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失われた週末   THE LOST WEEKEND(1945・アメリカ)

■ジャンル: ドラマ
■収録時間: 101分

■スタッフ
監督 : ビリー・ワイルダー
製作 : チャールズ・ブラケット
原作 : チャールズ・ジャクソン
脚本 : ビリー・ワイルダー /チャールズ・ブラケット
撮影 : ジョン・サイツ
音楽 : ミクロス・ローザ

■キャスト
レイ・ミランド(ドン・バーナム)
ジェーン・ワイマン(ヘレン)
フィリップ・テリー(ウィック・バーナム)
ドリス・ダウリング(グロリア)
ハワード・ダ・シルヴァ(ナット)
フランク・フェイレン(ビム)

世界で初めて本格的にアルコール依存症の恐怖を描いた作品である。テクノロジーは進歩しても人間は全く進歩しないことに気付かされる。現代においてもアルコール依存症は蔓延している。そして、そんな恐怖を一種のリアル・ファンタジーとして描いたワイルダーの手腕はさすがである。独りよがりの退屈なテーマであるアルコール依存症をここまで魅せてくれるその見せっぷりを堪能せよ。

■あらすじ


売れない小説家ドン(レイ・ミランド)は、兄や恋人ヘレン(ジェーン・ワイマン)の献身的な態度にもかかわらずアルコール中毒を克服できないでいた。酒を断ち切ろうと努力するが、やがて財布のスリをしてまで酒を求め彷徨う。もう彼は墜ちていくしかないのだろうか?


■ハリウッド初のアルコール中毒映画



ハリウッドで初めてアルコール中毒を真正面から取り上げた作品。現代で言うとシンナー中毒、覚醒剤中毒で奪われた貴重な時間を取り戻して再生していく一人の人間を描いた作品なのである。

文豪トーマス・マンは、1946年に「よくできた映画。中毒の表現という点でも素晴らしい作品」と評価した。本作はアカデミー作品賞&ゴールデン・グローブ&カンヌ映画祭グランプリに輝く。さらにレイ・ミランドもW主演男優賞に輝き、ビリー・ワイルダー自身もアカデミー監督賞、脚色賞&ゴールデン・グローブ監督賞に輝いた。そして、この映画こそ始めて電子楽器「テルミン」を使用した映画である。

ちなみにこれ程の名声を得た作品であるが、当初試写の結果は散々だったと言う。1000人の観客のうち5人しか残っていなかったからである。その結果を見たビリー・ワイルダーは打ちのめされたのであった。



■映画とは覗き趣味である


映画にとって重要な要素は、オープニングである。禁酒中の主人公ドン・バーナム(レイ・ミランド)が兄と恋人の目を盗んでウィスキーを飲むために窓の外枠に結び付けているウィスキー瓶のショットから物語は始まる。主人公の秘密の暴露から本作は始まるのである。
「映画とは覗き趣味である」と言ったのは「アルフレッド・ヒッチコック。そう、主人公の弱みと秘密と裏切り行為を前もって作品を見ている観客が知っているという事が物語の中に観客を引き込んでいくポイントなのである。


■依存症の根本にある他者依存



ドリス・ダウニング
(1920−1969)
酒場の女役だが、長身ですごく魅力的な女性である。こういう格好いい女がなかなか最近の映画では出てこないのが悲しいところである。ローレン・バコールに共通するハードボイルド女優である。特にドンの後ろを通り過ぎるときにキュっとするポーズがキュートで格好いい。ちなみに当時ビリー・ワイルダーの恋人だった。

結局兄と恋人を裏切り、二人の目を盗みバーへと繰り出し酔いつぶれるドン。それを知りドンの兄とドンの恋人がする会話。
ドンの兄「僕らは6年間、あらゆる努力をして彼のアルコール中毒を治そうとした。優しくしたり、しかったり手を尽くした・・・君だって何度泣いた?やっと立ち直ったと思うとその度に逆戻り 繰り返しだ」
ドンの恋人「ドンは病気よ。心臓や肺が悪い人と同じ。あたし達の助けが必要なの」
兄「やつは助けを拒否してる。酒以外のものは何も見えないんだ。現実を認めよう。ドンは救いようがない。」

