HOME
■サイト内検索

■洋画
 □カタカナ順
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
 □クラシック
 □ドラマ
 □コメディ
 □サスペンス
 □アクション
 □ポリス
 □スパイ
 □犯罪
 □カー
 □ミュージカル
 □史劇
 □文芸
 □戦争
 □西部劇
 □アドベンチャー
 □パニック
 □ギャング、マフィア
 □SF
 □ホラー
 □スポーツ
 □香港
 □ドキュメント
 □アニメ
 □エロス
 □B級
 □アカデミー賞
 □カンヌ映画祭
 □ヴェネチア映画祭



■邦画
 □ひらがな順
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
 □名作
 □ドラマ
 □喜劇
 □サスペンス
 □アクション
 □刑事
 □時代劇
 □戦争
 □文学
 □パニック
 □東映ヤクザ
 □ギャング、ヤクザ
 □特撮
 □怪奇
 □ドキュメント
 □アニメ
 □エロス
 □B級
 □海外映画祭受賞
ひまわり   I GIRASOLI / SUNFLOWER(1970・イタリア)
■ジャンル: ドラマ
■収録時間: 107分

■スタッフ
監督 : ヴィットリオ・デ・シーカ
製作 : ヴィットリオ・デ・シーカ / カルロ・ポンティ
脚本 : チェザーレ・ザヴァッティーニ / トニーノ・グエッラ / ゲオルギ・ムディバニ
撮影 : ジュゼッペ・ロトゥンノ
音楽 : ヘンリー・マンシーニ

■キャスト
ソフィア・ローレン(ジョバンナ)
マルチェロ・マストロヤンニ(アントニオ)
リュドミラ・サベーリエワ(マーシャ)
シルバーノ・トランクィッリ(ソ連に住むイタリア人)
グラウコ・オノラート(帰還兵)
自然の中で力強く生命力の一瞬の輝きを主張しているひまわり。そして、2人の愛もそんなひまわりのように育まれた。しかし、心無い人間の行為によって、2人のひまわりは根こそぎ抜き去られる。そんな中でも女は男を信じ続けた。またひまわりは咲くはずだと・・・。しかし、無残にも男にはその意思がなかったことを知った瞬間、女は黙って去った。新しい花を咲かせようと・・・。そんな「去っていく女」を見て、男に未練が生まれた。そして、彼は女に会った。しかし、全てはもう終わっていた。もしかしたら、ひまわりは未練を断ち切る最後の涙を流したジョバンナに対する祝福の花であり、未練を断ち切れずに涙も流せずに延々と思い悩むアントニオに対する葬送行進曲に備えられた花かもしれない。そう、あの引越しの瞬間に流れる葬送行進曲と共にアントニオは2人の女を同時に失っていたのだった・・・。彼自らの弱さによって。戦争の余波が彼の弱さ、優しさに付け入る隙を与え、二度とひまわりが咲かない残りの人生を歩ませてしまったのだった。

■あらすじ


美容師のジョバンナ(ソフィア・ローレン)と技師アントニオ(マルチェロ・マストロヤンニ)はナポリの海岸で出会い恋に落ちた。しかし、アントニオにはアフリカ戦線の出征が決まっていた。少しでも長く一緒にいたい。そんな思いが、12日間の新婚休暇を取る為に結婚しようという結論を導き出す。そして、愛に満ちた2週間も過ぎようとしたある日、アントニオは精神病を装い徴兵拒否をしようとした。しかし、狂言が発覚し、壮絶なるロシア戦線送りになってしまう。時は経ち、終戦を迎えた。しかし、ジョバンナが待てどもアントニオは一向に帰国してこなかった。たまりかねたジョバンナはソ連に捜索の旅へと向うことにした。


■女の逞しさと男の弱さの全てがこの2人にある



戦争が引き離した恋愛。そして、そんな2人を結びつけたのもまた戦争だった。2人の男と女が愛し合う速度の速さと結婚への道のりは、そのもの加速度的に進んでいったヨーロッパ戦線そのものだった。戦争という明日をも知れぬ運命の中でこそ、燃え上がり、喜び合い、享楽にふける2人。

