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波の塔   (1960・松竹大船)
■ジャンル: ドラマ
■収録時間: 99分

■スタッフ
監督 : 中村登
製作 : 小松秀雄
原作 : 松本清張
脚本 : 沢村勉
撮影 : 平瀬静雄
音楽 : 鏑木創

■キャスト
有馬稲子(結城頼子)
津川雅彦(小野木喬夫)
南原宏治(結城庸雄)
桑野みゆき(田沢輪香子)
峯京子(佐々木和子)
波の塔
青木ヶ原樹海・・・富士山の裾野に広がる原生林の空間。その自然が育む多様さが「死に臨む人々の心のゆとりの場」となる。この世の最後の行き止まりの空間。そこに渦巻く何かが多くの人々を惹きつけて止まない。この作品がこの樹海の神秘性の構築にいかに影響を与えたことか。「頼子が樹海を彷徨う姿が、彼女の人生そのものの姿だった。その頼子の死に方が、その頼子の生き方だったのだ」

■あらすじ


高級官僚の娘・田沢輪香子(桑野みゆき)は、旅先の上諏訪で一人の青年と出会う。そして、帰京後、深大寺で再会したこの青年・小野木(津川雅彦)の隣には、一人の着物姿の美女が寄り添っていた。謎の人妻頼子(有馬稲子)との不倫関係にのめりこんでいく小野木は、検事という仕事によって思いがけず彼女の素性を知ることになってしまう。


■青木ヶ原樹海での自殺はこの作品から始まった


私の友人は富士山麓にあるホテルでフロントの仕事をしているのだが、彼は富士吉田町の青年会に入っているので、以前は毎年10月頃に青木ヶ原樹海の自殺死体の捜索活動に参加していた。そんな彼が言っていた言葉はこうである。
「こんな場所で死ぬってよっぽどだね」と。彼は20代後半の男性だが、一回の捜索で発見される死体の数は10数体だったという。

どの死体も、異常な湿度と鳥獣に食い散らかされ甚だしいほどに腐乱しているという。その姿は「どんな綺麗な人でも、化け物に成り果てる」らしい。しかし、そんなことが分かっていてもこの作品の終わり方を見ていると、
そういったこととは逆の「滅びの美学」が垣間見えてくるのである。しかもその「滅びの美学」を演じるは、有馬稲子。こうくれば美学は神学の領域まで昇華していく。


■実に魅力的な三人。そして、日本の至宝・有馬稲子


波の塔
有馬稲子と南原宏治、そして、ちょっぴり桑野みゆきの存在が、本作においての魅力の大半をになっている。この作品は今日的には全く無視されている作品だが、実際のところ
「名作ではないが魅力溢れる作品」である。特に有馬稲子(1932− )の魅力が良く出ている作品である。

その魅力は一言でいうと「不思議な瞳」。そう彼女の瞳は光の当たる角度によってさまざまな輝きを増す宝石のキラメキのように多面的な瞳のキラメキに満ちている。彼女が魅力的なときは、あらゆる角度から彼女に光と闇が照らされているときであり、この作品はまさしくそういった部類の作品である。

小野木と接吻を交わした後に、彼の唇についた紅をハンカチで拭う仕草と表情。こういったちょっとした芝居こそ女優の真価が発揮される瞬間なのだが、彼女の場合はそういった次元を悠に越えてしまっている。今の女優は恵まれているはずである。この人の刺激的な芝居がいつでも見れるのだから。

現在は感性の薄っぺらさに包まれているまだまだ芝居に対する多面性にかける日本の女優が増えているが、こういう先人達の芝居を解釈しやすい映画環境の存在が、素晴らしい芸能の復興はそう難しくないことだと楽観させてくれるのである。


■小鳥がさえずっている様な可愛らしい桑野みゆき


輪香子を演じる桑野みゆき(1942− )が実に可愛らしい。この人は1967年に結婚してキャリアの全盛期に家庭に入った人だが、私はこの一点からも、この女性に魅力を感じる。
「如何なる美辞麗句を重ねようとも、引退した女優が老醜をさらす姿を無分別に受け入れるほど私の感性は衰えていない」

如何なる人々も、若き頃美しかった女性の衰えを、落胆せずにはいられないのである。その落胆の後に新たな美的観点を見つけ出すにしろ、それを第一声で○○○という女優は、復帰したが今も綺麗ですね。という発言は、「過去の美に対する背信行為」である。

そして、この作品で忘れてはいけないのが、
「政治の腐敗の中に食い込むダニのような男」結城庸雄を演じる南原宏治(1927−2001)である。この男、宝塚好き転じて、奥さんも宝塚出身の人であり、娘もつい最近まで宝塚で活躍していたのだが、そんなこと以上に、その芝居の厚味と幅に対する評価が一般的に低い。

