HOME
■サイト内検索

■洋画
 □カタカナ順
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
 □クラシック
 □ドラマ
 □コメディ
 □サスペンス
 □アクション
 □ポリス
 □スパイ
 □犯罪
 □カー
 □ミュージカル
 □史劇
 □文芸
 □戦争
 □西部劇
 □アドベンチャー
 □パニック
 □ギャング、マフィア
 □SF
 □ホラー
 □スポーツ
 □香港
 □ドキュメント
 □アニメ
 □エロス
 □B級
 □アカデミー賞
 □カンヌ映画祭
 □ヴェネチア映画祭



■邦画
 □ひらがな順
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
 □名作
 □ドラマ
 □喜劇
 □サスペンス
 □アクション
 □刑事
 □時代劇
 □戦争
 □文学
 □パニック
 □東映ヤクザ
 □ギャング、ヤクザ
 □特撮
 □怪奇
 □ドキュメント
 □アニメ
 □エロス
 □B級
 □海外映画祭受賞
大列車作戦   THE TRAIN(1964・アメリカ/フランス/イタリア)
■ジャンル: 戦争
■収録時間: 131分

■スタッフ
監督 : ジョン・フランケンハイマー
製作 : ジュールス・ブリッケン
原作 : ローズ・バラン
脚本 : フランクリン・コーエン / フランク・デイヴィス / ウォルター・バーンスタイン / アルバート・ハッソン
撮影 : ジャン・トゥルニエ
音楽 : モーリス・ジャール

■キャスト
バート・ランカスター(ラビッシュ)
ポール・スコフィールド(フォン・ワルドハイム大佐)
ジャンヌ・モロー(クリスチーヌ)
アルベール・レミー(ディドン)
ミシェル・シモン(パパ・ブル)
蒸気機関車の咆哮する中、男たちの熱い反抗活動が繰り広げられる。「芸術のために命を賭けることできますか?」「自分の国の芸術に誇りをもてない人に魅力を感じますか?」。そうこの作品には「誇り」がある。だからこそ男たちの戦いが、どんなに悲劇的であっても、観る者の心を躍動させるのである。そして、心が斜め向きの人たちが言うように、人命第一に戦わずに逃げろよ。たかが絵じゃないか?という姿勢が、如何に自己保身に満ちた行為かを理解させてくれる。

■あらすじ


1944年8月、連合軍による解放寸前のパリから、ドイツ軍のワルドハイム大佐(ポール・スコフィールド)は、ゴーギャン、ルノアール、ゴッホ、マチス、ピカソ、セザンヌ・・・といった絵画を、ドイツ本国に移送しようとしていた。その計画を阻止すべく操車管区長のラビシュ(バート・ランカスター)たちレジスタンスは命を賭けて、輸送手段である蒸気機関車に対してあらゆる妨害工作を試みるのだった。


■人命より美術品が尊いのか?



自国の美術品を守るために多くのフランス人は命を賭けた。そして、多くの人々が死んでいった。自分の国の美術品を守ることが、人命よりも重要だと感じたからだ。みんながみんな美術品の価値を知っていたわけではない。ただこの美術品の数々は自分達の国の誇りであり、最後の砦だった。

恐らく、現在的な視点で言うと「仲間のために彼らは戦った」という意見も出てくるだろう。それは間違いではないが、二義的な理由である可能性が高い。人間が命を賭ける場合、誇れる目的(フランス人はすでにドイツ軍に4年間踏みつけにされていた)=フランス人の誇りの象徴でもある美術品の死守が第一義的な目的となりえるだろう。

「人命より美術品が尊いのか?」という喩えは全くもっておかしい。逆に言うと「1人の人命のために奈良の大仏を失うことは許されますか?」こういう問いかけ自体が人間性と芸術に対する冒涜であり驕慢なのである。まさに「あなたは母のために父を失うことは許容できますか?」と問いかけてるのも同然なのである。

芸術がもしなくなれば人間が生きていく価値はなきに等しい。芸術は人間にとっての第二の空気であり、第二の自然なのである。実はこの尊さを忘れたものこそが、最も危険なものたちなのである。



