HOME
■サイト内検索

■洋画
 □カタカナ順
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
 □クラシック
 □ドラマ
 □コメディ
 □サスペンス
 □アクション
 □ポリス
 □スパイ
 □犯罪
 □カー
 □ミュージカル
 □史劇
 □文芸
 □戦争
 □西部劇
 □アドベンチャー
 □パニック
 □ギャング、マフィア
 □SF
 □ホラー
 □スポーツ
 □香港
 □ドキュメント
 □アニメ
 □エロス
 □B級
 □アカデミー賞
 □カンヌ映画祭
 □ヴェネチア映画祭



■邦画
 □ひらがな順
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
 □名作
 □ドラマ
 □喜劇
 □サスペンス
 □アクション
 □刑事
 □時代劇
 □戦争
 □文学
 □パニック
 □東映ヤクザ
 □ギャング、ヤクザ
 □特撮
 □怪奇
 □ドキュメント
 □アニメ
 □エロス
 □B級
 □海外映画祭受賞
女が階段を上る時   (1960・東宝)
■ジャンル: ドラマ
■収録時間: 111分

■スタッフ
監督 : 成瀬巳喜男
製作・脚本 : 菊島隆三
撮影 : 玉井正夫
音楽 : 黛敏郎

■キャスト
高峰秀子(矢代圭子)
森雅之(銀行支店長・藤崎)
団令子(純子)
仲代達矢(マネージャー・小松)
加東大介(関根)
中村鴈治郎(郷田)
淡路恵子(ユリ)
「世界に誇れる日本女性の美しさの終着駅。それは着物姿」。高峰秀子自身がチョイスした着物の数々。彼女のきりっと′調とクールな風貌と柔らかな物腰が生み出す銀座≠フ水のように流れ流れて物語。花道≠ネぞは存在しない水商売の裏道≠フ輝きを、クールに描き出す。昨今の水商売を題材にした物語がいかに陳腐な俳優・脚本・演出=子供だましな世界観か実感させてくれるこの雰囲気。

■あらすじ


30路を迎えた圭子(高峰秀子)は、高級バーの雇われマダムである。最近店を出て独立したユリ(淡路恵子)の店の繁盛に押されて売り上げは急降下。それでもなんとか圭子を慕うマネージャーの小松(仲代達矢)と乗り切ろうとするが、身持ちの固い圭子は体を使って客を奪っていくユリには敵わない。やがて、圭子と小松が店を移って、しばらくしてユリが自殺する。実はユリは借金まみれでもう首が回らない状態だった・・・夜の世界の空しさを骨身に染みて感じた圭子だったが・・・


■水商売のコトは現役に聞くべし



私は高級クラブというものに生まれてこの方行った事がない。しかし、新地でホステスをしている友人が数人いる。そんな彼女たちの話を何年も聞かされているとこの作品の圭子の気持ちにもなるほど納得がいく。彼女たち(彼女達は互いに面識は無いが・・・)が口を揃えて言っていたことは奇妙なほどに主人公の圭子の言うことと同じである。

彼女たちは男運が悪いのではなく、
「仕事柄出会う男たちがどうしようもない男が多い」というだけらしい。基本的に夜の店に来たがる男に、身持ちの固い男なぞは存在せず、それ故にそういう男に期待するだけ無駄という結論を心の中の不文律≠ニして生きている女性のみが生き残っていくらしい。

「お水で生き残るためには、孤独に慣れないと難しい」「身持ちが固くないと体が何個あっても足りない」「ずるく、悪賢くないとこっちが騙される」「お店を持つときは転落する第一歩」「高級クラブの女は結婚から遠のき、スナックの女は結婚に近づく」らしい。

彼女たちのいずれかがお客と恋愛している時は、実にわかりやすく、連絡は何ヶ月もない状態になる。そして、連絡が来たときは恋が終わった時である。どの友人も、ある時期を境に私には仕事の愚痴などの話をしなくなった。30歳を越えても「仕事の愚痴を言ったり」「精神安定剤」云々を言う子は、店を転々とする不安定な生活を送るか、風俗に流れていくらしい。

