|
フィラデルフィア物語 THE PHILADELPHIA STORY(1940・アメリカ) | |||||
| ■ジャンル: コメディ ■収録時間: 112分 ■スタッフ 監督 : ジョージ・キューカー 製作 : ジョセフ・L・マンキウィッツ 原作 : フィリップ・バリー 脚本 : ドナルド・オグデン・スチュワート 撮影 : ジョセフ・ルッテンバーグ 音楽 : フランツ・ワックスマン ■キャスト キャサリン・ヘプバーン(トレイシー) ケイリー・グラント(デクスター) ジェームズ・スチュワート(コナー) ジョン・ハワード(ジョージ) ルース・ハッセイ(インブリ) |
![]() ![]() |
|||||
■あらすじ フィラデルフィアの大富豪の長女トレイシー(キャサリン・ヘプバーン)は同じく上流階級出身のデクスター(ケイリー・グラント)と結婚するが、早々にお互いの未熟さが、結婚生活に終止符を打った。それから2年経ち、トレイシーは再婚しようとしていた。デクスターは三流ゴシップ雑誌「スパイ」の報道員二人コナー(ジェームズ・スチュワート)とインブリ(ルース・ハッセイ)を送り込み、再婚を阻止しようと目論む。 ■その優雅さに身を任せて微笑みを浮かべる至福感 ![]() ケーリー・グラント、キャサリン・ヘプバーン、ジェームズ・スチュワート。このスリー・カードの並びににんまり出来る喜び。コメディとはどういうものか?人を笑わせるにあたって上品さの中に下品さを包み込むことが如何に高度な笑いにつながるのか?この作品を観ればその辺りが良く理解できる。 昨今のハリウッド映画や邦画で氾濫するお子様のような感性で作られた多くのコメディとは対極にある世界を覗いてみよう。本当のハイ・ソサエティが生み出すエレガンスが、上質のシャンパンのように鑑賞者に心地良さとゆったりとした微笑みをもたらす。 弾ける様な笑い、びっくりするような急展開はこの作品にはまったく存在しない。じわりとその世界に溶け込んでゆく自分と、心地良い優雅さと、男性女性の機微をあまり人のいない珊瑚礁のビーチで寝転びながら陽の光と砂の感触を身体全体で感じ取るかのように五感全体で感じ取れる。 こういった作品もまた映画の魅力であり、笑いの持つ芸術性の証明でもあるだろう。 ■人生を豊かなものにしたくば白黒映画を見よ ![]() この作品の魅力を一言で表現するならば抜け目のなさだろう。登場人物それぞれが行き届いた芝居をしており、鑑賞者の喜劇センスが問われる作品となっている。こういう表現は狭い心の持ち主には反発のみ生み出すだろうが、この作品は「観るものではなく、触れ合うもの」である。だからこそ鑑賞者にも知性が求められる。 それにしても昔の映画には、どうしてここまで大人を純粋に楽しませる力に満ちていたのだろうか?この時代の白黒映画を観ていて常々感じるのは、カラー映画よりも華やかさが伝わるという点である。おそらくカラー映画というものは、人間の感受性を怠け者にさせ、つまらない映画鑑賞者を増殖させる役割を担ってしまったのではないだろうか?勿論つまらない映画監督、俳優、評論家も含めてである。 ■共感させることは喜劇の潤滑油である ![]() MGM映画の名コスチューム・デザイナーだったエイドリアン(1903−1959、『グランドホテル』『オズの魔法使』)による素晴らしすぎるファッションの数々。特に前半のヘプバーンとハッセイのファッションが素晴らしい。エレガンスとはやはりシンプル・イズ・ベストであり、ディフィカルト・イズ・ワーストなのであると実感させるシンプルなシルエットが生み出す優雅さと知性。 物語はフランツ・ワックスマンによる優雅なテーマ・スコアに乗って始まる。ゴルフのクラブをへし折るトレイシー(キャサリン・ヘプバーン)と追い出されるデクスター(ケイリー・グラント)。僅か一分で観客を掴んでしまう無言の寸劇。誰もが一度は経験していそうな(後で思い出すと)愉快な喧嘩を鑑賞者に見せつけ共感を生み出す。共感こそは常に笑いの潤滑油である。 ■理想の美女 ルース・ハッセイ ![]() 「雑貨、光物、写真立て・・・金持ちになるとゴミ溜めに住むのね」インブリ 「そう、なりたくないな」コナー 「そうなれないから安心して」インブリ 売れない作家であり雑誌記者のコナー(ジェームズ・スチュワート)とカメラマンのインブリ(ルース・ハッセイ)のカップルがこの作品において物差しの役割を果たしている。