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第三の男 THE THIRD MAN(1949・イギリス) | |||||
| ■ジャンル: サスペンス ■収録時間: 105分 ■スタッフ 監督 : キャロル・リード 製作 : キャロル・リード / デヴィッド・O・セルズニック / アレクサンダー・コルダ 原作 : グレアム・グリーン 脚本 : グレアム・グリーン 撮影 : ロバート・クラスカー 音楽 : アントン・カラス ■キャスト ジョセフ・コットン(ホリー・マーティンス) アリダ・ヴァリ(アンナ・シュミット) オーソン・ウェルズ(ハリー・ライム) トレヴァー・ハワード(キャロウェイ少佐) バーナード・リー (ペイン軍曹) |
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■あらすじ アメリカの作家ホリー・マーティンス(ジョセフ・コットン)は、旧友ハリー・ライム(オーソン・ウェルズ)から呼ばれ、戦後間もないウィーンにやって来た。しかし、ハリーは交通事故で帰らぬ人となっていた。その葬式の場でハリーの恋人だった舞台女優アンナ・シュミット(アリダ・ヴァリ)と知り合う。やがて、ハリーの死の真相を解明しようとするホリーの前に突如現れる一人の男の影があった。 ■ハリー・ライムのテーマ ![]() 映画は総合芸術であり、そういった総合的な要素を満たせた作品だけが普遍性を持つものとなる。そして、この作品の誰もが聞いたことのあるテーマ曲「ハリー・ライムのテーマ」。この曲を作曲し演奏していたのは、1人の貧乏な中年男性であった。その男の名前はアントン・カラス。この一曲で伝説になった人である。それにしても弦が動くタイトルバックがとてつもなく魅惑のセンスに溢れているのである。その魅惑のセンスとは、昨今のゴージャスやエレガントやセレブといった日本語での意味とは全く対極なセンスである。
■4つに分断された芸術の都ウィーン ![]() 舞台は第二次世界大戦後のオーストリアのウィーンである。オーストリアこそは第一次世界大戦の原因と第二次世界大戦の元凶を生み出した国なのである。そして、何よりも13世紀より女帝マリア・テレジアを頂点に世界一の大帝国を政略結婚によって築きあげ700年の歴史を刻んだハプスブルグ家発祥の地でもあるのだ。そんなオーストリアも、1938年ナチス・ドイツにより併合され、ドイツ崩壊後の1945年よりアメリカ・イギリス・ソ連・フランスによって分割占領されることになったのである。(〜1955年まで)そんな当時の時代が舞台なのである。(写真は、キャロル・リードとジョセフ・コットンとバーナード・リー) ![]() ちなみにドイツ人のオーストリア人に対する感情は極めて複雑である。国民の99.73%が賛成票を投じ、1938年のナチス進駐を大歓迎した上に3月15日のウィーンの王宮前の英雄広場に50万人の群集が集まって、ヒットラー歓迎集会を開いた。にもかかわらず戦後は被害者を決め込み、自国のナチによる犠牲者への賠償金を拒絶した上に、あつかましくも西ドイツに対して賠償金を請求した。当時の西独首相コンラート・アデナウアーはこの要求に対して側近にこう言い放ったという。「オーストリアがそんなに何かを欲しいというのなら、ヒトラーの骨でもくれてやろう」(上の写真は1972年から国連事務総長を10年間も務め、後にオーストリア大統領になったクルト・ワルトハイムの1943年当時ナチ突撃隊将校時代のもの。この当時ユーゴスラビアでユダヤ人をアウシュヴィッツに輸送する任務についていた。) ちなみにペイン軍曹を演じるバーナード・リー(1908-1981)は007シリーズ11作に登場したM役で有名な俳優である。『トレインスポッティング』(1996)で007オタク・シック・ボーイを演じたジョニー・リー・ミラーは孫に当たる。そして、本作の助監督は、後に007を何作も撮ることになるガイ・ハミルトンである。 ■イタリアの恋人 アリダ・ヴァリ ![]() アリダ・ヴァリ(1921-2006) イタリア出身の女優である。身長165センチ。日本での評価は賞に無縁な為か低いが、実際には世界で10本の指に入る名女優である。代表作は本作以外にも、アルフレッド・ヒッチコックの『パラダイン夫人の恋人』(1947)、ルキノ・ヴィスコンティの『夏の嵐』(1954)、ミケランジェロ・アントニオーニの『さすらい』(1957)、ヴァリの最高傑作『かくも長き不在』(1961)、ピエル・パオロ・パゾリーニの『アポロンの地獄』、ベルナルド・ベルトルッチの『暗殺のオペラ』(1969)など、ヒッチコックの作品を除いては名作ばかりである。 