綺麗な子でも薬に依存した時点で水商売の世界では100%食い物にされるという。あとよく言うのが「お客様は誰でも新しいもの好き。だけど毎日古くなってくるのよ」ということだった。彼女たちの悩みは唯一つ「ずっとこの仕事を続けていくのか・・・?」「私はこれしか出来ない」の狭間での悩みである。

「お客様はみんな恋人だと思わないと私達の商売勤まらないわ」(作中の圭子のナレーション)

「若いうちは多くのお客様に愛されていると勘違いするが、この世界は愛に満ちてるようで本物の愛なんて絶対に手に入らない世界」と言い切る。しかし、「そんな偽りの愛でも、ないよりはマシと思える時期もあるらしい」なんかこのドラマそのものである。そういう彼女たちの話を聞いていると、高級クラブに行きたいという気すら不思議としなくなるのである。


■高峰秀子の美しさ



主人公・圭子を演じる高峰秀子(1924− )。もう美しいを通り越して、超絶の美である。これは彼女の生き方からにじみ出ている部分でもあるのだが、今の女優にはない立ち振る舞いの美しさがある。
確かに今の女優は年をとっても美しさを保っていると言われているが、それは女性としての美しさよりも仮面のような美しさにしか見えない。

最も私もバカではないので最近の女性の多くが美容整形にばかり興味があるとはいわないが、
全体的にのっぺらぼうのようになっている感じがする。もしくは塗りたくった悪趣味な仮面。個性よりも凡庸。肉感よりも努力せぬデブか努力せぬガリガリ。知性よりも上っ面。他人に敏感よりも自分にだけ敏感。

これは全てどこから生まれたものか?つまるところ金を出して手に入るものが生み出しているものだ。21世紀に入り、人間は金を出して手に入れるものを信用しすぎて、金を出さずに手が入るもの=「自分で考える。自然と触れ合う。人と肉声で話す」という行為をおろそかにした。まさにカネを使って不幸を買っているようである。


昔子供の頃に「心優しき貧しい女の子と、ケチで自己中心な金持ちな女の子」の童話を読んだことがある。心を磨き豊かな未来を掴む女の子と、表面的なものを求めすぎて心病む女の子の話だった。その時後者はただのバカのように描かれていた。童話において、賢明な女性に対する描写は、詳細に渡るのだが、バカな方に対しては一行くらいの言及で終わるものである。

つまり現実においてもそうであり、他人があなたの心の貧しさ=病んでることなんか身から出た錆なので、誰一人興味がないということである。バカはそれに気づかず、賢明はそれを知り自分を変える努力に励むのである。


■ラスト・シーンのこの笑顔


この作品のラストは、明確に「ギブアップ」であり、諦めの境地である。階段を上がり笑顔で生き延びることを決断した圭子。しかし、純子(団令子)のような女が成功するこの世界の階段を登っていくことに何の価値があるのだろうか?宝石・カネ・旅行・車に囲まれて生きるだけで過信できるほど、圭子は愚かな女性ではない。恐らく一年内にはまた「揺れ動く」転機がやってくるのだろう。

彼女は強くなっていくのではなく、脆くなっていくような気がする。自分に合わない仕事を無理して続けることは、その人を強くするよりも脆くする方が多いのである。圭子はどう考えても夜の世界は合わない。彼女は乗り越えたのではなく、乗り越えることを諦めてみただけである。

このラストの笑顔は、圭子のそれまでの笑顔じゃない多くの他の表情よりもはるかに嘘くさく惨めな表情だった。この表情からは悲壮感のみが漂うばかりである。
常々私は心がける「鈍感な男は女の笑顔の見分けがつかない」だからこそ、「女の笑顔は危険信号」だと理解に励むのである。私も1人の鈍感な男だからこそ。


■クールすぎるぜ!黛敏郎のジャズ



高峰秀子の着物姿の出で立ち。擦れた階段。ネオンサイン。華やかな店看板に囲まれた路地。そんな風景に重ね合わせて流れる黛敏郎のクールなジャズ。ある種マーティン・デニー的なこのジャズの響き。ジャズが浮かない日本映画は多くないが、この作品は間違いなくそんな作品の一つである。

