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時計じかけのオレンジ A CLOCKWORK ORANGE(1971・イギリス) | ||||||
| ■ジャンル: ドラマ ■収録時間: 137分 ■スタッフ 監督・製作・脚本 : スタンリー・キューブリック 原作 : アンソニー・バージェス 撮影 : ジョン・オルコット 音楽 : ウォルター・カルロス ■キャスト マルコム・マクダウェル(アレックス) パトリック・マギー(アレクサンダー) マイケル・ベイツ(バーンズ看守長) ウォーレン・クラーク(ディム) ジェームス・マーカス(ジョージー) スティーヴン・バーコフ(刑事) アンソニー・シャープ(内務大臣) |
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■あらすじ 近未来のロンドン。社会は管理され、若者は夜、その反動で無分別な行いをするようになっていた。そんな一人の青年アレックス(マルコム・マクダウェル)は、3人の仲間とつるみ今日も暴行、レイプに明け暮れる。しかし、ふとしたことから女性を殺害してしまった彼は仲間にも裏切られ、逮捕され、懲役14年の刑を喰らうことになる。そして、2年の時が経った。人間から凶暴性を取り除くというルドビコ療法の実験台になれば刑期が短縮される。そして、アレックスは実験台になることにした・・・ ■情報過多が生み出すもの 先導者を求める心 ![]() 「21世紀に入り、少年犯罪は・・・」という中高年のお決まりの論調にはうんざりさせられる。いつの世も犯罪は氾濫し、少年犯罪も中高年の犯罪も昔から多く存在してきた。ただメディアがそういった事件によって安易に視聴率を稼ぎたいという拝金主義の流れにのっかかって、少年の猟奇犯罪を声高に叫ぶからこそ人々は必要以上に危機感を煽られていき、昼にワイドショーで煽られ、夕方以降にドラマとバラエティーで現実逃避したいというサイクルにまんまと乗せられているのである。 少年の周りを取り巻く環境を作った我々20代後半以上の大人にも責任はある。機能しない教育現場、氾濫する便利な娯楽機器、子供にも押し付けられた詐欺商売の最たるもの携帯電話、親の無関心、子供の倦怠・・・我々は大切な何かを忘れていないか?自然、会話、好奇心、芸術に触れ合うゆとり、やすらぎ・・・ それがなければ社会の存在の価値なぞない。今ある日本社会は完全に敗北感に満ちた社会である。若者から希望を奪い去り、出る杭を打ち、メディアは過信し、洗脳を目論み、触れるもの全てを凡庸化していく。中高年の吐く言葉は欺瞞に満ち、その裕福な生活も大半は綺麗ごとで塗り固まれた汚臭の中から築き上げられている。個人攻撃は盛んで、持ち上げては落とす行為の繰り返し。 人が人を妬み、尊敬された人がわずか一日で嫌悪すべき象徴へと転落していく姿を見て喜ぶ何1000万人もの人々。生贄の山羊の裏では更に醜い行為は延々と行われているが、もはや誰もそんなことは気にしようとしない。この物語の主人公アレックスは洗脳された。一方的に押し付けられた映像の氾濫によって。しかし、今の人々は自らの選択によって映像の氾濫を選択し、より濃密に均一化している。 ■時計じかけのオレンジとは 時計じかけのオレンジとは、自然の恵みの中で作られた「新鮮さ」=「生命」の象徴であるオレンジが、均等に美しく作られた精密な果実へと変貌し、中に身はつまっているが、全て均一化しているという味気なさが生み出す「無個性の列挙の不気味さ」を指している。自然を破壊し、改めて公園として整備しなおす作業にも似た正常とはいえない行為。 自然の恵みを破壊すること事態が既に暴力行為であり、それを時計じかけで作り変えて取り繕うとも破壊した自然は蘇えらない。そして、それは人間の心にも当てはめられる。人の心を暴力によって破壊したことにより、その人の心も時計じかけになっていく=死への歩み寄り。 この作品の一つのテーマは、間違いなく人間が本質的に持つ暴力願望である。なぜ人は暴力を欲するのか?なぜ家庭内暴力は昔から蔓延しているのか?なぜ戦争は繰り返されるのか?なぜテレビで他人を良心の名のもとにしたり顔で攻撃するのか? 人類は破壊の後に創造という行為を繰り返して前進してきた。そして、それを繰り返している限り誰もアレックスを直視したいとは思わない。