そして、やがて来る引き離される日々。約2週間しか夫と過ごさなかった妻は何年も待ち続けた。やがて10年もの時が経ちソ連を訪れた妻の前に現れたのは、待つことなく新しい家庭を築いている夫の姿だった。

果たしてこの男アントニオは記憶喪失だったのだろうか?それは極めて怪しい。彼もまた妻ジョバンナの写真を持っていたはずであり、彼のロシア人妻マーシャも何かを知っている雰囲気である。恐らく、彼は過去の記憶が喪失しているわけではなく、命を救われ、新たな愛の芽生えに従って生きていたのだろう。

そんな新生活を送るアントニオに、過去の愛に従順な女の存在が突然現れたからこそ、彼は蘇えろうとする過去の愛と今の愛の中で苦悩し、答えを求めて過去と向き合おうとするのである。そして、月日が経ち、
昔の妻に対し思いは募るばかりの男に対し、夫が新しい生活を築いたことを知り、過去の愛を捨て、新しい愛に生きることを決意した女の存在があった。この作品はこの「愛のすれ違い」を見事に描いているからこそ普遍性があるのである。

愛というものは一人の人間に、何個も生まれていく。愛なき世界で人は生きていけないから愛を求め、何の変哲もない人間に対しても深い愛情を抱くことが出来る。だからこそ、
この作品は「永遠に失った愛」の悲しさを描いたのではなく、一つの愛のすれ違いを描いた作品だったのである。

女は子供を捨てない。しかし、この男は子供さえも捨てようとする。ここに男の弱さと女の逞しさの根本的な部分が示唆されている。この物語の悲劇の主人公はアントニオであり、彼はもしかしたら2人の女を同時に失うかもしれないと・・・


■ラテン女をまず理解しよう



この作品を堪能する為には、まずラテン女の気質を理解する必要がある。シドニーに住んでいた頃、私はラテン系の女性と付き合っていた。彼女は後にフライトアテンダントになるのだが、この恋愛によって知ったことは、
「ラテン女は基本的に明るく、ラテン男は基本的に神経質」ということだった。

ラテン女は、特に美女であれば、そうであるほど活動的であり、支配的であり、積極的である。
ラテン女にとって男性とは惚れさせるのではなく、惚れる対象であり、ラテン女にとって恋愛の基準は、相思相愛から始まるのではなく、「私が惚れた」かどうかから始まるのである。

このラテン女の骨格部分を知らなければ、本作のジョバンナの行動力や喜怒哀楽、気性の激しさについていけないだろう。私の彼女は、デート中に露骨に公衆の面前でスキンシップを求めてきた。しかし、向こうが気の乗らないときはこっちからスキンシップをするとむげもなく「人前でそんなことやめて」と言ってくる面白さがある。

ラテン女は基本的に自己中心的であり、だからこそ愛情は無尽蔵だともいえる。そういったラテン女の一般概念でジョバンニの人物像は形成されているのである。ちなみに私の昔の彼女もこの作品が好きでよく言っていたものだ
「あの映画の最後の晩、2人は愛し合ったはずだ」と。「最後の別れの挨拶を、身体と身体を抱きしめ合いながら確認しあったはずよ」と。これがラテン女の考え方なのである。


■ソフィアとマストロヤンニだからこそ・・・



イタリア系アメリカ人ヘンリー・マンシーニ(1924−1994)による誰もが知る美しいテーマ曲が流れる中、太陽の下で風に揺れる地平線一杯のひまわりの風景からこの物語は始まる。戦争後行方不明の夫アントニオを探すジョバンナ。役人に対して声を張り上げ夫は生きていると言い張るやつれた女性の姿がそこにある。

一人でスープとパンの食事を取るジョバンナの向かいの席には空の食器が配置されている。そして、その先には夫の写真が立てかけられている。
毎日夫の座っていた席に空の食器を置いて、向かい合って食事する妻の刹那さ・・・。そして、一転して輝くばかりの美しい地中海の海辺と、そこで愛し合う若かりしジョバンナとアントニオが映し出される。ワンピースからはちきれんばかりのソフィア・ローレンの色っぽい肢体と、すぐにその大きな胸をおさわりしようとするマストロヤンニのかわいさ。