この人の芝居は、非常に印象的な70年代の大仰な芝居だけではなく、50〜60年代前半のこういったシャープな美男子ぶりを発揮する
田宮二郎的な繊細な悪の魅力も出せる人だったのである。この人が出てくるシーンが全て引き締まっていた。主演男優の表情の締りのなさと比較してもらいたい。役者の力量が容易に分かるはずである。


■津川雅彦20歳。その表情の締りのなさ


一方、津川雅彦(1940− )の芝居は全く味わいがなく、明らかに有馬稲子の足を引っ張っていた。このキャスティング・ミスが本作の緩慢な脚本を、三人の役者の魅力でカバーしていた効力を半分はそいでしまった。同時代に作られた兄長門裕之主演で作られた『秋津温泉』(1962)が岡田茉莉子の孤軍奮闘を引き出したのに対して、この作品においては、有馬稲子の孤独虚無を引き起こしてしまった。

「誰だってみんな悩みがあるんじゃないでしょうか?」

と頼子に切り返され
(この「か」のセリフ回しの素晴らしさ)、「私にはないわ」と笑う輪香子の親友・和子を演じる峯京子(1936− )。彼女も有馬と同じく宝塚歌劇団(1953−1961)出身の女優で、なるほどのその顔全体の動きを中心にした芝居っぷりからも、それは十分に頷ける華やかさに満ちている。それでいて国木田独歩を独唱する声の和音の美しさ。本当に素晴らしい。

彼女の「明るさ」は、60年代的な日本の美。いわゆる東宝的な
「ハマ・ビューティー」と呼ばれる浜美枝的な美的感覚が漂っている。つまり目鼻立ちのくっきりした女性が、洋風を徹底的に突き詰めて見た60年代の日本の美の概念である。この概念は、「美人はさらに華やかになり、不美人はさらにみすぼらしくなる」という、薄っぺらさと表裏一体の危うき薄氷の上に存在する美の概念なのである。

他にも結城の愛人てる子役で関千恵子(1930− )が、「魅力的な浮気女」を和服の似合う物腰で演じている。そして、女中を演じる俳優座の平松淑美も何ともいえない生活観溢れる美人であった。しかし、何よりもいいのが結城の愛人(この男も愛人が多いな)西岡秀子を演じる岸田今日子(1930− )である。

同じきょうこ≠ナも長谷川京子よりこの時の岸田今日子の方が魅力的である。京子ちゃん頑張れよ!本当にこの今日子の声の可愛さ。この人の話口調がもう素晴らしすぎる。
この猫なで声というか一歩間違えばただのバカ女にしか聞こえない絶妙の声音がなんとも言えない魅力を引き立たせている。


■どこにも行けない道ってあるのね


波の塔
「どこへも行けない道ってあるのね。道があるからどこかいけるかと思ったけど」


素晴らしいセリフである。しかし、その一部の隙もない頼子がしなだれかかる腕の頼りないこと。津川雅彦は若さのためか、本作の芝居においては、
心の不安定感がただ単に表面上の挙動不審となって反映されている。これは明らかに年齢と役柄のギャップが、スーツからはみ出している証明であり、津川の芝居云々の前に、60歳のジジイに25歳の役柄をさせているような落ち着かない感覚を見ている側に与えてしまっているのである。

おそらく観ている人の中には津川が当時20代中盤と違和感なくかんじる人もいるだろうが、芝居の居心地の悪さは見ているものには明確に感じられるはずでる。そして、この違和感のみが本作の最大の暗部なのである。

だからこそ役柄的には同世代なのだが、絵的にはこのカップルはひと回り年の離れた男女の不倫に見えてくるのである。しかし、それはともかくとしてこの頼子のセリフは最後の彼女の独白にも反映されるとても重要なセリフなのである。


■同じように温室の中で生きていても・・・


「劇場で嫌な姿をお目にかけたでしょ。あたし恥ずかしくて。ですから今日は是非違った私を見ていただきたいと思って」

「どうして急に海が見たくなったの?」「今度海を見られるのがいつのことかわからないから」


出会うべきではなかった2人。だからこそ出会ってしまうと何もかも捨てて燃え上がるってしまうのである。そして、その裏に垣間見えるのは、この2人の何不自由なく生きてきた温室育ちぶりと、頼子は常々不倫をしてきたのではないかという有閑マダムぶり。ある意味繊細ではなく、鈍感な2人だからこそ人生のダークサイドへと走っていってしまうのである。

温室育ちの人間にありがちな、人生のマイナス思考振り。実に皮肉なことなのだが、これはある種、頼子と輪香子の温室育ちの違いぶりでもあるのである。前者は、それ故に潰され、後者はそれ故に叩き上げられていくのである。だからこそ、接吻をした後にハンカチでぬぐうこの色気や、着物姿の物寂しげな艶やかさが小野木をひきつけたのだろう。一方輪香子のはつらつさは小野木に興味を沸かせなかった。
頼子は情念との葛藤の中で生き、みちこは情念にしたがって生きているのである。

この頼子と輪香子が最初に出会う深大寺(じんだいじ)や、頼子と小野木が旅行する武田信玄の隠し湯で有名な下部温泉といった和の風光明媚さも物語に色をそえている。


■青木ヶ原樹林とは?


