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太陽を盗んだ男   (1979・キティ・フィルム)
■ジャンル: アクション
■収録時間: 147分

■スタッフ
監督 : 長谷川和彦
製作 : 山本又一朗
原案 : レナード・シュレイダー
脚本 : 長谷川和彦 / レナード・シュレイダー
撮影 : 鈴木達夫
音楽 : 井上堯之

■キャスト
沢田研二(城戸誠)
菅原文太(山下満州男警部)
池上季実子(沢井零子)
伊藤雄之助(バスジャック犯)
西田敏行(サラ金の取り立て屋)
日本という国が如何に偽りの民主主義の上に成り立っているのか・・・ぞっとするほどの薄ら笑いを浮かべて描き出された作品。皇居に太陽を投げ込んだ男!長谷川和彦が、原爆のように全てを破壊しつくす!黒く塗れ!そして、太陽で照らせ!ホンモノの地獄は、こうして作られていくのだ!一人の男がぼぉ〜っと歩きながら・・・そう、あの皇居にいた男も同じようにしていた時に、広島に太陽は落とされ、長崎に太陽は落とされたのだ!「太陽を盗んだ男」それは皇居にのうのうと暮らしていたあの男自身の姿だった!あの男が太陽を盗み、黒く塗ったのである!

■あらすじ


堀口中学校3年3組担任城戸誠(沢田研二)は、物理担当の教師である。教師でありながら遅刻の常習犯であり、かつて熱血漢だったこの男は、学校では今や「フーセンガム」と生徒からあだ名される抜け殻のような男だった。しかし、学校が終わると彼はそそくさとボロアパートに閉じこもり自宅で原爆を作っていたのだった。


■太陽を盗んだ男=太陽を盗んだ天皇



不真面目な姿勢で、真面目な姿勢を凌駕する。それは恐るべき才能である。こういう不真面目な姿勢の作品はこっちも不真面目な姿勢で真理追究をしなければならない。つまり笑えるところは思いっきり笑い飛ばすんだ!太陽を盗んだ男を黒く塗れ!そう死の黒い雨で!

この作品の魅力は単純に言うと「一人の冴えない男が原爆を作り国家に反逆するロマン」である。そして、複雑に言うと
「皇居に当時いた男が、日本国民にした行為を一人の男を通じて再現した悪夢」である。つまり「悪夢は無邪気さの中で生み出されるからこそ悪夢」ということである。いい大人が「陛下は仰せられた」と真面目な顔をして言い放てるって無邪気だよな?

本作は長谷川監督の中に抱えこまれた原爆が炸裂した作品であり、だからこそこの作品は、オンリー・ワンの輝きに満ちているのである。魅力的な作品の素晴らしい要素でもある「陳腐さ」と「時代の先取り」と「深遠さ」が混合されている作品。この三つの要素が組み合わさると
「中毒性」=「常習性」を作品は持ちうることになるのである。


■お前は何がしたいんだ?



「俺は原爆を手に入れた、しかし、何がしたいんだ?」と「私は天皇に即位した、しかし、何がしたいんだ?」は同義語である。これがこの作品の真意であり、さらにそこに「私たちは何がしたくて生きてるんだ?」の次元にまで昇華するのである。


天皇陛下が情報を遮断され、官僚と政治家に利用されたように、科学・情報色々と進歩はしたが、現在に生きる私たちは何か自分で地に足をつけて生きている感じがしない居心地の悪い気持ちを心に秘めて日々過ごしているのである。
だからこそ、「何でも出来る」と言われても、「じゃあ何をしたいんだ?」になってしまうのである。

日常の不満さえも、本当に自分が不満に感じてるのか?不満に感じないといけないと一般的に言われてるから感じてるのか?そういった実に分かりにくいものを抱えて生きているのだ。だからこそここまで「日本のタブー」を不真面目に描いた作品に魅力を感じるのである。

「これ作ったヤツラって、本気でバカだよな」と。日本人が最も恐れる行為。それはバカになることである。しかし、この監督は日本でも稀有な素晴らしいバカをやってのけた。そして、彼の中の平凡さが、バカをした自分と、よりホンモノ思考の自分との葛藤を生み出して、もはやモノを生み出せなくなってしまったのである。