実際何かの依存症の友人に対して必死の努力をした経験のある人ならば、この自問、問いかけを繰り返すはずだろう。私自身もこの立場に立ったことがあるが、その時の結論は、
自分の人生さえも犠牲にするほどの意思がなければ、他人の弱い意志がくじかれずに依存症を断ち切らせる道はないと悟ったものだ。本人の甘えから依存症になって、他人の力にも依存しようとするその考え方に、問題があると考えた私は、その依存症の彼女を見捨てた。そのことが、正しかったのかどうか私には分からないが。現実は、自分の人生を他人にささげることなどそうやすやすと出来ないし、するつもりもないということである。

ドンは言う。「
一度回転木馬に乗ると、容易に降りられない。木馬が回るのに疲れてダウンするまではな


■まずは悪印象を与えてから、好印象を与えることによって始まることは?



酒場でドンが恋人との出会いを回想するシーンはとてもユニークである。3年前にオペラ『椿姫』を見に行ったドンは、「乾杯の歌」でアルコールが並々とつがれたグラスや酒瓶を見て、急激にチェック・ルームに預けたトレンチコートのポケットの中のラム瓶が恋しくなり、途中でオペラを抜け出し、コートの元へいくも、手違いで違う毛皮のコートが返ってくる。早くラム瓶を手に入れたいドンは、いらいらしながら自分のコートの番号を持っている人物を待つ。そして、対面する2人。一刻も早くラム瓶を手に入れて飲みたいドンは、返し忘れていた傘を投げて返す始末。

まさにジェントルマンのかけらもないその姿ぶりである。それにしても、オペラのシーンでの、ドンの目線で舞台上を追う演出が実にユニークである。中毒とは、一つの強迫観念であるということが良く分かる演出である。物語、歌に引き込まれるのではなく、アルコールをもつその姿に引き込まれているのだから。
 
そして、初対面の2人のシーンでの、ドンの無作法ぶりがよい。こんな出会いから恋愛は案外始まるものである。
恋とは、まず相手に悪印象を与え、それから好印象を与えることから始まることが多い。

別れ際にトレンチコートに忍び込ませていたラム瓶を落としてしまい。アルコール中毒であることが、彼女にばれそうになるシーンが実にスリリングである。いい脚本でいい役者が芝居をすれば、どんなサスペンスよりもアクションよりもスリリングで緊張感あふれるシーンを作れるといういい例である。

それにしても白黒映画というのは、光の芸術なのである。人の想像力を掻き立てる側面がある。その理由は、人間の記憶というものは基本的には、カラーであるよりも白黒に近いはずだからである。


■フィリップ・テリー


ドンの兄役のフィリップ・テリーは、この当時ジョーン・クロフォードと結婚していた。後にクロフォードは彼と離婚し、ペプシ・コーラ4代目社長と結婚することになる。『グランド・ホテル』『ミルドレッド・ピアース』(アカデミー主演女優賞受賞)『何がジェーンに起こったか?』の名女優であったが、プライベートでは大変気性の荒い人であったらしい。実際に現在進行形で、そういう人間と共に暮らしている男性がこの役を演じていると思えば一際感慨深い演技なのである。

恋人が出来、6週間禁酒に成功し、彼女のご両親と会うことになるも・・・緊張を和らげようと一杯飲んでしまったのが運のつきとなり、ぐでんぐでんに酔い居候している兄(フィリップ・テリー)の家で、酔いつぶれてるところを、兄が帰宅時に発見される。そんなところに、約束をすっぽかされた恋人(ジェーン・ワイマン)が・・・

「原因はいらだちだ。なりたいものになれないからだ。作家だ。こっけいだろ?大学では天才だった。学内誌には必ず小説を載せた。ヘミングウェイばりのね。19歳が最盛期だった。リーダーズ・ダイジェストにも売れた。・・・・タイプライター片手にNYへと出た。第一作は成功とは言えず・・・第二作も受けなかった。三作四作にかかった。そのころ誰かがささやき始めた。バイオリンのような細い声で・・・こう言った。よくない 自信に欠けてる そんな時は一杯やるんだな≠サれで飲んだ。効果覿面小説の全容がはっきり見えた。・・・だが書く前に酒が切れすべて幻影のように消えた。絶望を一杯目の酒でまぎらわせ。気つけに二杯目を飲み・・・」

