスクの下は醜悪な悪魔の顔よ。あなたまでマスクをかぶらないで!あなたの指を折ったのは、この男(バート)よ!今度は指じゃなくて魂をやられるわ!あなたは彼にないものを持ってる、だから憎んでるのよ」

この言葉に対しエディは言う。「つべこべ言わずに早く帰れ!」
そして、バートが言う「よし続けろ。ゲームを続けろ」

情報化時代になり才能豊かな若者達にチャンスが与えられる時代になったと人々は言う。しかし、才能豊かな若者達にチャンスを与えていると言うが、結局はその若い才能をだしにして、肥え太ろうとしている人達が増えているだけの話じゃないのだろうか?結局のところ才能ある若者は、その才能に過信し、奢り高ぶり、物事の本質を見る能力を失い、やがては恥も外聞もなく魂をやられていく。そして、そんな人々のわずかにクローズアップされたポイントを見て、人生の目標とする若者が増えていく。一人の人間を出し殻のように搾り上げていく人々に支配されている現代社会はかなり醜悪な悪魔のマスクで覆われているのだろう。
勝利の味を教えたがる人間は、まず100%自分の利益のためにあなたの才能を利用しようと考えているのだ。


■サラはバートの妹です


大富豪に勝利し、アルコールに溺れ現金を支払う敗者を目のあたりにするエディ。その表情からはバートのような満足感は微塵も見られない。勝者と敗者が存在する世界にエディはついていけなくなったのだろう。エディは勝者になるために何か大切なものを失ったと考え始めているのである。そして、エディは、宿泊するホテルまでの道のりを歩いて頭を冷やしながら帰ることにした。

一足先にホテルについたバートは、サラの部屋に入る。ベッドにちょこんと腰掛けているサラ。

「いつもそういう顔で犠牲者を見下ろすの?お金だけじゃなく誇りもむしり取るの?」サラ

「金だけだ」バート
「そして滅び去る相手を見て快感に酔うのよ。あなたは残忍なローマ兵だわ」サラ

バートはサラを抱き寄せ、強引にキスをする。それに対して全く抵抗しないサラ。そして、去っていくバートの後を追うサラ。

「お酒ある?」サラは、バートの妹であり、バートは、サラの兄なのだ。
つまりは2人はお互いのことを理解しあえるだけにいがみ合えるのだ。そして、最後は禁断の行為を行い自分を汚し、心置きなく自殺できる環境を作り上げた。実はサラという女性は、死に場所を求めていただけなのだ。彼女自身はエディの胸の中で死にたいと望んでいたのだが、それが結局は適わなかったのである。


■失ってみてはじめて分かる・・・それが男という生き物


ハスラー
変質的で、捻じ曲がった異常な、不自由な・・・=醜悪なとバートのバスルームのミラーに口紅で書いて、自ら命を落とすサラ。何も知らずに帰ってくるエディ。そして、サラの亡骸を前にしてただただ顔をゆがめ体を揺らすエディ。そこへぐだぐだと言い訳をするバート。殴りかかるエディ。

男性は特にそうなのだが、失ってみないとありがたさが分からない生き物なのである。失ってみて初めて大切な人に気づく・・・そして、その悲しみを背負って男性はより強くなっていく。男とは嘆き悲しんだ数だけ強くなれるものなのだ。そう、失われた愛の数だけ強くなれるのだ。そして、女は失われた愛の数だけ弱くなるものである。


■お前は周りのものを殺していかないと生きていけないのさ


ハスラー ハスラー
そして、ミネソタ・ファッツとの一騎打ちに再び臨むエディ。「俺は負けん!負けるわけがない!覚えてるか?才能だけじゃ勝てん。そう言ったよな?俺は生まれ変わったぜルイビルのホテルで」もはやエディに勝てないと悟ったファッツは清く負けを認める。そして、立ち去ろうとするエディに、バートが「取り分を払え!」と吼える。頑として払おうとしないエディ。

エディ「おい知ってるか?彼女を殺したのは俺たちだぜ。ナイフで刺したんだ」
バート「遅かれ早かれ、いずれは起こったことなんだ。彼女はそういう女だった」
エディ「俺たちに責任はないのか?お前ののどには刺さらんよな。何でも吐き捨てるから・・・俺には刺さったぜ愛してたんだ・・・なのに彼女よりプールゲームを選んだ・・・
愛した事のないお前には分からないだろうただ勝てばいい≠ィ前はそうだ!そういうお前こそ負け犬だ!なぜなら貴様の中身は死んでるんだ!周りのものを殺していかないと生きていけないのさ!とてつもなく高い・・・代償が高すぎた。俺がゲームを捨ててりゃ彼女は死ななかった。彼女を殺したのは貴様と俺なんだ」

失われたものの代償の大きさに気づくことが、勝者の条件なのである。そして、そういったものが重なり合って本当に自分の人生にとって重要なものは何か理解していけるのである。いい男とは、こういう成長を重ねていける男なのである。


■男とは嘆き悲しんだ数だけ強くなれるもの


そして、ビリヤード場を去る時のエディとミネソタ・ファッツの別れのやり取りもかなり粋である。やはり男同士認め合ったものだけがこういう粋な別れを演出できるのだろう。最近は人間味の欠けた粋なムードが氾濫しているが、それは粋ではなくただのキザなのである。
真の粋さとは、言葉の領域を超えた空間の中で存在するきわめて不器用な挨拶なのである。そして、エディは静かに去っていった。

物語の冒頭の目標=ミネソタ・ファッツを敗ぶり、ビリヤードの頂点に立つ望みは達成したが、その代償はとても大きかった。ビリヤードよりも大切なものに触れ合ったからこそ、彼はまた強くなれた。そう、男とは嘆き悲しんだ数だけ強くなれるものなのだ。そう、失われた愛の数だけ・・・。

本作は1961年度アカデミー賞撮影賞(白黒)、美術監督・装置賞(白黒)を受賞した。ほしくも作品賞、主演男優賞(ポール・ニューマン)、主演女優賞(パイパー・ローリー)、助演男優賞(ジャッキー・グリーソン、ジョージ・C・スコット=ノミネート拒否)、監督賞、脚色賞にもノミネートされたが受賞には至らなかった。

− 2007年5月8日 −


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