■太陽に照らされたい受身の姿勢が人類の本質


この作品はよく現代人の「心の闇」を描き出した作品と解釈されているが、その解釈は間違っている。
この作品は「心の闇」ではなく、民主主義の本質を描き出した作品なのである。権力者はほとんどの場合、権力を握ることが目的であり、権力を握った後は、「何をしたいか教えてくれ?」と問いかけるが、返ってくる返事はいつも利己的な回答ばかりなのである。

信念なぞ存在しない惰性の中で生きるものたちによる民主主義なぞこの程度のものと憎々しくも言い放っているのである。
「もし何でもできるなら?」→「即答できない」をもってして「何もない」ではなく。「もし何でもできるなら?」→「そんな力は利己的であり、拒否する」姿勢が重要なのであり、人類は絶えず「もし何でもできるなら?」に振り回されてきたからいけなかったのである。

そもそも一人の人間が「何でもできること」など許されないのである。しかし、昔から人類史上独裁者、皇帝、総統、天皇陛下といった「何でもできる」人間の存在が許されてきたのである。「太陽を盗んだ男」とは、長谷川和彦が一般人に置き換えて考えてくれという風に装った、歴史上の権力者及びそれに追随するもの達への皮肉なのである。
「こうして太陽を私物化した男に世界は滅ぼされていく」と。


■セスナ機で特攻せよ!


ある意味この作品の作風は、そのレベルに遠く及んでいないが、タランティーノに影響を与えている。特に『ナチュラル・ボーン・キラーズ』(1994)の原案に影響が色濃く見られる。しかし、タランティーノには哲学がないので、長谷川には遠く及んでいない。

長谷川は彼の幻のデビュー作である和製洋物ポルノ製作に協力した友人でもある俳優前野霜一郎(1955−1976)についてかつて言及していた。
前野は1976年3月23日に児玉誉士夫宅にセスナ機で特攻した男である。「しかし前野よ、どうせ突っ込むんなら児玉なんてケチな事を言わないで皇居に棲んでいるあの顔面神経痛のジイサンの上に突っ込めば良かったんだよ。そうさ「天皇陛下万歳!」と叫んで。いやいや、それもまた道化芝居にすぎないだろうか」と1976年にユリイカに書き記している。

そして、長谷川は1979年に「太陽を皇居に放り投げた」のである。


■エネルギーとは何ぞや!



おいまた遅刻してやがんのフーセンガムの奴、ふざけてるよな〜まったく。でもよ〜うちの兄貴が言ってたんだけどさ、昔はスゲー熱血漢だったらしいぜ。あれでも・・・

何とも不穏なピアノの前奏曲の中、双眼鏡を眺める精悍な顔と、満員電車で出勤中に窓ガラスに顔がへばりつく顔の対比の見事さ。「フーセンガム」というあだ名の物理教師・城戸誠。彼は全くやる気のない教師だった。「原子爆弾の作り方」を説明する時以外は・・・。

しかし、この教師の姿は、本質的に現在の教師の姿そのものである。教育を受ける環境に生きていない生徒に、教育を与えないといけない教師。かつて、生徒の注意を削ぐものは少なかったが、今は生徒の注意が散漫になるモノで世界中が溢れかえっている。こんなモノに溢れた世の中で、どこの若者が注意して教師の話なんか聞くんだ?

城戸誠の熱血時代が、終焉したのも必然だった。彼は若者を見てこう感じたのだ。「こいつらってとことん救いようがないんじゃねえか?」と。そして、さらにこう感じた。「オレも救いようがないかもな」と。
モノに囲まれることによって、捨てるものも多くなり、そして、捨てる習慣が、人生の習慣になってしまうのである。


■絶妙のバランスの悪さ=熱気


予断ではあるが、本作に水谷豊と西田敏行が出演している。実際はゲスト的な数分の出演だが、この両シーンはまさにドリフのコントの延長線上にある。これはこの映画における城戸誠のジュリーらしい一瞬であり、いわばサービス・ショットである。この作品の魅力は、あくまでも不真面目なのである。それも真面目に不真面目なのである。

猫の名前はニャロメ。ウルトラマンレオといい陳腐な不真面目さの中に、実に先鋭的な哲学を潜り込ませているのである。それも監督さえも意思しなかった状態で、無意識のうちに作り出されているものもある。この絶妙のバランスの悪さが、この作品の根幹なのである。

バランスなんてものは、熱気ではなく
「あきらめが生み出したものに過ぎないんだ!そんなもの死んでるぜ!」


■天皇陛下にお話ししたいことがある!



