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自転車泥棒   LADRI DI BICICLETTE / THE BICYCLE THIEF(1948・イタリア)
■ジャンル: ドラマ
■収録時間: 88分

■スタッフ
監督 : ヴィットリオ・デ・シーカ
製作 : ヴィットリオ・デ・シーカ
原作 : ルイジ・バルトリーニ
脚本 : チェザーレ・ザヴァッティーニ / スーゾ・チェッキ・ダミーコ
撮影 : カルロ・モンテュオリ
音楽 : アレッサンドロ・チコニーニ

■キャスト
ランベルト・マジョラーニ(アントニオ)
エンツォ・スタヨーラ(ブルーノ)
リアネーラ・カレル(マリア)
自転車泥棒
真の親子の関係とは、「助け合い」である。親が子を扶養するだけではなく、子も親の役に立ちたいと思う「優しい気持ち」が湧き上がることから、子供の人格形成がなされていくのである。顧みて現在、親に扶養されて当然と考え、勉強とゲームと漫画で時間を消費している子供たちにいつ人格形成するきっかけがあるのだろうか?私の親友で小学生の教師がいる。この30歳の青年は言う「子供には、自分が誰かの役に立ちたいという気持ちがある。しかし、子供扱いされすぎると誰もが怠け者になるのです。勉強さえしてれば褒められる。後の時間はゲーム、漫画と好きなことをしても許される。これじゃ、子供の自主性、人格形成は行われないのです」。現場の実際の声はメディアの欺瞞を遥かに超える。『自転車泥棒』は一人の少年の人格形成の過程を画面で見せつけてくれる。だからこそこの作品は普遍性に溢れているのである。

■あらすじ


不況の蔓延する敗戦後のイタリアで、2年間失業中だったアントニオは、映画ポスター張りの仕事を得る。ただし、条件は自転車を持っていることであった。早速質に入れていた自転車を家財道具を質に入れて、取り戻すアントニオ。しかし、仕事一日目に自転車を盗まれてしまうのだった。息子と共に自転車を探して彷徨い歩くアントニオ・・・やがてアントニオは他人の自転車を盗もうと考えるのだった。


■人物の生身の姿の描写がそこにはあった


自転車泥棒
21世紀においてこういった「過去の名作」の価値はどういったところにあるのだろうか?と問われれば、
登場人物の生身の姿の描写にあると答えられる。現在の人々の営みは多くのモノに囲まれ、メディアを通して一通りの常識を知り、人間が「取り澄まして生きていく時代」である。

しかし、20世紀の中頃までは、メディアは成長過程であり、人間は
「取り澄ましていては生きていけない時代」だった。その分生身の人間同士がぶつかり合うので、子も早く成長し、親の存在を早く理解できるのであった。顧みて現在は、生身の人間性を不器用に親が子に見せようとして、子を戸惑わせたり、親が子に生身の自分を見せなかったり、子が親に心を開くことを拒否し、親が恐る恐る子に接したり、という「歪みきった親子関係」が続いている。そして、その最先端に影響しているのは、義務教育の現場である。

子の真意の分からぬ親は、現場の教師に任せ、それでいてちょっとした不平不満であっても、子を理解せぬ反動かのように教師の立場の弱さを知りながら食ってかかるのである。

義務教育の崩壊が近づいているのは、
子を持つ親一人ひとりの「放任に対する罪悪感」が転じて「教師を尊敬せず子の召使のような感覚」を持っている事によるものなのである。つまり、21世紀よりももう少し前から生み出された、欺瞞に満ちた中身の空っぽな「社会性」「責任感」という言葉を旗印に「親と子の生身の関係」は親の側から速やかに放棄されたのである。いや正確に言うと親は子とどう接すればいいのか分からなくなってしまったのである。


■本当の幸せはどっち?


