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飢餓海峡   (1965・東映東京)
■ジャンル: ドラマ
■収録時間: 183分

■スタッフ
監督 : 内田吐夢
製作 : 大川博
原作 : 水上勉
脚本 : 鈴木尚也
撮影 : 仲沢半次郎
音楽 : 富田勲

■キャスト
三國連太郎(犬飼多吉/樽見京一郎)
左幸子(杉戸八重)
伴淳三郎(弓坂吉太郎)
高倉健(味村時雄)
加藤嘉(杉戸長左衛門)
飢餓海峡飢餓海峡
『飢餓海峡』の素晴らしいところは、もっとも人殺しをする可能性の少ない登場人物に、連続殺人をおこさせた点にある。生まれながらの貧困、流浪の人生の果てに、犯罪に巻き込まれ、大金を手にする誘惑に直面し、それを手に取り善行を施すが、連続殺人を起してしまい、自ら死を選ぶこの善良な男・樽見京一郎。人は境遇の中で、殺人者に成り得る。そんな姿を描いたからこそこの作品は、今も人間の二面性を隔てる海峡となり、観る人々を善悪の彼岸に立たせてくれるのである。

■あらすじ


敗戦間もない昭和22年、青函連絡船・層雲丸が台風の直撃により沈没した。一方、その日岩内町では町の8割を焼き尽くす大火事が発生していた。そして、焼け跡の質屋から一家惨殺死体が発見されるのだった。大金が奪われていた。更に層雲丸沈没による遭難者の死体を引き上げた際、引き取り手のない2名の死体が残った。「この2名は他殺だ!」早速捜査を開始する函館署の弓坂刑事(伴淳三郎)の前に、一人の大男・犬飼多吉(三國連太郎)の存在が浮び上がる。


■今、邦画は飢餓海峡にさしかかっている


飢餓海峡
まず始めに1970年代生まれの私でも純粋に感じるこの作品と現在の邦画の、かけ離れた距離感について語ろう。最近の映画は、ここ20年くらいそうなんだが、製作発表とかいった場所で、着飾った俳優(そう呼ぶに値するのかさえも疑問だが)と監督(以下同じ)がステージに立ち、へらへら笑いながら「これは力作です」なんて言ってる(のか言わされてる)・・・

既に多くの人が、その緊張感のないステージショーにうんざりしている。
つまらんバラエティ番組に出演して、宣伝活動に励むその姿の緊張感のなさ(=自信のなさ)が、そのもの映画の出来具合に反映している現在の日本映画に対して、『飢餓海峡』は、全く違う国の、違う人々が作ったかのような錯覚さえも覚えさせる程に、堂々としている。

この作品には、ストーリー、役者の芝居、演出、音楽そういったものを含める全てにおいて、本気で何らかのものを生み出そうとしている熱情が感じられる。
本気で、人様に観てもらうに値する何かを生み出そうとする姿勢。そして、顧みて今。中途半端な粗大ゴミのような映画を輩出し、気持ちの悪い薄ら笑いを浮かべてる役者・監督諸君。夜遊びや、くだらん恋愛をする前にまずこういった作品を一つでも多く観て映画に対する感性を磨くべきではないか?

今、映画というフィールドに立っている映画人、俳優達よ。もっと映画を観よ!本を読め!芸術に触れよ!そして、感性を磨け!
夜遊びに羊の群れのように繰り出して、好きでもない商品の販売員に成り下がって、知名度が上がったとはしゃいでる場合じゃないぞ?売れたい志願の女優(男優)の卵と安っぽい恋愛を繰り返してる場合じゃないぞ?映画をなめてるヤツラが映画に関わっている所に、今の邦画がつまらない元凶がある。


■飢餓が犯罪を生み出すのではなく、飢餓そのものが犯罪なのである


昭和20年、太平洋戦争に敗北し、国土は焦土と化した。ほとんどの人たちは、ゼロもしくはマイナスから生活を立て直していかなければならなかった。空襲で家屋を破壊されたり、夫、息子を戦地で失ったり・・・。そして、多くの女性は、唯一売れるもの≠使い進駐軍相手の売春婦となり、多くの中高年は闇市で市場を出し、農村に買出しに行った多くの主婦は、身体と引き換えに僅かな食物を手にし、多くの若者は暴力に明け暮れていった。
そう道徳観念もまたゼロからのスタートになったのである。

昭和22年はそんな時代だった。そんな時代にこの作品の主人公・多吉は、大金を手にした。いかに悪にまみれた金であろうとも、この金を手放したら彼の元に大金が転がってくる可能性は、二度と来ないかもしれなかった。

