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椿三十郎   (1962・黒澤プロ=東宝)
■ジャンル: 時代劇
■収録時間: 98分

■スタッフ
監督 : 黒澤明
製作 : 田中友幸 / 菊島隆三
原作 : 山本周五郎 『日々平安』
脚本 : 菊島隆三 / 小国英雄 / 黒澤明
撮影 : 小泉福造 / 斎藤孝雄
音楽 : 佐藤勝

■キャスト
三船敏郎(椿三十郎)
仲代達矢(室戸半兵衛)
加山雄三(井坂伊織)
入江たか子(睦田夫人)
小林桂樹(木村)
田中邦衛(保川邦衛)
椿三十郎
「おいっ!おまえたちも大人しく鞘に入ってろよ!」まさに今の日本人に対して皮肉に満ちたセリフ。映画を撮るにしてもお金儲けするにしても大人しく鞘に入って、権威を笠に威張り散らす小役人風情ばかりのこの日本において、「おいっ!おまえらは上にへぇ〜こら、下には威張りたくって生きてけ!」と三十郎は吐き捨てる。雲のように自由な規格外なオトコが世の中から消えると、鞘ばかり立派な自称名刀が氾濫する。「一生鞘に入ってな・・・」そう嘯く三十郎に惹きつけられるのは何故だろうか?そこに現代人の失った生き様への執着心が読み取れる。

■あらすじ


廃墟と化した寺社で密談に励む9人の若侍たち。汚職の蔓延る城内に対して血判書を提出した9人だったが、それを提出した相手・大目付の菊井こそが、汚職の大元だった。そして、9人はこの寺社に呼び出されたのだった。そこに宿賃もなく寺社を一夜の寝床にしていた素浪人・椿三十郎(三船敏郎)が大あくびしながら現れる。「おめえら、危なかしいぜ!」事の顛末を耳にした三十郎が9人の若侍の助太刀をすることに・・・


■製作委員会?ケッ・・・何が委員会だ。学級委員じゃあるまいし


三船敏郎 三船敏郎
まず最初に避けて通れないのが、リメイク版に対する言及である。端的に言うならば「この作品の本質が分かっていないからこそ、リメイクする気になれたのだろう」。この作品は完成されており、それ以上は求めることは出来ず、もし求めるならば質の悪い模造品にならざるを得ない。

森田芳光もよる年波なのか?金銭的な問題なのか?または名誉欲なのか?見事なまでに創造性の欠けらもない模造品の作成を請け負ってしまった。役者に関して言うならば、例の如くありきたりな野性味の欠けらもない安全パイそのもののキャスティングである。
テレビ局に飼われた犬が野良犬を演じて、まともな観客が感嘆するとでも思っているのだろうか?相変わらずテレビ局というものは映画を舐めきっている。

このキャスティングが物語るのは、一重に織田裕二という極めてスクリーン映えしない役者に対する過剰な期待だろう。彼に最も興味のない世代は20代から30代前半といわれている。その理由は、彼からはギラギラした野性を感じない所にある。どんな芝居をしてもスターの輝きはなく、そこにはテレビ・スター織田裕二の残り香しかない。演技力はあるにしてもそれはアップの芝居にしか耐えられない。

このリメイク版においてもアップが多用されていた。しかし、映画監督なら
「テレビはアップで、映画はロングショットでという基本に帰るべきだ」。それを忘れた瞬間から映画のスケール感は失われ、ただの大きな箱庭劇に終始してしまう。このリメイク版は画面の方が30倍大きすぎたような作品になってしまった。

製作総指揮・角川春樹、製作にはテレビ局の名が連ねられていれば、もう作品としてダメになることは約束されているようなものだ。それにしても、
そろそろ製作委員会という括りはやめるべきだろう。学芸会のような雰囲気しか匂ってこないこのネーミング・センスはいい大人がつける代物か?どうやら日本語に対する欠落が激しいのは若者よりもいい大人の方かもしれない。


