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死刑台のエレベーター ASCENSEUR POUR L'ECHAFAUD(1957・フランス) | |||||
| ■ジャンル: サスペンス ■収録時間: 92分 ■スタッフ 監督 : ルイ・マル 製作 : ジャン・スイリエール 原作 : ノエル・カレフ 脚本 : ロジェ・ニミエ / ルイ・マル 撮影 : アンリ・ドカエ 音楽 : マイルス・デイヴィス ■キャスト ジャンヌ・モロー (フロランス・カララ) モーリス・ロネ(ジュリアン・タベルニエ) リノ・ヴァンチュラ(シャリエール警部) ジョルジュ・プージュリー(ルイ) ヨリ・ヴェルタン (ベロニク) |
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■あらすじ フロランス夫人(ジャンヌ・モロー)と愛人のジュリアン(モーリス・ロネ)は、フロランスの夫であり、ジュリアンの雇用主である社長を殺害する。無事完全犯罪が行われたかに見えたが、ジュリアンがエレベーターに閉じ込められてしまうことに・・・そんなことも知らずジュリアンを求めひたすら夜のパリをさすらうフロランス。 ■冒頭のジャンヌ・モローの存在感 ![]() ジャンヌ・モロー(1928− )の魅力で溢れかえっている作品である。女優が憧れる女優の1人であり、その存在感はある意味、ベティ・デイビスや日本では岡田茉莉子に共通するものがある。加賀まり子もそういう雰囲気を強烈にかもし出していた時期がありはしたが、結果として、ただそういう雰囲気を表面的になぞっていたに過ぎなかった。 ![]() 「ジュテーム、ジュテーム、だからやるのよ。ジュテーム。離れないわジュリアン」 このジャンヌ・モローの姿だけで十分なのである。細かい説明は要らないただこういう女には、男は虜になってしまうのだということである。ジュリアンも「今は君の声が頼りだ」と言っているように。 絶世の美女ではないが、男を虜にする何かがあると言う女を何十分もかけてストーリーで追って説明するわけではなく最初の2分で観客に納得させるところからしてルイ・マルという男は凄い。ジャンヌ・モローには『男が支配されたい』という母性愛を求めちゃいけないタイプの女のオーラが画面上に強烈に発散されているのである。 ■ジャンヌ・モローの片眉の上がり方に惚れます ![]() オープニングのセンス溢れるシーンからジャンヌ・モローとモーリス・ロネの一挙手一投足に注意引かせるようになっている。とにかくこのジャンヌ・モローの片眉の上がり方に注目してもらいたい。 ルイ・マル「彼女のすごいところは、ほんの数秒間で表情を変えられるところだ」 ジャンヌ・モローは言う。「女というのは、常に美しくなることばかりを追い求めていて、自分の見かけには決して確信が持てないものなのよ」そして、「私は今でもラッシュを見ないし、完成作品だって出来る限り見ない。ほかの人と一緒に自分の映画を見るのはいやなのよ」 そんな彼女のアップショットから始まる映画なのである。「愛は臆病さ」に重なるように出て来るタイトルバックのジャンヌ・モローとモーリス・ロネの名前。そして、帝王マイルス・デイヴィスのトランペットの開始。もうこの最初の2分だけで一つの映画分の価値を見出せる作品なのである。
■メルセデス・ベンツ300SLガルウイング ![]() この作品に登場する2台の車が実に格好いい。ジュリアン愛用のコンパーチブルも運転席から手動でオープンに出来るという具合で格好いいが、なによりも格好いいのがメルセデス・ベンツ300SLガルウイングである。日本では三船敏郎、石原裕次郎も愛好していた1954−1957にかけて製造された世界最初のスーパーカーである。とにかく今でも通用するほどの格好良い伝説のスーパーカーである。 『死刑台のエレベーター』は犯罪に手を染める2組のカップルが交差することによって描き出される虚偽と真実を見事に表現した作品である。ちなみに若者のカップルを演じたのは『禁じられた遊び』(1951)のジョルジュ・プージュリー(1940−2000)とヨリ・ヴァルタン(1940− )である。この若いカップルはなんの計画性もなく車を盗み、人を殺してしまう無軌道ぶりである。そして、睡眠薬による自殺も失敗し、写真屋の暗室でチンピラのルイは逮捕されるのである。 マイルスのトランペットをバックに1人ジュリアンをひたすら求めて夜のパリを徘徊するジャンヌ・モローと、徘徊する場所もなくただただ暗闇で煙草を吸いながら必死に逃げる方法を考えつつも時を過ごすしかないジュリアン。そして、高級車を盗み夜の闇の中をひたすらぶっ飛ばすルイとベロニクの若い2人。 『いとこ同志』(1959)、フランソワ・トリュフォーの『黒衣の花嫁』(1968)、『クレールの膝』(1970)のジャン=クロード・ブリアリが同性愛者っぽいモーテルの客役で出演している。さらにトリュフォーの『恋愛日記』(1977)のシャルル・デネもジュリアンを取り調べる刑事役で出演している。さらにルイに殺されるドイツ人夫人役に『悲しみよこんにちわ』(1958)のエルガ・アンデルセン(1935−1991)が出演している。 ■どこまでも格好いい女・ジャンヌ・モロー ![]() 完全犯罪を後一歩の所で、エレベーターに閉じ込められてしまうジュリアン。はっきりいって、車の鍵も閉めずにコンバーチブルを全開した状態で車を放置した時点で完全犯罪者らしからぬ間抜けっぷりではないかと突っ込みたくもなるのではあるが悲劇の連鎖反応とは得てしてこういったものなのである。 夜のパリで補導されたジャンヌが、ほとんど行きずりの男に肩を貸してやるその仕草が素晴らしくクールである。男性の頬に手をかけ黙って私の肩でお眠りなさいといった風な表情がいい。 ルイ・マル「ぼくらはジャンヌの顔を化粧で隠すのではなく、彼女の持ち味を生かそうとした。夜のシャンゼリゼをショー・ウィンドウの明かりだけに照らされて歩くシーンの彼女はとくに美しいと思う。あのシーンには、彼女の心が表れている」 ■映画の中で浮き上がってくる写真の効果 ![]() モーリス・ロネ(1927−1983)の演じる実に冷静で繊細で陰気なジュリアンという存在がまた素晴らしく良い。この人は劇中で一切笑わないのである。そして、2つの殺人を追跡するシャリエール警部を演じるリノ・ヴァンチュラ(1919−1987)も少ない登場シーンながらもさすがの貫禄でいぶし銀の魅力を発散している。マイルス・デイヴィスがラッシュを最初に見せられたときにクールだと思ったのがリノ・ヴァンチュラであった。 ![]() 結局は完全犯罪も現像液によって浮かび上がった一枚の写真により発覚するのであるが、その発覚するまでのプロセスをわずか数分に纏め上げたところが見事である。回想シーンや独白をここで持ってくるなど不要であると言わんばかりの魅力的なジュリアンとフロランスの2ショットの写真が現像液によって浮き上がってくるシーン。ルイ・マルはこの写真の効果を引き出すために劇中ではいっさいジャンヌ・モローに笑顔を許さなかったのである。つまり主役2人が笑っている姿は写真の上でだけなのである。この徹底したプロットの作り方が本来の映像作家のこだわりとして重要なポイントなのである。 つまりこの殺人は2人の微笑から始まったのである。そして、それを物語る一枚の写真の悲しさが、観客の心を打つのである。 実はこの作品中で2人が一緒の瞬間は写真の中でだけなのである。そして、フロランスが独白するのである。 まずシャリエール警部が言う「ドイツ人殺しは確実に死刑だが、ご主人殺しはまず10年」フロランス「10年・・・」警部「あるいは5年。だが奥さんあなたには陪審員も厳しいでしょう。当然ですな」 「10年・・・20年・・・無意味な年月が続く 私は眠り・・・眼をさます 1人で 10年・・・20年・・・私は冷酷だったわ でも愛してた あなただけを 私は年老いていく でも2人は一緒 どこかで結ばれてる 誰も私達を離せないわ」そして現像液で一瞬浮き上がった写真がまた消えていく・・・ ■ジャンヌ・モロー、ルイ・マル、マイルス・デイビス ![]() 本作は弱冠25歳のルイ・マルと新人カメラマン・アンリ・ドカエによるものである。そして、ヌーヴェル・ヴァーグの先駆けとも言われている作品である。ちなみにジャン・リュック・ゴダール監督の『勝手にしやがれ』(1959)からヌーヴェル・ヴァーグが始まるとされる。本作を通じてジャンヌ・モローとルイ・マルは本当に恋仲になり『恋人たち』を同年一緒に撮ることになる。 ルイ・マルは語る。「モローが出演の依頼を承諾してくれたことは、我々にとって幸運だった。彼女抜きではこの映画は作れなかっただろうからね」そうルイ・マルに決心させたのが、イギリスの伝説的舞台演出家ピーター・ブルックによるテネシー・ウィリアムズの『熱いトタン屋根の上の猫』のマギー役で、透ける素材の花柄のワンピースと細いハイヒールをはいた彼女の姿を見たことによってである。そして、この鬱積した感情の捌け口のない不満を抱えた人妻役の延長線上にフロランス役は存在するのである。 年長で留守がちな大富豪の夫に対して何の愛情も感じていない人妻フロランス。そして、彼女はジュリアンを利用し殺害に至らせるが、ジュリアンを失ったかもしれないと疑問を感じた瞬間から新たな情熱が生み出されたのである。そして、夜のパリを徘徊する姿へと繋がっていくのである。 彼女は最後の最後に気付いたのである「私は冷酷だったわ・・・」と。そして、ジュリアンという男に対する愛情を再認識し、もう遅すぎることにも気付いていくのである。それが最後の写真が消えていくシーンへの繋がりである。最初で最後の愛をジュリアンと離れたことによって知り、その愛だけを記憶に残して生きていかなければいけない自分のこれからの長い日々に茫然としているフロランスの目の前で写真も消えていくのである。これぞ究極の絶望である。愛を知りそして、彼女は真の絶望も知ったのである。 このラストにより、この作品の芸術的価値が極まったのである。あのジャンヌ・モローの独白シーンの凄さがマイルスのトランペットの音色と相まって総合芸術の域にまで達したのである。サスペンス映画としては少し落ちるが全体的にはとてつもなく素晴らしい作品である説明として、芸術とは計算式の積み重ねから生まれるのではないということを指摘しておこう。 − 2007年2月11日 − |
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