彼は幼少期を極貧の状態で過ごした(彼の両親は、蓑一枚位しかない畑と川底にある沼のような田圃を耕して生きていた。重労働と反比例するかのような収穫率の悪さ)。彼は衣食住に餓えているだけでなく、心の交流にも餓え続けて生きてきた。
彼はそんな飢餓生活の中で、人間の尊厳さえも失っていった。そんな彼にとってその大金は、失われた自分に対する尊厳を取り戻す唯一の糧だった。

彼はこの糧=大金を生かし、多くの善行を行なった。現代人から見れば、それは彼の貪欲さ、名誉欲に過ぎないと感じるだろうが、実際はそうではない。彼は失われた尊厳を長年かけて取り戻そうとしていただけであった。故郷の貧村に多額の寄付をしたのも、前科者の社会復帰に対する支援も、自分の境遇がいかに悲惨であり、ただ純粋に同じような境遇の人々が、一人でも減り、人間としての尊厳を取り戻すきっかけを作ってあげたかったからに他ならない。

この行為は、
彼にとっての贖罪行為でもあった。彼は、自分の中の心の飢餓を人々の喜ぶ表情で満たそうとした。しかし、そんな時に八重という存在が現れる。人生で初めて主人公が助けられ、助けた女が、その感謝の想いの丈を打ち明けに来た瞬間に、主人公は運命の皮肉に翻弄されてしまうのである。


■ギリシア悲劇のように運命に翻弄される多吉の姿


飢餓というものが実感できない今、一つの点においてこの作品は誤解を受けている。それは
飢餓が貪欲さを生み出すという観点である。

例えば、究極の飢餓状態でもあるアウシュヴィッツ収容所に収容された経験を持つ心理学者ヴィクトール・フランクルはその著書『夜と霧』にてこう書き記している。「多年収容所で過ごし、一つの収容所から他の収容所へと、結局は一ダースもの収容所を廻ってきた囚人の中には、この生存のための苦しい闘いにおいて、良心なく、暴力、窃盗、その他不正な手段を平気で用い、それどころか同僚を売ることさえひるまなかった人々がいたのである。全く幾多の幸福な偶然。あるいは―そう呼びたいならば―神の奇蹟によって、生命を全うして帰って来た我々全ては、その事を知っており、次のように案じて言いうるのである。
すなわち最も善き人々は帰ってこなかった

つまり、飢餓が貪欲さを生み出す一方で、人間としての崇高さも生み出している事実である。多吉にも八重にも弓坂にも、そういった飢餓が生み出す貪欲さは存在しない。煙草を売らずに、老婆に与える多吉(大金を八重に与える多吉)。握り飯を与える八重。自費で舞鶴まで行き捜査に協力する弓坂。

多吉、八重、弓坂という人間が、飢餓が生み出した善良な部分であるならば、本作において飢餓が生み出した悪徳の部分は、津軽海峡で死んだ二人の殺人犯だろう。独り占めを目論み共食いし合った2人だが、これこそ飢餓が生み出す人間不信である。そして、
手に入るものなら何でも手に入れろ!という姿勢である。

この作品の素晴らしいところは、そういった飢餓の中でさえも善良な意思=「優しさ」を持った主人公でさえも殺人を犯してしまうという怖さを描ききった所にあるのである。


■人生における運命的な出会い


飢餓海峡
「飢餓海峡 それは日本のどこにも見られる海峡である。その底流に我々は貧しい善意に満ちた人間のどろどろした愛と憎しみの執念を見る事が出来る」

このナレーションからこの物語は始まる。前半の多吉が本州の土を踏むまでの過程が、今見てもダイナミズムな展開で素晴らしい。津軽海峡の荒海、膨大なエキストラによる遭難救出の描写。最初の10分間の描写だけで、この監督の演出力の凄まじさが見るものを圧倒してしまう。

飢餓海峡 飢餓海峡
そして、本州上陸後、多吉はイタコの声が響く一軒のほったて小屋を覗き込む。そこには小屋の住人と一人の不気味なイタコの姿があった。
戻る道ないぞ〜〜地獄の道七筋あれど、われ戻る道わ一筋もない〜〜という声にぎょっとして逃げていく多吉。実はこの小屋にいるのは、八重だった。

2人は知らず知らずのうちに運命的な遭遇を果たしていたのである。


■左幸子という女優の怪物ぶり


飢餓海峡 飢餓海峡
「ねぇ何て名?うそこかないでよ〜。ここ来る人みんなうそこくんだからぁ」

八重を演じるのは左幸子(1930−2001)である。丁度二年前の『にっぽん昆虫記』でベルリン国際映画祭女優賞を獲得したばかりで最も油の乗った時期だった。富山県出身の女優だが、その東北弁の話しっぷりの素晴らしさは圧巻としか表現しようがない。