■世界のクロサワとミフネ


椿三十郎 椿三十郎
三船敏郎がなぜ世界のミフネと呼ばれたのか?それはクロサワのお陰ではなく二人の相性が抜群に良かったからである。その相性が生み出したものは、こじんまりとした男ではなく、スクリーンから匂い経つ男のフェロモンだった。
にやりと笑うだけで男も女も惹きつけるこの圧倒的な存在感。日本人だけでなく世界中の男女を惹きつける男の魅力。

日本映画史上日本人の男臭さを表現する@フ域に到達した監督はクロサワのみだった。
他の監督は役者の魅力を昇華させるよりも監督の手による日本の様式美の描写が認められて世界的に評価されている。

間違いなくスクリーン映えするミフネのその魅力。それは一重にその生き方の不器用さからもにじみ出てくるものだった。
映画の主役はテレビの主役とは違い、限りなく芸術家肌でなければならない。どの役者も器用さよりも不器用だった頃に素晴らしい芝居を見せてくれる。それはハリウッドの役者にせよ日本の役者にせよ同じである。

その役者が己のポリシーを捨て去り、効率よく仕事をこなした次点で役者の魅力は、スクリーンからはっきりと失われていく。
スクリーンとは恐ろしいほどに役者の魅力を照らし出す。だからこそ顔のアップの多様は、大きな銅像を見せられてるような気になりうんざりさせられる。


■自由に生きなきゃ人間といえないのでは?


椿三十郎 椿三十郎
「バカやろう!逃げるつもりならはじめから出てきやしねいや!」

あくびと共に登場する浪人。無精ひげだらけの中年オヤジ。ボロボロの服装で野宿するホームレス侍。しかし、そんな生き方に思い悩む風でもなく、ただ雲のように自由に生きている感じの男。

オレは誰からも縛られたくねえ・・・風体は惨めで懐は淋しくとも、少なくとも嫌なものには嫌だと言えるだけの自由は持ち合わせてるんだ!そんな現代人がシニカルにせせら笑うような自由な生き様の三十郎。そして、現代人が本心においては羨ましい男・三十郎。

密談を広げるエリート新入社員9人は、その熱気と世間知らずの中で喧々諤々論じあっている。そこに究極の自由人三十郎が降臨する。ちなみに本作において最初に撮影されたシーンがこの寺社の境内のシーンである。1961年9月に実際の寺社の境内にてロケ撮影された。


■老若男女みんなが鞘ばっかり磨いて、実は中身の刀は錆びてんじゃねえか?


椿三十郎 三船敏郎
「ところでおい。盗み聞きっていうのはいいもんだぜ。岡目八目話してる奴より話の本筋がよく分かる」

盗み聞きによって的確なポイントを押さえる一人目の登場。それが三十郎である。そして、二人目三人目は後に登場する小林桂樹扮する木村であり、入江たか子扮する奥方であった。物事に対する判断はその渦中にいる人間よりも、得てして傍から見ている方が理解しやすい。

「てめえがバカだと思われてるのを、気にしねえだけでも大物だ」

「しかし、人は見掛けによらねえよ。危ねえ危ねえだぜ」


上記の二つのセリフは城代家老のことを言いながらも自分自身のことも言っている。最終的に9人の若侍は、2人の侍の姿に感嘆とすることになる。この作品の根幹には、若者には
「もっとおめえら同世代だけじゃなく上の世代とも交わってみな」というメッセージを、一方、中年以上の大人には「おめえら若者にバカにされても気にしねえで、自分らしさに誇りを持てるか?」という問いかけがある。


■映画の中にみなぎるミフネのホンモノの凄み!


椿三十郎 椿三十郎
「礼の言葉なんかいらねえから少し金くれねえか?」

「なかなか聞きわけがいいな。いい子だ」

「こうなりゃ死ぬも生きるのも我々九人」「いや!十人だ!てめえらのやることは危なくて見ちゃいられねえや」


鞘から抜刀せずに刺客を圧倒する三十郎。ここにこの物語の一つの構図が見受けられる。9人の若者と関わるまで三十郎は殺生をしていない。そして、関わることにより一心に殺生を引き受ける。実は彼の殺生は9人の殺生でもあり、
正しいことのために悪いことをしないといけないジレンマ。

