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突然炎のごとく   JULES ET JIM (1961・フランス)
■ジャンル: ドラマ
■収録時間: 107分

■スタッフ
監督 : フランソワ・トリュフォー
原作 : アンリ=ピエール・ロシェ
脚本 : フランソワ・トリュフォー / ジャン・グリュオー
撮影 : ラウール・クタール
音楽 : ジョルジュ・ドルリュー

■キャスト
ジャンヌ・モロー(カトリーヌ)
オスカー・ウェルナー(ジュール)
アンリ・セール(ジム)
マリー・デュボワ(テレーズ)
シラス・バシアク(アルベール)
突然炎のごとく
一人の女と二人の男の三角関係をより自然に、より純粋に描いた名作。一人の男の存在だけでは十分でないから二人の男が必要だった。そして、一対一よりやはり一対ニの方が、お互いの感情を調和させていくことが難しかった。これは男女どちらにもあてはまる純粋な恋愛の理想と限界かもしれない。この作品に決して答えを求めずに自分の心で考えよ!

■あらすじ


フランス人のジム(アンリ・セール)とオーストリア人のジュール(オスカー・ウェルナー)は無二の親友である。その二人の前に、自由奔放で不思議な魅力を持った女性カトリーヌ(ジャンヌ・モロー)が現れる。そして、カトリーヌはジムとジュール二人を同時に愛そうとしたのであった・・・


■トリュフォーやモローに決して同調する必要はない


突然炎のごとく
まず最初に本作は、
読書するときに楽しませてくれという姿勢で読む人と、何かを吸収してやろうという姿勢で読む人の違いが明確に現れる作品である。前者の姿勢の人が本作を見たならば「我がままで躁鬱の30女に振り回される馬鹿な男2人の退屈な三角関係」の話であるが、後者の姿勢の人が本作を見たならば「もし一人の女性が愛というものに忠実に生きたとしたならば複数の男達を同時に愛し続けることができるのか?」という非常に興味深い話として捉えられるのである。

この作品は、「愛は烙印」と考えたくない女の物語なのである。こういう物語は、烙印のように携帯のアドレスにまで神経質にお互いの名前と愛の英語の文字を挿入している愛情の烙印化にこだわる人には理解しづらい物語であり、恋愛の概念を押しつけられ受け入れる事に慣れている人たちには全く向かない作品である。

つまり、本作が明確に芸術の領域に達している理由は、トリュフォーやモローの存在ゆえではなく、鑑賞者を選ぶという一点においてである。


■ジャンヌ・モローのつぶやき


突然炎のごとく
愛してるとあなたは言ったのに 待ってと私は言いました。
抱いてと私は言いかけたのに もう用はないとあなたは言いました
(男が求めても女はためらい、女がふと素直になっても男がすねている・・・)


このカトリーヌ(ジャンヌ・モロー)の独白から始まり、見世物ショーのようなどんちゃんな音楽流れるタイトルバックの前半のあわただしさが凄くよい。そして、昔のハリウッド映画のように主役の顔のアップの下に名前がインポーズされるのである。

この前半の描写は明確に、アメリカン・ニュー・シネマの始まりとも言える『明日に向かって撃て』(1969)の中盤のベネズエラに渡るシーンの描写に影響を与えているのである。


■テレーズの自由奔放さ


トリュフォー監督の『ピアニストを撃て』(1960)でデビューしたマリー・デュボワ(1937− )扮するテレーズが印象的である。「機関車よ」といってタバコをぷかぷかとふかして走り回る姿と同じように、ジュールと一晩過ごした後は、すぐに次の気に入った男に「今夜泊めて」と言って走り去っていく。

これほど軽快に捨てられると男も、唖然とした満腹感に包まれるものである。
当初、マリー・デュボワがカトリーヌの構想でトリュフォーは映画化を考えていたという。


■成熟した深みと軽さのある若さ

突然炎のごとく 突然炎のごとく
カトリーヌが登場する。このショットの積み重ね方の見事さ。カトリーヌが現れた瞬間に、その人物を最もよく表していると思われる角度を切り取って紹介している。ある意味、人間の品評会的映像なのである。「エントリー番号7番、カトリーヌ」そして、横顔、正面の顔、微笑んだ顔、それぞれにクローズアップである。

全く美しくはないが、表情が恐るべき程魅力的なジャンヌ・モロー。
その冷たい無表情と表情の豊かさのギャップが素晴らしい。女の持つ冷酷と情熱を体現している女性である。こういう女性の本当の意味での魅力は会話を交わしてみないと分からないだろう。そして、あの目で見つめられてみないと。

ジャンヌ・モロー ジャンヌ・モロー 突然炎のごとく
キュートに男装(チャップリンの『キッド』の少年の格好)しての駆けっこ。この走るシーンでジャンヌ・モローの横顔のみを映して疾走感を表現するセンスがとても素晴らしく、見事にスピード感溢れている。カトリーヌの自由奔放さの象徴的シーンである。

