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丹下左膳餘話 百萬兩の壺   (1935・日活京都)
■ジャンル: 時代劇
■収録時間: 92分

■スタッフ
監督 : 山中貞雄
原作 : 林不忘
脚本 : 三村伸太郎
撮影 : 安本淳
音楽 : 西梧郎

■キャスト
大河内傳次郎(丹下左膳)
喜代三(お藤)
沢村国太郎(柳生源三郎)
宗春太郎(ちょい安)
深水藤子(お久)
花井蘭子(荻野)
現代に生きる我々・・・「ほっと落ち着ける空間」を求めて彷徨う人々。深みのない人間関係。溝の深まる親子関係。笑いの陳腐化。独りで歩いていくことを恐れる弱さ。羊の群れのような人生。この作品にはそんな現代人を取り巻く環境とは全く別次元の世界観が存在する。「ほんの少しのお金だけあればよい」「似合いの男女」「優しさを行動だけで示す男」「母性愛を行動だけで示せる女」・・・この作品は自由な気風に包まれている。そして、日本人の本質には、「洒脱な笑い」を解する精神があると理解させてくれる作品でもある。

■あらすじ


柳生家に伝わるこけ猿の壺。その壺には先祖によって100万両のありかが示された手がかりが塗り込められていた。それを知らされた当主は、江戸の道場屋敷に養子縁組した弟に持たせたこの壺を取り返そうとやっきになるが・・・いつしか壺は、江戸の下町の子倅ちょい安の下へと渡っていた。そして、ひょんなことからちょい安は、壺を持って、丹下左膳(大河内傳次郎)の居候する矢場に引き取られるのだった。


■柔軟な笑いの要素がココにはある



時代劇と喜劇の融合という今では考えられない離れ業が、1930年代に既に行われていた。ただひたすら観客を楽しませたいという思いだけで映画を作り上げた結果が、この作品を至宝の芸術品へと昇華させていった。こういう作品を見てみると「果たして技術の向上は映画に何をもたらしたのか?」ということを考えさせられる。

技術の向上が、知性の柔軟性を阻害し、笑いの柔軟性も阻害していないか?今テレビで垂れ流されているお笑い番組は、そのほとんどが笑いの要素によって成り立っているのではなく、馴れ合いの要素で成り立ってはいないか?40代50代の古臭い芸人に愛想笑いで追随しているヤツラの顔がどれも同じに見えてしょうがない。

話は逸れたが、この作品には、一種独特の笑いのセンスが存在している。そして、日本においてもこれほど笑いのセンスに溢れる作品が作れるという証明でもある。昨今のとってつけたような
「さあ笑いましょう的な劇団空間な笑い」よりも数段上に存在する庶民感覚がこの作品を普遍のものにしている。


■人間は、考える葦ではなくノーテンキな雲であるべき


この作品の登場人物は、みな生き生きしている。映画においてそれは凄く重要な要素である。そして、
大河内傳次郎のその形相といいしゃべり方といい、立ち振る舞いの全てが、(浮浪者チャーリーを演じるチャプリンのように)狂気に取り付かれている。この作品の普遍的な要素を誘導したのは、間違いなくこのダメオヤジであり、だからこそ一般庶民に受けたのである。

そして、ダメオヤジたち(沢村国太郎を含む)を包み込むこの陽気な音楽がまたすばらしい。1930年代のハリウッドのスクリューボール・コメディを見事に
「楽しい時代劇」感覚に転換した山中貞雄という25歳の若者は、見事なまでに「自由な気質」を持った青年だった。

ノーテンキに陽気に生きていこうぜ!そんな主張がまだ許された1935年だった。


■不真面目さが生み出す人間味溢れる優しさに包まれている


「山吹色さえ見せれば大丈夫でござりまする」


この作品のす素晴らしいところそれは、百万両の壺という題材を扱っていながらコバンコバン!と騒いでるレベルの作品ではないという所である。そして、「説教臭さ」の欠けらもないところも魅力の一つである。更に、主人公は綺麗な女に食わしてもらっているダメオヤジであり、もうひとりの主人公である柳生の道場主源三郎の方も道場には全く出ないで、昼の日中から弓を引いて遊びほうけている遊び人の若旦那というノーテンキな設定も魅力の一つである。

