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群衆   MEET JOHN DOE(1941・アメリカ)
■ジャンル: ドラマ
■収録時間: 124分

■スタッフ
監督・製作 : フランク・キャプラ
原作 : リチャード・コネル / ロバート・プレスネル
脚本 : ロバート・リスキン
撮影 : ジョージ・バーンズ
音楽 : ディミトリ・ティオムキン

■キャスト
ゲイリー・クーパー(ジョン・ウィロービー)
バーバラ・スタンウィック(アン)
ウォルター・ブレナン(大佐)
エドワード・アーノルド(ノートン)
ジェームズ・グリースン(コネル)
群衆
フランク・キャプラの魅力を、一言で言い表すとこうである。自分自身にとってのリトマス試験紙。彼の作品は批判の対象ではなく、自分の中に失われた感情がないかを自問させてくれる対象なのである。だからこそキャプラの描く社会は誇張されていてよいのである。

■あらすじ


地方新聞の記者アン(バーバラ・スタンウィック)は、経営陣が交代することによりクビを宣告された勢いで最後の記事をでたらめに書く。「クリスマス・イブに市庁の屋上から飛び降り、社会の不正への抗議をします。ジョン・ドー」この記事が思わぬ大反響を巻き起こし、アンのクビも取り消され、放浪中の元野球選手をジョン・ドゥーに仕立て上げ記事の反響を利用することになる。


■今も昔も失いつつあるものは同じ?


群衆 群衆
「人と人のつながりの大切さ」
これこそ本作の一つのテーマである。それにしてもこの映画に登場する人々の表情の魅力的なこと魅力的なこと。白黒でフィルムの質もよくない状態なのだが、この映画の中の人たちは本当に生き生きしている。この映画を見ていて強烈に気づかされたことなのだが、昨今の映画の中の人々は何か生き生きしていないように感じられる。

映画の中で理想を描く姿勢が失われているが故ではないだろうか?さらに言えば特殊効果や小手先の撮影及び編集効果に気を取られすぎて、人間を一つのモノとして捉えているからではないだろうか?


■メディアの大衆に対する力


群衆 群衆
1940年代からすでにこういった新聞・ラジオなどのメディア媒体が大衆に与える影響を危惧しているのだからアメリカという国はやはり当時は思考的に進んでいた。1941年とは第二次世界大戦中であり、12月8日に日本軍による真珠湾攻撃が行われる年である。

「50ドルでも手に入れれば、もう気楽じゃいられない。そして、君らも亡者になる」と大佐(ウォルター・ブレナン)が言うセリフが実に普遍のテーマを定義している。富を多く得ていることのみを社会的ステイタスにする愚かさとそれに振り回される人間の陳腐さである。しかし、現在は世界規模的に見て
60〜70年代の人々よりも社会に対する反抗心が少なく、むしろ社会に取り入ってでも自分だけは美味しい餌がほしいという人々が増えているように思える。

テレビのチャンネルをひねって脚光を浴びている同年代の人々を見て、俺はこいつらとは生き様が違うんだ!と思うのではなく、俺は彼らほどついてないからな。もしくは、彼らのようになりたいと思うのである。



■クーパーとブレナン・コンビ


群衆
ジョン・ウィロビーを演じるゲイリー・クーパーが当時40才とは思えないくらいの純粋な男性を演じている。そして、いつも隣にいるのがウォルター・ブレナン扮する大佐である。このコンビが最高によい。ハーモニカを二重奏する所などブレナンらしい飄々とした表情がさすがである。何気に3回アカデミー助演男優賞を受賞している
このオヤジの魅力は一重に瞬間でその場のムードメーカーになれるところだろう。

クーパーが無精ひげでボロボロの服を着て放浪者として登場するシーンなどは、なぜかあざとさが感じられずとてもよい。これはクーパーのぼけっとした雰囲気作りのうまさによるものだろう。そして、テーブルの上の食べかけの食事に気を取られ、最後には倒れるのである。

それにしても、どこからどう見ても大佐≠ノは見えないブレナンが大佐≠ニ呼ばれているところが最高に滑稽である。
映画の魅力とは、絶対にその由来を説明してくれそうにない魅力的なあだ名の由来に、想像を張り巡らせてみたいと思わせてくれる所なんかにあるものだ。『レザボア・ドッグス』のピンクや、『ユージュアル・サスペクツ』(1995)のカイザー・ソゼもそういった想像力がくすぐられる所が魅力でもあるのである。

ちなみにクーパーが本作に出演を決断した理由は『オペラハット』(1936)でのキャプラの仕事ぶりに感銘を受けていたこともあるが、何よりもバーバラ・スタンウィックと共演したかったからである。


■バーバラ・スタンウィックの魅力


バーバラ・スタンウィック
バーバラ・スタンウィック
(1907−1990)
この人のルックスとスタイルのよさに20代のはじめ惚れました。どことなくマドンナ系のルックスで、悪女も賢女もお手のものな所が凄い。彼女の魅力はその声音ときりっとした表情である。
基本的に肉感的に男性を支配する役柄と言うよりは知性的に男性を支配し、やがてその秘められた肉感的な部分も絡め合わせて男を虜にする役柄が多く、こんな女にならしょうがないと思わせてくれるところが最大の魅力である

退屈的ではない美女である。彼女を見ていると現在の映画界にタイムスリップしてもすんなり入り込んでいける軽妙さと知性と立ち振る舞いをもった女優だと感じる。もちろんルックス・スタイル的にも。

