HOME
■サイト内検索

■洋画
 □カタカナ順
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
 □クラシック
 □ドラマ
 □コメディ
 □サスペンス
 □アクション
 □ポリス
 □スパイ
 □犯罪
 □カー
 □ミュージカル
 □史劇
 □文芸
 □戦争
 □西部劇
 □アドベンチャー
 □パニック
 □ギャング、マフィア
 □SF
 □ホラー
 □スポーツ
 □香港
 □ドキュメント
 □アニメ
 □エロス
 □B級
 □アカデミー賞
 □カンヌ映画祭
 □ヴェネチア映画祭



■邦画
 □ひらがな順
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
 □名作
 □ドラマ
 □喜劇
 □サスペンス
 □アクション
 □刑事
 □時代劇
 □戦争
 □文学
 □パニック
 □東映ヤクザ
 □ギャング、ヤクザ
 □特撮
 □怪奇
 □ドキュメント
 □アニメ
 □エロス
 □B級
 □海外映画祭受賞
スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃   
         
STAR WARS: EPISODE II - ATTACK OF THE CLONES(2002・アメリカ)
■ジャンル: SF
■収録時間: 142分

■スタッフ
製作総指揮・監督 : ジョージ・ルーカス
製作 : リック・マッカラム
脚本 : ジョナサン・ヘイルズ / ジョージ・ルーカス
撮影 : デヴィッド・タッターサル
特撮 : ILM
音楽 : ジョン・ウィリアムズ

■キャスト
ユアン・マクレガー(オビ=ワン・ケノービ)
ナタリー・ポートマン(パドメ・アミダラ)
ヘイデン・クリステンセン(アナキン・スカイウォーカー)
クリストファー・リー(ドゥークー伯爵)
サミュエル・L・ジャクソン(メイス・ウインドゥ)
『スター・ウォーズ』とは壮大な夢のあるドラマだった。しかし、エピソードが新しく作られるごとにその世界観は広大な広がりを見せるのではなく、こじんまりとした纏まりを見せる事に、見ている側は失望していくのである。CGがどれほどリアルな世界を作り上げようと躍起になろうとも「懸命な働きをするマシーン」に私たちはより嫌悪を感じるだけなのかもしれない。

■あらすじ


あれから10年後・・・アナキン・スカイウォーカー(ヘイデン・クリステンセン)は19歳になっていた。そして、オビ=ワン(ユアン・マクレガー)のパドワンとして修行している。そんな中数千もの星系が共和国から脱退する姿勢を見せた。そういった脱退から生まれる混乱を回避させようとするナブーの元王女であり現元老議員パドメ(ナタリー・ポートマン)の警護を任される二人。アナキンはパドメに再会し、募る思いを隠せないでいた・・・


■『スター・ウォーズ』はこの2体のロボットの歴史でもある



やはり原点はR2-D2とC-3POの2ショット。この2人(
ある意味人間味溢れるロボットを生み出したことが『スター・ウォーズ』の成功であった)の存在がこのシリーズの根本であるべきなのだ。前作においてR2-D2のアップで物語は終わっているので、本作はR2-D2のアップから始まるところがすごく良い。

それにしてもこのR2-D2が地団駄を踏んだりするところに、かなり愛着がわくのはやはり中に人が入っていることを知って見ているからか?(かつてはケニー・ベイカーが演じていた)
それともそういった事を知らずとも人間の温かみが映像に伝染しているからなのだろうか?どちらだろうか?そして、C-3POのあの独特の憎めなさ「ロボット一の心配性」なあの内股の佇まいを見ているとなんとも『スター・ウォーズ』を今見ているんだと実感させられるのである。

とにかく本作はこの2体のロボットと1人の美女に辛うじて救われている。


■アナキン役はヘイデンで正解だったのか?