■芸術のもつ普遍性は誰にでも理解しやすいもの


「俺たちは絵画をなぜ守ってるんだ?」

あまりの壮絶な抵抗運動の中で絶えず自分自身に問いかける主人公。そして、守りきった後に、失った人命の多さと、守りきった美術品の多さを天秤にかけようとするが、そんなことは一切意味がないんだと、ただ空しくあきらめ去っていく。決して心は満たされないが、
これが「芸術」と「人命」を天秤にかける空しさと愚かしさなのだろう。

特にこの最後のショットの「実に丁寧に梱包された美術品の納められた木箱」と「ボロ雑巾のように殺されていった人間の死骸」の対比が、冷酷にも人類が見失いがちな視点を見せ付けてくれる。捨てられた遺体と捨てられた梱包された芸術品。この普遍的なまでの事実。永遠の命を与えられたものはどっちなのかという現実。。


だからこそ、この主人公は、何十年後かにルーブル美術館で、これらの美術品の陳列された姿を目にするきっかけがあれば、自分に誇りが持てるだろうことだけは確かなのである。美術品の遺産は、自分達の世代だけの所有物ではないのである。「空しくとも」「納得がいかぬとも」守りきることには間違いなく価値があるのである。
最近は自分達さえよければいいという人間が増えている。そういった人が、寺院の柱に書き込みをしたり、自然の山河に平気でゴミを捨てたりするのだろう。軽々しく「人命は芸術よりも尊し!」という人たちに限って、実は「自分達の命は芸術より尊し!」と言ってるわけなんじゃないのか?と思うわけである。


■ジャンヌ・モロー



主人公のバート・ランカスター(1913−1994)の魅力もさることながら、ポール・スコフィールド(1922− )の重厚感はさすがである。一方、ジャンヌ・モロー(1928− )はゲスト的な出演だったので、印象的ではあるが、それ以上の役割は任されていない。撮影当時モローはランカスターの演技メソッドにいらいらさせられたという。

「彼は、灰皿一つ持ち上げるための動機づけを一時間も議論するのよ。『さっさとその灰皿を持ち上げて、おだまり』って言いたくもなるわよ。一度、ニューヨークのアクターズ・スタジオにその練習方法を見にいった事があるけど、ぞっとして出てきちゃった。演技をするのに、知性なんて必要ないの。考えることなんて、あらかじめできることでしょう。現場に来たら、そこで、動くだけのことよ」

一方、スコフィールドとはうまが合い、ピーター・ブルック演出の『アントニーとクレオパトラ』の共演も計画されていたという。モローは一週間の撮影期間で、30万フランのギャランティでこの役柄を引き受けている。

ちなみに本作には1961年ヴェネチア国際映画祭女優賞受賞のシュザンヌ・フロンがバラン女史役で出演している。他にもミシェル・シモンや『大人は判ってくれない』(1959)のアルベール・レミーなど魅力的なフランス人俳優が出演している。


■スコフィールド ナチ式敬礼一つとっても風格あり



芸術を愛するドイツ軍のワルドハイム大佐が登場する導入部分が実に見事である。芸術に理解を示している人物と観ている側に思わせながら、「実は美術品を自国に盗み取ろうとしている男に過ぎない」ことをすぐにネタばらしするのである。そんな口では立派なことを言っているが、行おうとしていることは最低な人物を、ポール・スコフィールドという生きる芸術品的存在が演じるので、観ていても妙に煙に巻かれるのである。

スコフィールド。この人の存在感はその存在そのものである。黙っている横顔だけで、人類の苦悩を表現出来る人である。一方、主役のバート・ランカスターもそんな稀代の名優に対峙しても、決して負けていない。さすがにこの頃のランカスターはヴィスコンティや様々な欧米の名監督と共演しているので、並みのハリウッド・スターの器をすでに超えている存在感を見せ付けてくれている。


■最後の白黒で撮られた戦争アクション大作


しかし、何よりもこの作品の主役は、蒸気機関車なのである。さすがにフランスの国鉄とフランス軍の全面的な協力のもとに撮られている数々の戦闘シーンと、機関車の脱線シーンは、ホンモノの迫力に満ち溢れている。鉄の軋む音と炭の匂い、そして、炭の汚れそういったものが匂い立つくらいに白黒の映像が効果をあげている。