陛下にお話ししたいことがあるんだ!陛下にお話しせねばならん!子供を・・・息子を返していただく!

そう言いながら機関銃と手榴弾を持った「八つ墓村」並みにやばい状況の戦時中の国民服姿のジジイが、城戸誠が引率する中学校のバスをバスジャックする。
「皇居に行くんだ!」といい放つジジイ。この役柄を演じる伊藤雄之助(1919−1980)の迫力は恐ろしいばかりである。この作品の翌年に死去するのだが、この人の凄みが、特別出演を超えた「役柄の重み」を与えている。この役柄に説得力を与えた彼の名演は、本作のかなり重要な要素であった。

「何を教えておられるんですか?先生は」山下「理科です」城戸「こういう時は理科もあんまり役に立ちませんな」山下

菅原文太(1933− )扮する山下警部が登場する。とにかくカッコよすぎる。そして、本作はその役柄のゾンビぶりに目をとられてしまいがちだが、文太兄いの凄まじい名演ぶりを忘れてはいけない。この2人の上記の会話が、のちの戦いへとつながっていくのである。

まさに『狼の午後』陣形で逃亡を図る雄之助。しかし、山下の身を挺した獅子奮迅の活躍の前に、絶句しながら死に絶える雄之助。なんなんだよ。この叫び声は!なんでこんな声が出せるんだよ!

まさにこの雄之助が「陛下に会いたい」と言った要求と、後に城戸誠が要求する「ローリングストーンズを来日させろ」という要求は、実はその要求の違いに落差なぞ存在せず、その要求の不毛さにおいて全く同義的に描かれているのである。

しかし、長谷川の天才性は、このシーンを敢えて落差を感じさせるように撮っている所にある。
この老人と若者の要求の違いを見てみなよ。昔は、主張があり、今は主張がないという風にである。しかし、良く考えてみなよ。「天皇に会ったからといって何が変わるんだ?」事実は昔も今も変わってねえんだよ。

ちなみにこの皇居のシーンは、無許可でバスを突っ込ますゲリラ撮影により撮影された。しかし、このシークエンスを撮れるヤツラが日本中に今どれだけいるか?
間違いなくほとんどの日本の監督は、根本的な問題に眼を背けている!そろそろ小市民的な映画ばっかり撮ってないで、長谷川のような広がりのある映画を撮ってみなよ。


■俺は東京を黒く塗りたいんだ!



原爆は誰にでも作れる。この太陽の力を君達の手に取り戻した時。君達の世界は変わる


そして、東海村の原子力発電所に侵入する城戸誠。このシーンの高揚感あふれる音楽と静止画像とコマ送り映像の組み合わせは見事としか言い様がない。インベーダー音、火炎放射器と何でもアリである。しかし何よりも興味深いのは、城戸誠が侵入前に自身の顔を黒く塗っていることである。しかも、全身黒づくめ。

黒に彩られることこそ原爆の象徴であるのである。原爆が落ちた後に必ず黒い雨が降る。そして、人々は「黒く塗られる」のである。そして、ローリング・ストーンズの曲に「Paint It Black(黒く塗れ!)」という曲がある。


■バカな私とバカなあなたの共犯関係!


季実子とならバカな共犯関係になってやるぜぇい!


そして、遂に登場する戸惑いの瞬間。そうブタブタジョッキーの瞬間である。池上季実子(1959− )扮する沢井零子の登場である。このDJの描写は見事なほどにはずしまくっている、いわば「負の描写」である。池上季実子の当時の演技力の拙さももろに露呈している。

とにかく「プルトニウム・ラブ」などつまらないネタを連発するのだが、まあ当時のラジオ空間は多分にサブイノリなのでしょうがないだろう。逆に言うと池上季実子の美貌に救われているようなものである。ちなみにこの女優さん。私が約2年に渡って付き合い、同棲した女にそっくりなのでちょっと苦手だ。

