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渚にて    ON THE BEACH (1959・アメリカ)
■ジャンル: 戦争ドラマ
■収録時間: 135分

■スタッフ
製作・監督 : スタンリー・クレイマー
原作 : ネヴィル・シュート
脚本 : ジョン・パクストン / ジェームズ・リー・バレット
撮影 : ジュゼッペ・ロトゥンノ / ダニエル・ファップ
音楽 : アーネスト・ゴールド

■キャスト
グレゴリー・ペック(タワーズ艦長)
エヴァ・ガードナー(モイラ)
フレッド・アステア(ジュリアン)
アンソニー・パーキンス(ホームズ大尉)
ドナ・アンダーソン(メアリー)
沈黙が世界が滅びるときの状態であることを核戦争後の世界観の名を借りて我々に訴えかける名作。滅亡を前にして決して人類は荒れ狂えない。もはや逃げ場所のなくなった人類にとって暴動すらむなしすぎる行為だからである。核戦争後をこう置き換えて考えてみよう。なんらかの環境破壊による人類滅亡と。世界の滅亡は人類の沈黙からそのスイッチは押され、沈黙をもって終わるのである。

■あらすじ


1964年全面的核戦争の影響によりすでに北半球の人類は死滅した。今や南半球の一部地域のみに生存者がいる状況の中、アメリカ本国に帰ることの出来なくなった原子力潜水艦がメルボルンに入港する。刻一刻と南下しつつある死の灰に怯えつつも、タワーズ艦長(グレゴリー・ペック)はつかの間の安らぎをモイラ(エヴァ・ガードナー)に見いだす。


■核戦争のその後を描いた作品


核戦争のその後を描いた芸術的な作品で、後にも先にも本作以上の傑作はないだろう。この作品に流れる格調の高さ。現在の拝金主義はびこる世界の映画界が見失っている大切なものがいっぱい本作には散りばめられているのである。現代の映像作家の多くがバンク・アカウントとマスメディアと興行収入のみを気にしているのに対し、この時代の映像作家の多くは芸術性とメッセージ性をも付け加えて重要視しているのである。昔の映像作家の方が偉大なる監督の多い理由はその映像に対する姿勢にあるのだろう。

ちなみに『渚にて』は、ハリウッド映画で初めてオーストラリアで撮影された本格的な作品である。ハリウッドのスタジオで撮影されなかったことが、この作品の独特な雰囲気を生み出した最大の要因である。


■題名の持ついろいろな意味


とにかく『ON THE BEACH』という題名が素晴らしい。こういう題名の発想で核戦争後の世界滅亡を描いたネヴィル・ショートは間違いなく素晴らしい作家である。特に前半で印象的な描写は、石油が不足しているので、馬に車を引かせたり、自転車が横行している街並みである。実際に核戦争や壮大なる天災を前にすれば、全ての文明は停止していくものだろう。省みて現代、こういう状況になったら人間はどのようにして生きていくのだろうか?
便利さに慣れていない人々から順に生き延びていくだろう。

『ON THE BEACH』の題名にネヴィル・ショートはいろいろな意味を掛け合わせている。一つは、海の男たちが岸辺に追いやられるという喪失感の意味と、作中通りの家族や恋人達の喜びの交流の場としての恍惚感の意味。そして、モイラとタワーズの出会いと別れの場としての哀愁感の意味である。


■美女とサイコ


エヴァ・ガードナー(1922−1990)
軍艦の停泊する桟橋を男だらけの水兵の視線の中さっそうと艦長を尋ねるモイラの格好良さ。当時30代後半にしてはふけているのだが、その美貌の衰えと共に激しい女の情欲が芝居からにじみ出てきた人である。私的に言えばソフィア・ローレン的な顔の造詣を誇る女性である。

アンソニー・パーキンスがまだ『サイコ』(1960)に主演する直前だけあって、元々芝居は上手くはないが、爽やかな好青年を演じている。そして、その妻であり、死の恐怖に精神が侵されていくメアリー役にドナ・アンダーソン(1925− )が演じている。実はこの人エヴァ・ガードナーと3歳しか違わないのである。


