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乱 (1985・日本/フランス) | |||||
| ■ジャンル: 史劇 ■収録時間: 162分 ■スタッフ 監督 : 黒澤明 原作 : ウィリアム・シェイクスピア 脚本 : 黒澤明 / 小國英雄 / 井手雅人 音楽 : 武満徹 衣裳デザイナー : ワダエミ ■キャスト 仲代達矢(一文字秀虎) 原田美枝子(楓の方) 根津甚八(一文字次郎正虎) ピーター(狂阿弥) 井川比佐志(鉄修理) 隆大介(一文字三郎直虎) |
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■あらすじ 時代は戦乱の戦国の世。広大な領土を築いた一文字秀虎(仲代達矢)は、3人の息子に家督を継がせ、自身は隠遁することを告げた。そして、3人の前で「一本の矢はすぐに折れるが、三本束ねれば折れぬ」だから協力して一族を繁栄へと導いてくれと申し渡す。しかし、豪胆な三男三郎(隆大介)はその三本の矢を強引に足でへし折り「父上は私たち3人が血で血を争う争いの種をまかれようとしておられる!」と激昂するのだった。愚弄されたと感じた父にその場で破門される三郎だったが、実は最も秀虎のことを父として愛していたのは彼だけだった。 ■今20代で女優であるものはこの芝居を目に焼きつけよ! ![]() まず最初に1983年12月の製作発表の席で黒澤明はこう語っている。「私の中に残っているエネルギーをすべてこの作品にそそぎこみたい」ちなみに製作費は24億円という邦画としては破格の超大作である。 黒澤明という監督は、女の情欲を描き出す天才である。古くは『野良犬』(1949)の淡路恵子、『羅生門』(1950)の京マチ子、『七人の侍』(1954)の津島恵子、『蜘蛛巣城』(1957)の山田五十鈴、『赤ひげ』(1965)の香川京子といった女優が女の情念むき出しの名演を見せている。そんな中でも極めつけの名演は、この「楓の方」を演じる原田美枝子である。 当時25歳の原田美枝子は、『蜘蛛巣城』の山田五十鈴を大いに意識して、それを超えてやろうと意気込んでいたという。「着物に着られてるよ」「セットに負けてるよ」と、黒澤明に発破をかけられながらもこの名演技を披露できたのも、黒澤の情熱に物怖じしない原田の芝居に対する情熱があったからである。現在20代で女優的な仕事をしているものたちは彼女のこの姿勢を見習わなくてはいけない。 たしかに仲代達矢、根津甚八、井川比佐志、油井昌由樹、隆大介が素晴らしい名演を見せていた。しかし、この作品で一番魅力的に妖しく光り輝いていたのは原田美枝子だった。 ■最近の映画人は日本というものを捉え切れていない ![]() オープニングの美しさは、カラーの特性を生かした素晴らしいものである。偉大な日本の監督に共通してるのは日本文化と日本の四季の美しさを大切にする心である。そして、何よりも共通しているのは静と動の表現力である。昨今の邦画に欠けているのはまさにこの部分である。ここ10数年の邦画は明確にあるイベントをユニークな視点で描くという本来の映像の芸術からはかけ離れた作業に終始している。 ちなみにほぼ全編が大分県と熊本県の協力の下に撮影されている。城の風情は姫路城(一の城)、熊本城(二の城)、名護屋城である。 ■隆大介。まだまだこれから活躍すべき俳優 ![]() 無名塾の隆大介が師匠・仲代達矢の前で存在感ある芝居を見せてくれる。この人声もいい上に目に力がある本当にいい役者である。『影武者』での織田信長などぴったりとはまりすぎて怖いくらいであった。まだまだこれから彼の存在感が必要とされる活躍の場は増えていくことだろう。 そして、最初の方はあまり冴えない根津甚八も見事な存在感を示している。楓の方と腹心に挟まれ状況判断を誤り滅び去るという、戦国時代に多く繰り返されてきたであろう武将の一姿を、見事に演じきっていた。 ■大自然の中で繰り広げられる歴史劇が生みだす壮観 ![]() この色分けされた衣装の絶妙感。大自然の中でこそ生える原色という観点によるワダエミの見事な表現力。ちなみにワダエミは本作により1985年アカデミー賞衣装デザイン賞を受賞した。全部で1400点ほどの衣装を作成し、衣装だけで約3億円かかったという。 3人の息子達に3本の矢の話を聞かせる秀虎(仲代達矢)。しかし、強引に折ってしまう3男三郎(隆大介)。「毛利元就の3人の息子たち、これは素晴らしい息子たちで、そのおかげで毛利はあれだけ栄えたが、もしそうじゃなかったら、と考えた。それが「リア王」と交じり合ってこんな作品ができた」と黒澤明は映画化のきっかけについて語っている。
■TVドラマと違い映画はリハーサルが命である ![]() 家督を長男・太郎に譲ったと同時に正室・楓の方が太郎を唆す。 「殿、あの馬印は一文字家の頭領のもとにあるべきもの、形がなければ影だけ・・・頭領らしくお振る舞い遊ばせ」 仲代達矢の芝居の魅力は、その眼力を中心にして生み出されている。しかし、目は口ほどにものを語るとは言うが、実際のところ彼の口上の見事さも一つの魅力なのである。この人と三船敏郎を見ていると、いかに黒澤明がリハーサルの鬼であるか、理解できるだろう。他の監督に出演する彼らの作品と明確に芝居の質が違うのである。 「テーマは生と絶望です。もちろん人間の愚かさや、そして老いも描きだされます。私のやる秀虎の場合、老いと弱さから、それまでの生き方、信条をまげてしまい、それが争いの種になるわけです。秀虎というキャラクターは気に入ってますよ。人間の激しさとか生きていく誇りなんかが、ひしひしと感じ取れて好きですね」仲代達矢。 昨今の邦画において欠けているのが、リハーサルの時間の短さである。それは主演するタレントの時間的制約によるのだろうが、そういう大切な時間を制約されてまで学芸会じみた芝居を映像に残す価値があるのだろうか?それならば血気盛んな無名の俳優を使えばいいのではないか?確実な目先の利益を求めているかぎり邦画の復興などは夢のまた夢である。 「リハーサルが一番大事なんだ。ずーっとリハーサルをやっていくうちに、衣装も役者の体に合ってくるし、無駄な動きもなくなってくる。セリフだって不必要なものがわかってくるんだ」本作の撮影の4ヶ月前からリハーサルを開始していた。それくらい黒澤明はリハーサルの鬼なのだ。 ■戦国時代=戦乱の世に生きるということとは? ![]() 4億円ものお金をかけて実際に建立された三の城炎上の際、武満徹の音楽だけで、荘厳な地獄図絵を演出していく。そして、唐突に鳴り起こる効果音である銃声。終幕に置ける合戦のシーンの陣形の変化や騎馬隊の突撃など現実と幻想が実に見事に織り交ぜられている。(ちなみに加藤武が三郎の腹心で出演しているが、黒澤の妥協なき演技指導の中で落馬により骨折している)この時期の黒澤はもはや合戦を迫力を持って描こうとする気はなく、人間というものの所業のはかなさを描こうとしているのである。 ![]() 「天の視点から、人間のやっていることを腑瞰の目で見て描きたい」と黒澤は製作発表のおり語っている。つまるところ彼は合戦シーンの中で蟻の子のような人間達がうごめいている姿を描き出そうとしていたのである。だからこそ大量のエキストラを動員したにしては迫力に欠ける部分が多いのである。 この作品の黒澤は合戦シーンに、英雄を求めるのではなく、ただただ犠牲者のちっぽけな固まりを求めていた。もはや黒澤にとって、「戦いとは人間の空しさの象徴でしかなかったのである。人はどういう風にして頂点を極めようとし、どういう風に堕ちていくのか?歴史は風化し、偉人はより潔癖化され後世に伝えられていくが、実際の所は人柱によって築かれた栄光に過ぎないのである」という無常観に満ちている。 