この人の驚異的な熱演があったからこそ、この作品は、異様な輝きに包まれたのである。
役者の力量が分かる時とはこういう時である。並みの女優が演じることが出来ないほどの人間離れした役柄を演じる。この八重には明らかに並大抵の人間を凌駕した強烈な存在感があった。そして、映画の中にそんな怪物のような役柄が存在したからこそ、この作品は芸術作品へと昇華していったのである。

握り飯を頬張る三國。それを眺める左。「戻る道ないぞ〜」と怯えさせる左。それから逃れようとする三國。この作品には緊迫感がある。それはどこから生まれているか?上記のシーンを始めとするほとんどのシーンが、極めて少ないカット割りで撮影されているからである。カットの少ない映像は、その物語に真実味を生み出す。


■今の女優は左幸子の爪を煎じて飲め


飢餓海峡
「これから真面目に働いたお金をこの上に段々と積み上げていきます」

八重は多吉から貰った金の一部で借金を返済し、東京に出て堅気に生きようとする。しかし、それも叶わず再び娼妓として生きていくのだった(沢村貞子の一言でむせび泣く姿の哀れさ・・・この泣き様一つで如何に彼女が優しさとは無縁の世界で生きてきたかが良く分かる)。

東京という孤独の飢餓都市で生きる彼女にとって、多吉が残してくれた二つのモノが心の支えだった。お金と爪。この二つがどんなに汚かろうとも八重にとっては決して手放せない大切なものだった。そして、爪を自分の頬に当て恍惚とする八重。小学校を出て直ぐに娼妓として花家に売られ、まともな恋愛を一つもしていなかった彼女にとって、外出先で知り合い、心の交流が出来たこの多吉という男は特別な存在だった。

ココに八重という女性の悲しさが漂ってくる。そして、そんな彼女の優しさがまたその悲しさを一層引き立たせるのである。彼女は一つの恋を大切にしないと生きていけないほど、喜びにも無縁な世界で生きていたのである。ココに多吉と八重の決定的な違いが浮き上がってくるのである。

自分の幸せと他人の幸せを両立する多吉と、自己犠牲の中で幸せを放棄して、ただひたすら多吉の事を思いながら生き続ける八重との違い。
そう2人の間には、もはや渡り様のない海峡が存在していた。一方は、それを知っており、一方はそれを知らなかった。ココから悲劇は起こるのである。


■深い想いと深い情けが、かみ合わずに起こる殺人もある


飢餓海峡 飢餓海峡
「ちがぅぅ〜〜この人犬飼さんだわ!」(このセリフの前後の声音の変わりようが凄いです)

「今のあなたに嫌われるような女かもしれません。身体を売ってる娼妓ですもんね。でもその分私はオトコさを身体で知る術を知っています。私が夢中になった人のことははよ〜く覚えてます」


新聞記事を見た八重は、樽見京一郎と名乗る今は裕福になった多吉が住む舞鶴を訪れる。彼女はただ10年前に言えなかった感謝の言葉を樽見に伝えたいだけだった。そして、再会し込み上げてくる10年来溜め続けてきたさまざまな想い。そんな込み上げてくる想いを一切自重せずにぶつけてくる八重に圧倒され、引いてしまう樽見。

そして、シラを切る樽見の表情に八重は「10年の歳月が流れたこと」を実感するのだった。多吉への想いが、如何に独りよがりなものであったか・・・

そんな独りよがりの気持ちに気づきつつ自重しようとするが、10年来の想いはなかなか断ち切れるものではない。一方、当初は困惑げな樽見もそんな八重の姿に、ふとあの10年前の出来事を思い出し、温かい情愛が込み上げてくる。お互いの想いがすれ違う本当に悲しい瞬間である。

「やっぱり犬飼さんだ!」

そこに突如あの日の夕方と同じような豪雨が振り出し、雷が窓の外で鳴り響く。樽見は八重に情のこもった言葉を投げかける。
「あんたはほんとに心の綺麗なお方や、あたしはあんたの心に打たれましたよ」と・・・。この作品の伝えたかった事がこのセリフに込められている。お互いに心の飢えを癒しあうその気持ちが、溢れんばかりに暴発した事が、樽見の殺人へとつながっていくのだった。

深い想いと、深い情け・・・それが向かい合った時に起こる悲劇。殺人が決して憎しみや自己保身からだけで生み出されるわけではないという真実。
言葉で説明できない心情による殺人も起こりえるという真実。それを描いたところにこの作品が、ただのサスペンス劇に留まらない芸術品としての価値があるのである。