公開当時本作は、イタリアの庶民の貧困振りを描いた救い用のないリアリズムあふれる作品だと見られる節もあったが、現在においてのこの作品の評価は、自転車泥棒をしてしまった父の手を優しく握る子の存在。そんな息子がいるという父の姿に
「幸福なる親子の関係」を見る人が少なくない。アントニオは金儲けと世渡りに関しては上手ではない敗残者だが、少なくとも親子の関係においては勝者であった。

顧みて現在の親子関係はどうだろうか?もしこの父と違う形であれ、父(母)であるあなたが打ちのめされた時に、子はどういった反応を取るのだろうか?あなたの手を握ってくれるのだろうか?そして、あなたの妻(夫)は??

あなたの家族は、本当に家族なのだろうか?あなたならどちらが幸せだろうか?貧しくとも家族が実感できる父(母)と富んではいるが家族が実感できない父(母)か?『自転車泥棒』の、今日的な価値は、過去に生み出された価値以上の価値である「生身の親子の姿」を嘘くささの欠けらもなく描いている部分にあるのである。ここ20年間テレビでうんざりするほど描写され続けている妙に友達感覚の薄っぺらな親子のうわべだけの仲良さではなく、「生身の親子の姿」がそこにあるのである。


■この作品は21世紀の親子関係を考えるメッセージでもある


21世紀は、明確に
「人間が必要なものを選び取る時代」である。これは社会学的に見ても、歴史学的に見ても人類が始めて直面せざる時代である。「金儲け」「自然破壊」「家庭崩壊」「内面の崩壊と孤独」「親子」「資本主義」「国家」「娯楽」「芸術」「メディア」「宗教」「海外渡航」「文化」「恋愛」・・・「古きものを纏め上げ相応しいものを選び出す時代」へと確実に今後は進んでいくのである。情報化社会から生み出される「成熟した社会」は、明確に最先端の追求ではなく、今までの蓄積された偉大なる要素を集約し、その特性の追求へと向っていくだろう。

「私たちはあまりにも先を走りすぎた。子供は小型のゲーム機まで持っている」
この状況を、時代の流れだからしょうがないの一言で片付けられるのだろうか?「いいえ」である。この状況をそういった一言で片付けるそういった人々が、「生身の交流の妨げ」になっているのである。これからの時代は、認められないものは認められないと言わなければならない時代であり、そういった事を言わないで上手くやり過ごすことは出来ない時代なのである。

『自転車泥棒』が、子が父の手を握ったように、あなたの子もあなたの手を握ってくれる瞬間がある関係に生きていなければ、父が子を持つこと自体「ぞっとすること」になってしまうのである。「20世紀は子供が、贅沢に遊ぶ時代」への過程であり、これからはその状況を修正していく時期にさしかかっているのである。


■何かおとうさんの役に立ちたい。その気持ちの大切さ


自転車泥棒 自転車泥棒
2年ぶりに手に入れた仕事の前夜、苦心して質から取り出した自転車を綺麗に磨く6歳のブルーノの姿。
「何かおとうさんのためにしてあげたい」だからそうするその姿。子供の成長は「何かをしてもらいたいの過度の要求ではなく」「何かを誰かのためにしてあげたいという欲求」をいかに育てるかにあるのである。

この描写が、すでに現在において、歪みきった親子の関係を思い知らせてくれる。父は子に苦労させない為に働こうとし、子は父のために少しでも役に立とうとする。いわゆる生きていくにおいて必要な「絆」の構築である。一方、父は子に苦労させない為に働こうとするが、子は父に対して一切の感謝の念さえも示さない。そういう子の姿勢は明確に間違っており、
こんな子は生涯「絆」の深さを求めつつも、ほとんど誰からも相手にされない情の薄さに取り巻かれるのである。

挨拶が出来るか出来ないかは、その子の特質なのだが、感謝の念を示せるか示せないかは、その子の人間性の問題なのである。
(挨拶と感謝の念は全く別者である)


■「負の連鎖」ではなく「負の伝染」


自転車泥棒 自転車泥棒
映画のポスターを貼るアントニオ。しかもそのポスターは現実とは別世界のハリウッド・スター・リタ・ヘイワースのポスターである。そして、仕事初日にして2年分の空白を取り戻そうとするアントニオの心意気の象徴でもある自転車を盗まれてしまう。犯人を追跡するも見つからず途方にくれるその姿。三人一組になって自転車を盗んだ泥棒たちは、同情するに値しない狡猾さに満ち溢れていた。

