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真夜中のカーボーイ MIDNIGHT COWBOY(1969・アメリカ) | |||||
| ■ジャンル: ドラマ ■収録時間: 113分 ■スタッフ 監督 : ジョン・シュレシンジャー 製作 : ジェローム・ヘルマン 原作 : ジェームズ・レオ・ハーリヒー 脚本 : ウォルド・ソルト 撮影 : アダム・ホレンダー 音楽 : ジョン・バリー ■キャスト ジョン・ヴォイト(ジョー) ダスティン・ホフマン(ラッツォ) シルヴィア・マイルズ(キャス) ブレンダ・ヴァッカロ(シャーリー) ジョン・マッギーヴァー(オダニエル) |
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■あらすじ ヴェトナム戦争から帰還し、暗い過去を引きずる故郷テキサスを離れ、ニューヨークで自分自身の男性的魅力を生かして、ジゴロとして一旗あげようと考えているジョー(ジョン・ヴォイト)。彼は早々に現実に直面し、打ち砕かれ、更にラッツォ(ダスティン・ホフマン)というビッコをひいた詐欺師にまでなけなしの金を騙し取られる有様だった。しかし、そんな二人が再会することになり、奇妙な友情が育まれることになるのである。 ■生まれて一度も友情を知らず生きてきた二人 ![]() 二人の若者ジョーとラッツォには一つの共通点があった。ジョーは人当たりは良いが、その自意識過剰さ故に、友達はいなかった。その上彼は美人の恋人をレイプされ、更に自分自身も犯されているという過去を持つ。恐らくベトナムにおいても彼は友人は作らなかったのだろう。 特に象徴的なのは、ニューヨークに来てすぐに手紙を故郷の知り合いに書こうとしたが、皿洗いの同僚の黒人の爺さん以外頭に浮かばないのである。このシーンが明確に彼は一度も友情を知らずに生きてきたことを示している。そして、ラッツォは、言うまでもなくその風貌と不自由な片足故にガキの頃からストリート・チャイルドのような生活を送ってきたので、生きることに精一杯で友どころではなかったのである。 そんな二人がそれなりの年になり、寂しさも身にしみるようになってきたそんな時に、出会ったのである。そして、紆余曲折の末に生まれて初めて「友を持つ喜びと安定感」を感じるのである。一人なら不可能なことでも二人だと可能に出来そうな気がする。これも友情のもつ素晴らしい点なのである。 ■都会に生きるという孤独 二人の友情と同じくらい見事な描写が、都会に生きる人々の異常性と田舎の閉鎖された異常性の対比である。この見事な対比が、本作に普遍性を生み出し、現代人にとってもかなりの共感を与えずにはおれない作品としているのである。 ジョーは、倒れている人々を気にも留めない都会人に驚きを示している。しかし、彼はまだこの本質が田舎の保守的な体質と根本は変わらないことに気づいていない。最終的にジョーは、漠然と、都会の無関心と田舎の熱心さは、ラッツォのような外れ者を無視することによりのけ者にし、レイプされたジョーの恋人を集まる興味本位の群衆により精神病院へとのけ者にしたという結果と、ほとんど変わらないということに気づくのである。 そして、しらふではまともな人間関係を築けない都会人は、マリファナやヘロイン、アルコールに溺れて、全ての鎧をとっぱらおいうとする。一方、田舎においては、集団で暴行や強姦沙汰を起こしているのである。結局のところ、つまらん既成概念にシラフの時は支配され、シラフではない時にはヤクや集団の熱気に支配されるのである。これこそが人類の抱える病根である自分自身の解放を他者依存する悪癖が見事に描き出されているのである。 こういった人類の闇の部分をアメリカ映画で描くようになったのも、ヴェトナム戦争に対する疑問の沸騰と席巻する共産主義の波の影響なのである。 ■孤独な群衆の嘘っぱち ![]() 都会の孤独の中でどう生きていくのか?そういった孤独の中の人生について、そして、若者の挫折と堕落を描いたのが本作だが、これは当時の日本が出稼ぎ労働者(私の両親も若い頃に山口県から大阪にこの時代に出てきている)がネオンに集まる蛾のように集まってきた状況と全く同じなのである。 華やかなネオンサインも近くで見てみるとただの物理的に作り出した人工の灯り。そんなものばかり見つめ続けて生きていくことほど空しいことはない。明るければ明るいほど、華やかであれば華やかであるほど、本当の自分と向き合ってくれる人の不在に気づき人生は空しいものになっていくのである。 