だからこそこの作品はただのスペクタクル史劇で終わらないロシア文学のような重厚さに満ち溢れているのである。そんなスケール感溢れる戦国絵図を前にして、素直に感じるもの・・・それが戦国時代の一つの真実に触れたあなたの純粋な心の反応なのだ。 「狂った今の世で気が狂うなら気は確かだ!いいぞいいぞ、狂ってやっと己の悪行を思い知ったか!」 ■原田美枝子から戦国奥方の逞しい表現方法は始まった ![]() 『七人の侍』から実際の武士の装束にこだわっていた黒澤が、本作にいたってはリアリズムを放棄して能装束を大胆に取り入れた。この「楓の方」は、元々は一文字家の一の城となっている城で生まれた姫であり、秀虎に父と母を殺されていた。そして今、母が自害した一の城に戻ってきたのである。この根深い憎悪の念から歪みきった女の魔性が発散されるこの映画史に残る名シーン。女の怖さと魅力が一体化した見事なシーンである。 次郎に襲い掛かった後の「たわいもない」と言った後に発する男のような笑い声には、ぞくっとさせられる。 「これではわらわの方から裏も表もなくずかっと申し上げねばなりますまい。次郎殿この楓!夫を殺されてもなんとも思いませぬ。ただわらわが思うのは我が身のことじゃ!」そして、数分後に「殿はわらわの殿・・・だれにも渡しませぬ!」とぬけぬけと言わせる演出の巧みさ。 「蛇がとぐろを巻くような声で」「真綿で首を締めつける様な声で」演じてくださいと原田美枝子は黒澤明に指示されたという。 ■黒澤にかかれば役者も役者の仕事を全うできる ![]() 一方宮崎美子の使い方など実に黒澤明らしい。末の方を演じているのだが、一切アップがないので本人かどか分からないのである。こういった傾向は、マルチカメラ方式で撮影するので昔から黒澤明の映画にはよくあることである。しかし、勝新太郎のような名優にとっては、自分のどの角度のショットが使用されるか分からないこの方式は受け入れがたく『影武者』(1980)降板に至った。 なかなかいい役柄に恵まれない鉄修理役の井川比佐志も、黒澤明にかかれば素晴らしいまでの狡猾な戦国智将の魅力を発散している。まさに三船敏郎が『風林火山』で演じた智将・山本勘助など吹き飛ぶほどの智将ぶりである。この鉄修理と楓の方の狐の化かしあいは本作の見所である。 「殿は楓の方に鼻毛を読まれましたな」 狂阿弥が、放つ以下のセリフはとても哲学的である。 「惨めな奴は殺してもらえないんだよう!人は泣き喚いて生まれ 泣くだけ泣いて死ぬんだ!!」 「人はいつも道に迷ってる。そして、人は昔からおんなじ道ばかり歩いてる」 ■ピーターの熱演に対する評価は・・・? ![]() 楓の方の首がばさっと切り落とされる。まさに『椿三十郎』を髣髴させる美しいシーンである。黒と赤の鎧兜と楓の方の着物姿のコントラストは日本人にとってもこれだけ印象的なのだから、海外の鑑賞者にとってはさぞかし閃光が走る情景であっただろう。 「神や仏はいないのか、畜生! いるなら聞け! お前らは気まぐれないたずら小僧だ! 天上の退屈しのぎに虫けらの様に人を殺して喜んでいやがる!やい! 人間が泣き叫ぶのがそんなに面白いのか!」 狂阿弥を演じるピーターの台詞は悪くはないが、『赤ひげ』と『どですかでん』の頭師佳孝に共通する浮いた存在であった。黒澤明はこういった狂言回しの役割の演出でたまに失敗をやらかす人である。 ピーターが『影武者』のオーディションを受けた時に黒澤明に言われた言葉は黒澤が意図した狂阿弥の役割を理解するにあたってとても印象的である。「いつ出来るかわからないが、『乱』は僕のライフワークだ。そのときまで綺麗でいて欲しい」そして、ピーターは2年間スケジュールを空け黒澤明に直接師事を受けたという。撮影中も黒澤の指示によりたえず黒澤の傍にいたという。 「人間は幸せよりも悲しみを、安らぎよりも苦しみを追い求めているのだ!」 