それは大であれ小であれ、古来昔から人間に付き纏う宿命的ジレンマである。三十郎は人を斬る!若侍の分まで一心に引き受ける。そして、物事が解決した代償は、再び逃走であった。画して9人の侍はしたり顔で手を汚さずに栄誉を手にしたのであった。歴史上本当の功労者は得てして表には現れないものである。

「さっきの見張りは三匹だが猫だ。今のあいつは一匹だが虎だぜ」

そして、仲代達矢(1932− )が登場する。あの端正な仲代が何とも浅黒くフランケンシュタインのような様相で登場する。まさに仲代扮する室戸半兵衛と三十郎は、コインの裏表だった。


■この作品を他の監督が撮っていたなら何の変哲もない時代劇になっていたかもしれない


椿三十郎
「こう金魚のウンコみたいにつながって来られちゃ始末が悪いな」

「なんだァその面は、刀振り回してえんだろうがごめんだぜ。間抜けな味方の刀は敵の刀より危ねえ。ケツ斬られちゃかなわないからな」


クロサワ作品の中でもこの作品は魅力的なセリフの宝庫とも言える。それはそれだけ物語の中の登場人物が生きているという証拠でもある。クロサワの繊細すぎる全てに対する拘りがあったからこそ、セリフ一つ一つに命が吹き込まれているのである。

この作品の真実は、実は単純な時代劇に過ぎない作品をクロサワの手にかけてみた所にある。ただの時代劇も芸術家が撮るとこんなに違うという驚き。ミフネも輝き、仲代も輝く・・・全てが時代劇の良さを引き出し、日本の良さを引き出す相乗効果を生み出している。

映画において、最も重要なものは演出家が独特の感性を持っているかである。昨今の日本のリバイバルブームの中で見えてくるのは、拝金主義とテレビ局の知性の低さと枯れ果てた演出家と割り切った出演者の負の相乗効果が生み出した「過去を食い潰すハイエナ」の構図のみである。


■ミフネの最大の魅力はこのシーンに濃縮されている 男の可愛らしさ


椿三十郎 椿三十郎
「干し草がよく匂うこと。あたしこの匂いが大好き。あたし達よくここへ来るんですよ。ねえ伊織様」

「一度なんか伊織様の腕を枕にして本当に眠っちゃったのよ」


こういう危機管理の欠けらもない会話を交わしながら、のほほんと干し草の上でまどろむ二人の婦人。それを覗き込みながら「オイオイ」という表情を見せる三十郎のとまどいの可愛らしさ。三船敏郎(1920−1997)という偉大なる役者自身が忘れがちで、クロサワは常に気づいていたこと。それは
「ミフネの最大の魅力は野性味の中にある男の可愛らしさ」を体現出来るところにあるという事だった。

クロサワ映画以外のミフネの魅力が薄れていった理由も、こういったミフネを引き出す能力を持ち合わせていない監督の作品に出演した結果でもあった。


■女性なら分かる三十郎の男っぷり


「でも助けられてこんなこと言うのも何ですけどすぐ人を斬るのは悪い癖ですよ」
奥方

「あなたは何だかギラギラし過ぎてますね。あなたは鞘のない刀みたいな人よく斬れます。でも本当にいい刀は鞘に入ってるもんですよ」奥方

「だってもヘチマもねえ!ぐずぐずしてるとまた人を斬らなきゃならねえんだぜ。さあ」三十郎

人質にとられた城代家老睦田の奥方を演じる入江たか子(1911−1995)とその娘・千鳥を演じる団令子(1935−2003)。この二人がいたからこそ本作は、一本調子ではない魅力的なものに変わったと言っていいだろう。ちなみに化け猫女優%江は引退していた所をクロサワに乞われての出演となった。

おっとりとした上流婦人と、如何にも武士階級の底辺でギラギラ(もしくはダラダラ)としている三十郎の対比。しかし、全く違う立場だからこそ惹かれあう関係でもあった。奥方がもう少し若ければ、一時のロマンスが生まれかねないほど、奥方も三十郎もお互いに一目置きあっていた。