コイツの眼差しがあまりにも鑑賞者の深層心理を覗き込みすぎるからだ。 ■オープニングから颯爽と降臨する芸術 ![]() とてつもなく心を揺さぶる原色の圧倒感と共にパーセルの『メアリー女王の葬送音楽』のシンセサイザーの音色が(奏でられるのではなく)響く。そして、一人の青年のアップの表情が映し出される。その表情は倦怠を抱える王子の優雅さと退廃さを漂わせている。 まさになにかが降臨してきた瞬間である。音と映像により新しい感覚の芸術が降臨する。そこにはただならぬ威圧感が存在する。 そして、4人組がミルクを飲む。4人ともエドワード時代様式のファッションに山高帽のリーダー・アレックス。原作では15歳の設定だが、映画においてはもう少し年長者の学生として描かれている。片目のつけまつ毛がトレードマークのこの青年が愛する音楽はルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの交響曲第9番である。そして、彼のライフワークは夜に麻薬、喧嘩、浮浪者狩り、レイプを繰り返すことだった。 ![]() ちなみに冒頭のミルク・バーのポップ・アートはポップ・アーティスト・アレン・ジョーンズ(1937− )の作風の影響を受けて創作されたものである。上記の三点セットは1969年に発表されたものである。 ■ココには常に超現代的な要素が多分にある ![]() 「耐えられないのは老醜をさらす酔っ払い。親譲りの猥歌をほえてゲップの伴奏がはいる。腐臭を放つ内臓の卑猥なオーケストラ。そんなやつに我慢ならない」 そう言って酔いつぶれる浮浪老人を半殺しの目にあわせる4人組。最中に老人が吐く一言。「老人が暮らせる世界はもう残っちゃいない!」そうこの作品の中の近未来は、日中に隅々まで行き届いた管理社会の中の膿が出るかの様に、夜には若者達がその発散できる場所を求めて暴走するいびつな社会になっていた。 若者はナッドサット言葉(イングリッシュとラシアンの合成スラング。例:デボチカ=女、マルチック=男、ヤーブル=金玉、ホラーショー=最高、ビディー=見る、ヤーブロッコ=クソ野郎、トルチョック= 殴る、ボルシャイ=でかい)を駆使して、管理された社会に対するささやかな反抗の姿勢を見せる。そして、老人の次には、若者同士の喧嘩へと転換していく。一人のデボチカ(女)をレイプしようとしていた一団に襲い掛かる4人組。 この作品においてレイプの描写は3回ある。しかし、そのリアリティーはあえて追求されていない。レイプというよりもむしろ女性の肉体の躍動を演出した映像に終始する。そこには徹底的に強引で無慈悲な男性の姿はなく、意識的に遊戯性を持って描かれている。だからこそレイプされる女性の肉体は意識的に巨乳である。
■「雨に唄えば」に合わせて行われる暴力 ![]() 小説家夫妻を急襲し、夫の前で妻を輪姦する4人組の狂気(輪姦シーンが実際に描かれていないからこそ、観ているものの想像力に任される。このシーンに嫌悪感を禁じえないという事は、自分自身の輪姦に対する想像力に嫌悪感を感じていることなのである)。しかもアレックスにいたってはジーン・ケリーの「雨に唄えば」を口ずさみながら無抵抗の老作家に暴行を繰り返す。 このシーンが持つ鑑賞者の悪の潜在性≠引き出す映像センスは只者ではない。これは良い意味でも悪い意味でもあるのだが、このシーンは人間の深層心理に明確に訴えかける。 ![]() この「雨に唄えば」のシーンは、アレックスを演じたマルコム・マクダウェルのアドリブである。4日間熟考した末にレイプに合わせて歌を口ずさむことを要求したキューブリック監督に対して、マクダウェルはこの曲だけ諳んじて唄えたので披露したところ監督が気に入ったという。 マルコム・マクダウェル(1943− )という役者は、『ifもしも・・・』(1968)『カリギュラ』(1979)『タイム・アフター・タイム』(1979)などでも有名な俳優であるが、やはり本作が代表作の筆頭に掲げられる。私生活においては1975年から1980年にかけて『2001年宇宙の旅』(1968、監督スタンリー・キューブリック)の主役ケア・デュリアの元妻だったマーゴット・ベネットと結婚している。 後に『タイム・アフター・タイム』で共演したメアリー・スティーンバーゲンと再婚するも、1990年に離婚している。80年代まではコンスタントに良作に出演していた。