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レイジング・ブル RAGING BULL(1980・アメリカ) | |||||
| ■ジャンル: ドラマ ■収録時間: 128分 ■スタッフ 監督 : マーティン・スコセッシ 製作 : アーウィン・ウィンクラー / ロバート・チャートフ 原作 : ジェイク・ラモッタ 脚本 : ポール・シュレイダー / マーディク・マーティン 撮影 : マイケル・チャップマン 編集 : セルマ・スクーンメイカー 音楽 : レス・ラザロビッツ ■キャスト ロバート・デ・ニーロ(ジェイク・ラモッタ) ジョー・ペシ(ジョーイ・ラモッタ) キャシー・モリアーティ(ビッキー・ラモッタ) テレサ・サルダナ(ジョーイの妻) フランク・ヴィンセント(サルビー) |
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■あらすじ 1949年ミドル級世界チャンピオンに輝いたジェイク・ラモッタ(ロバート・デ・ニーロ)は栄光の頂点に立っていた。しかし、私生活においては美しい妻ヴィッキー(キャシー・モリアーティ)との喧嘩が絶えず、弟ジョーイ(ジョー・ペシ)との関係もぎくしゃくしたものになっていた。頂点からどん底に落ちていく時は恐ろしく早かった。 ■カヴァレリア・ルスティカーナ オープニングでピエトロ・マスカーニのこのオペラが、試合前のリング上でガウンを着たままウォーミングアップのシャドーボクシングをしているジェイクの姿と共に流れる。このオープニングの身震いするくらいの美しさ。リングの上でのボクサーの孤独を表現している名シーンである。こんな荘厳で美しい調べからこの物語は始まるのである。 ■ロバート・デ・ニーロの最高傑作 冒頭の1964年の姿から始まり。話はすぐに1941年に戻る。この戻し方はさすがスコセッシである。それにしても、体重を増やしたという事実もすごいがデ・ニーロのすごさはこれを強迫観念的に行っているところである。ある意味デ・ニーロは精神的な強迫観念がすごい人なのである。 最初の妻とステーキが焦げるぞと言って喧嘩するところなんかは、その妻の嘗めた態度といい崩壊する夫婦関係を無理なく見事に描きあげている。この最初の15分で見ている人は知るのである。レイジング・ブル(怒れる牡牛)という名前でこのボクサーが呼ばれた所以は、その根っからの鎖に繋がれ切らない野獣のような粗暴さにあるんだと。 弟のジョーイ(ジョー・ペシ)に言う。「頼む。ためしに顔を殴ってくれ」。このシーンの臨場感が凄まじい(どうやら実際に殴りあったらしい)。しまいに血が噴き出して「何のためにこんなことを!」と尋ねる弟の頬を軽く叩く姿を、隣のジャズの流れる部屋のドアの隙間から覗いてぞっとしている妻。何から何まで完璧すぎる演出である。スコセッシは音楽の使い方を実に心得ている監督である。 音楽の後にはボクシングのグローブとグローブが当たりあう音など必ず効果音で切り替わっていくのである。ちなみにパンチの音は、メロンとトマトをスカッシュする音を使用している。 ■「留守にしてもあの女は大丈夫か?」 キャシー・モリアーティが輝くばかりに美しい。そして、実際のヴィッキー・ラモッタの当時の写真を見てみるとこれが驚くほどキャシーに似ていて美人というよりも絶世の美女である。この役柄は元々ビヴァリ・ダンジェロで考えられていた。ちなみにシャロン・ストーンもオーディションを受けたという。 しかし、このヴィッキーがある意味ジェイクにとっては運命を狂わせる発端となったのかもしれない。私の苦い経験から言うとするならば、絶世の美女との結婚は、大いなる嫉妬を伴うものなのである。ある意味こちらにしてもそうだが、そういう類の女性と結婚する場合は、結婚における道徳観念はあまり強く持ちすぎないほうがいいのである。 絶世の美女は基本的に、精神が脆い分だけ気が強く、美しい分だけ浪費がすごい。