この作品の隠し味は、間違いなく四つん場になって奥方と千鳥の踏み台になる三十郎の姿だった。9人の若者はその行為をすることに気づかず彼だけがその行為に気づいた。この作品が女性に人気があるのもそういった描写にある。口先だけで小奇麗な男が氾濫する今。本当に男臭さを体現しつつも優しさを兼ね備えている三十郎のような男はなかなかいない。


■鶯の一鳴き・・・満開の椿・・・日本家屋の様式美


椿三十郎
「ところであなたのお名前は」奥方 
「あっ名前ですか? 私の名は・・・椿三十郎。もうそろそろ四十郎ですが・・・」三十郎

前作『用心棒』と同じく適当に名を名乗る三十郎。武士階級においては、名前というものは大切なものであるのだが、三十郎は自分の名前に対して全く頓着していない。ただ30代だから三十郎で、目の前の椿が満開で綺麗だから椿が苗字。その自然な風体が現代人の心をひきつけて止まないのも、ミフネがこのセリフを抜群の表情で言い放つからである。

そんな三十郎が昼寝をしていると血気盛んな若侍がぴしゃっと襖を開け閉めし、目を覚ますことになるシーンが5回繰り返されるのだが、こういった描写が面白いのもこのミフネ=三十郎の魅力が画面を圧倒しているからである。そして、そんな三十郎の魅力の極めつけのセリフは
「俺は酒飲むと頭良くなるんだぜ」である。


■唯一のクロサワ作品でその魅力を発散した小林桂樹


小林桂樹 椿三十郎
「奥方は私が逃げるなんて少しもお考えなさらない。これじゃ逃げられません」

「ちょっと失礼します。わたしは押入れの中でじっと聞いてたんですがその・・・」
「貴様の出る幕か」若侍
「今すぐ引っ込みます。ただ私もあの浪人を信用しますね」

この男の本作における存在は予想以上に大きかった(勿論クロサワの意図したことだが)。この『椿三十郎』という作品は元々は、山本周五郎原作の『日日平安』をベースにクロサワが書いた脚本でフランキー堺か小林桂樹(1923− )主役で撮られる予定だった。

しかし、気弱で剣術の下手な武士の活躍を描く作品は地味だという事で東宝サイドは、その脚本に大ヒットした『用心棒』のスパイスを利かせて本作を製作する企画を出したのだった。つまり当初の作品の名残がこの木村の役柄に残っているのである。

この襖に閉じ込められる人質=木村が、誰よりも綺麗な衣服を着せられ、暢気に上げ膳下げ膳で食事まで振るわれるという発想の面白さ。
果たして笑いのセンスというものはこの時代より今の方が進化しているのだろうか?私は笑いのセンスは確実に退化していると感じている。


■ミフネの殺陣の凄まじさを過小評価すべからず


椿三十郎
「類は友を呼ぶ。俺も相当悪い」室戸

「うんなかなか聞きわけがいいな いい子だ」と室戸に言われ苦笑いする三十郎。まさに似たもの同士のこの二人。三十郎が野心に目覚めれば室戸のようになるのだろう。そして、もしかしたら三十郎も昔そうだったのかもしれない。

それにしても三十郎がノーカットで殺陣を見せ付ける動きの俊敏さは、今の役者には到底真似できない芸当である。
しかも二度斬りするというリアリティと刃こぼれなどお構い無しに斬り続けるフィクション性の融合の素晴らしさ。

1960年代から世界的にアクション映画におけるリアリティとフィクションの巧妙な融合が成されていく。それはジェームズ・ボンドでありセルジオ・レオーネであり、ブルース・リーであった。そして、その先導者の一人は間違いなくクロサワだった。

この作品から本格的に斬殺音が音響効果として取り入れられ、今までの時代劇の感覚に引導を渡した。
いわゆる白塗り総天然色の時代劇は、白黒の汚らしいなりをしたリアリティ溢れる時代劇に脇に追いやられたのである。


■世界のミフネは白黒でこそ後光を放つ!