「もう涙なんか 枯れてしまった 明日からは身軽な私 風のように自由に生きるわ 一人ぼっちもああ気楽なものさ〜 目を閉じて 心も閉じて〜」

そして、カルメン・マキ&OZの「私は風」の流れる中、零子と城戸誠は最初の会話を交わすのである。それにしてもこの曲の歌詞。まさに城戸の心情を歌っている素晴らしい歌詞である。


■数字に支配された女・沢井零子



「彼は、私たちみんなに夢を与えている」「原爆のアラジンの魔法のランプ」


なんてことまで零子は言い出すのだが、このバカさ加減を笑ってられない所は、実のところ冷戦下のそして、現在の核保有国の言ってる論調と零子のバカなネタが同じレベルにあるからなのである。

「俺は9番。9の次はゼロ=零なのさ」

城戸誠というバカなあなたとバカな零子が共犯関係になっていく過程で、与えられた零子の使命。それは太陽に対する崇拝だった。さあ彼女の発言と行動をさわりだけ分析してみよう。こういう所で食べると70円の豚汁も7000円に感じるわ、という薄っぺらな台詞。36本の城戸誠の髪の毛・・・。

そうゼロの女は、数字にこだわる女性=リスナーの反響に拘る女性であり、現在に生きる人々の象徴なのである。現実に向き合う人間は、非現実的な力に吸い寄せられるものである。それは計算高い人間だからこそ、自分が計算できないものは「計算できない」という一つの要素だけで惹きつけられてしまうのである。


■やっぱり猫が好き



狭いボロアパートで原爆を黙々と作るその姿。昼の抜け殻のような彼と夜の鋭い眼差しの彼の対比が実に効いている。もちろん「鉄腕アトム」の歌を口ずさむセンスのベタさぶりは失笑ものだが、このセンスのなさがある意味凶器なのである。でも想像してみなよ。物理の教師がアトムを口ずさみながら原爆作ってる姿を。

この辺りから「ヒロシマ」を象徴するものが多く登場する。その一つ目が原爆製作の合間にビールで一休みする時にテレビで流れるプロ野球のナイターゲームである。後楽園球場で巨人―広島戦である。このシーン以降、ファミリアのCM、都内を暴走するマツダのサバンナRX-7とコスモ。そして、菅原文太といった風に広島のシンボル的なモノが登場するのである。
まさに東京に「原爆」がやって来た日なのである。

そして、ついに原爆は完成しその瞬間、ラジオからボブ・マーリーの「Get Up, Stand Up」が流れ、ガイガーカウンターをマイク代わりにはしゃぐ城戸の姿の無邪気さが映し出され、フェイドアウトしていく。
この原爆製造過程の細かさが、本作の不真面目さに一本筋を通しているのである。


■日の丸を盗んでるヤツラの根城に忍び込め!


完成した「太陽」を抱えて、女装姿で国会議事堂に潜入するその人を喰った様な展開。そして、第一の要求が出されるのである。「ナイター中継の延長」である。しかし、この要求が通るともうそれ以上の要求は思いつかなかったのである。この描写が実に素晴らしく。
「何もない」ことに対する批判的姿勢ではなく。「絶対権力」を手にしたところで、一人の人間の権力の行使などたかがしれてるんだぜ。とまさに現世においても権力を勝ち取るために「日の丸を盗んでるヤツラ」に対しての痛烈な皮肉を突きつけているのである。

「オマエらそこまで周りを貶めて、最後に何したいんだ?」と。ちなみに城戸が女装姿で国会議事堂に入るシーンも、アポなし撮影されたものである。


■ローリング・ストーンズ来日の見出しの新聞を読む男



「俺の名前は9番」

と山下に電話越しに名を名乗る城戸。当時の核保有国は非公式のイスラエル、南アを含めると8ヶ国だった。そして、第9番目が個人になるというこの発想の世界規模な新しさ。

「日立のビーバールームエアコンってのが良いらしいぜ」「住所教えてくれたら送ってやるぜ」

「5億といわずに50億ぐらいでどうかね?どうせうちの政府はろくなことに金を使わんのだから」


警察に包囲されたデパートに5億円の身代金を受け取りに現れる城戸。警察の包囲網に追いつめられていく中、トイレで歯茎から血が出ているのを見つけるシーン。すでに髪が抜け始めている城戸は自身の「原爆症」による死が近づいていることを知る。そして、ピストルを咥え自殺しようとする。彼のトイレはヨーロピアン・スタイルである。