ところでモローの男装のシーンで一つ思うのだが、
今のところ男性の自由奔放さを軽妙に描いた映画の中で、そういった男性の登場人物が女装するといった発想はまだ映画上では表現されていない。男性が女装する場合は、今のところ『お熱いのがお好き』(1959)のように必要に迫られてか、『地獄に墜ちた勇者ども』(1969)のようにデカダン的な性的趣向のどちらかの表現のために過ぎない。

そろそろ、自由奔放に生きる男の一瞬を描くために女装し、道行く男性にタバコの火をつけてもらうことに無頓着な傲慢さを感じる男の姿を描く映画の瞬間があってもいいと思う。


■純粋に愛と友情に向き合う三人


「二人の人を同時に愛するのは可能」
とジャンヌ・モロー自身は語っている。では、一人の女性を愛する間柄でジムとジュールの友情を持続させることは可能だろうか?しかし、この作品は何かの答えを提示する物語ではなく、一つの人間同士の純粋な関係を提示している作品なのである。

カトリーヌの気まぐれを自分に対する正直と受け止めるか、他人に対する我がままと受け取るかはその人それぞれであり、どちらでなければならない必要もない。一方、二人の友情が同性愛に近いものがあるか否かも同じくである。
芸術には答えなどなく、多面的な物事の捉え方を提示してくれることにより、より芸術に触れ合う人々の感性を豊かにしてくれるのである。

映画の中に起承転結を求め、他者依存による完結の提示を求めることは、ある意味感性の劣化行為である。悲しいシーンはより悲しみを誘う流行歌を流して、俳優の涙を見てから自分も涙を流す・・・これじゃパブロフの犬である。ああ・・最近はなんとパブロフの犬的反応を期待する映画の多いことか。


トリュフォーは言った。「なんでも思い通りにしてしまう第一級のわがまま女のカトリーヌは、大変な悩みの種になりそうな危険人物だった。ジャンヌの顔の繊細でカリスマ的な美しさが、一転して無慈悲で残忍な官能性へと崩壊してしまいそうだった。これは、まさに男に愛され、女に嫌われる女性だったんだ。撮影中は、こうした危険を常に念頭に置いていた。この作品がこの落とし穴にはまらないようにすることが仕事の一部でもあったんだ」


■パブロ・ピカソ


カフェでジュールがジムに自分の過去の恋人の見た目を伝えるシーンで、テーブルにピカソ的デッサンを始めるシーンがある。本作にはあらゆるところにピカソの絵が出てくる。ジュールとカトリーヌが結婚した記念にジムが渡す絵や、ジュールとカトリーヌの山荘にかけられているその絵、ホテルの一室にかけられている絵。

原作者ロシェが、絵画収集家だったことも、影響しているのであろうが、トリュフォーの目的は、ピカソの絵によって、20年という時間の経過をポスターに使われた印刷様式の変化を示すことによって表す意味もあったという。



■サントロペのバカンス


突然炎のごとく
トリュフォーの映画でよく出てくるそよ風に吹かれて自転車を乗り回すシーンだが、本作においても軽妙な音楽と映像により躍動感溢れるものになっている。ここでジュールはジムにカトリーヌとの結婚について相談する。女性遍歴の少ないジュールと違い女性遍歴の多いジムはこう答える。
「彼女は幻だ。独占できない女だよ」

しかし、すぐ後にジュールにプロポーズされたカトリーヌはこう答える
「あなたはうぶ。私は男を知ってる。釣り合いが取れるわ」と。そして、ジムの予想通りこの結婚は早々に破綻することになる。

このバカンスの中でとても魅力的な平手打ちのシーンが出てくる。カトリーヌがジュールに対してである。そして、そのすぐ後のカトリーヌの表情が部分部分ストップモーションになる。実に印象的なシーンである。
他人と対峙する時に人は、動的によりも静的に他人の表情を記憶に留めているものである。そして、断絶した表情の断片でその人間の印象を決め付けていくものなのである。

このストップモーションは、実に素晴らしい映像表現の一つである。このあざとくもなりがちな映画的手法が素晴らしい効果を生み出している理由は、紛れもなくモローの自然な芝居によるものである。ちなみにこのドミノシーンでモローが「誰かわたしの背中を掻いてくれない?」というセリフを言うのだが、あまりに自然なそのセリフ回しに、撮影中にも関わらずスタッフの一人がモローの背中を掻いてやろうとしてNGになるほどだった。


■セーヌに飛び込みジムの目を覚ます


突然炎のごとく
こうしてカトリーヌは、二人から同時に愛を勝ち取ることに成功する。女のわがままな自由奔放さは相手を推し量る物差しであり、相手に押し付けられていく刻印でもあるのである。だから男はいつの時代も、従順な女よりも我侭な女に惹きつけられるのである。ただし、
女性諸君には理解していただきたいが、わがままが通用する女性は知的さの裏づけと風貌もしくは表情的に魅力的でなければならないということである。