椿三十郎
「あなたなかなかよいところに気がつくこと。それなら穏やかでいいわ」奥方
「ねっお母様。いっそ椿屋敷だから椿を流したらどうかしら。赤い椿を合図になんてきれいでいいわ」千鳥
「私は白い椿の方が好きですよ」奥方
「赤でも白でもいいじゃねえか!とにかく椿が合図だ!ごっそり流しゃ文句あるめえ!」三十郎

椿の合図を巡って交わされる会話。そんな中でも全く緊張感のない二人のご婦人の姿を襖の仮名を苛々しながらなぞる三十郎の愉快な姿。もうこの対比が絶妙に面白い。たまりかねて三十郎が吐くセリフ「ごっそり流しゃ!」のこの台詞回しの素晴らしさ。

「おい!じじい!隣じゃこの流れを見張ってたろう?早えとここの流れに何か流してやらねえと、えれえことになるぜ」三十郎

しばらく後、室戸に捕らわれた三十郎は、機転を働かせて敵自ら椿の合図を小川に流すように仕向け、9人の若侍たちの救援を手にする。ちなみにクロサワは赤い椿をより赤く見せるためにパートカラーで赤くしようとしたが、技術的な問題もあり断念し、黒く塗りつぶしたという。


■乗った人より馬は丸顔


椿三十郎
「どうもな。このわしの間延びした馬面にも困ったものだ。昔のことだがわしが馬に乗ったのを見て、誰かこんなことを言いおったよ。
乗った人より馬は丸顔

「ありがたいことにあの男は戻ってこやしないよ。あの男はなかなかのヤツだ。でもな桁外れのああいう男はわしには困るよ」

城代家老を演じる伊藤雄之助(1919−1980)はわずかな出番ながら、ずっとこの作品に出続けていたかのような存在感を残してくれた。こういった素晴らしい役者こそ真の役者というに相応しい。役者というものどれだけセリフがあったか?や、どれだけ映ったか?ではなく、どれだけ観客の脳裏に残ったかが重要なのである。

逆に言うとテレビCMで印象に残る俳優なぞ、役者ではなくその企業の広報マンに成り下がっているという事である。とにかく印象に残ったもんが勝ちという志しの低い役者が氾濫しているからこそ、現在は素晴らしい映画なぞ出来る訳がないのである。志しの低い役者から芸術的な作品が生まれることは絶対に有り得ない。


■おい!おまえたちも大人しく鞘に入ってろよ!


椿三十郎 椿三十郎
「抜けばどっちか死ぬだけだ・・・つまらねえぜ」

西部劇を思わせる最後の三十郎と室戸の決闘シーンの緊張感。ノーカットで沈黙を見せるからこそ生み出されるその緊張感。あおりの音楽は一切存在せず無駄なアップなど一切ない。そして、一刀のもとに室戸は血しぶき(チョコレートシロップと炭酸水の混合液)と共に絶命する。

ミフネも勿論素晴らしいが、この作品においては仲代も相当に素晴らしい。
彼は誰一人切らずに剣豪を演じるという離れ業を本作でやってのけている。ちなみにこの作品以降時代劇において大出血シーンの演出が頻発することになった。そのあまりの節度のなさにクロサワは、自身の作品においては出血シーンを避けるようになった。

「お見事!」若侍
「バカ野郎!利いた風なことをぬかすな!」三十郎

「気をつけろ!俺は機嫌が悪いんだ!こいつは俺にそっくりだ!抜き身だ!こいつも俺も鞘に入ってねえ刀だ!でもな・・・あの奥方が言ったとおり本当にいい刀は、鞘に入ってる」

一騎打ちに勝利した後の無常観。この無常観があったからこそ三十郎は永遠に時代を越えて存在することになった。
どんな社会においても自分に最も似たもの同士こそ争ってしまう悲劇・・・いや宿命。本作において結局、三十郎は27人の侍を斬殺することになった。

「おい!おまえたちも大人しく鞘に入ってろよ あばよ!」

そして、あの白い椿のように三十郎も去っていく。心の底から土下座し感謝の気持ちと尊敬の念を表した9人の若侍たちに背を向けて「あばよ!」の一言を残して去っていく。時代劇に「あばよ!」を使うこの独創的なセンス。
映画とは再現ではなく創造である。それを実践したからこそクロサワは世界的な普遍性を持ち得たのである。

− 2007年12月5日 −


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