「5億円で東京が救えるんだ、安いもんだろ」

しかし、城戸は死ねなかった。「惰性で生きてる男ほど、死を恐れるものである」これはまさに山下警部との対比である。なんとか5億円をデパートの屋上からばら撒かせることによって、その混乱に乗じて逃亡に成功した城戸だったが、彼は「太陽を失ってしまった男」となった。この東急デパート札束ばらまきシーンも撮影許可なしで撮影が行われた。


■首都高速を盗んだ男・長谷川和彦



しかし、警察の包囲の中、ターザンのように窓ガラスを突き破り「太陽」をいとも簡単に奪い返すこの不真面目な展開には誰もが唖然とするはずである。これ以降、物語は
「車のアクセルを踏みしめるかのような不真面目ぶりの加速」でひたすらに暴走するのである。走れるとこまで走ったレや!的発想の元に以降進んでいく。

伝説の首都高速を何台かの車で道を塞ぎ不法占拠しての無許可カーチェイス・シーン。城戸が乗るサバンナRX-7と山下が乗るコスモLのカーチェイス。サバンナが飛び、コスモは上半部が切断されながらも走り続けるのである。コスモ廃車後は、さらにヘリの足につかまって、山下は『戦国自衛隊』のサニー千葉よりもはるかに危険な状態で銃を乱射するのである。

しかし、このシーン明らかに文太兄いが実際にぶら下がっているシーンがある。その前の廃車シーンでも凄まじい爆風と爆音に文太兄いが巻き込まれているのだがこれって芝居を越えて危険すぎじゃないか?しかも、ヘリからダイブするのだが、このダイブシーン一体何十メートルから落下してるんだ?実際このダイブシーンは予定より高度からスタントマンが落下し、両足を骨折したというというが、
しかし、あの高さ。ジャッキー・チェンでも死ぬよな。普通なら。


■太陽と不死身の男



「この街はとっくに死んでいる。死んでしまっているものを殺して何の罪になると言うんだ」

「ふざけるな!お前のようなヤツに人を殺す権利などあるもんか。お前が殺していいたった一人の人間は、お前自身だ。お前が一番殺したがってる人間は、お前自身だ」


このラスト・バトルの狂気は、もはや不真面目の極みである。「山下の最後の姿」を顧みて、この役柄は、この当時の菅原文太以外できる役者がいないなと感じたときに、この役者の持つ凄みが伝わってきた。

「さぁ、いくぞ!9番!」

「あぁぁぁぁ〜〜!」城戸の叫び声の情けなさとターザンよ再び。そして、マジに骨折する角度で落下する沢田研二の姿。
オマエたちどうしてココまであつくなれたんだ!この最後の最後のシーンで、確信した。実はジュリー(1948− )は「自分の作られた偶像」に疑問を抱いていたのだ。


■20世紀はもう過ぎ去ったぜ!長谷川和彦!



この作品は長谷川が『タクシードライバー』の脚本を書いたポール・シュレイダーの兄レナード・シュレイダーにオリジナル脚本を依頼した。彼の妻チエコは日本人であり、レナードは『ザ・ヤクザ』(1974)の原作者であり、『蜘蛛女のキス』(1985)の脚色でも有名な人である。

「何でもない普通の青年が原爆を作って時の政府を脅迫する。その第一の要求は"テレビのナイター中継を最後まで放送しろ"だった」というアイデアから脚本を監督とレナードで煮詰めていったという。原題は「The KID who Robbed JAPAN」だった。主人公の城戸誠は元々ショーケンで予定されていたという。

監督の長谷川和彦(1946− )は、広島生まれで、母が原爆投下2日後に広島市に入り放射能を浴びる。長谷川は胎内5ヵ月のため胎内被爆となった。のちに東京大学文学部英文科に進むも映画監督を目指して美学科に変わり、在学5年目の1968年大学を中退した。

1976年に中上健次原作『蛇淫』を脚色した『青春の殺人者』で監督デビュー。生涯に2作品のみという超佳作ぶりから日本でも伝説の映画監督と言われている。本作は『銀河鉄道999』の大旋風の中公開された作品だが、興行成績的には全くヒットしなかった。しかし、現在においてはカルト的という意味を遥かに超えた影響力を持つ作品として認知されている。

− 2007年8月25日 −


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