20世紀とは、まさに古来昔より、調和を余儀なくされてきた孤独というものを魔物化し、「孤独は悪いことだ」と思い込ませた悪しき時代でもあった。むしろ、孤独を他人から拒否される方が人生は苦痛なのである。そして、この二人はお互いの生まれ育ちについては一切語り合わずに「お互いに必要な孤独の要素」は尊重して調和ある関係になったのである。そう二人は孤独を埋めあったのではなく、孤独を尊重したのである。 ■ニルソンとジョン・ウェイン ところでこの作品。音楽が何よりも素晴らしい。本作をはじめ1960年代後半のアメリカン・ニューシネマは音楽が素晴らしいものが多い。そして、このニルソン(1941−1994)のオープニングに流れる曲もまた素晴らしい。当初ボブ・ディランに曲の依頼がなされていたが、間に合わなかったためにこの「うわさの男」が使用されたという。結果的には「レイ・レディ・レイよりもこっちの方が合っている。」 ちなみに1972年全米No.1を記録したニルソンの「ウィザウト・ユー」もかなり素晴らしい曲である。ところでこのテーマ曲が流れるオープニングでテキサスの映画館の上映タイトルの所にジョン・ウェインの崩れたアルファベットの羅列が登場する。実に皮肉なことだが、この年のオスカーでジョン・ヴォイトもダスティン・ホフマンもノミネートされるのだが、受賞したのはジョン・ウェイン(『勇気ある追跡』)だったのである。 ちなみに作品中にもこういうセリフがある。「カウボーイなんてみんなホモなんだよ!」「ジョン・ウェインはカウボーイだぜ!じゃあジョン・ウェインもホモか?」 ■ジョン・ヴォイトの素晴らしい南部訛りの名演 「真夜中のカウボーイ」=男娼として生きることを夢みて、ニューヨークにやってくるジョーが滞在するホテルに貼りつけるポスターは、ポール・ニューマンである。しかし、このジョーの姿は現在テレビでもてはやされているホストやホステスという職業にも通じるものがあるのではないか?10代の男女がそういった仕事に憧れて田舎から出てくるという話はよく友人から聞く話である。 特に男にとって10代の頃は風俗嬢と付き合うと毎日快楽が得られて幸せだと、よく言ったもんだが、日本でもシドニーでもそういう職業の女性と付き合ったことがあるが、やはり「そういう仕事をするからには精神的な不安定さ」を抱えているというものだ。陳腐な想像は若者の特権だろう。 ジョーが都会に出てきて一番最初に驚くのが、人間のサービスに金を払うという概念と、テレビを観る為だけのことで金を払わなければならないと言う「行き届いた金の支配」ぶりなのである。 このジョー役は当初リー・メジャース(人気テレビシリーズ『バークレー牧場』が、急遽もう1シーズン撮ることになったので降板)を経て、マイケル・サラザンになったのだがギャラ交渉の際揉めに揉めたので、ジョン・ヴォイト(1938− )が選ばれた。もっともウォーレン・ビーティが、シュレシンジャーに役柄に興味があるとアプローチしたが、「有名すぎる」と断られている。 ちなみに最も興味深いこととして、ジョーが長距離バスでマンハッタンに到着し、下車する時会うヴェトナム帰還兵役で無名時代のアル・パチーノが出演しているがカットされている。 ■史上最短の出演時間でオスカー候補になった女 マンハッタンで「自由の女神はどこですか?」と金持ちそうな中高年の女性に、声をかけ尋ねるジョー。やがて子犬を散歩している金持ち風情の中年女性キャスにベッドに誘われることになる。ところでこのショットでもそうなのだが、意識的に女性の足に対するフェティシズムたっぷりのショットが本作では垣間見られる。 このキャス役を演じたシルヴィア・マイルズ(1932− )は当時30代中盤だが、やたら老けている。ちなみにこの芝居でアカデミー助演女優賞にノミネートされた。史上最も短い出演時間でノミネートされた女優である。 このキャスとSEXしているシーンで唐突に流れるウルトラマンの映像とテーマ曲には驚かされる。しかし、それ以上に金をせびりあうジョーとキャスの浅ましさには驚かされるのである。こんなぶくぶくと太った下品な女が「最高の娼婦よ!」と自称するとは・・・笑止千万である。浅ましい女ほど盲目で性根は変わらない生き物はいない。 わずか20ドルばかしをせびり「最高の女なのよ!」と凄んで泣き喚く醜ささが、都会において心を捨て金に魂を売った浅ましい人間の姿なのである。いくら綺麗に着飾ろうとも醜い性根は隠せないのである。 ■まさに衝撃!白黒映像のホフマンの格好良さ! ![]() 舞台の『ヘアー』にも出演していたジョナサン・クレイマー(1945−1976)がオカマのジャッキー役で出演している。ボーイッシュな女性でも通用する風情である。