ヴァリの映画デビューは1934年であり、当初は『グレタ・ガルボの再来』と言われやがては『イタリアの恋人』と呼ばれた。その頃にムッソリーニの愛人という噂が出たりもした。そして、デヴィッド・O・セルズニックによってハリウッドに招かれ『第二のイングリッド・バーグマン』として売り出されたが、『第三の男』以外ではぱっとせず50年代にヨーロッパに戻る。そして、『夏の嵐』(当初バーグマンとマーロン・ブランドの予定だった)の成功により大女優の名を欲しいものにするも、その前年に夫が起こした愛人との麻薬・殺人スキャンダルに巻き込まれ3年間キャリアを棒に振ってしまう。しかし、『さすらい』で見事に復活を果たすのである。 ■千両役者が一瞬で映画をさらって行く瞬間 ![]() 物語が一時間も進んでからハリー・ライムは出現するのである。運よく先入観無しに中学生の頃この作品を見た私は、このシーンの格好良さに心の底から驚かされたものである。静かにハリー・ライムの姿が映し出され、音で事態の衝撃を表すという芸のないこともせず、世界一効果的にカメラのパーンを使用した例とも言える単純なカメラワークで映し出されるウェルズのはにかみ笑いの表情が格好良すぎる。派手な演出無しに魅せる事こそが物の本質を捉えることなのである。昨今の映画・ドラマ・コメディに最も欠けている部分がここなのである。全て分かりやすく派手な演出に頼っているので、人が演じてるという印象よりもむしろ物が演じていると言う印象まで与えてしまうのである。 ウェルズは語る。「あの役が良かったのさ、脚本にある台詞は全部ハリー・ライムのことばかり―・・・それにあの戸口でのショットだ―最高のスター登場シーンだ!演劇では、ヴェテランのスター俳優は、第一幕の終わりまでは絶対に顔を見せようとしないものなのだ。・・・俳優は台詞の数が多いほど良い役だと思いがちだが、こういう役だと本人の台詞は出来るだけ少なく、その役が話題に上る度数は出来るだけ多くと言うのが原則だ。これこそがスター・ヴィークル(乗り物)で、本当にスターを乗せる。スターはただ乗っていればそれでいい。出演契約書に「しゃがませない」という一筆を入れさせた晩年のジャン・ギャバンのように。」 特にハリー・ライムの登場シーンに至ってはモノクロの価値が存分に引き出されている。映像とは写実主義ではなく幻想主義でなければならない。白と黒の色の幅が引き出す世界観は、カラーにより細分化され幅のない世界観よりも遥かに超えた表現力を持つのである。 ちなみに当時オーソン・ウェルズは自作の『オセロ』の資金調達のために10万ドルのギャラで出演した。『第三の男』は1949年カンヌ映画祭グランプリに輝いているのだが、『オセロ』も1952年に同賞の栄冠に輝いている。 ■白と黒の色調バランスが生み出す映像の構図の芸術性 ![]() アカデミ撮影賞白黒部門受賞に輝いたロバート・クラスカーの撮影の構図の見事さを表す典型的なショットとして、このプラーターの大観覧車でのハリー・ライムとの再会のシーンがある。とにかく斜め下から捉えるショットがこの作品は多いが、特にこのシーンにおいてその効果が分かりやすくよく発揮されている。 キャロウェイ少佐を演じたトレヴァー・ハワード(1918-1988)が本作において、主役の3人の存在感を邪魔しない程度においての見事な存在感を出している。代表作は何といってもデビッド・リーンの『逢びき』(1946)である。イギリスの俳優で王立演劇学校で芝居を学んだ正統派の俳優である。 ■現代社会の真実がこの言葉の中にある ![]() 大観覧車の中での有名なハリー・ライムの台詞。 「こんな話を知ってるか?イタリアが30年間支配されたボルジア家の時代、戦争と流血が続いたが、ダ・ヴィンチやミケランジェロ、さらにはルネッサンスを生んだ。しかしスイスの500年の民主主義と平和で残ったのは、鳩時計だけだ。じゃあまたな。」 ちなみにこの映画が封切られてからスイスからオーソン・ウェルズに対して丁重に指摘する手紙が来たらしい。「鳩時計の産地はババリアのシュヴァルツヴァルトなんです」と。ちなみにこの台詞はウェルズ自身が考えたのである。 この悪党の哲学はまさにチャップリンの『殺人狂時代』の「1人殺せば殺人者で、100万人殺せば英雄になる。数が殺人を神聖なものにするのだ」と似通ったものであり、戦争と言うものがいかに人間の道徳観念、そして、宗教解釈にも影響を与えるものかを端的に表す名台詞なのである。 