その浪費を夫の懐で満たしているにもかかわらず夫の精神的な支えにならないといけないという、精神的な余裕がないので、夫にとってはこの絶世の美女である妻が不愉快で堪らなくなるのである。そして、破局は訪れる。私の経験から言うと絶世の美女とは、70歳くらいで結婚するか、もしくは愛人を3,4人抱えている状態の男性がしたほうがうまい事いくだろう。 こういう経験のない類は「自分に自信がないから女に猜疑心を持つ」としたり顔でいうのだが、これはマスターベーションと同じで絶世の美女と付き合ったことのない男の心理である。一度付き合ってみればどんなことにも猜疑心が不思議と生まれてくるのである。それは本人の自信云々の問題ではなく、自分が手に入れた女性が美しければ美しいほど誰もが手に入れたくなるということを知っているが故に、そして、自分自身もそうして手に入れたからである。 つまり美しいだけで才能がない女性は、男の猜疑心に悩まされ続けるので世界で一番苦労する可能性があるということである。 ちなみに1960年生まれのキャシーは撮影当時19歳だった。本作によりアカデミー助演女優賞にノミネートされたが、次作のジョン・ベルーシ主演の『ネイバース』の大失敗とバイク事故により、6年間リハビリのためキャリアを棒に振ることになる。 ■異常なほどの臨場感溢れるボクシング・シーン この映画の一つの特色である臨場感溢れるボクシング・シーンに大きな効果を与えているのが、カメラのフラッシュとその効果音、実況中継の音声、スモーク、そして、何よりも実際のリングよりも大きなリングで撮影した点である。全部で10分にも満たないボクシング・シーンは6週間もかけて撮影された。 そして、タイトルマッチで控え室でジョー・ペシの腹をサンドバッグごしに殴りウォーミングアップをしてから、リングに上がるまでの長回し撮影の見事さは誰もが認めるところである。試合シーンと同じくらいの臨場感溢れるボクサーが光り輝く‘時’をとらえたシーンである。特に最後にリングに上がるまでを背後から追いかけないところが素晴らしい。 ちなみにロビンソンにタイトルを奪われるシークエンスにおいては、ヒッチコックの『サイコ』(1960)のシャワー・シーンを参考にしたという。 ■8mmカラー映像の唐突なる登場 「ジムのすえた匂いがすきなの」と身体を愛撫され、興奮覚めやらぬジェイクは、「女は足にくる」とトランクスの中に氷水を流し込む。にもかかわらずさらに挑発的にジェイクに愛撫を続けるヴィッキーの妖艶なこと。 そして、このシーンのすぐ後に、全編白黒映像の中で唯一のカラー映像が挿入されるのである。試合の状況はスチール写真で伝えつつ、夫婦生活の幸せはカラー映像で伝えているのである。しかし、カラーになるとより、ヴィッキーの操り人形のような存在感が浮き出てくるのである。 本作のキャシー・モリアーティの幸せそうな表情は全てが人形的であった。こういう笑顔に男は弱いものなのである。絶世の美女には、笑顔が似合わない。だから男は我こそが彼女から笑顔を勝ち取ろうとするのである。
■ジョー・ペシ彗星のごとく 本作のジョー・ペシ(1943− )が素晴らしい。『グッドフェローズ』(1990)もアカデミー助演男優賞が十分納得できる見事な芝居だったが、本作においても兄思いの弟を熱演していた。特にヴィッキーの浮気を発見し、サルビーをボコボコにするシーンや、ジェイクにボコボコにされるまでのプロセスなどは、完璧である。 彼の存在が在るときは、人一倍デ・ニーロが輝く。それはある意味70年代のハーヴェイ・カイテルの役割とも共通する点がある。ちなみにデ・ニーロとのスパーリング・シーンで実際にぼこぼこに殴られ助骨を骨折したという。本作が映画デビュー作であり、レストランの支配人をしていた時に、デ・ニーロに口説かれジョーイ役を演じることになったという。ちなみに本作でアカデミー助演男優賞にノミネートされている。 ■デ・ニーロの見事な八百長ぶり チャンピオン戦に望むために、八百長をすることになったジェイクのふてぶてしいばかりの大根芝居振り。ジェイクの芝居をしているデ・ニーロが八百長ばればれのふてぶてしさを出すという至難の演技力を堪能してもらいたい。このデ・ニーロの表情に今も多くの役者は影響を受けているのである。 この半ばあきれた様にして相手の攻撃を受ける様の格好いいこと格好いいこと。この芝居が生きていたからこそ、その後にトレーナーの胸の中で涙を流し後悔するシーンが生きてくるのである。 ■役作りのために30s体重を増やせるということの意味 「ただ一度決めたら強情でわき目もふらない。キリストが十字架から降りても、彼は知らん顔で自分の決めた道をまっしぐらだ」ジョーイが兄について説明するシーンのセリフである。 この作品において、引退して肥満化したジェイクを演じるために、デ・ニーロはボクサーのようにシェイプされたボディから30s体重を増やしたという。 デ・ニーロという人の役に対するアプローチの凄さは、そのもの自分にあった生き方を見つけたことに対する喜びと誇りの裏返しとも言えるのである。彼は演じることに天武の才能があるわけではなく、演じることに情熱をささげているのである。つまり人生とは人それぞれいかに情熱を捧げられる物事を見つけるかということが重要なのである。 今自分がしていることを意地でもやり遂げないといけないという責任感も大切だが、その前にまず自分の人生にとって、これならば情熱をかけてやり遂げたいと心の底から出会えるものにめぐり合うための探求の旅に出ることのほうが大切だといえる。そのためには絶対的に芸術的な素養がなければ、自分の生き方の道しるべは見つかっていかないのである。 ■実はこのジェイク・デ・ニーロは現代の日本男児そのものである 腕っ節の強さと有言実行を取り除けば、恋人に対する嫉妬の深さや切れやすい所と孤独に弱いところ、そして浮気性な所など、現代の日本の若者のステレオタイプとも言えるだろう。現在においても本作を見ていて身につまされる部分が多いのは、そういった極めて普遍性のある人物描写にあるのだろう。 特に弟とヴィッキーの関係を疑い弟をボコボコにしてしまうプロセスは極めて現在的である。一人の人間の猜疑心が大切な人たちをも巻き込んでしまう経緯と、それによって生み出される決定的な孤独。 そして、孤独の中拘置所に入れられ拘置所の壁を殴りつけるジェイク。「WHY WHY・・・」と繰り返す彼の姿はまさしく大切なものを自分自身の手でぶち壊してしまったこの手。そう頂点に登りつめたこの手に対する一つの答えを導き出そうとしている瞬間でもある。自問自答を繰り返すことによって、人はより弱くなっていくかより強くなっていくのである。 ■スコセッシが何故白黒で撮ったのか ラモッタの自伝の始まりのくだりが全てを物語っている。「夜ときおり過去を振り返ると自分の人生が古い白黒映画になって頭に浮かんでくる。なぜ白黒なのかは分からないが、そうなのだ。その映画はもちろんA級ではなくB級で、薄暗いシーンが続いてオープニングもエンディングもない」 他に白黒で撮影された理由として、ボクシング・シーンの血にチョコレートを使用することにした為である。そして、もう一つの要因として当時のボクシング映画の象徴であった『ロッキー』シリーズとの差別化である。 ■デ・ニーロ・アプローチ プロボクサーの体形を作る為に『ロッキー』でスタローンが雇っていたトレーナーとジェイク・ラモッタ自身をコンサルタントとして雇い毎日デ・ニーロはトレーニングに励んだという。半年間毎日30分のスパーリングをこなし築き上げたデ・ニーロの姿を見て、実際のヴィッキーも惚れ込んだほどだったと言う。さらに、実際の兄弟愛を築き上げるために、撮影前のトレーニングの段階でデ・ニーロはジョー・ペシと同居生活をした。 ボクシング・シーンの撮影終了後4ヶ月間撮影は一時中断された。その間デ・ニーロはイタリアに渡り、有名なレストラン巡りを始める。