答えは明確に否である。ルーカス自身は、アナキン・スカイウォーカー役にヘイデン・クリステンセン(1981− )を選んだことについて「少年のようなナイーブな面と、怒りを表現するダークな面」を持ち合わせているからと言及していた。しかし、彼に対するルーカスの演出も彼自身の演技力も、そして、それ以上に脚本も不味すぎた。

まず致命的なのは、アナキンからはジェダイとしての有能さの欠片も伺えなかった所である。最も重要な描写でもあるオビ=ワンとの関係の描写が致命的にまずく、
アナキンからは彼に対する友情の念や尊敬の念は全く感じられず、それ以上にアナキンは誰に対しても、傲慢で鼻で笑うようなふざけた対応を取る若者として描かれているのである。

特に物語の始めにおいてパドメの警護をオビ=ワンと共に任されるにあたっての我侭ぶりと自己憐憫ぶりは、見ていて「なんだこいつ?」という印象を植え付け、そのバカっぽさをジャージャーに冷静に見つめられつつ、さらには慰められる始末なのである。この時点で(私はジャージャーが好きだが)嫌われ者のジャージャーよりも更に嫌われる片鱗を見せ付けてしまっているのである。

これは明確に演出と脚本と役者の資質の負のトライアングル作用が生み出した効果である。こんなまるっきり頭の悪い男=アナキンがダース・ベイダーだったのかという落胆の思いが、もはやアナキンはいかにしてダース・ベイダーとなったのかという興味すら失わせていくのである。

そして、この作品は最初の10分内の致命的な人物描写の失敗により、人間ドラマは敗北し、CGにほぼ全般を乗っ取られる形になってしまったのである。


■アナキンは本当にジェダイの騎士なのか?



母の死をきっかけに暗黒面に引き寄せられていくアナキン。たしかにその瞬間に「ダース・ベイダーのテーマ」が流れる演出は鳥肌が立つほど素晴らしいのだが、余韻を与えるまでには至っていない。それはもはやアナキンとパドメが共有する空気を拒絶してしまうほどにココに至るまでの脚本のずさんさゆえだろう。

そして、アナキンが暗黒面に引き寄せられていく理由づけがどうも安逸である。「母親が殺され=目の前で殺されたわけではない、その怒りでタスケンの女までも虐殺した自分を正当化するその心」それがダース・ベイダーの入り口であることは分かるが、その前にアナキンにジェダイ最高の騎士としての資質があったのだろうか?と考えると否としか答えようがない。

エピソードTは、「ルーカス帰還パレード」であり、ストーリー的にも何も考える必要のない作りとなっていたが、本作は明確に見ている側に思考してくれという要素がたんまりと含まれている。この作品に関しては、ただ単に楽しんでみるべきだという意見は、小学生以下の子供とそういった子供と純粋に映画を楽しみたい母親、父親以外には認められない意見である。


■この映画?「赤い○○」だったか??



「エピソードUはラブ・ストーリーになる」
ルーカスはそう言及した。そして、ご披露されたのは、性欲にとり付かれたアナキン青年とそんな青年の欲望を「ダメよ、ダメよ」と言いながらも、あっさりと受け入れてしまう、こちらも男性に飢えていたパドメ嬢のカタルシスの欠けた恋愛劇であった。

とにかく2人っきりになる不自然さが全ての始まり。そして、何とも恋愛をゲーム感覚で捉えているアナキンのお
およそ童貞とは思えないほどのホスト並みの「君が好きだ」攻撃。ホスト狂いの女性を除いてはほぼ全ての鑑賞者はこう思っただろう?下品なホストのナンパ行為なぞ『スター・ウォーズ』で見たくはないと?


そもそもこのアナキン。パドメを見つめる目線からして「ヤリタイ・オーラ」満開なのである。パドメがクレバーな女性であるならば、この男から決定的にかけている一貫性と、未熟さを見抜いていただろう。しかし、そんなものさえ見抜けなかったパドメは到底元老議員の器ではない。

そして、この2人のバカ親からあの賢明なるルークとレイアの2人が生まれたとは到底思えない。それにしても、大自然の中でロデオみたいなことをしていて、振り落とされた振りをしてパドメが駆けつけて抱き合う・・・このちんけなお決まりパターンをこれ程の大作で見せられることになろうとは・・・

山口百恵と三浦友和と宇津井健だけは少なくとも失笑していただろう。このラブ・ストーリーを見せ付けられ気づいたのだが、
実はアナキンはこの無分別にコントロール出来ない性欲ゆえに暗黒面に取り込まれてしまったのではないだろうか?