「下を見ろ。あの点が動かなくなったらって同情するか?ひとつ消すと2万ポンドになっても拒否するか?それとも残りを数える?しかも税金もかからないんだぜ」 ■愛は消えても彼は私の一部・・・ ![]() 「かわいそうなハリー。正義がそんなに大事?愛は消えても彼は私の一部。裏切れないのよ」そして、ホリーがハリーの逮捕と引き換えに手に入れてくれた新しい身分証明証を破り捨て、彼がそっと肩にかけてくれたコートを脱ぎ捨てて立ち去っていくアンナ。 このアンナという女性は実に魅力的な女性である。ハリーに対する愛情の強さ云々に対してではなく、自分自身の許せない物事は何かという芯がしっかりしている女性であるという点においてである。だからこそあのラストを生み出すわけであるが、アリダ・ヴァリの表情の芝居はどのシーンにおいても実にうまい。そして、異性を惹きつけてやまない確かにバーグマンに似た物憂い雰囲気が漂っているのである。日本の女優に関してもいえるのだが、第二次世界大戦に関わった国の当時の女優と言うのは、実に一筋縄ではいかない魅力で輝いているのである。オードリー・ヘップバーン、マレーネ・ディートリッヒ、ヴァリ、そして、原節子しかり。沈黙さえも絵になる女優が多かった。 ■最も新進気鋭だった頃のオーソン・ウェルズ ![]() 地下下水道を逃げ回るハリー・ライム。段々とハリーが袋小路に陥る光と影の状況がよく分かる映像と、ウェルズの表情の変化の見事さ。そして、地上に突如突き出される10本の指の惨めさ・・・。そこに流れる「ハリー・ライムのテーマ」とウェルズが最後に追いつめに来た友人ホリーを見つめる表情。大観覧車の中で地上を指差し点は・・・と言っていた男が、地下水道という場所で死ぬ死に様の惨めさとはかなさ・・・。 マンホールの鉄蓋を押し上げようとして、ライムの10本の指が格子の間から突き出るシーンは、ウェルズのアイデアである。ちなみに伝説のラストシーンの撮影風景もウェルズはぽつんと突っ立って眺めていたと言う。 ■底冷えするほどの格好いい女の誕生。今だこのシーンを超えるラストシーンはない ![]() 並木道のラストシーン。とにかくアリダ・ヴァリの歩く姿勢が凄まじく綺麗であることは、全く観客に意識させてない中でとても重要な素晴らしいポイントである。ツィターの音も文句なしによく落ち葉も程よく落ち、そして、ジョセフ・コットンも抜群にクールである。最後に煙草に火をつけて投げやりに捨てるコットン。ここまで見事にふられるという事が格好良すぎである。映画の中ではじめてラスト・シーンに男が女にクールに振られる姿を見せつけたラストである。ここまで見事に振ってくれるいい女に出会えることは男性にとって一つの歓びであり想い出になるのだ。私も約7年前に当時付き合っていたレースクィーンをしていた女性に振られたときに、無言でサングラス姿で通り過ぎていかれるというかなり可哀相な失恋を経験したので、ハリーの気持ちが良く分かる。 しかし、何よりも格好いいのは真正面を見据えながらきりっと、コットンには一瞥もくれずに存在自体を無視しきっている風に通り過ぎるアリダ・ヴァリの姿である。ちなみにこのヴァリの着ているトレンチコートは男物である。ヴァリの衣装を担当したココ・シャネルがこの衣装を選んだのである。 グレアム・グリーンの原作のラストシーンでは、キャロウェイ少佐による視点で、「彼は一言も話しかけなかったようだった。物語の終わりのように見えていたが、私の視野から消える前に、彼女の手は彼の腕に通された」だったが、映画ではリードにより変更された。それについてグリーンは、「これはリードのみごとな勝ちだった」と語っている。 感覚の麻痺した現代人にとって刺激的な映像に慣らされてしまったがゆえに、しっとりとした映像に浸ることが出来ない。これは大自然の中で「何もないね。ここには。」と言っている感覚である。芸術を嗜む心とは実は多種多様性に対する順応力でもあるのである。いろいろな芸術的刺激の形を体験し意識することによってその人間の芸術性は更に磨き上げられるのである。 最近のお金をかけた映画と昔のお金をかけた映画の違いは、この作品からも明確に分かるだろう。お金の使い方一つでその人間、もしくは集団の知性が示されるものである。 本作は1950年アカデミー賞撮影賞(白黒)と1949年カンヌ国際映画祭グランプリを獲得する。 − 2007年2月9日 − |
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