つまるところ「徹底された不真面目さ」を大真面目に緻密に作り上げたことが、この作品の最大の魅力なのである。そして、今もこの作品が日本人の心を惹きつけて止まないのは、そういった部分から生み出されている。昨今までもてはやされた「勝ち組」という言葉が、いかに弱者に対して冷徹な「氷のような魅力のない人間」を生み出したか?そして、人間はお金に囲まれても心は凍りつくばかりであり、心を温められるのは、人間によってのみであるという不文律の人間本能をこの作品の根底にある不真面目さが生み出す優しさが教えてくれる。

たとえ愛玩動物があなたの傍にいようと、それだけで心が温かくなるほど人間の心は単純ではないのである。人は人を必要とする。そして、どういう形であれ支えあっていく。


■これぞ笑いの境地・・・それは共感


「馬鹿言え!おれは絶対にお断りだからな」「いやだィ!いやだィ!」

「誰があんな子供に飯なんて食べさしてやるもんか」「竹馬なんて乗るもんじゃありません」


とことん天邪鬼な丹下左膳とお藤。左膳はお藤の言うことには逆らえず、お藤はちょい安の言うことには逆らえないという可笑しさ。「いやよいやよも何とかのうち」そのものな展開。

これらの繰り返されるパターンが絶妙の笑いを生み出すのも、「省略=都合のいいことだけを覚えている」と「繰り返し=ほっとする瞬間」と「逆転=嘘は生活の円滑油」という人間らしさの三要素を巧みに組み合わせているからである。

笑うということは、実は共感の反応なのだ。それを若干25歳にして山中は知っていたからこそ、天才と評されるのである。そして、この点が伊丹十三、三谷幸喜といった昨今の喜劇作家との違いなのである。置かれた立場で笑わせるのではなく、人間の本質の描写で笑わせる。これこそチャップリンと同じ笑いの境地なのである。


■全く違和感なく着物を着こなす新橋喜代三



お藤を演じた喜代三(1903−1963)は、元々鹿児島の有名な芸者で、1931年に新橋芸者になり、小唄の歌手としても有名になる。本作が、映画初出演であり、1937年に童謡音楽の作曲家中山晋平と結婚し引退する。台詞回しは拙いが、
鹿児島訛りの江戸っ子口調が実に耳に心地良い。

そして、何よりも彼女の様相だけが他の女優と比べて違和感がない。これこそ本職で着物を着慣れている女性の凄みだろう。共演女優との着物の雰囲気と比べてみても歴然の違和感のなさと存在感である。

つまるところ最近の大奥ものや時代劇に違和感を感じるのは、
女優が着物とカツラに押しつぶされてる感じがするからなのである。昨今の女優の存在感は、ますますCMのイメージキャラ・レベルに成り下がり、器は小さくなり、肉体だけ大きくなってきている。


■溌剌と浮気するこの男・・・セックスはコメディの妨げ以外の何者でもない



「何しろ江戸は広いし。この調子では十年かかるか二十年かかるか・・・まるで敵討ちじゃ」


沢村国太郎(1905−1974)のセリフ回しが実に素晴らしい。この人、長門裕之と津川雅彦の父親なのだが、このコメディ・センスがこの作品に与える軽快さはかなり重要である。上記のセリフを何度も繰り返すのだが、最初は何を大仰なセリフを・・・と全く可笑しくもないのだが、繰り返されるうちにそろそろまた言うぞっと予想出来て笑ってしまうのである。

そう笑いのセンスとは、とっぴさにあるのではなく、予定調和に観客が入り込めるかどうかにあるのである。

そして、「美しい嫁と別れたくない」雰囲気を装って、屋敷を一歩出ると、急に溌剌と矢場の女に会いに出かけるのである。もうこの浮気男っぷり、日本映画でありながら、ラテン男のような陽気さに満ち溢れている。