「おれに期待するな 何もする気はない。おれは無と同じだ。」


■ミランドの開眼



酒場での回想後に、今度こそ小説を書き上げてやると、勇んで家に戻りタイプライターの前に座るも一行も書かないうちに、自分の昨晩隠したお酒の瓶を探しまくり家中ひっくり返すドン。そして、無一文同然で酒場に行き、お金が足りないので、36歳にもなって、財布をすってしまう。トイレで10ドル財布から抜き取り戻ったところで、ばれてしまい。店から追い出されてしまう。

依存症の人間の中で一番多い犯罪が、万引き、窃盗らしい。基本的に
依存症の人間は、責任感を放棄したいという欲望を抱えて生きている人が多いので、ハイな時と切れた時には、実に簡単に犯罪に手を染めやすいのである。

恥ずかしさと情けなさの中、家に帰りソファーに倒れこんで涙を流すその目に、昨晩隠した酒瓶の姿が・・・迷わずにそれを手に取りラッパ飲みする。果ては、酒を求めてさ迷い歩く。

たった一杯でも多すぎる。だが百杯でも十分じゃない

ここからのレイ・ミランドの演技は、文句のつけようのないほどの名演技である。レイ・ミランド(1907〜1986)は、この作品の主役の打診を受けたときは、映画史上初の本格的アル中映画に出演するべきか非常に迷ったという。しかし、結果的には彼のキャリアにとって最高の結果をもたらしたのであった。アカデミー主演男優賞まで受賞したのだから。それまで大根役者と言われていた男とは到底思えない名演ぶりである。


■自殺と矛盾の狭間で手に入れたもの



次の日飲む酒がなく、タイプライターを質屋に持っていって、お金に換えようとするも、ユダヤの贖罪の日でどこも閉まっていて、行きつけのバーのおやじに一杯せびるのである。もはやアルコールによって尊厳を失った一人の落ちぶれ果てた男の姿がそこにあった。それにしてもこのバーのおやじ(ハワード・ダ・シルヴァ)は、すごくいい味を出している。酒を売る立場でありながら、ドンのアルコール中毒を気にしているのだから。金をせびり、階段から転げ落ち、アル中病錬に監禁され、脱出し、酒瓶を盗み・・・と落ちぶれるだけ落ちぶれたドンは、遂に幻想にうなされるまでになり、彼女の毛皮を質に入れ、ピストルを取り戻し、自殺を決意することに。

自殺しようとしているところに駆けつける恋人。自殺を思いとどまろうとしないドンの前に1人の天使が・・・そう、バーのおやじが階段から転げ落ちて倒れた時に質屋にいれようと持ち歩いていて失くしたタイプライターを持って来てくれたのである。

人生とは矛盾の中から宝物を見つけ出す行為なのである。行き付けのバーのおやじが、アルコール中毒で無一文の彼にアルコールを与えてくれ、彼を救い。そして、アルコールによって失ったタイプライターを与えに、最後訪れてきてくれるのだから。実は人生の中で、最も矛盾だらけと思える存在の人物がすごく重要なキーパーソンであることは多いのである。


■一から十まで・・・



酒の注がれたグラスを手にじっと考え込むドン。それを見て緊張する恋人・・・・その酒の中にタバコを落とすドン。そして、人生に希望を見つけたドン。人生の中に希望を見出せた瞬間人は一歩先へと進み始めるのである。
「コンクリート・ジャングルの中で、きっと多くの男が、渇きに悩まされているはず。世間の冷笑を買いつつ彼らはよろめき歩く いっときの酔いを求めて」

この作品の題名は原作者のチャールズ・R・ジャクソンがタイプミスで「The Last Weekend」と打ちたかった所を「The Lost Weekend」と打ってしまったことからつけられたのである。結果的にはこの題名の方が良かったのだからまさに怪我の功名である。