この描写がのちにアントニオが泥棒の一人を発見し追いつめた時に活きる事になる。彼らの行為は組織化された犯罪なのである。デ・シーカの素晴らしさは、アントニオの自転車泥棒をもってして
「負の連鎖」を描いてるのではなく、「負の伝染」を描いているところにあるのである。もしこの泥棒が、アントニオと同じように、貧しい風体の一人の男の衝動的な行為であったならば「負の連鎖」なのだが、この泥棒は明確に、犯罪常習者であり、あの老人も仲間もひっくるめて、犯罪者なのである。

「負の伝染」とは黒澤明の『野良犬』でも描かれているのだが、
犯罪者が貧者の心さえも蝕んでしまうプロセスなのである。本作において泥棒の仲間としてマフィアらしき仕立てのいいスーツを着た男たちが登場するのだが、これは明確に貧者を踏みつけることによって暮らし向きが良くなっている搾取者たちなのである。ここに「負の伝染」の共食いの状況が克明に描かれているのである。


■ブルーノはアントニオの良心なのである


自転車泥棒 自転車泥棒 自転車泥棒
その一方で描かれるアントニオの友人である清掃業のオヤジたちの存在。盗まれた自転車を一緒になって探してくれるこの温かさ。そして、この時もアントニオとオヤジの間に挟まれながら一緒に自転車を探し出そうと背伸びするブルーノ少年の健気さ。

雨が降る中、すってん転ぶブルーノに気づかないアントニオの「どうしたんだ?」の一言に「転んだんだ!」と怒るブルーノ。彼は転んだ痛みよりも、自分の存在を忘れている父の姿に時折怒りを感じるのだった。さらに、父をいらいらさせて不当にも頬を張られるのだが、それでも微妙な距離を取りながらもブルーノは決して父から離れないのである。

ブルーノは明確に「アントニオの良心の象徴」であり、この子がいたからこそ、アントニオは良心を保てているのである。つまり父にとっては子は良心であり、父と子が離れた時に良心は失われるという構図を見事に描いている。

ここでデ・シーカの素晴らしさが示される。
「つまり男と女が子供を産むということは、小さな二人の間の良心を育てていくということなのである」


■ブルーノは父の惨めな姿を見て「さらに父を愛する」のである


自転車泥棒
自転車を盗んでいると知りながらあくまでも自分の子供をかばう母親と、自転車を盗もうとして失敗し、身の置き場のない父親の帽子を拾い上げ、そして父親の手を握る子供。この二つの関係がこの作品の本質となっている。
前者は、他人をないがしろにしてでも自分たちは生き残ろうという「絆」が浅ましさに向っており、後者は、誇りを失わずに頑張って生きていこうとする「絆」の深みへと向っているのである。

この対比描写が存在しているからこそこの作品は、歴史に残る名作と称せられているのである。
そう人生とはついてない一瞬の連続であり、幸運は大概は知らぬまに手に入ってくるのである。

貧困は、人間に多くの試練を与えると同時に「人間の弱さを理解する心」を与えてくれるものなのである。ブルーノは父の、あまりにも情けない行為が、どれほど家族のことを考えてかを身にしみて理解しているので、彼は父にある種の感謝を抱くのである。

子供は本質的に嗅ぎ取っているのである。なぜ父が自転車泥棒をしてしまったのか?それは自分のためだと。父親は子供に手を握られるまでは身の置き場がなかったが、その手の温もりを感じ、「自暴自棄に家族を守ろうとした自分を自戒しながら」さらに家族を守っていく意思をより強くしたのだった。

「父の惨めな姿を晒してまで必死に家族を守ろうとするその姿」を見せ付けられたからこそ、ブルーノ少年は、より父を慈しむ事になるのである。こういう生身の生き様のぶつかり合いこそが強固な親子関係を作り上げるのである。この惨めな父の姿を見た子は、父の情けなさに幻滅してしまい一生父を蔑むだろうという解釈は、あまりにも「清潔で生気のない論理」なのである。


人間とは、生の姿を見せられると、本当にその人のことが好きになるものなのである。格好つけて生きても人間なんてたかがしれてるんだというイタリア人気質がよく反映されている。だからこそイタリア人は人と人の絆を大切にする民族なのである。良きにつれ悪しきにつれ。


■過去の貧困を噛みしめることなぞ不可能である!