そして、体重は68キロから97キロに。 デ・ニーロは、ある時記者にこう答えた「興行的な成功は期待してなかったからね。私達は作りたい映画を作りたいように作る。今から50年後にも通じるような意義深い映画を作ることのほうが大事だ。私はすぐに消えてなくなるような映画じゃなくて、未来に残る映画に参加したい。あの種類の映画は、どれがどれとは言わないが、名前を出さなくてもわかるだろうが、違った実績でのみ認められてる」「それは『ロッキー』のことですか?」「名前を出したのは君だよ。私は言わないぞ」。ちなみにスタローンとデ・ニーロは親友である。 ここで勘違いしている昨今の役者が心しておかないといけないことだが、デ・ニーロ・アプローチとは本作で言えば6年間などの長い月日を経て作り上げられるアプローチ方法なのである。その根本にあるものはリサーチングであり、体形を変えるという行為ではないのである。ただ必然性が体形を変えさせただけなのである。その6年間の道のりとは以下の道のりである。 ■レイジング・ブルまでの道のり 『ゴッドファーザーPART2』(1974)撮影中に原作を読んで気に入ったデ・ニーロが、ボクシングに全く興味がないスコセッシに映画化を提案したところから始まった。そして、スコセッシは本作こそ黒澤明の『羅生門』スタイルで撮るべきだと主張したという。基本的には脚本は二人に任されたが最後のリライトは、5週間かけてイタリアでスコセッシとデ・ニーロによって行われたという。 この頃のスコセッシは『ニューヨーク・ニューヨーク』(1977)の失敗もあり、ドラッグにまみれていた時期であり、デ・ニーロはそういった崖っぷちのスコセッシを復活させようと必死だったという。1800万ドルの予算で製作され2300万ドルの収益をあげた。そして、1980年アカデミー主演男優賞と編集賞を受賞した。結果的にこの作品の成功が、ドラッグ漬けのスコセッシを復活させることになったのである。 ■最後まで倒れなかったぜ 最後にマーロン・ブランドの『波止場』(1954)のセリフを鏡の前でチェックした後に、舞台への出番となったジェイクが、シャドーボクシングを太った身体でする。「俺がボスだ!俺がボスだ!」と呟きながら。 ― 破滅を描いた作品ではなく再生を描いた作品 プロボクサーとして世界チャンピオンにまで登りつめた男が、人生を没落していく様をとらえた映画だという捉え方は、まず明確に間違っている。この作品はまずジェイク・ラモッタ自身の自伝を元に撮りあげている作品なのである。彼が自分の半生をゆっくりと見つめなおすゆとりがもてたということ自体が勝利であり、再生である。 そして、彼の没落の一瞬を見て、それ見たことか。とせせら笑う観客に対して問いかけているのである。あなたはそれほどの頂点に登れなかったか、もしくは登ろうとしなかったから落ちる時の落差が少ないだけだと。破滅と再生を経験することの凄さとそういうことが体験できているジェイク・ラモッタという人物は間違いなく尊敬すべき人物である。 ジェイク・ラモッタ本人が本作初めて見たときにこうつぶやいたという「とんでもないくそ野郎だな。こいつは」こう余裕を持って言える男が果たして人生の敗北者だろうか? ちなみにステージに立つジェイクに話しかける男役でマーティン・スコセッシ監督がカメオ出演している。そして、ウェブスター・ホールの観客の一人にジョン・タトゥーロがエキストラ出演している。 ■最後に そこでパリサイ人たちは盲人であった人を もう一度呼んで言った。神の栄光の前に正直に答えなさい。あの人が罪人であることは私たちには分かっている≠キると彼は言った。あの方が罪人であるかどうか私は知りません。ただひとつの事だけ知っています。私の見えなかった目が今は見えるということです《新約聖書 ヨハネによる福音書第9章24-26より》 − 2007年5月13日 − |
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