登場人物の誰よりもこの二人は鑑賞者の視点に近く現代的であり、ハイ・ソサエティの物語に共感と混乱を生み出す役割を担っている。 特にインブリという女性は、男性の本質を良く知っている。男性にとって最大の歓びは、女性に会話で突っ込まれる事であるという寂しがりやな側面を。そして、いい男は知っている。仕事において、何回(美人の)女性の先輩を持ったことがあるかによって全然違ってくるという事を。 この作品でアカデミー助演女優賞にノミネートされたルース・ハッセイ(1911−2005)の魅力。男性にとって理想の女性とはこういう女性のことを言うのだろう。 ■この子役の素晴らしさ ![]() ヴァージニア・ウェイドラー(1927−1968)扮するトレイシーの妹ダイナが素晴らしく、この作品において彼女の存在感が他の名優を食う瞬間がある。これ程の名優に囲まれて肝っ玉の据わった名子役なのだが、ヴァージニアは1943年に17歳で芸能界を引退している。 「これぞ上流社会という立ち振る舞いをお見せするわ」とコナーとインブリに対して、いかにも上流階級の人ですといった芝居をする姉妹。そして、こういった作品において輝くジミー・スチュワート(1908−1997)の魅力。その時に感じたことをすぐに表情に出してしまう少年のような魅力的な役柄。 トウシューズを履いて、ルルヴェをしながらフランス語で話しかけてくるダイナに度肝を抜かれる二人。そして、唐突にピアノで弾き語りし始める。それがまた抜群に上手い。「この子かなりヤバイかも・・・」と唖然として引きぎみの二人の前に、同じように大仰に上品なトレイシーがフランス語と共に登場する。 2人の姉妹が演じる上流階級のお芝居を、実際の毎日の生活なんだと勘違いして見つめる二人。しかし、この姉妹のお芝居を見ていると、なんとか姉妹というセレブ姉妹が話題になる日本という国が、実にこっけいに見えてくる。嘘で塗り固められた偶像に憧れ、そんなものに人生の目標と美の指針をあわせる女性がいるらしいのだから恐るべき低俗の極まりとしか言いようがない。 ■ジェームズ・スチュワートの魅力 ![]() ジェームズ・スチュワートの魅力は、実に白々しくドジなことをやっても、鑑賞者をしらけさせない愛らしさにある。そして、この作品でもその魅力を発散してくれている。偉大なコメディアンとは、ワンテンポずれた反応で人の笑いを誘うものである。 (ごく日常的な)笑いの基本の例をあげてみよう。電車の座席が一つ空いていて、すぐそばにいる人は全く座るそぶりを見せていない。しばらく様子を見てもその人は座ろうとする気配がないので、座りに行こうとすると、その人が不意にその席に座ってしまう。気まずいので、もともとその席に座るつもりなどなかったような振りをして通り過ぎていく。こう言ったワンテンポのずれから生じる笑いを演じさせたらジェームズ・スチュワートに勝る役者はなかなかいない。 まずはトレイシーに、ソファーに着席することを進められてインブリとごっつんこしそうになり、タバコを自分で取り出したと同時にトレイシーが2人にシガレット・ケースの中の極上タバコを勧めてきたので、そっちの方を取ろうとするが、とりっぱぐれ、自分で火をつけようとすると、ちょうどトレイシーがライターの火を近づけてきたところだったりと・・・。まさにコメディの真髄ここにありである。 ■カメラと上流階級の本質 ![]() そして、ラストの笑いへの付箋になるコメディ・パターンがかなりおかしい。デクスターが突然押しかけてきたことによりトレイシーとその婚約者は露骨に嫌な顔をする。しかし、険悪なムードになるたびに、待ち構えていたかのようにインブリが写真を撮るので、そのたびに3人はカメラ目線で満面の笑みを作らざるを得ない。カメラというものが人間の真実と嘘を写し出す鏡として描き出されているその先見性が実に鋭い。 カメラとは、静止することのない人間の営みに、逆行した文明の機器である。つまり真実は動きの連鎖にのみあり、静止する行為には全て偽りがあるということの証明。