この作品から、今の若者たちよ昔の苦労を噛みしめろ!
という老年層の意見は、全く私の胸を打たない。時代時代に応じて人々は多くの苦労を背負って生きているのである。むしろ、その老人たちが生み出した貧困の反動の中での拝金主義の中で多くの若者は苦しんでいるのである。

「昔は仕事を得ること自体が大変だったんだ!今のように簡単に仕事を変えたりする若者たちはけしからん!それは逆に恵まれていることの証明でもあるんだよ」
という意見の老年層がやたら多いが、この意見も「多くのモノに囲まれている人間の不幸を実感できないその鈍感さが、いかに多くの若者を破壊していることか?」という問いかけの前では陳腐な意見にしか過ぎない。

現代社会の人間の不毛感は、全て過去が生み出したものだということを決して忘れてはならない。そうなれば若者に対する年長者の接し方に、情愛と謙虚さが生まれるはずである。私には、上記のような意見を吐く年長者は、アントニオをこつきまわしていた人々かもしくは、貧民街で仕立てのいいスーツを着て脅し文句を振りかざしていたやくざもののような姿勢にしか見えないのである。


■高級レストランのあの裕福な少年


自転車泥棒
実に印象深いのが、アントニオとブルーノがなけなしのお金で高級レストランで食事をする時に、近くで食事している富豪の息子のその姿である。実に取り澄ましてナイフとフォークを上手に使いこなし食事しているのである。この少年がブルーノを見つめる表情。それが富裕さが生み出す陳腐さを一心に表現しているのである。

この少年が自転車を盗まれたとしても大して悲痛さを感じないだろう。しかし、
本当は物を盗まれた後のこの悲痛さが重要なのである。悲痛さとは心の豊かさの裏返しなのである。そういった意味においてはこの少年の心は貧しいのである。

そして、同じ空間を生きる二人と、別々の空間を生きる金持ち一族の縮図を見事に示しているシーンでもある。金銭的な豊かさにあぐらをかいていると、各々が独立して生活していけることを実感しあう結果となり、それだけ家族の溝は深まっていくのである。一方金銭的な豊かさにあぐらをかかないか、もしくは貧しさは、お互いが共に生きていく必要性を実感させ、家族の絆は深まっていくものなのである。


■アマチュアの持つリアリズムの凄さ


この作品は一人を除き全てアマチュアの俳優により作られた作品である。アントニオを演じたランベルト・マジョラーニは元々はエンジニアだったが失業中であり、ブルーノを演じたエンツォ・スタヨーラも町でデ・シーカがスカウトした少年だった。ほとんどの人々は、デ・シーカの思惑もあり、主役も含めて現実に映画と同じような状況の役柄を演じている。そして、撮影はオール・ロケで行われ、撮影機材もたいした機材を使用せずに行われた。

デ・シーカは前作『靴みがき』(1946)を見たハリウッドの大物プロデューサー・デビット・O・セルズニックからハリウッド資本での製作を持ちかけられるが、その条件が主役はケーリー・グラントということだったので「ヘンリー・フォンダならお願いしたかったのに」と丁重に断ったという。

本作はロッセリーニの『無防備都市』(1945)に端を発したネオレアリズモの秀作の一つとして世界的に認識されている。さらに『夕陽のガンマン』の名匠セルジオ・レオーネが神学生役で出演している。彼は本作で助監督を務めていた。1949年アカデミー賞特別賞を受賞し、同年のゴールデングローブ賞外国映画賞などを受賞することとなった。

− 2007年8月16日 −


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