彼自身ジェームズ・キャグニーを崇拝していたので本作においても表情の端々にキャグニーっぽさが見受けられ演技力にはなかなかのものがあった。しかし、1980年代半ばから重度のアルコール中毒とコカイン中毒になり、仕事は激減していった。現在はなんとか復活しているがかつてのような輝きはない。 ちなみにキューブリックはこう語っている。「マルコムがいなければ私はこの作品を作ろうと思わなかっただろう」ちなみにアレックス役の候補には、ティム・カリーやジェレミー・アイアンズも挙がっていた。 ■確実に両親の異常性が子供に伝染している ![]() 荒れ果てたアパートメントに帰るアレックス。そして、さっさと自室に引っ込み、ルートヴィッヒをかけリラックスする。キリストがラインダンスするオブジェや蛇、ルードウィッヒの肖像・・・。 未成年なので両親と暮らしているが、自室には金庫のような鍵をかけており、両親とは最低限のコミュニケーションしかとっていない。まさに日本でも子供の部屋でどんな凄惨な犯罪が行われていようとも、無関心を装い続ける両親の構図が早くもここで描かれている。そして、この子が歪んでいった根本には、この両親のぞっとするまでの無関心が存在している。 実は昨今の少年犯罪の源は、子にあるのではなく親の異常性(無関心も度を過ぎれば)にあるのである。それは同じ家の中で行われた犯罪行為を見てみぬ振り出来た異常な両親にすっぽり当てはまる。 ■アレックスの狂気の本質は孤独に耐えられない弱さにある ![]() レコード店(何気に『2001』のサントラあり)でペニス型のキャンデーを舐める二人組のデボチカをナンパし、3Pに励む。このシーンが実にユニークでロッシーニの『ウィリアム・テル』序曲に合わせて高速にセックスに励む(28分間を高速で映し出す!)。(小説では二人の10歳の少女をレイプする設定である) まさにこの高速感は、愛の交換でも快楽の共有でもなんでもなく、ただの肉体の束の間の鉢合わせ感覚でしかない。ある意味現在に通じるどんな女ともすぐに寝て、どんな男ともすぐに寝る性質を示すシーンである。愛に関してもセックスに関しても実は不感症。 だからそういう男女が親になると、とんでもない無関心が蔓延する。 ![]() 翌朝4人組は見事に分裂する。仲間に制裁を加えて、一本化を計ったつもりのアレックスだが、のちにあっさりと裏切られて警察に捕らえられることになる。結局の所アレックスという男は、孤独であり、エンディングにいたっては政治家のイヌへと堕ちていく。 ココに群れなければ生きていけない陳腐な人間の本質が示されている。アレックスは口では壮大な言動を奏でているが、結局の所孤独が我慢できない人間であり、彼の暴力の根本には、暴力やレイプを通じてでも他人とコミュニケーションせずにはおれないという本質が隠されている。 この作品の素晴らしさは、現在にも通じる異常性が生み出される本質を的確に捉えている所にある。人間が暴力的になる理由は、孤独の中で異常性が培われるのではなく、孤独に耐えられないその弱さから異常性は培われるのである。 ■何ともいえない味わいのあるオブジェ ![]() 「触らないで!大変な芸術品なのよ!」 動きがガクンガクンしているペニス・オブジェを振り回し、レオタード姿の中年婦人に襲い掛かるアレックス。暴力に溺れることは、やがて熱狂を生み出し、相手を死に至らしめてしまうのだった。 暴力にコミュニケーションを求めたことにより、彼はより残酷になり、歯止めの利かない程になってしまった。よく「なぜ他人を追いつめて楽しめるのか?」という問いかけを聞くが、それはごく簡単に答えると、彼にとって自分に拒否反応を示す姿をじっくりと堪能したいからなのである。そして、それは彼なりの会話なのである。 ■犯罪者を隔離して野に放つ・・・ ![]() 遂に刑務所行きになるアレックス。囚人の一人にしつこく付け狙われながらも牧師に取り入り虎視眈々と好機を狙う。表向きは改心したかのようでありながら内面においては聖書を読みながらも、キリストを鞭で叩く自分を妄想して悦楽に浸る。 「善は選ぶもの。選ぶことができない者は人間とは言えない」 刑務所制度なるものは、犯罪者に対して果たして有効なのか?そういった根本的なことを考えさせてくれる。10年間も一般社会から隔離されたならどんな人間でも、真面目に生きていくことは大変ではないだろうか?ましてや犯罪者が集う中で10年も過ごしていれば尚更である。 