そこに立って湖を眺めると、対岸が茶褐色の溶岩だった。樹林がその上に立ち、それから裾野の方まで果てしなく海のように広がっていた。・・・この中に迷い込むと死体も発見できない


青木ヶ原樹海とは、山梨県富士河口湖町、鳴沢村にまたがる原野である。その樹海の歴史は約1200年とまだ若い森ではあるが人間の営みからすれば、恐ろしく長い過程を経て作り上げられた原野であることには間違いない。

実際のところ本作の影響で、若干の自殺が勃発したのは確かだが、バブル崩壊後の1994年に発刊された「完全自殺マニュアル」の影響による自殺の方が多大であり、2003年以降は毎年100体を越える自殺死体が発見されている。とにかくこの樹海での死体は腐乱具合が激しく、その死体の身元が分かるのは10%にも満たないといわれている。


■人を恨むよりも自分を軽蔑すべきよ!


結城が関与した政治の汚職により輪香子の父親も逮捕されてしまう。そんな時に、輪香子が、自己憐憫に浸る母親に言い放つセリフである。このセリフの持つ意味が実に素晴らしい。

そして、いつか明るいカフェで会話した頼子と輪香子が、お互いの親近者が入っている拘置所の前で再会する皮肉。しかし、この時の2人の表情の違いが印象的である。すっかり打ちのめされている頼子と、打ちのめされつつも現実に立ち向かおうとどこか逞しい輪香子。


■純愛とは、究極の偽りの愛


波の塔
私が東京駅に行けばその瞬間からあなたの将来が消えてしまうのです・・・お約束を破ったことどうぞ頼子の最後の愛と思ってください。あなたのことを思いつつ私は一人で参ります。どこへも行けない道


素晴らしいとしか言い様のない有馬稲子の独白。そして、和服で富士樹海に入り込んでいくその姿。まさにその姿は頼子の人生そのものだった。
人間は死ぬ時に、知らず知らずのうちに人生の総括をするものである。あるものは見苦しく死に。あるものは自尊心ある姿で死に望む。そして、頼子は、迷い道をさすらうように出口のない樹海を彷徨い死んでいくのである。

彼女が、男に感じたのは「愛ではなく、人生の隙間を埋める安らぎ」だった。2人の行動は常に旅、旅、旅であり、動いていないと消えてしまいそうな芯の細い関係だった。そもそもこの2人の関係は、恋愛ですらなく、ましてや純愛などではなかったのかもしれない。
いやそもそも純愛というものは、究極の偽りの愛かもしれないのである。

2人が感じた心。それは大人になるまでに愛を感じたことのない未熟な大人同士が恐る恐る愛し合う姿。あくまでも他人行儀な態度で、恋愛のプロセスを過ごしていくその姿は「偽りに満ちていた」。だからこそ、頼子は小野木に言う。「輪香子さんみたいな女性とつきあうべきだわ」と。この物語の真実はここにある。


■独りの女の愛の迷走


波の塔
頼子は、一人で死んでいく道を選んだ。だからこそ彼女は今まで一人ぼっちだったのである。この2人には旅という日常的ではない空間での恋愛は出来ても、一緒に住むという日常的な空間での恋愛は到底出来そうもない。その理由は頼子にあり、彼女の
「浮世離れした美的様相の物腰」=「ゆっくりとした落ち着きのなさ」が男に安らぎを与えないからである。

そして、つまるところ夫が犯罪に走ったのも、頼子が原因であり、小野木がキャリアを棒に振ったのも彼女が原因となったのである。「私ってみんな不幸にしてしまうのね」という頼子だが、それは結局のところ「私は誰も愛せない女よね」ということだった。

すごく不器用な女。そして、彼女は一人で歩くことを決意する。それは
「私は愛するという行為の確証を得るために死にます」という決意でもあった。彼女は「愛の不毛」の中を生き「愛の孤独」の中で死ぬことを選んだのである。

だからこそ、私は、
この作品を「独りの女の愛の迷走」=よせては返す波を見つめる塔に佇む女≠ェ波に引き寄せられるように飛び込んでしまう物語のように思えるのである。つまり富士樹海に飛び込んでいく頼子の姿である。

この作品は
「愛とは継続行為ではなく、断ち切ることによってのみ得られる」と示しているのである。

本作は、「女性自身」に1959年から連載された松本清張の長編小説である。ちなみに1961年に池内淳子と井上孝雄、1964年に村松英子と早川保、1970年に桜町弘子と明石勤、1973年に加賀まりこと浜畑賢吉、1983年に佐久間良子と鹿賀丈史と山崎努、1991年に池上季実子と神田正輝、2006年に麻生祐未と小泉孝太郎でテレビ・ドラマ化されている。

− 2007年8月23日 −


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