■役者に小気味よさがあったこの頃・・・


そして、何といってもこの作品の魅力は、大河内傳次郎(1898−1962)演じる丹下左膳にある。この形相の迫力とセリフ回しの突出ぶり。片腕片目の異様な佇まいが格好いいと思えるほどのその存在感は見事としか言いようがない。それにしてもこの台詞回し。芸術的だ・・・

「曲がってるのはお前さんたちのお手手の方だよ」

そして、矢場で難癖をつけてきたチンピラに対して啖呵を切るお藤の格好良さと、左膳の立ち振る舞いの迫力。「やいやいやい!ぼうふら共騒ぐねぇえ!」と刀の鞘を口にくわえて、刀を素早く抜く仕草の爽快さ!後のシーンではあるが、ちょい安をいじめてるいじめっ子の頭をぱちっとなぐるシーンといい実に小気味良い。


■躍動感が映画に普遍性を生み出させる



「いいから目をつぶってるんだ・・・そして、10まで数えるんだぞ」

そう言って少年の敵討ちをして呟く一言の可笑しいこと可笑しいこと。それにしてもこの殺陣捌き・・・まさに飛び舞うが如くである。瞬発性に満ち溢れている。特に道場破りのシーンにおける殺陣は異様なほどの独創性に満ち溢れている。

画面から飛び出さんがばかりの躍動感!やはり人の動きでしか映画は躍動しない。恐らくCGで作られた作品のほとんどは70年代経ってみると「子供騙しの娯楽だったんですよ」と大人騙しだった事実は伏せられ嘘の説明が成される価値しか生み出さないだろう。映画の基本は、人間であり、躍動感である。それが肉体であろうと心であろうと、躍動しない映画は、絶対的に普遍性を持ち得ない。

何よりも残念なことは、数分間の殺陣シーンが戦後のGHQの検閲により、カットされてしまい数秒間を除き行方不明になってしまっていることである。


■反骨精神に満ちた「もっと気楽に生きようや」宣言!



「負けてくれ!」「いくら出すか?」「いくら欲しいんだ?」「60両だ!」「そりゃ高いぞ」「ビタ一文負からんぞ!」


1935年に武士道を笑い飛ばしたこんな作品を作り上げたとは、素晴らしいまでの反骨精神だ!マジメ一辺倒に誘導されていく軍国化しつつある日本を笑い飛ばせとばかりに、
「もっと気楽にボンクラにやりましょうや」というこの反骨精神。これこそ山中貞雄のあまり指摘されない切れ味なのである。

そして、ラストのオチにいたっても、100万両よりも、浮気する自由を選ぼうっとという「自由な気質」。そして、左膳がちょいと矢を投げて一番小さな的を射抜き唐突に終わるラスト。この余韻の残し方。まさに余韻こそが、芸術の根本である。

しかし、ラストに小唄を唄うお藤が三味線を弾きながら中指をぺろっと舐めて左膳を睨み付ける仕草。こんなに粋で格好いい女の仕草はなかなか観たことがない。


■20代の日本人のための芸術作品


1930年代当時の日本の映画の保存態勢は実にいい加減なもので、山中貞雄(1909−1938)の作品は23作品中完全な形で現存しているものは、本作を含めてわずか3作品である。ちなみに本作の試写を観て原作者の林不忘(1900−1935)は、あまりにも原作とかけ離れた作風に激怒したという。

最もそういった事はさておき、1935年という年は中国における抗日戦線の激化、そして、ナチス・ドイツの再軍備及びユダヤ人迫害の本格化、イタリアのエチオピア侵攻といった第二次世界大戦につながる出来事が頻発していた年だった。

そんな時代に20代の若者が、今観ても十分に楽しめる時代劇を作り上げたことは快挙としか言いようがない。
この作品はある意味70年前の20代の青年の現在の20代の若者に対する感性の挑戦状である。この作品を観て何も感じ取れない20代の若者は、「感性の欠落」ぶりを自覚しなければいけないだろう。

この作品は、年配の方々だけが楽しめる作品ではないのだ。日本人ならば一度は観て自分の感性に問いかけてみるべき作品なのである。つまり20代の日本人のための芸術作品なのである。

− 2007年11月5日 −


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