唐突な恋愛の始まりに違和感を感じるが、そういった部分は物語が進行するにつれて気にならなくなる。その理由は脚本の巧みさではなく、2人の名優の相性によるものだろう。この前半の導入部分の明るさがさんさんと照りつける太陽に包み込まれているからこそ、中盤・後半の「愛のすれ違い」もよりやるせなさに包まれるのである。


■当時のイタリア軍は世界大戦最弱の軍隊だった



最初の別れは、出征するアントニオとナポリの駅においてである。この別れの前に2人の運命を象徴するシーンがある。トイレの前で抱擁する2人を映す鏡のシーンである。そう鏡は割れている。戦争というものが「永遠に2人を引き離す」運命を示唆しているのである。

この作品の背景にある戦争とは第二次世界大戦である。ベニト・ムッソリーニ率いるイタリアは1935年にアフリカの小国エチオピア帝国を侵略していた。そして、世界大戦が勃発し、ドイツがフランスを占領する寸前の1940年6月13日にドイツの同盟国として参戦した。

アントニオは当初アフリカへ出征する予定だった。それはリビアへの出征=ドイツのロンメル軍団が合流する北アフリカ戦線への出征を指すのだろう。

ちなみにイタリアは1940年9月13日に7万のイギリス軍が統治するエジプトに30万の軍隊で侵攻している。エジプトはイギリスにとってインドを始めとするアジアの植民地への最重要補給地点だった。しかし、イタリア軍はエジプトの首都カイロを占領せずに、安穏と時を過ごしているうちにイギリス軍の反撃を喰らい壊滅した。そして、逆にリビアにまで攻め込まれる羽目になる。そんなあまりにもお粗末な自国軍に愛想をつかしたムッソリーニはヒトラーに泣きついたのだった。かくしてロンメル軍団の投入となる。

バルバロッサ作戦(ドイツ軍のソ連侵攻作戦)の主力戦力としてロンメル軍団を温存しておきたかったにも関わらず、ドイツ軍はイタリアのために兵を割いたのだった。そして、そのリビア防衛作戦の名こそ
「ひまわり作戦」だった。

ロンメル軍団の到来により北アフリカ戦線は好転し、勢いづいたムッソリーニは、無謀なギリシア侵攻作戦を敢行し失敗してしまう。そして、ドイツ軍は再び尻拭いをし、バルバロッサ作戦は一ヶ月遅れることになった。結果的に1941年6月22日に作戦開始される。ロシア戦線でのイタリア軍は第八軍10万人が1942年夏にルーマニア経由でウクライナ方面に投入され、翌年3月に壊滅している。壊滅後のイタリア軍の壮絶さはこの作品の通りである。アントニオはこの戦線で生死を彷徨ったのだった。

「ドン河。1月だった。あの寒さ・・・そして敗北。何とか逃げなくては・・・あなたには分からない。雪の恐ろしさは行かなくては分からない。3分も立ち止まったら凍りつく、四方から攻めて来るロシア兵・・・地獄です。あれこそ本当の地獄だ・・・」寒さを凌ぐ為に疲労困憊の中、小さな小屋に目一杯兵士達がぎゅうぎゅう詰めになり立ったまま眠っているぞっとする風景・・・。


■原子炉という戦争に匹敵する悲劇の象徴



世界初のソ連ロケを敢行したこの作品当時のソ連は、1964年にフルシチョフが失脚し、ブレジネフが書記長に就任した共産主義国家だった。当時のソ連は官僚の汚職と経済政策の失策により国は混乱していた。さらに対外的にも1968年の「プラハの春」武力弾圧、69年の中国とのダマンスキー事件勃発というように、まさに内外的にがたがたの状況の中この作品の撮影は敢行されているのである。

ソ連を訪れ、夫を捜し求めクレムリンをさすらうこわばった表情のジョバンナ。
何気に印象的なシーンが、モスクワの側道を歩いていると向い側から歩いてきた男性に、肩をぶつけられ「ムカッ」とふくれっつらをするシーンである。ああいうシーンを何気なく演じれるところにソフィア・ローレン(1934− )のかわいさがある。