特に所々爆撃シーンなどで見られる俯瞰(ロング)ショットやワンカットの長廻し、そうかと思えばスピット・ファイアーが蒸気機関車を単身で機銃攻撃するシーンでは、細かいカットわりをするという場面に応じたショットのバランスと編集能力の高さが、アクションを魅力的なものにしている。

本作は
「最後の白黒で撮られた戦争アクション大作」とも言われているが、全てのショットの奥行きが、白黒映像の特性を生かした奥行きとなっているのである。白黒映画というものは夜の光と影を効果的に描き出すものだが、本作においては、日中のシーンにおいて蒸気機関車の煙と爆撃による砂塵の、グレイの濃度の違いが効果的に生み出されているのである。


■ランカスター自身が全てスタントをこなした



蒸気機関車の直線的なずっしりした動きの中で、対照的に人間がちょこまかと動めくのだが、本作の登場人物はそういった細かいスタントを全て自分自身で演じている。ランカスター然りだ。当時すでに50歳を越えていたランカスターだが、昔サーカス芸人だっただけあり、その巨体から想像もつかぬほどに身の軽い人である。恐らく同時代のジェームズ・ボンド=ショーン・コネリーより遥かに身体能力が高かったのだろう。

梯子を滑り降り、機関車から飛び降り、山の傾斜を回転しながら転げ落ちながら縦横無尽に走り回るその姿に、レジスタンスとしての完膚なきまでの説得力が生み出されている。
しかもそういったアクションをこなす間に一切表情を捉えるアップのショットが存在しないところが、スターを捉えるのではなく、人物を捉える形になっていて実に良い。

最近の独裁国家張りに厳密なハリウッド・システムの中では、こういったショットを撮ることは許されないだろう。あくまでも映画の主役はスターであり、物語ではないのが、現在のハリウッドの特徴であり、そういったものにうんざりしているのが、実はアメリカの多くの観客と俳優自身なのである。

ちなみに物語の後半で機関銃の弾を足に浴びてからランカスターはずっとびっこをひくのだが、実はこの設定は当初脚本にはなかったという。撮影を半分終えた時点の休暇中にランカスターがゴルフ場で足を怪我した状況を活用して、フランケンハイマーがその設定にしたという。


■ビューティーを所有する権利とは?



「お前にとっては、お前が守ろうとした絵画の数々も、猿に真珠だろうな。お前には何のために私を止めたのかなんて分かっていない。お前はただのクズだ。この絵画は私のものだ。そして、絵画もそう望んでいる!美はそれを理解することが出来るものにのみ相応しい!それは私だ!さあ、お前がなぜこんな苦労したのか私に言ってみろ?そのクズな頭で考えてみろ!」


結局はこのセリフは、この大佐自身にブーメランのように跳ね返ってくるのである。そんなに素晴らしい芸術品を盗もうとしたお前はもっとクズではないのか?価値が分かっていて生み出そうとせずに盗み取ろうとする人間よりも、価値が分からずとも守ろうとする人間の方が遥かに立派ではないか?

この大佐は芸術に溺れるあまり、人間の教養に対して、普遍的な階級を設けてしまったのだ、我々は芸術を理解できる民族だからこそ、他の民族に対して何をしてもいいのだと。
しかし、実のところこいつらが一番芸術の素晴らしさを理解できていなかったクズだったのだ。


■戦争映画の新たな形の始まり


「手続きは無力なものたちへの気休めだ」


何気に大佐が言うこのセリフ。実に官僚国家の本質を示しているではないか?

本作の原作は、大戦中に実際にジュ・ド・ポーム美術館の館長だったローズ・バラン(1898−1980)が1961年に書いたノンフィクションである。映画化するにあたり、当初アーサー・ペンが雇われていたが、撮影二日目で製作に関与していたランカスターの不服により解雇された。

そして、ランカスターの友人であるフランケンハイマーが起用された。670万ドルの予算をかけて製作され、日本を含む世界中で大ヒットを記録した。1965年アカデミー賞脚本賞にノミネートされるが、受賞には至らなかった。

− 2007年9月8日 −


Copyright (C) 2007 Geijyutsu Taizen. All Rights Reserved.
Mail:webmaster@summaars.net