ポーズをとるということは、基本的に偽りの保存であり、静止された偽りの保存体を通じて事実を理解することは無意味ということなのである。つまりカメラの前で仕事をするモデルという職種の人達は、偽りの表現能力を持つ人達であるということである。だからこそ素晴らしいカメラマンは、いかに表現するか?=偽るかを重要視するのである。そして、偽りの世界に真実の息吹を生み出すのである。 一方、カメラのその役割と同じように上流社会もまた、偽りの行為に終始しなければいけない階級なのである。皆が望む行為を反復し、人生を作り上げ、自分のイメージを作るのではなく、イメージにあわせて自分の人生を消化していく作業なのである。究極に言うと、ヒルトン姉妹もただそれをしているだけの退屈な人達なのである。 しかし、もっとも恐ろしいのは、そういう退屈な人達を見て、刺激的だと感じるイマジネーションの欠如した人達だろう。 ■恋は質問を生み出し、愛は見守る優しさを生み出す ![]() 記事の為に人名録を探しに図書館を訪れたコナーは、コナーの本に読み耽っているトレイシーと会う。「言うことは粗野で書くことは繊細。どっちが本当?」と質問するトレイシー。恋とはその人に対する質問なのである。まずは質問が生まれることから恋が始まるのだ。 二人が仲良く図書館を去っていく姿をネイルサロンで悲しそうに見つめるインブリ。「痛かったですか?」と尋ねる店員に、「少しね・・・でも慣れてるから」と通り過ぎていくコナーの背中を見つめながら答えるインブリ。 その時の彼女の表情がすごく魅力的である。いい女が表情を曇らせる瞬間。その表情は愛する人に裏切られた失望感に満ちているといった凡庸なものではなく、「また女のお尻を追っちゃって・・・」というフラフラした男心を、遠くから母性愛たっぷりに見守る優しさに満ちていた。 ■トレイシーの本質 ![]() 「失敗を重ねても人間性に成長が見られない。スタイルだけが良くなる」デクスター 「男は誰でも君を落とすのは自分しかいない≠ニ思っている」デクスター 「君はすばらしい女性だ。だが致命的な欠陥がある。弱さへの偏見、忍耐力のないところだ。最高の女になりたければ、人間の弱さを学べ」デクスター 全くその通りである。賢明なる女性が、男性の欠点をいちいち数えあげた所で生み出されるものは軋轢しかない。男のミスを見逃す優しさこそが女らしさの証明である。より正確に言うと、女性の方が男性よりも優れているのだから、劣っている男性の失敗には寛容でなければならない。それが出来なければ女性は男性と同じ土俵で相撲をとる事になるだろう。恋愛に勝ち負けを求める事はよくない。ただあるのは、共に勝利か共に敗北だけである。 その後でトレイシーとその婚約者が交わす会話が興味深い。「君は誰からも支配されない。そこがいいんだ。君は上品で近づきがたい女王さ。気品と優美さがある。汚れなき彫像のような人だ。誰もがそう思っている。だから僕も崇拝してきた」と婚約者が言ったのに対し、「崇拝は要らないの。愛されたいのよ。ただ本当に愛されたいだけなの」と答えるトレイシー。 トレイシーは大富豪の令嬢であるが、相手に与えることが出来ない人。愛を求めさえするが、愛を与えるという発想はない人。彼女は気づいていないが、無償の愛を一方的に求めるという行為は、実は崇拝を求めていることとなんら変わらないのである。 愛について最も愚かな悩みは、なぜ私は誰からも愛されないのか?と考えること。実際はなぜ私は誰も愛すことが出来ないのだろうか?ということでこそ悩むべきことなのに。 ■コール・ポーターの優雅さとシャンパン ![]() 結婚式前夜のパーティにて、コナーと踊るトレイシー。バックに流れるコール・ポーターがとても美しい。コール・ポーター自身も生まれながらの大富豪なのだが、この人の音楽こそハイ・ソサエティの象徴ではないだろうか? それにしてもスチュワートとヘプバーンのほろ酔い気分の芝居は見ている側も、心地良くほろ酔い気分にさせられる最良の芝居である。役者によっては、酔い≠フ芝居で、見ている側を悪酔いさせてしまう役者もいる。コメディの基本は、演じている本人達が少なくとも鑑賞者には、さぞ楽しんで芝居をしているのだろうと感じさせなければいけない。 デクスターの家にパーティを抜け出して訪れるコナー。シャンペン持参で。