当初キャプラはアン役に『汚れた顔の天使』(1938)のアン・シェリダンで考えていたと言う。


■クリスマス・イブに市庁の屋上から飛び降り抗議します


群衆 群衆
キャプラらしく少年が首を宣告していく冒頭のシーンからうまいと唸らせられる。キャプラは少年の使い方が凄くうまい監督だ。「口の堅いアメリカ人がいるか?」というセリフにも現れているのだが、キャプラという人は非常に端々の登場人物の描き方が丹念な人である。
彼の作品を見ていていつも驚かされるのは、ほんのちょっとした役柄の人にまで親近感を抱いてしまうところである。

そうした人間一人ひとりの描写が丹念で暖かいからこそ、彼の映画に皮肉たっぷりな人を見ると、キャプラの暖かい視点がわからないものかなあ?と感じるのである。この丹念な描写ゆえに、キャプラの作品は自分の中の大切な何かを推し量る測量計であるといえるだろう。

それにしても、飛び降り自殺をして抗議しますという発想の見事さには、正直感嘆させられる。


■そこに座ったまま 何百万の人の幸福をぶち壊すのか?


「そこに座ったまま 何百万の人の幸福をぶち壊すのか?」
ジョンは、自分達の運動を利用して大統領になろうと目論んでいたノートン(エドワード・アーノルド)にこう言い放つ。このセリフはそのまま今の日本の何世代にわたって国民を食い物にしてきた政治家一族に突きつけたいセリフである。

蛇足ではあるが、全ての政治体系の堕落と国家の危機は、政治家の国の私物化から始まるのである。そういう何世代にも渡る政治家一族が国を支配すると、その国はよくない方向に進み始めるのである。そういった意味においては今のアメリカと日本は実に良く似ている部分がある。

アメリカの上流社会ブームの影に潜む膨大なる不満層がこれからアメリカ社会を変革させていくだろう。最近起こったヴァージニアの乱射事件にもそういった要素も含まれているように思われる。


■賛美する大衆が、怒れる大衆に豹変した時


ジョン・ドーの全米集会で、ノートンに反発したことにより、ジョンは偽者だと暴露され、一瞬にして暴動化する集会のシーンは今見ても迫力満点である。ジョンも知らず知らずに大衆を操作しようとしていて、そして、大衆の暴走を経験することになるのである。
このシーンの見事さは、1941年当時世界中で行われていた権力者(=ノートン)による何百万の人々の幸福の破壊行為のプロセスが、実は半ば自殺行為によって行われているという仕組みをきづかせてくれる所にである。

実際に大衆を操作すると言う行為を行ってきた権力者、メディアはほとんどの場合は、大衆に多大なる損害を出した上で本人達も(一部を除いて)暴走の渦の中で滅び去る運命になるのである。この集会の描写を見ていて、ヒトラーのニュールンベルグの党大会や毛沢東の紅衛兵100万人閲兵を連想させられた。

そして、
善意と純粋な熱意で大衆がつき動かされれば、つき動かされるほど暴走したときの反動はすごいものになるという可能性についても教えてくれるシーンである。


■絶望感とは、希望の瞬間に近づいている証明


群衆
打ちのめされたジョンは、本当にクリスマス・イブに市庁より飛び降り自殺を行って、偽者ではあるが、ジョン・ドーの運動に対する気持ちは本気だったことを示そうとする。そして、それを止めるアンが言うせりふ
「死ぬ気なら、生きてやり直すべきよ。私も一緒にあなたとやり直したいから」この放浪者が真の社会正義に気づくくだりは本当に素晴らしい。

人生の絶望とは、新たな可能性を、そして、新たな希望を見つけ出せるチャンスでもあるのだ。だからこそ、絶望を噛みしめて生きていける強い心と、心のゆとりを持たないといけないことをこの映画は教えてくれている。

ちなみに本作は4種類のエンディングが撮影された。そのうちの一つは実際にジョンが飛び降り自殺してしまうものだったという


■大衆の力は、あなどれんぞ


群衆
アンの上司だったコネル(ジェームズ・グリースン)が最後にノートンに吐き捨てるこの言葉で映画は終わる。最後の決めセリフも決まっているが、これこそ、現代の世界及び日本のメディアと大衆の関係を明確についているセリフだろう。基本的に誠意や正確性よりも金や知名度につながるセンセーショナリズムや扇動に傾かざるを得ないのがメディアの体質である。そんなメディアを批判することは大切だが、その批判はメディアの検閲に合う場合も多くあまり効果が期待できない。だからこそ必要なことはメディアの情報を半ば疑ってかかるようにして生活していく姿勢だろう。

より分かりやすく言えば、メディアよりも芸能界においてだが、本当に才能溢れる人たちが集まっていれば、テレビの仕事云々だけが食い扶持でもないはずだが、ほとんどの芸能人は、テレビの奴隷であり、テレビという媒体から見捨てられると生きていけない可能性があるのである。だから、テレビの前での醜い媚びへつらいや楽屋裏でのつまらぬ誹謗中傷を繰り広げあうのである。現在のメディアの総芸能人化がメディアに真のジャーナリズムを求めにくい要素になっている。

だからそういったヤツラの話は聞くに値しないのである。私は、基本的にテレビに出ている人間の100人のうち5人くらいが尊敬できる人で、残りの95人くらいは取るに足らないつまらぬ事をさも誇らしげに行っている人々だと考えている。だからここ何年も必要に迫られない限りテレビは見ないようにしている。
そう、あそこには魅力的と思えるものが少ないのだから。

だからこそこのセリフを今のメディアにぶつけたい。「大衆の力を、あなどるな!」と。

− 2007年5月16日 −


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