■お前にはいつか殺される気がするよ



オビ=ワンを演じるユアン・マクレガー(1971− )の描き方も決定的にまずい。この弱さではアナキンになめられてもしょうがないのではないか?と思えば、実は強かったりとその強さの尺度がいまいち見えてこないのである。ユアン自身は素晴らしい役者なのだが、ここでも脚本と演出の弊害により、その魅力がほとんど発揮されていないのである。


この傾向は特に、パドメを演じるナタリー・ポートマン(1981− )において顕著である。
「私たちは決して結ばれてはいけないのよ」と言っておきながら、それってオッケーじゃん??と男を勘違いさせる振る舞いを連発し、結果的に「あなたを愛してます」と言ってすっかりアナキンを振り回す一貫性のなさなのである。

一方、ドゥークー伯爵を演じるクリストファー・リー(1922− )は文句なく素晴らしい。撮影当時は78歳の高齢だったので、全てのアクションシーンは、スタントマンが演じていて顔の部分をCGでリーの顔にすり替えているとは言え、その存在感はさすがである。

その一方でメイス・ウインドゥ役を演じるサミュエル・L・ジャクソン(1948− )はちょっと『スター・ウォーズ』の世界観には個性が強すぎて浮き上がっている感じがする。ちなみに彼のライト・セイバーのみ紫色なのは、本人のリクエストによるものらしい。(なんとなく彼を見ているとピッコロ大魔王に見えてくる・・・)


■CGが生み出した凡庸さ


一番最初の特撮アクション・シークエンスにおいて女賞金稼ぎザム・ウェセルを追跡して、アナキンとオビ=ワンがスピーダーで夜の摩天楼を疾走するシーンがあるのだが、驚くほどのスピード感のなさである。つまるところ背景のCGを観客に見せたいがために、スピード感を犠牲にしているのだが、そのCGで作り上げた世界観が薄っぺら過ぎて、生活観よりもデジタル上の平面を移動している感覚なので、冒頭の人間ドラマのつかみをしくじった上に、さらに特撮アクションにおいてもしくじってしまう結果となってしまったのである。

この結果、物語の25分過ぎで劇場で居眠りしてしまった観客が全米公開において続出したという。

ちなみにザム・ウェセルを追いつめるナイトクラブのシーンでC-3POの中に全6作入っている素顔のアンソニー・ダニエルズ(1946− )と、ルーカスの娘(小太りの女性)が出演している。(さらにジェダイ公文書館で登場する少年はルーカスの息子である)


■CGとはほどほどに使用すれば素晴らしい技術なのだが・・・



レイ・ハリーハウゼンにオマージュを捧げたと思われる3体の怪獣とのコロシアムでの決闘は素晴らしいのだが、CG丸出しの背景に包囲されたその作り上げられたコロシアムの空間が全てを台無しにしている。
その騒がしさの全てが逆に強烈な静寂と空虚さ≠感じさせてしまうほどにセピア色の悲しさに包まれているのである。

これはその前のジオノーシスの衛星軌道上でのオビ=ワンのチェイス・シーンで、2度使用される爆弾「サイズミック・チャージ」の素晴らしい描写においても言える事である。
何かわくわくさせる描写≠ニいうよりも無機質な描写≠ニしか感じられないのである。

コロシアムの大戦闘においての一つ救いは、パドメのあの白の戦闘服姿だけである。ある意味『トゥームレイダー』よりも格好いい女戦士ぶり。いや格好いいだけでなく可愛らしいところがまた良い。勿論何よりもよいのがあの露出された腹筋であることはいうまでもない。
しかしあの腹筋の割れ方もCGだったらさすがに笑うよな?