そんなジャッキーに声をかけられ勿論騙されるジョーに「オカマに注意しなよ」と教えてやる白いスーツの小粋な赤シャツ男ラッツォ(ネズミ男)。その目の動きの落ち着きのなさがさりげなく怪しい。 ラッツォを演じるのはダスティン・ホフマン(1937− )である。路上で歩きながらジョーと熱心に話しているところを、タクシーに轢かれそうになって「I'm walkin' here!」とどなったり、ベトナム反戦デモに対して「うざいなぁ〜邪魔だ!働け!」(自分は無職にもかかわらず)と言ったり、突っ込みどころ満点のそのキャラ作りといい、もうその特異な歩き方からして素晴らしい役柄への入り込み方である。 ちなみにタクシーのシーンは撮影中に本当に轢かれそうになってぶちぎれたところを使用しているという。ホフマンは片足の悪さをリアルに近づけるために、常々片方の靴の中に小石を入れていた。映画主演2作目の本作においてホフマンは、ギャラとして製作費の半額150万ドルを手にしている。当初はロバート・ブレイクがラッツォ役のオファーをされていたが辞退していた。 そんなラッツォにお金を渡してジョーが紹介してもらった男が、ホモっぽい宗教キチガイだったので、驚いて逃げ出すのである。そして、あてどもなくラッツォを捜し求めて走るのである。このシークエンスの映像は、白黒とカラーで織り成されており、音楽と共にかなり斬新で素晴らしい。この後に出てくるアンディ・ウォーホル軍団のドラッグ・パーティーのサイケデリックなシーンの古臭さに比べれば格段に冴えわたっている映像である。 ■真夜中のゲイボーイ ![]() ホテルも追い出されなけなしの金もラッツォに騙し取られたジョーが、ゲイの学生にフェラチオされるシーンで、流れる音楽が007シリーズのジョン・バリーを髣髴させるスコアである。それにしても実際のところジョーは、やたらにゲイとのかかわりが多い。回想におけるレイプ、ゲイの美少年、宗教キチガイ、この学生、殺してしまう紳士と・・・ ゲイの友人(カナダで4年間、大学で精神分析の勉強をしてきた男)曰く、ジョーは間違いなくバイセクシャルだと言う。その根拠として、彼が男性に身体を売るときに嫌悪感を感じているのは、「カウボーイはゲイではない!」というセリフからも分かるように、テキサスという保守的な田舎でホモであることは許されないという固定概念が刷り込まれているからであり、ハンサムなゲイは、美女が面食いな可能性が少ないのよりは面食いだからであり、「禁断の行為はそれに相応しい相手としたいという願望」からはかけ離れた不細工な青年やオヤジと行為を致すことに自己嫌悪しているのである。シャーリーとのセックスにおいて当初彼が勃起しなかったのもラッツォに対する心配よりも、同性愛への目覚めによる影響が強いと彼は言う。 ジョーを見ていると同性愛に対して嫌悪感と好奇心の入り混じった感情を感じると彼は主張するのである。そういった主観の成否はともかくとして、カウボーイとは北米においてはゲイボーイの俗語である。まさにジョーはある時期まで『真夜中のゲイボーイ』だったことだけは確かである。 ■ラッツォという日陰の男が求めるもの ![]() 「人が生きていくのに二つ必要なものがある。日光とココナッツ・ミルクだ」 いちいち個性的なこのラッツォには夢がある。「フロリダに行くこと」だ。そんな彼が公衆電話を見るたびにつり銭チェックをするあの手際や、妄想の中でビッコが直っており、ビーチでジョーよりも早く小走りする姿や・・・仕草というものがいかに役者の芝居の能力を左右する微妙な要素であるかを見て実感させられる。 この作品において一種奇妙に感じられるのは、ジョーとラッツォは未来についてはよく語るのだが、過去についてはほとんど語り合わないという点である。これは二人とも過去を語り合うだけの友人がいなかったので、過去を語り合う習慣がないという理由もあるのだが、それ以上に現代人が過去を語るためにいかに時間を費やし、今を生きることを無駄にしているか?に対する皮肉でもあるのである。 それにしてもジョーのラジオから流れるフロリダ・オレンジジュースの音楽に合わせて寒さを凌ぐために踊るラッツォの姿は何とも小動物的である。 ■Yで終わる言葉でもイイわよ アンディ・ウォーホル主催のパーティーのシーンでシャーリーという唯一ジョーを買ってくれる女性が登場する。演じるのはこれがデビュー作になるブレンダ・バッカロ(1939− )である。パーティーのシーンのサイケな映像センスは今や古臭いのだが、その後のベッドシーンが非常に印象的である。 「Yで終わる言葉でもイイわよ」と言って「例えばSAY、PAY、LAY・・・GAYもYで終わりよ・・・」という一連のシャーリーのセリフがあるのだが、ジョーの見た目そのものである最後のY=COWBOYは出てこないのである。