ジャズは「夜」にぴったり合う。お店に訪れる客には、昼間と夜の世界が分離している。しかし、お店のホステスには夜も昼間も存在しない。
女は「引きずり」男は「分けて」考えるのである。そういった意味においては、現在の男の女性化は進むばかりである。


■芸達者な名優達の競演


本作は、芸達者が総出演している。仲代達矢、淡路恵子、団令子、森雅之、加東大介は後から言及するとして、いつまでたっても憎たらしい本物のワルを演じさせたら国宝級の小沢栄太郎(1909−1988、実生活においてはかなり細やかな気配りの出来る人だったという)、大阪人気質丸出しのゼニさえ出せば女はどうとでもなると考えるカスジジイを演じる中村玉緒の父・中村雁治郎(1902−1983)。

仲代達矢に惚れているホステス役の北川町子(1932− )は、のちに児玉清と結婚して引退する女優さんだが、日本人離れした風貌の伴なった何とも言えない個性的ないい女優さんだった。さらにホステスとしてまだ魅力的なころの塩沢とき(1928−2007)。更に
何よりも美しい若林映子(1939− )。彼女だけがかなり現代的美女で明らかに映像から浮いているところがまた良い。

そして、忘れてはいけない千石規子(1922− )。女占い師役で出演しているのだが、この人は出てくるだけでうれしい「何か魅せてくれる芸達者な女優さん」だ。


■夜の世界の女は、絶えず緊張の中生きている


「昼のバーは化粧をしない女の素顔だ」

「私だって毎晩好きでもないお酒を相当飲んでるのは、それだって身体を張ってることよ」

「私は階段を上がるときが一番嫌だった。上がってしまえばその日の風が吹く」


この冒頭の圭子の3つのセリフ。素顔、お酒、階段。この作品のキーワードである。素顔とは結婚を意味し、お酒とは男に騙された後にすがりつくものを意味する。そして、階段は、素顔を拒み、お酒に負けないことを誓う瞬間なのだ。

圭子は、この作品の中でほとんど「緊張」している。彼女には気の休まる日が存在しない。そして、肩にしなだれかかる男性もいない。
“一日一日若さが無くなっていくような気がするわ”というセリフは、まさしく緊張感の日々から生み出された疲労に満ちた一言である。

圭子が布団を干すあの時。彼女は初めて緊張から解放された瞬間だった。そして、緊張から解放された瞬間に一本の電話により、地の果てに突き落とされるのである。これが「夜の世界」なのである。
昼間の幸せを求めれば求めるほど、夜の世界の醜さの延長線上につまずかされるのだ。


■そんなこと言いながらぼこっと穴におっこちまうのが女さ



「店の商品に手を出すようじゃ・・・」とこの世界の男が、決して実践しないが、必ず口にする言葉
を口にするマネージャー小松を演じる仲代達矢(1932− )。こういう抑揚のない役柄をさせるとぴか一である。頭が切れそうでいて実は俗物な役柄。こういう男は、転落が早そうだ。

「仲間同士で結婚して上手いこといった例なんて見たことないわ。駄目よ裏も表も知り尽くしたもの同士なんて」

彼は最後に圭子に告白し「一緒にお店をしよう」と言うのだが。あっさりと圭子にこう言われるのである。全くその通りである。

「11時30分から12時この界隈で働く1万5,6千の女性がどっと家路に着く。車で帰るのが一流。電車で帰るのが二流。客とどこかにしけこむのが最低」

「アパートに帰ると殺して飲んでいた酒の酔いが一気に出る」


圭子のこの物悲しきナレーション。どっちにしても夜の世界に生きる女性に待っているのは「孤独」か「愛なきセックス」か「ヒモ」なのである。夜を生きるからこそ、昼に生きる女のように休息を共にする男がいないのである。


■淡路恵子の悲しい女の姿


「一度崩れたらそれこそとめどもなくなっちゃうような気がするわ」


圭子が純子に言ったセリフだが、その後お店を持とうと物色している圭子にユリが「お金に困っているから、狂言自殺をするつもリ」と言うのである。冗談のように笑っていたユリだったが、翌日彼女は本当にブランデーに睡眠薬を混ぜて自殺したのである。