■壮大なる夢≠フ喪失



クローンの兵士達とドロイド達が延々と繰り返す大戦争。もはやこれは生死の物語ではなく、戦争=チェスのゲームを描写する物語と化してい
る。チェスで勝ったほうが勝者であるという論理で、生死の概念を持たない駒≠使用しているのである。だからこそこの戦闘シーンがいくら迫力満点に作り上げられようとも見ている側はその世界観に入り込めない上に、致命的なことに夢≠感じさせられないのである。

エピソードTにおいて、少なくともルーカスは過去の夢≠掘り起こしてくれた。そして、エピソードUで夢≠埋葬してくれた。
彼は「自然の姿、人間の姿までもCGで再現したかったのだろうか?」。どうやら彼の映画に対する姿勢は、究極の人間不信の表明のようにも見えてくる。

しかし、
少なくともCGで作り上げられた自然なぞに、誰も感傷に浸れないだろうし、そんな世界感から誰も夢≠ネぞ見いだせないだろう。


■ヨーダの迷走=ルーカスの暴走



ヨーダが突然なにか吹っ切れたかのように、暴れ始める。杖を突いて歩いていたご老体が突然息を吹き返したかのように強力な戦闘力で他ドゥークー伯爵を圧倒するのである。この瞬間『スター・ウォーズ』は終焉したのである。CGで一部作り上げられたドゥークー伯爵とヨーダの戦いからは、人間の価値なぞ見いだせない世界観がただただ広がっているのである。
そこにはただ機械に従属した人間が作り出した世界観が広がるのみである。

我々は果たして機械に従属し、機械を宗教のようにあがめている人間たちが作り出した世界観になぞ埋没できるのだろうか?ヨダの戦闘シーンに対して爽快感よりも、一つの喪失感を感じさせられる。これは実はアナキンとパドメが結ばれていく過程においても感じる喪失感なのである。

その偉大なる世界観が、わずか一作の導き方によってこれほどにまで「喪失感」を与えてしまったのだ・・・


■しかし、まだ死に絶えてはいなかった!



C-3POとR2-D2に見守られながら夕陽の中ナブーの湖畔にてアナキンとパドメが、禁じられた挙式を行うところで物語は終了する。このラストの描写によって『スター・ウォーズ』は辛うじてエピソードVに向けて瀕死の重傷の状態でこそあれ、観客の興味を持ち越すことが出来たのである。

このシーンは『帝国の逆襲』(1980)のラストと同じ構図による終わり方なのだが、最後に美しい自然の中に佇む2体のロボットの存在が『スター・ウォーズ』の夢≠フ欠片を思い出させてくれたのだ・・・
しかし、アナキンとパドメのキスよりも、R2-D2の頭部に優しく手を置いてあげるC-3POの仕草の方が胸にジーンと来るのは私だけだろうか?


本作は1999年から2000年にかけて脚本は書き上げられた。そして、アナキン役のオーディションが行われた。オーディションには、ライアン・フィリップ、ポール・ウォーカー、コリン・ハンクスも参加した。2000年6月26日から9月20日にかけてオーストラリアのフォックス・スタジオ、チュニジアの砂漠、スペイン、イタリアのコモ湖で、全てのシーンはデジタルカメラにより撮影された。

結果的に1億2000万ドルで製作され、興行収入6億4800万ドル(全米3億1000万ドル、その他3億3800万ドル)を稼ぎ出した。しかし、2002年に公開された『スパイダーマン』『ロード・オブ・ザ・リングス/二つの塔』『ハリー・ポッターと秘密の部屋』よりは下回る興行収入となった。

ちなみに本作は2002年アカデミー特殊効果賞にノミネートされるも、『ロード・オブ・ザ・リング/二つの塔』が獲得する結果となった。

− 2007年7月9日 −


Copyright (C) 2007 Geijyutsu Taizen. All Rights Reserved.
Mail:webmaster@summaars.net