ジョー自身からも。 ジョーはこの時から、もはやカウボーイであることに対するこだわりを捨てたのかもしれない。ちなみにパーティーのシーンにおいてアンディ・ウォーホルも出演する予定だったという。 ■初めて他人から大切な心をもらうジョー カウボーイは誇りを捨て去り、老紳士の夜の相手をしてフロリダ行きの旅費を稼ぎ出そうとするが、金を奪って殺してしまう。そして、瀕死のもはや歩けないラッツォを連れてフロリダ行きのバスに乗る。 ラッツォはバスの中で「向こうに着いたら自分を、もうラッツォと呼ぶなリコと呼べ」と言うのである。(このシーンの二人の芝居の表情の作り方はかなり素晴らしい)そして、小便を漏らして涙するのである。一方、ジョーは途中でラッツォの為に着替えのアロハシャツを買い、自分もカウボーイの服装一式を捨てる。 「フロリダでは俺は外に出て働く」とジョーはラッツォに告げるのである。故郷で彼女をレイプされ、自分自身もレイプされた過去を持ち、男関係の乱れた祖母に育てられ、父母の愛を知らないこの「愛なき青年」は、母親の愛情を受けて育った老紳士を殺害することで、手っ取り早く金を手にする道を選んだのであるが、ラッツォから「愛」というものを友情を通して感じ取るのである。 見ている人によっては、ラッツォとの友情が結果的に彼の破滅を生み出したと感じるかもしれない。それはこの作品が優れているので、人それぞれの解釈の余地があって当然なのである。芸術作品は個々の感性の反映で感じ、考える極上の時間空間であるのだから。 ■ラジオとカウボーイの服装の真の意味=無個性 ![]() ラッツォがバスの座席で死んだ後に、ジョーは肩をしっかり抱きよせる。周囲の興味本位の無分別な眼差しから彼を救ってやるかのように。そして、バスの窓越しに映るマイアミの景色を通して見えるラッツォの死に顔と、今にも泣き出しそうな今やカウボーイではないジョーの姿を捉えながらジョン・バリーの物悲しいハーモニカのメロディーと共にこの作品は見事な終幕を迎える。 彼らの夢は儚く結局は「フロリダ=アメリカンドリーム」への近道は、殺人でも犯さないと到達できそうもないほどに長い道のりで、もはやそんなドリームなぞは崩壊してしまってるのではないのか?というメッセージを一枚のガラス越しに示しているとも言える。 ラストのラッツォの死に様とジョーの姿。これから「ジョーはまともに暮らしていけるのだろうか?」恐らくそれは無理だろう。彼のテキサス時代のトラウマが恐らく人生に対して着実な成功を許さないだろう。一度人生を他者によって破壊された経験のある人は、いつしか計画的な人生を全否定しがちになるのである。 もしかしたらニューヨークで起こした殺人により懲役に服するかもしれないし、フロリダで男娼をするかもしれない、またはシャーリーのヒモになるかもしれない。ただ明確な事は彼は、着実に生きることは難しく、これから真のスタートラインに立ったという事である。 ただし、「孤独の中から味わった友情=愛」によってジョーはひと回り成長したことだけは確かだ。彼はより孤独に強くなり、孤独の持つ前向きな意味を知ったのである。「孤独に懸命に生きる人々」が出会い「尊重しあう調和」こそ人生の真の喜びであるということを。 孤独という言葉に閉塞感しか見いだせない幼稚さからは、解放されたのである。本作は賢く回りに同調するのではなく、心の中に「孤独の砦」=個性を持てと訴えかけている作品であることだけは確かである。 象徴として、ラジオを質屋に売ってしまうジョーの姿を忘れてはいけない。ラジオは個性なき群像を作る工場であり、ウォーホルのパーティーも個性なき群像を作る工場であった。個性は常に孤独から磨き上げられ、人生の豊かさは「アメリカン・ドリーム」=他人の尺度で計るのではなく、自分の物差しで計るべきなのである。その象徴がラジオを売るシーンであり、カウボーイの服装一式を捨てるシーンなのである。 ■時代の先を走ることそれが芸術作業である 本作は360万ドルの予算で製作され、4470万ドルもの興行収入をあげた。当初その過激な描写ゆえにX−レイト(成人指定)となるが第42回アカデミー作品賞、監督賞、脚色賞を受賞し、主演男優賞、助演女優賞、編集賞にノミネートされた。史上唯一成人指定の映画でオスカーを取った作品である。 ちなみにジョン・ヴォイトは第27回ゴールデングローブ賞有望若手男優賞を獲得している。 − 2007年7月31日 − |
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