この制度は明確に矛盾に満ちており、本気で犯罪者の更正を考えていない制度としか言いようがない。そういった中で更正の機会を手に出来ない犯罪者よりも、やがて彼らがより狡猾になって野に放たれるという事実の方が恐怖である。 ■情報過多が生み出す拒否反応と無関心と盲信 ![]() 刑期を短縮する為にルドビコ療法の人体実験を志願するアレックス。暴力の映像を過重摂取することにより暴力に拒否反応を示す人間を作り上げるという発想に基づいたこの実験。そこにあるものは、アレックスと同じ人間に対する無関心から生まれた究極を求める心。 ![]() 瞬きの許されないヘッドギアをつけられ、若いデボチカがレイプされる映像や暴力の映像を延々と見せ付けられるアレックス。情報の氾濫が彼の心を揺さぶる。このシーンは現代において実に象徴的なシーンである。 赤ん坊は生まれてすぐに、テレビ、DVDなどによって過重な情報を摂取させられ、今や自然にルドビコ治療が行われているのではないだろうか?「テレビがついてないと落ち着けない」という人は、逆の意味の影響を受けているのではないだろうか?情報過多はやがて無関心と盲信へと人間を導いていく。 ちなみにこのシーンの撮影において実際にマクダウェルの眼球に傷がつき、失明寸前になったという。このルドビコ療法においてレイプされる女性を演じるのはシェリル・グルンワルドという南アフリカ生まれのバレエ・ダンサーである。レイプの壮絶さよりも身のこなしの美しさを感じさせてくれている。 ■無力感からの逃走 生の感覚の喪失 ![]() 「刑務所は彼に虚飾と偽善の所作を教えたのです。媚びとおべっかとへつらいの眼差し。新たな悪業も学び以前からの悪業には磨きを掛けました」 「彼女は光を浴びて近づいてきた。天上の光を浴びてガリバーにひらめいた衝動は、彼女をその場に押し倒し荒々しくイン・アウトすること」 「本人に選ぶ能力がないじゃないか?私欲と肉体的苦痛への恐怖が、彼を醜悪な自己卑下に駆り立てるんだ!そこには誠意のかけらもない!非行は防げても道徳的選択の能力を奪われた生き物に過ぎない」 ルドビコ治療によって、アレックスは暴力に対する被害者の存在を考えて更正したのではなく、ただ単に生理的に暴力を受け付けない身体にされただけだった。つまるところ、性欲はあっても去勢された人間のようなものである。 彼は完全に無力化された。そして、彼が無力化されたという事実は、後に続く展開(=自殺)へと彼を追い込んでいくことになる。自分の意思とは全く違う方向に精神状態が傾いていく恐怖。これこそ現代病でもある鬱病を抱える人の恐怖ではないか? 自分自身の無力感から解放されたいという想いがやがて自らの死へと導いていく。そして、アレックスも自ら死を望むようになる。多くの情報、押し付けられた情報、たくさんの課題、自己判断できない様々な感情の波・・・そんな中で溺れるように人々は死を勝ち取ろうと何回もチャレンジし、殆どの人は死に切れず諦め、薬によって廃人のような諦めの日々を自然死の日まで過ごしていく・・・ ■パトリック・マギーがトランスする! ![]() 「周囲の人間を苦しめたんだ!お前が苦しむのは当たり前だ!」 因果応報。無事悪行を去勢された罪人に対して、サンドバッグのように人々は復讐を企てる。振るった暴力に対しての償いなど本来存在しない。手の届かない所にかつて危害を加えたものがいれば諦められるものだが、目のつくところにいれば瞬発的に暴力のスイッチは入る。 他人に対して暴力を振るう人が悪の根源たるのは、振るわれた相手をも暴力的にしてしまう点にある。まさに両親に過剰な暴力を振るわれた子供が、大人になると同じように暴力を子供に振るいがちなのと同じ構図である。 ちなみに受難のアレックスが、再び作家の家を訪れるとそこにはレイプした作家の妻ではなくボディガードがそこにいる。このボディガードを演じているデヴィッド・プラウズ(1935− )は、のちに『スター・ウォーズ』(1977)でダース・ベイダーの中身になる人である。 ■かくして悪は更なる段階へと進んでいった ![]() 「突然すべてがはっきりしてきた。何を心から望んでいたか?やりたかったか・・・ぶっ裂こう・・・邪悪で残酷なこの世界から飛び出そう!苦痛は多分一瞬だ!その後は長い長い永遠の眠りに就ける」 この作品は、明確に少年犯罪の氾濫を危惧した作品ではない。もっと根源的なもの。つまり管理社会が少年の心を歪めていくという本質を描いているのである。