ネヴィル・ショート
(1899−1960)


1957年に本作を執筆した小説家。イギルス生まれのネヴィルは第一次世界大戦従軍経験を持ち実業家でもあったが、第二次大戦後渡豪する。1954年から58年の間にはジャガーXK140でレースに出場した。本作を執筆していた頃の世界は世界大戦が終了し、アメリカとソ連の冷戦が朝鮮戦争後明確となり、核開発に邁進していた。

小説で描かれている核戦争の発端は、ソ連製爆撃機によるエジプトのアメリカ爆撃である。1956年に勃発したスエズ動乱(第二次中東戦争)の余波がやがて1962年に全面的核戦争に発展しわずか37日で戦争は終結し、少なくとも4700発の核兵器がお互いに投下される。そして、それから2年後の1964年が本作の舞台なのである。

「...世界はこんなふうに終わる。華々しくはなく消え入るように(T.S.エリオット)」


■だれが始めたんだ?


冷戦真っ盛りの中で、主役を演じるグレゴリー・ペックが当初オファーを断っていたほど政治的に描くことは難しいとされていた全面的核戦争が生み出す沈黙の恐怖を見事に表現した作品である。全面核戦争で北半球は全滅し、やがて南下しつつある死の灰に怯えながら暮らす最後の人類の住むオーストラリア。『博士の異常な愛情』や『未知への飛行』といった核戦争の恐怖を描いた政治性は全く影を潜め、『世界大戦争』のような強烈な悲壮感もない。この作品に存在するのはただただのどかなビーチでの人々の笑顔笑顔・・そして、その笑顔の裏に秘められた残された人類共通の想い。

世界の崩壊を実に静かに描いたその天才性は現代社会にはなかなか求められないものだろう。
ほとんどの人々が一分一秒を気にしすぎて膨大な時間を無駄に消費している現代の人々からすれば、この静かにゆっくりと迫りくる終焉は非常にもどかしいかもしれない。しかし、世界の最後は突然ではなく、こういう風にやってくるのかもしれないと考えると実に感慨深い作品である。

「だれが始めたんだ?」「アルバート・アインシュタイン」「平和を保つために武器を持とうと考える。使えば人類が絶滅する兵器を争って作る。原子兵器競争が果てしなく続く。制御が利かない。・・・どこかでだれかがレーダーに何かを見た。千分の一秒遅れたら自国の滅亡だと思いボタンを押す。そして、世界が狂い・・・」

全滅したはずのアメリカ・サンディエゴから打診されるモールス信号の謎を解くためにタワーズ艦長率いる潜水艦は現場に訪れるが、モールス信号を打診していた正体は、コカコーラーの空き瓶が風に揺られてだった。この時に訪れる無人のアメリカの街並みがすごく不気味で印象的である。


■踊らないアステア


科学者ジュリアンを演じるフレッド・アステアがなかなかよいが、本作はドラマ性よりもどんよりと迫り来る確実なる世界の終焉を描くことに力点を置いている。すなわち個々の登場人物に関しても一人ひとりの人物像を掘り下げるよりも、セリフの中で過去を投影させる形をとっているのである。この極めて日常的な人間の営みを悲壮感をこめて描きすぎない試みが、逆説的にかなりの悲壮感を与えてくれている。

妻や子の不憫を嘆くホームズ大尉(アンソニー・パーキンス)にジュリアンが言うセリフがすごく良い。
「うらやましいよ。心配する人がいる。心配したくても誰もいない人もいる。モイラや私だ。気付いた時にもう遅い・・・」本作の魅力はこういった中年の年齢にさしかかった人間の鋭くも共感を呼ぶ描き方にあるのである。

ジュリアン役の候補には他にアレック・ギネス、ラルフ・リチャードソンが考えられていた。そして、アステアは役作りのためにたえずバーボンを飲んだ上で芝居に望んでいたという。