オヤジに骨の髄までしゃぶられて、借金まで背負わされ、おだてられ無理をした末の若い惨めな死である。このユリを演じる淡路恵子(1933− )。本当にこういう役柄をさせると抜群に上手い。彼女の存在には、瑳峨三智子に共通する幸せから遠く離れた華やかさがある。


■心は空っぽにして、その中にカネを溜め込む女


「プロですもの好きな人からだって(お金を)頂くわ」


小松と寝た後に純子が言うこのセリフ。「悲しい女だよ。純子」そんな瞬間だ。ドライじゃなく醜いだけのその一言。「いつか店をもって銀座のマダムになるのが夢」という純子だが。女としての魅力には全く欠けている女性である。そして、カスジジイ(中村雁治郎)に出費してもらい店をオープンするのである。なんともお似合いのカップルである。

「それにやたらそういうこと(体を売り物にする)があると女って魅力なくなっちゃうじゃない?」(圭子)

「夢持つのも結構やけど鏡とゆっくり相談すんのやな」(雁治郎)

これらの言葉が最も相応しい女こそ純子なのである。こういう女が「階段を上っていく女」になれるからこそ水商売とはたかがしれてる世界なのである。まさにこのレベルの女に相応しい仕事なのである。しかし、純子を演じる団令子(1935−2003)という女優も芸達者な女優だ。基本的にはこういう役柄が多いが、『椿三十郎』(1962)のような役柄も出来る人である。


■銀座の女はナリで勝負してんのよ


「無理にお酒を飲んで体を壊す。男におもちゃ扱いされる。こんな商売勤めた日から一日だって楽しいと思ったことなんかないわよ」


お店からも食い物にされ、肉親からも金の無心をされ、ほとほと疲れ果てた圭子の心の隙間に関根という男が入り込む。この関根を演じる加東大介(1911−1975)。何気に姉の沢村貞子もユリの母役で出演しているのだが、こんなオヤジには騙されるよなというほどの「最強の悪」である。
こういう誠意と優しさを売り物にして騙す人間が一番最低な人間だろう。

しかし、加東大介の上手さは、「いかないで・・・」と言った後に、圭子を抱き寄せるその仕草と表情にある。これが全て関根の本性を物語っているのである。本当にウマイ役者である。


■金でつながる関係とはこの程度のもの



圭子が一番好きだった男藤崎。この男を好きになる圭子の気が知れないのだが、案の定、体を許した後に言われる一言。「実は明日から大阪の支店に転勤するんだ」。更に金で済まそうと株券を渡す。
大体金でつながる商売で知り合った関係などこの程度のものなのである。

藤崎という男を責める必要はない。彼女も彼の懐をあてにし(躊躇はするのだが・・・)、食い物にしていたのだから。
要するに「夜の世界の出会い」は共食いなのである。最後に転勤する藤崎の見送りに行って、奥さんと子供の目の前で、株券を返す圭子。これはまさに矛盾した圭子の「愛の証」だったのだ。

矛盾しているが、こういう行為で自分を慰めていくしかないほど圭子は、
「矛盾の中を彷徨っている」のである。藤崎にアパートを去られた後の圭子の咽び泣き。惨めとしか言いようがないその姿。ある意味醜いとも言える瞬間である。

「私は真冬のような厳しい試練を受けた。歩道の並木も冷たい風を受けてながら新しい芽を育てていく。私もそれに負けないように生きていかなければならない。風が当たれば当たるほど」

圭子もまた生きていくためだけに、生きている最下層の人間なのである。水商売に生きる女とはある意味そうではないだろうか?生きるためだけに生きる・・・ただ息してるだけ?ただ同じことの繰り返し?最後は一人ぼっち?本当に生きてるの?それとも惰性の時を過ごしてるだけ?

全ては最後の圭子の笑顔に集約されている。

この作品を見ると何故か女性に「黒水仙」の香水をプレゼントしたくなる。
キャロンのナルシス・ノワールをである。

− 2007年8月5日 −


Copyright (C) 2007 Geijyutsu Taizen. All Rights Reserved.
Mail:webmaster@summaars.net