アレックスは自殺未遂の末に現政権の庇護を受けることになる。それは現政権がルドビコ治療に対する世論からの批判を交わそうとする意図からである。 ここに政治というものこそ、もっとも非人間性に満ちたものであり、この内務大臣のアレックスに対する謝罪なぞは、アレックスが被害者に対して感じている心と同じように心のこもっていない謝罪であることを示している。つまり、反省なき少年犯罪と反省なき老人犯罪はその延長線上でしかないわけである。 「完璧に治ったね」 という声と共にマスメディアに注目され、内務大臣と握手をしながら、白目を剥いて、高貴な観衆の中セックスに励む妄想に耽る映像と共に終わりを告げる。かくして、政権はルドビコ治療の汚点を葬り去り、アレックスはより狡猾な悪の権化として蘇えったのである。そう、隣にいる内務大臣のように仮面を被り善人に見せかけることをアレックスは覚えたのであった。 冒頭の白づくめの悪魔は、ダークカラーに彩られはしたが、再び白づくめの悪魔として復活した。喜び勇んで会いに来たアレックスの父と母の受難の日々は益々続くことになるだろう。しかし、それは本人達が気づかずとも自分自身で撒いた種だった。
■理解する過程を楽しめない人=ゆとりのない人 ![]() 原作はアンソニー・バージェス(1917−1993)が第二次世界大戦でジブラルタルに駐在中に、停電中のロンドンにて、身重の妻が4人の米軍脱走兵に殴打され(強姦はされていない)金を奪われ、妻は赤ん坊を流産したという経験の影響下で書かれた。バージェス自身が手術不可能な能腫瘍があるという告知を受けた事もきっかけとなり、一気に原稿を書きあげるも、後に脳腫瘍が誤診であったことが分かり、再稿を繰り返す。 そして、60年代初めにソ連を旅行をした影響でイングリッシュとラシアンを融合させた「ナッドサット言葉」を作り出し、この言葉を物語の中に組み込み、1962年に発表された。当初ミック・ジャガーに映像化権を500ドルで販売していたが、ティント・ブラスやケン・ラッセルも映画化を考えていた。 ![]() 結局『2001年宇宙の旅』(1968)の大成功の後、ナポレオンの生涯を映画化しようとユーゴスラビア・ロケを計画していたスタンリー・キューブリックだが、1970年にナポレオンを主役にした伊・ソ連合作大作『ワーテルロー』が興行的に大失敗したことを知り、ナポレオンの生涯の映画化を断念し、本作の映画化を決意した。 220万ドルの予算で製作され、アメリカだけで2600万ドルの興行収入を上げた。結果的に1971年アカデミー賞作品賞、監督賞、脚色賞、編集賞にノミネートされるも無冠に終わるが、1971年ニューヨーク批評家協会賞作品賞と監督賞を受賞する。 「芸術には暴力がつきものだ。聖書にもホメロスにもシェイクスピアにも暴力は登場する。そして多くの精神科医がそれらは模倣の手本としてではなく、カタルシスとして役に立っていると考えているんだ。今まで芸術作品が社会に危害を加えたことは一度も無い。逆に社会に対する危害の多くは自分たちが危険とみなした芸術作品から社会を守ろうとしてきた者達によってなされた。映画やテレビが無垢な善人を犯罪者に変えかねないなんていうのはあまりにも安楽的な発想である」キューブリック ![]() 最後に芸術の概念について、常に履き違えている輩がいるので再確認しておこう。芸術とは理解しにくいものであってはいけない。という人がいつの世にも存在する。しかし、この考えは実に危険な考えである。人間の思考の範囲の広大さを無視し、理解できなければ異端視して排斥するような人を・・・かつてどう呼んだだろうか? 芸術とは理解するまでの過程を楽しませてくれる「感性を磨く」ものであり、分かりやすい答えのあるものしか認めない固い感性を柔らかくしてくれる親和力なのである。 それを理解しようともせず、理解しにくいから芸術ではないと言う「明確なる間違い」は、思っていても心の中に秘めておいた方が良い。ここで一つ忠告するならば、芸術が理解できないことを開き直ることは、「気軽に知性を下さい」と言ってるようなものである。これこそ最高に馬鹿げた態度であることはいうまでもない。探究心なくして芸術を理解させろと要求する事は、全く愚の極地である。 − 2007年11月29日 − |
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