この狂阿弥の存在はあきらかに、戦国時代に紛れ込んだ現代人という役割なのだが、やはりそういった人物像をこの重厚な作品に織り交ぜることは難しいことだろう。しかし、そこまで作品を構成することに情熱をかける黒澤明という芸術家の向上心に基づくチャレンジ精神はやはり彼の偉大さの証明であろう。 ■芸術が難解なのは必要に迫られてのことである ![]() 最後に姉・末の方が殺害されたとも知らず古城の城壁に取り残され延々と待ち続ける盲目の鶴丸。鶴丸を演じるは狂言師・野村萬斎(1966− )である。城壁から落ちそうになって姉末の方から手渡されていた「阿弥陀様の画姿」が身代わりかのように落ちて行く。そして、からくり人形かのように一人ぼっちで途方にくれる姿を最後に本作は終幕を迎える。 芸術というものは明確にジャンルわけされている。その理由はそれを見るに当たってそれなりの姿勢が必要とされるからである。しかし、最近はTVドラマやコミック感覚で芸術に触れる姿勢で溢れかえっている。「世評に流されてはいけない」という姿勢自体は正しい姿勢なのだが、TVドラマやコミックといった感受性が全く磨かれないものに接している輩が、「な〜〜んだ。見てみたけどなんの感動も与えてくれなかった」とのたまうのは芸術性に対する軽視以外の何者でもない。芸術を理解するためにはまずそのスタートラインに立たなければならないという現実をもっと理解すべきである。 『罪と罰』を決して読まなかったものが、長編作だという事実認識だけから「あれは眠たくなるから読む気がしない」といったり、クラシック音楽は「コンパクトな聞きやすい部分だけが好き」と言っている人々に共通する考えは手軽に芸術に触れてみたいなのである。芸術とは血と汗と涙という努力によって生み出された天才の所業であり、これを受け止めようとする我々の側にもそれに等しい厳粛なる態度が求められてしかるべきなのである。 ■21世紀の邦画の芸術性を再認識していく為に重要な作品 ![]() 黒澤明は言った。「昨今の俳優には気迫がない。 ショウ・ウィンドウのマネキンみたいだ。 サラリーマン化した俳優ほどつまらないものはない。もっと気迫をもって役を個人で新鮮に生き生きと役の人物を創造してほしい。俳優であると云うつまらない自意識を捨て、一個の人間として役を理解し、掴み、それをズカリと表現して見ろ。 そうすれば、どんな役でも生き生きと表現出来る筈だ。太い筆に墨をたっぷりつけてぐいっと大きな字を書くつもりでやれ!」 音楽担当の武満徹と黒澤明は対立し、これ以後あなたの作品にかかわるつもりはないと言い放った。武満は黒澤にマーラー風の音楽を求められたことに不満を述べている。武満はタイトルの乱の文字が出ると同時に「ランッ!」という掛け声を合わせたかったという。 その二人が真っ向から対立したのは、三の城の炎上シーンだった。この六分間にわたるシーンに、現実の音はなくなる。「その画に重なる音楽は、数知れぬ仏達の号泣の様に聞こえて来る」とシナリオに書いてある。監督のイメージは、マーラーの「大地の歌」の第六楽章<告別>だった。諸行無常を思わせる笛の音に乗って、アルトの女声ソロが死屍累々たる戦場にこだまする、というのが監督の狙いだった。しかし結局、このシーンに女声ソロは入れられなかった。それは武満の「声を入れるのはどうしても具合が悪い」という意見と食い違ったからである。しかし、武満もティンパニの使用を忌み嫌っていたが黒澤の主張によりティンパニを使用することは妥協したという。 日本映画の新しいスタートはこの作品から始まっている。そして、この作品から22年の月日が経った。黒澤明は示す、日本映画の素晴らしき要素とはいかなるものであるかを・・・・そういったことをもっともっとこれから映画に携わっていく人たちはこの映画を見て、感じ取る必要があるだろう。 − 2007年3月12日 − |
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