それにしてもあの絶命寸前の八重の断末魔の叫び声。どこからどう搾り出せばこの声が出るのだろうか?そして、微笑みながら死に絶える八重・・・。


■灰と爪・・・そして、一筋の涙


飢餓海峡 飢餓海峡
2人の登場人物がいる。伴淳三郎(1908−1981)と高倉健(1931− )である。この作品は非常にユニークな作品である。それは高倉健のこれほど重みに欠ける姿はなかなか見れないという点においてである(高倉健は1時間45分後に初めて登場する)。

権威をかさに取り、人間としての優しさの欠けらも見えてこない味村刑事と、10年の年月の中で、人間的に酸いも甘いも知り尽くしたかのような弓坂元刑事の対比。この作品は、高倉健の役柄が意識的にとことん浅はかである。そして、その分だけこれまた驚異的なまでに伴淳の魅力が搾り出されている。

小さな身体をこれでもかと恐縮して小さくなって座るその姿。人生の荒波に打たれすぎ妻子からも貶される不器用な生き方しか出来ない男。この男も実は八重と同じように多吉の残したもの(灰)を持ち続けていた。但し八重の愛情とは違い、弓坂は憎悪の感情を抱きながら。

「誠に悲しいことです。お互いに人間と人間が信頼し合えないなんて・・・あんたは八重さんさえも信じなかった」

「樽見さん。あんたが歩んできた道には草も木も生えんのですか?」


爪と灰。爪がその人の生を象徴するなら、灰はその人の死を象徴する。この二つの残留物が愛と憎しみを結びつけた。そして、下北へ向う電車の中で目をつぶり涙を流す多吉。素晴らしいシーンの多いこの作品において、もっとも涙腺を緩ませるシーンはこのシーンではないだろうか?

多吉と八重の間に、誰も窺い知れない心の結びつきがあったように、昨今の50代の男性を女盛りの綺麗な女性が殺害したやら、東北で子供を殺害したあの女性にも、私たちが窺い知れない物語がいっぱいあったはずである。昔からそうだが、ワイドショーなどといったものが、人間の浅ましさを助長している。
僅か数分でその人物の全てを決め付ける単細胞が生み出されるのもこういったものの存在によってである。

殺人者にも被害者との関係において、第三者には窺い知れぬ、心の結びつきがあったのかもしれない。そんな優しい気持ちを忘れ、一つの側面だけを見て、一人の人間をこうだと決め付ける行為こそ、私は、人間として失格者の行なう行為であると認識する。
そんな正義を振りかざし、人間の尊厳を上から踏み潰す役柄を本作において高倉健は見事に演じ上げていた。

それにしてもこの作品において、三國連太郎(1923− )という役者の、存在そのものの偉大さを改めて再認識させられる。この役者は、本当に日本にとって至宝の役者であると。

ちなみにこの作品において、喜劇俳優の伴淳三郎は初めてシリアスな芝居をする事になった。撮影現場において、伴淳はこれでもかというほど内田監督に演技指導され、すっかり自信喪失したという。しかし、内田はその自信喪失した伴淳の姿を待っていたのである。その姿があったからこそあの隠れた名シーンである息子がオヤジに小遣いをあげるシーンも生きたのである。


■壮大なお経の音色と共に置き去りにされる余韻


飢餓海峡
青函連絡船に乗り、津軽海峡上で恐山を前にして、般若心経を唱える弓坂。そして、樽見は花を海に投げるフリをして、投身自殺するのだった。漆黒の海原が波打ち大きな帯となり、樽見の殺人の罪をも呑み込んでいく。この余韻が鑑賞者にさまざまな思いを去来させる。

最後に流れる壮大なお経をモチーフにした音楽。
この作品こそ、日本人の根っこの部分に訴えかける多くのものが存在する作品ではないだろうか?日本人の本質とは何か?日本人の愛の感覚は?女は?男は?あなたの両親は?今の30代以下の日本人にこそ鑑賞することが求められる作品だろう。

ちなみにこのラストシーンにおいて、内田吐夢は、三國に
「ほんとに飛び込んでくれるかな?」とリクエストしたと言う。


■内田吐夢の執念


内田吐夢
水上勉による同名の原作は1962年に一年間「週刊朝日」にて連載された。そして、その後約半年かけて530枚の原稿を加筆し出版された。その内容は、1954年9月26日に起きた洞爺丸転覆事故(1337人の乗員乗客のうち1155人が死亡)と岩内大火(死者33人)に着想を得ている。

当初本作は、192分で公開される予定だったが、大幅にカットされた。この事に対して、内田監督は反発し、自分の名前をクレジットから削除して欲しいと申し出たという。結局約10分のカットで済んだという。

本作の映画化の他に1968年にNHKにて中村玉緒の八重と高橋幸治の樽見、宇野重吉の弓坂でテレビドラマ化、1978年にフジテレビで山崎努の樽見、藤真利子の八重、若山富三郎の弓坂でテレビドラマ化されている。

− 2008年2月3日 −


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