「シンデレラの靴≠セぞ。シャンパンを飲むと階級の差はなくなる」の名言を吐くが、「そんなわけないだろ?」とデクスターに素でかわされる。ちなみにこのシーンのしゃっくりは、本物でありNGだったが、あまりにも可笑しいのでそのまま使用したという。 ■大人の男女が鑑賞するに値する喜劇 ![]() シャンパンと音楽とダンスを嗜む心。時間を忘れることができる特権を与えられたもの達。人生とは、本来、踊り・食べ・愛し合い・寝るの繰り返しで許されるものなんじゃないか?コナーは、トレイシーに言う。「シャンパンって不思議だね。ウイスキーとは違うね。頭に霧をかける」 酔った勢いで結婚をよせとトレイシーに言うコナー。トレイシーは言う。「人生決定が早すぎるわ」コナー「30だぞ。もう人生を決めてもいい年だ」トレイシー「でも他人の人生を決めていい年じゃないわ」 「その瞳、その声、立ち姿、歩き方にも気高さがある。本当は君の中では、炎がもえているんだ。激しい情熱の炎が」コナー 「銅像じゃない?」トレイシー 「銅像なもんか。君は血の通ったちゃんとした人間なんだ。生の温かさと喜びに満ちた生身の女なんだよ。泣いてるのか?」コナー 「黙って黙って・・・いえ話し続けて・・・やめないで」トレイシー。一瞬躊躇するコナーだったが、遂にキスに踏み切る・・・ 「まあ驚いた。何も言わないで・・・体が震えてるの」トレイシー 「これが愛だ」コナー「違うわ。ありえない」トレイシー「迷惑?」コナー 「当然よ・・・いいえちっとも・・・私達どうかしてるんだわ。音楽が・・・足が溶けちゃいそう。私も土から創られているの?」トレイシー 酔いに任せてキスに展開していく二人。お互いがお互いに新鮮な間柄であり、だからこそ一瞬結ばれる事になる。本来は出会うことがなかった二人が出会うことによって生み出される安堵感。この作品は大人の男女の感情の機微を実に心得ている。 ■愛らしいキャサリン・ヘプバーン ![]() 「私はいいカメラマンよ。今はフォーカスが合わないけど・・・」インブリ 一方、コナーの彼女インブリはデクスターに「なぜ彼と結婚しない?」と聞かれる。「彼にはまだ人生勉強を積んでほしいの」と答えるインブリ。この作品で一番格好いい人は、インブリだろう。トレイシーが愛して欲しいと言うのに対して、インブリは、愛する男に人生勉強を積んで欲しいと言えるのだから・・・ そして、舞台は早朝の大邸宅にて展開する。トレイシーをどこにやったと怒り心頭の新郎ジョージがデクスターに詰め寄っていると、どこからともなく聞こえる『オズの魔法使い』のオーバー・ザ・レインボーの歌声。やがて、肌も露わなトレイシーを抱きかかえたコナーがやってきた。きょとんとする二人。 「ハロー、デクスター。ハロー、ジョージ。ハロー、マイク」と言って、マイクを抱きしめるトレイシー。これぞ大人のコメディの可笑しさ。ハローの声音が三者三様に違うのだ。この可愛らしさはもう笑うしかない。 ■本当の主役はだぁれ? ![]() そして、正午になって、うっすらとしか夜中の記憶が残っていないトレイシーと記憶が残っているコナーが結婚式前に対面する。さぐりを入れあう二人がかなり面白い。クラシカルなコメディはSEXに対して露骨じゃない分だけ、台詞にひねりを効かせた見事さがある。 最近のコメディは直球勝負すぎる嫌いがあり、マンガ並みに目で見てすぐわかる内容のものが多いのだが、それがコメディの進化であり前進なのだろうか?私はむしろ荒廃で後退だと感じている。 「いずれにしても昨日は素晴らしい晩だったわ。あなたはどうだった?」と昨晩のことを思い出そうと探りを入れるトレイシーに対して、「特に最後がね」と答えるコナー。こういうウィットにとんだ会話こそコメディの真髄なのだ。 「今やっとこう思えたの。気にしないで、時には女にも発散が必要だわ。あれは彼女ではなく別の女だったのよ。ミス・ポメリー1926よ。」インブリ このポメリー1926年ものとはシャンパンとかけてるのである(ちなみにポメリー社の社長マダム・ポメリーは、「シャンパーニュを造ることは芸術を造ることである」と言った)。しかし、インブリとは、大した女性である。この作品の本当の主役は母性愛を発散するインブリかもしれない。 ■素晴らしすぎる軽妙なラストへの展開 ![]() 婚約は破棄され、結婚式場に待つ招待客に対してどう説明しようか???と思い悩むトレイシーにコナーが求婚する。その時にカットバックで写し出されるデクスターとインブリの表情がすごく人間味にあふれていて良い。最近の映画に欠けているものを一つあげてくださいと問われれば、私はこう答える。 最近の多くの映画には人間味ある登場人物が欠けていると。つまりハイテクに振り回されすぎて中身が空っぽな映画が多いと考える。ハイテクノロジーとヒューマニズムの融合はきわめて難しいものだと思う。 断られたトレイシーに「じゃあ式はどうするんだ?」と言うコナーに、インブルは優しく言い放つ。「もうあなたが出る幕じゃないのよ」と。そして、コナーの腕を引き寄せてあげる。その時のコナーの表情。これがお互いが愛を分かち合っている瞬間だろう。 ■幸せな気分になれる映画 ![]() 結局トレイシーとデクスターはよりを戻すことになってコナーとインブリが式に付き添う事になる。離婚した二人が再婚する瞬間。そして、結婚式の最中にほっとする四人の死角からカメラのぱちりという音が・・・そんなカメラに気づいた四人が表情を取り繕って終了。エンドマークの出され方も最高におしゃれだ。 人生とは泣いて笑っての繰り返しなんだ。あまりくよくよ考えずに生きていきましょう。そんな明るいムードに包まれた素晴らしい映画である。 この作品は上質のシャンパンが生み出すほろ酔い気分を鑑賞者に与えてくれる作品である。デクスターという人間は、元妻の結婚を阻止したいのだが、それ程積極的な行動を起こすわけでもない。そして、猜疑心の強い雑誌記者のコナーは、実はそれ程辛らつな人物でもなく上流社会に夢見心地になって、オーバー・ザ・レインボーのようにうっとりと埋没してしまうのである。 さらに、結婚を控えているトレイシーも、わがままで扱いにくい女性なのだが、結局最後までそれ程変化を遂げる事無くハッピーエンドを迎える。この作品は人間の成長性を描いた映画では毛頭なく。人間の行き当たりばったりの愛すべき習性を描いた映画なのである。だからこそ、今でもうっとりさせられるものに満ち溢れているのである。基本的に人間は考えて行動する生き物ではなく、状況の中で行動する生き物なのである。 ■本物のしゃっくりでオスカーを受賞したスチュワート ![]() 本作は1939年にブロードウェイで大ヒットした舞台劇の映画化である。舞台の方はトレイシー役がキャサリン・ヘプバーン、デクスター役をジョセフ・コットン、コナー役を『シェーン』のヴァン・ヘフリン、イブリン役をシャーリー・ブースが演じた。当初ダイナ役を16歳だったアン・バクスターで演じていたが、あまりにも成熟したその肢体によりキャスティングは変更された。全世界で約670回公演され約170万ドルの興行収入を稼いだ。 元々はこの舞台劇の草稿を読んで気に入ったヘプバーンに、恋人のハワード・ヒューズが版権を買い上げプレゼントした所から始まっている。この作品以前のヘプバーンは、映画の興行収入をダメにする女優≠ニ言われていた。そして、この作品の成功により起死回生の復活を遂げることになった。 MGMに版権を売ったヘプバーンは、興行収入の45%を得る契約で出演し、監督・役者の選択権も持った。当初デクスター役にクラーク・ゲーブル、コナー役にスペンサー・トレイシーを希望したがそれは叶わなかった。1940年6月5日に撮影開始し、8月14日に撮影終了した。本作でケイリー・グラントは10万ドルのサラリー(三週間の拘束と役の選択権と名前の序列をキャサリンより上にするという条件)を要求し、全額をナチスの空爆で被害を被った英国に寄付した。 1940年アカデミー賞主演男優賞(ジェームズ・スチュワート)と脚色賞を受賞し、作品賞、主演女優賞(キャサリン・ヘプバーン)、助演女優賞(ルース・ハッセイ)、監督賞にノミネートされた。授賞式当日スチュワートは受賞できるわけがないと自宅で寛いでいたが、友人から受賞しそうだぞという一報をもらって、急いで服装を着替えて会場に駆けつけたという。 ちなみに本作は1956年にグレイス・ケリー、ビング・クロスビー、フランク・シナトラにより『上流社会』としてリメイクされた。 − 2008年3月9日 − |
||||||