「一分遅れても彼女は帰りかねないと思った。そして、初めて彼女のことをまともに考えてみた」
これこそ刻印である。

ちなみにセーヌに飛び込んでのはモロー自身であり、その後2日間寝込んだという。


■親和力


第一次世界大戦が終わってからの展開においての本作の聖典は、ゲーテの『親和力』である。そして、親和力に書かれている物語の流れそのままに、恋という抵抗しがたい強い力にカトリーヌとジムは引き寄せられ、ジュールもその力に抵抗しようとはしないのである。
この親和力は自己を忘れ、ただただ恋に埋没するのではなく、自己を失わない強さの中で生まれてくるものである。だからこそより強く惹かれあうのである。

そして、「彼女が愛人を持つのは構わない 彼女を失いたくない」とジュールは言って、ジムとカトリーヌの関係を歓迎し、清く離婚する。ジュールは言う「彼女には僕だけでは十分じゃないんだ」と。
カトリーヌにとっては、愛情とは記号でも証明書でもなく、感情そのものなのである。そして、そうした一人の女に、『女の象徴』を見た男が二人いたのである

「戦争でいやなことは個人の戦いが出来ないことだ」「君の乳房は愛の砲弾だ=v

突然炎のごとく
友人のアルベールを加えて山荘でジャンヌ・モローが唄う『つむじ風』。さすがにコメディ・フランセーズで鍛えられた喉である(実際にぶっつけ本番でモローによって歌われた同時録音撮影だった)。映画のムードを損なわない見事な挿入歌の役割を果たしている。この歌声は、ただの気分転換ではない、映画上で必要性の十分感じる挿入歌である。


■「愛は一瞬」・・・幸福は知らぬ間にすりきれる


突然炎のごとく
トリュフォーは直接的なラブシーンを撮るのが苦手だった。その結果として、カトリーヌとジムが初めて結ばれる夜、月明かりの中で鼻筋を指でなぞりあげてからキスをするという官能的なシーンが演出された。しかし、体と体を重ねあわせて充実感を味わった瞬間から一つの恋の破滅は始まるのである。

「彼女は特に美しくない 聡明で誠実でもない だが女そのものだ」とジュールは言う。ジムとの恋が終わろうとしているカトリーヌとジュールのこの後の愛撫しあうシーンの官能的で美しいこと。映像上で男と女が支えあおうとしている気持ちが濃縮されている名シーンである。

「寒々としたホテルの部屋で、二人は終止符のつもりで体を交えた 埋葬のように 死者のように」


■ジム,ちょっと来て!お話があるの


カトリーヌは、決して相手に自分の考えを押し付ける人ではないから、多くの行動が突発的な印象を相手に与えとまどわせる。そして、瞬間に生きているから暴走に見えるのであるが、彼女の生き方は決して暴走ではない。カトリーヌはある意味理性的過ぎるほどに理性的過ぎるから、自分の感情に忠実なのである。

カトリーヌは、ジムを愛したそして、一緒にいるとすごく苦しいが、一緒にいないともっと苦しいことに気づいた。だから彼女はジムに言った。
「お話があるの、ちょっと来て。ジュールよく見てて」そして、ジムを乗せた車は壊れた橋をまっすぐに滑走し、河岸に落下して行った。

そして、ほっとするジュールの姿があった。二人の埋葬を追え、ジュールが坂道を下っていく姿で映画はFINを迎える。カトリーヌがジムを選んだことにより、ジュールは愛の親和力から解放されたのかもしれない。

「でも、彼女は愛する男といっしょに生きていけないことを悟って自殺する、男を道連れにして。カトリーヌはけっして男のように強い女ではなく、その微笑のなかに女の弱さをおしかくしている女なのだと思います」ジャンヌ・モロー


■成熟された若さの特権


突然炎のごとく 突然炎のごとく
アンリ・ピエール・ロシェの74歳の無名の処女作『ジムとジュール』を当時映画評論家だったトリュフォーがパリの古本屋で1956年に発掘したことから本作の映画化への想いは始まった。

そして、3本目の長編映画として29歳のトリュフォーが1961年4月10日から撮影開始し、モローの34歳の誕生日にパリで公開された。撮影当時ジャンヌ・モロー(1928− )、オスカー・ウェルナー(1922−1984)、アンリ・セール(1931− )、ラウール・クタール(1924− )、ジョルジュ・ドルリュー(1925− )が30代だった。29才と30代の若者達が撮り上げた作品であった。

「そのやさしさ、魅力・・・なんとも見事な作品です。少なくとも、書かれたシナリオを映像がしのいだ奇跡的な一本です」ラウル・クタール

突然炎のごとく
本作はわずかな予算で撮影され、モローも全財産を投資したという。さらにアルザスのロケにおいてはモローがキャスト・スタッフ総勢22人分の昼食を作ったり、衣装は全て自身のものだったという。トリュフォー自身は小説のほうが映画を遥かに上回っていると謙遜しているが、ジャンヌ・モローは原作はあまり評価していないが、映画は遥かに素晴らしいと絶賛している。

予断ではあるが、オスカー・ウェルナーは後に殆どの脚本は自分が書いたと公言した。その時『華氏451度』(1966)で喧嘩別れしていたトリュフォーは「彼は、ほとんどフランス語が話せないんだよ。ボードを読んでいたんだ。そんな彼に脚本が書けるかい?」と反論したという。

− 2007年5月13日(2007年11月21日修正) −


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