■美しきカップル


本当にグレゴリー・ペックとエヴァ・ガードナーという配役がはまっている。不器用だが誠実さがにじみ出るグレゴリー・ペックという俳優は、大根役者などと言われているが、この人は芝居を超えた俳優さんである。そして、ふけているエヴァ・ガードナーが実に中年女の持つ可愛らしさを演じている。特にビーチでタワーズとモイラが戯れあい、勢いでモイラを抱えあげ、死んだ妻の名前を呼んでしまうシーンが実によい。さすがに1952年『キリマンジャロの雪』で共演している2人だけあって大人の男女の機微を見事に演じあげている。

ジュリアンがレースに参加するシーン(ジュリアンの運転しているシーンの特撮は陳腐すぎるが、レースシーンは本物の当時のプロドライバー達を集めて撮影されているので迫力満点である。)が、世界の絶滅が迫りくるという現実をしばし忘れさせてくれる上手い挿話になっている。

そして、最後の時を迎えるに当たって本作中のほとんどの人間がした行為は贖罪なのである。ジュリアンは、自分の人生をもっと好きなことに時間を費やすべきだったとレーシングカーに時間を費やし、モイラはジュリアンを捨てたことを始めとする自己中心的な生き方を改めようとし、メアリーは平凡な家庭生活に不満をかんじていたことを悔い改め、そして、タワーズは、メアリーに対する愛情は勿論存在するが妻子を裏切ったことに対する悔恨の思いからアメリカに戻っていくのである。


■そして、最後の瞬間


オースティン・ヒーリー100の車内越しにモイラの姿が映し出されるこの絵は確実に、ルパン三世の峰不二子に影響を与えたはずだ。潜水艦もろとも米国で沈没死する死を選んだタワーズ艦長率いる残留米軍達を見守るエヴァ・ガードナーの横顔がかなり美しい。

「まだ時間はある、兄弟たちよ!」このメッセージの素晴らしさと驚きは最初に本作を見た時高校生だったが、かなりのものだった。省みてわが日本。本作の中でも北半球は瞬間で壊滅したので、もちろん日本も壊滅したようだ。そして、今はそういった核の危機は去ったのかというと、実は加速度的に核の危機が迫っているのである。日本に隣接する北朝鮮と中国は核保有国である。

実は、日本は運命的に核兵器に取り付かれている国かもしれない。核の抑止力という国際政治の強引なルールに流されることは非常に危険である。世界が崩壊することが抑止力になるという戯言が許されてはいけない。今こそ、真摯にこういった冷戦時代の核戦争の恐怖を描いた作品のメッセージを受け止めるべきだろう。



■今だ現実化する恐れあり


オーストラリアの民謡「ワルツィング・マチルダ」が効果的に使用されている。人類の終焉を迎えると多くの人間は狂乱よりもむしろその事実を受け止めようとするのではないだろうか?

この作品の静かなる滅びの終焉の描き方は、実際的にはヒロシマ・ナガサキのような現実感はないが、現在の滅びの序曲に通用するものがある。
20世紀の自然の崩壊は、見るからに汚染されたものであったが、21世紀の自然の崩壊はより、目に見えての汚染ではなく目に見えない汚染に転化しているのである。そして、やがて致命的な状況に人類は直面するのだろう。

本作で描かれた全面核戦争後の世界観は、全く間違ったものであり、古臭いと感じるその気持ちが、現実を捉え切れていないことに驚愕するはずである。
現実、世界の崩壊は、静かなる終焉である可能性の方が高いのであるから。一部の人が考えるような暴動や発狂が大衆を混乱に陥れることは絶対にありえないのである。その理由は絶対的な力に対して立ち向かう気力よりも、受け入れようとする気持ちの方が人間に対して強いのである。そういう半ば空想を働かす人ははっきりと言って、マンガやアニメ的な陳腐さに毒されているとしか言いようがない。

もし暴動や略奪が起こるようなパワフルな民族が存在すれば、恐らくクーデターや革命と言った形で起こるであろう。

− 2007年4月14日 −


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