撮影にあたって製作者のカルロ・ポンティは、ソ連の発展を示す風景を多く映すことを条件にロケを許された。この事によって美しいクレムリン周辺の街並みや、鉄道網、集合住宅地などが映し出されているのだが、特に発展の象徴的なシンボルとして一種独特な建造物が映る。そう原子炉である。
ウクライナで原子力発電所と言えば、もしかしてこれはチェルノブイリか?と考えるかもしれないが、チェルノブイリはこの頃まだ存在していない。つまりこの原子炉は、どこか別の場所の原子炉を撮影したか、もしくはハリボテだろう。

ある意味戦争というものも人間が起こす悲劇だが、それと同じくらい原子力が生み出す悲劇も侮れない。ソ連が発展の象徴として映させたこのシーンが、今となっては悲劇の幕開けのような不気味さに包まれているのも時代が生み出した皮肉である。


■ソ連の華 リュドミラ・サベリーエワ



ジョバンナがイタリア人が住んでいると紹介された家の庭で、洗濯物を取り込む若くて美しい女性がいた。マーシャである。そして、彼女はどうやらいつの日かこういう事実に直面するかのような眼差しでジョバンナを見つめている。この彼女の表情が、アントニオは記憶喪失ではないことと、妻もある程度の事実を知っていることを明確に物語っている。

マーシャに導かれ、探し続けた夫が別の女性と結婚し、子供までもうけている事実を目で見て認識する悲しさ。ベッドの上の二つの枕。若くて美しいマーシャ。カチューシャという可愛い娘。こみ上げてくる涙を賢明に隠そうと、マーシャが子供の手を洗う為に溜めた水で顔全体を洗う振りをしてごまかすジョバンナ。

一方、アントニオの昔の妻の出現に動揺しているマーシャも気丈に振舞っているが、ジョバンナにタオルを渡したついでに自分も別のタオルでこみ上げてくる涙をさりげなさを装い拭うのである。
2人の女性のこの気丈さ。現代の女性に失われつつある美徳は何であるか?この作品の中にその答えが多く含まれているのではないだろうか?

女性から堪え性が失われたら、その魅力は半減するのではないだろうか?ことに日本においてはタカリのようなオンナが多い。男性は女性の為にお金を出して当然。しかも口だけはどんなことに対しても挟むと言う節操のない女性が。そういう女性こそ2人の爪の垢でも煎じて飲むべきだろう。

もう一人の気丈な女マーシャを演じるリュドミラ・サベリーエワ(1942− )はこの作品の前にソ連で製作された『戦争と平和』(1965〜1967)でナターシャ役(1956年にオードリー・ヘプバーンが演じた役柄)を演じたソ連の国民的女優である。日本人(私を含む)の好きそうな可憐な女性だ。

極度の餓えの中で、このマーシャは戦死者から物品をあさっていたのだが、そんな時アントニオが生きていることに気付き健気に引っ張り、助けてあげるのである。その時に帽子を脱ぐと同時に美しいブロンドの髪が露わになるのである。
その白い少女のような顔が現れるシーンは「美意識」溢れる名シーンである。


■ひまわりは未来永劫人々の心に訴えかける


マーシャと会う前に、ジョバンナが美しいウクライナのひまわり畑を彷徨うシーンがある。そこは冬には雪が一体を埋め尽くし、夏の短い時期にひまわりが埋め尽くす平原だった。そして、そこに墓標があった。この大地の下には数千数万の戦争の犠牲者達が眠っているのである。

白一面の原野が、ほんの一時だけ自然の恩恵を受ける。まさにこの縮図こそが、人間の人生の縮図でもあるのだ。人生の中で、太陽の光を受け止めるように幸せに向って真っ直ぐに自分が昇華していく瞬間がある。そんなひまわりの映像があるからこそ、この作品は前向きな印象を人々の心に訴えかけるのである。

幸せはやがて朽ち果てる。しかし、再び幸せがやってくる。そんな短い夏を享受することが人生の喜びじゃないか?雪原があるからこそ黄色と緑色の一瞬もまた輝くのではないだろうか?なぜなら失うと言うことは再び与えられる為のサイクルにしか過ぎないのだから


■女は一つの愛の悲劇を乗り越えてより美しくなれる



もう言葉の領域を超えてしまっているアントニオとの再会のシーン。再会そして、二度目の駅での別れ。電車の中で号泣するジョバンナの感情の高ぶりの激しさ。そして、一転して、化粧と髪型が若返り、男友達と「忘れよう」と遊びに享楽する姿。美しい・・・とにかく美しい・・・

悲しみを拭い去ろうとする女の姿が、より彼女を美しくしていた。そして、マネキン工場で働き、吹っ切れるのである。遠くにいる存在は時間を追うごとに段々と過去の存在になる。ましてやジョバンナのような美しい女性にとっては尚更である。

この作品におけるジョバンナの厚化粧は心の空虚さを表現しているのではなく、新たな生の喜びに目覚めた象徴として描かれている。彼女は自分の美しさを演出する喜びを、悲しい現実を乗り越えることによって再認識したのだった。


■愛なき世界に女が住み着いたときの答えは・・・「人形」



一方、アントニオの方は、ジョバンナと再会し、すっかり過去の亡霊が蘇えってしまうのである。このすれ違いの思いこそがこの作品の「切なさの原動力」である。そして、マーシャの優しさを後押しに、彼はナポリを再訪するのである。約束の「毛皮を持って」・・・。

一方そこには「人形を持った」女がいた。夜の女である。ジョバンナに対面を断られ泊まるすべもないアントニオは、野良猫のような娼婦にひょいひょいとついていく。この作品の中で最も空虚な女である。恐らく誰にも愛されていない人形を抱きしめる中年女の寂しさ。

彼女が娼婦をしているのは、お金以上に寂しさを紛らわす為なのである。こういう女が今の日本にはどれくらい存在するのだろうか?誰からも愛されもしない女が・・・。かなり多いかもしれない・・・


■愛に対する認識は、男性が常に後手である(あらなければならない)



「もう昔とは違うわ。あなたには別の女。私には別の男。それだけよ」

「あれほど死をまじかに体験すると、人間は感情さえ変わってしまう」


「愛がなくても生きていける」と言いながらも、アントニオと再会するに当たって、化粧をし、新婚の記念にアントニオから貰ったイヤリングをつけるジョバンナ。女がその人から貰ったものを大切に保管し、つけるという行為は、
「愛の継続」ではなく「愛の記憶が廃れていないこと」を表すものである。

男性はここを勘違いしがちである。そして、アントニオも勘違いし、「一緒にどこかへ行こう、もう一度」と無責任な発言をしてしまうのである。すでにジョバンナにはそんな気持ちもないことを知らずに・・・男とはつくづくバカな生き物なのである。だからこそ平気で女を傷つけてしまうのである。

女は「愛の記憶が廃れていないこと」を感慨深げに思い、男は「愛が蘇えった」と声高に言う。「愛し合った2人の心」は全く同じである。全く違っているのは、「別の愛を大切にしている女」と「別の愛を見失いつつある男」の姿の違いである。


■ひまわりの自己主張が、ソフィア・ローレンそのものだった



そして、雨の夜から一転して、翌朝駅で3度目の別れをするジョバンナとアントニオ。2人がどういう風に夜を過ごしたかは全く重要ではない。そんな事よりもアントニオが去ると同時に慟哭するジョバンナの姿にこそこの作品の美しさが、秘められているのである。

私は私自身のために涙を流す。そして、その涙が私をより美しく光り輝かせてくれる。「他人に涙を見せつけようとする女」と「涙で自分を安売りしない女」の違いである。そして、実に美しいひまわりが映し出される。女も花も咲いて散ってどんどん美しくなっていくもの。

それは、マーシャにも共通するイイ女の要素だった。全く正反対に見えるジョバンナとマーシャには少なからず共通点があるのである。だからこそアントニオもしっかりと太陽に目を向けて生きていかないと、また雪山に倒れてしまう羽目になりかねないのである。次は恐らく誰の救いの手もないだろう・・・こうして男は新しい愛さえも台無しにしていくのかもしれない。

− 2007年10月10日 −


Copyright (C) 2007 Geijyutsu Taizen. All Rights Reserved.
Mail:webmaster@summaars.net