ワイルダーは語る。「
演劇では、観客はつねに同一のアングルから舞台を見ていなければならない。ところが、映画監督は観客のまなざしを好きなようにコントロールできる。これこそが映画における革命的な事件である」「陳腐な印象が生まれる危険性について話したが、これに関連しては、運命的な事件とか大きな感情の起伏といったものは直接に映像で示すべきではないという原則がある。ある女性が、たった今彼女の子供が車にひかれたと聞かされる場合、カメラは彼女の顔ではなく、肩をふるわせ、涙のあふれる顔を手で覆っている姿を背後から映す。その知らせに打ちのめされ、じっと動かずにいる様子を見せるわけである。私なら、その女性の不安、取り乱した心理、驚愕といったものを観客の想像力に委ねる。彼女を振り返らせてその表情を見せる、というようなことは絶対にしない。彼女がそこに立ち尽くして肩をわずかに動かすだけで、観客はその驚きの激しさを理解するのである

最近の映画が、いかに観客の想像力を低く見た代物であるか理解できる発言ではないだろうか?基本的にアニメは、子供を対象とすることから始まっているので、一から十までを観客の前に提示するという手法を用いている。そして、
最近の映画も一から十まで、驚きと怒りの表情のオンパレードの中に埋没しているのである。想像力を掻き立てない物に囲まれることを、不感症への第一歩と私は、考える。そういう感覚が人生の中に植えつけられていくと、人生の無意味さに嘆く類の人間になるのである。大概のうつ病患者は、多感症が原因ではなく、実は不感症であることから発しているのである。


■脚本とはいかに省いていくかの作業である


際のところ、主人公のドンが、無事立ち直っていくかどうかはわからないが、自信喪失からアルコール中毒に陥った彼が、希望と女性の愛情を感じることによって、立ち直っていく可能性はあるだろう。しかし、自分の人生を破壊的に貶めてみたいという願望の強い人間は、他人をも地獄に引っ張りこんでしまう無責任さがある点も忘れてはいけない。今回彼が立ち直れたのも自らが、決意したというよりも、バーのおやじの好意と、恋人の粘りある説得による部分が強い。つまり他力本願な人間ほど、自分の行動には責任を持たない傾向があるので、はなはだ2人の将来は暗いのではないかと思う。
「なぜあの時死なせてくれなかったんだ?」という言葉が彼の口から出る可能性の方が、「あの時死なせないでくれてありがとう」と言ってくれる可能性よりも高いのではないだろうか?ワイルダー自体も言っているが、ハッピーエンドにしなければ映画化の企画は通らなかったのだから、このラストが限界で最善なのだろう。

この作品は、ある意味サスペンス映画である。本人の中に強迫観念という恐怖を植えつけていくものが、中毒=依存症であり、他人から見ると実に滑稽なものなのである。そして、本人自身も絶望的な滑稽さを自分自身に感じることが依存症の怖さであることを見事に表現している。

この作品に対する批判として、「アル中になるきっかけが描けていない」「恋人がなぜそれ程主人公に献身的なのか?」「兄弟愛が中途半端」の三点がよく取りざたされているが、基本的に物語を映像化するにあたり、センセーショナルな主題を扱うにおいて、その主題の焦点を混乱させるようなサブストーリーを意識的に排除している。監督も語っているように、彼はアルコール依存症について描きたかったのであり、恋愛、兄弟愛、その過程を描きたかった訳ではないのである。逆に言うとそういう批判を受けるぐらいに、バランスよくサブストーリーが配置されている点が恐ろしくビリー・ワイルダーとチャールズ・ブラケットという偉大な脚本家の見事さなのである。

最近の破綻した脚本を書く脚本家は、理解すべきである。細部よりもまずはおおまかな構成と主題である。細部を描きすぎると、物語の根本が失われていく。最近の出来の悪い脚本家は、観客の想像力を全く信用していないか、もしくは本人自体の想像力が欠如しているかのいずれかなのである。


■ジェーン・ワイマン



ジェーン・ワイマン(1914〜)は、ドンの恋人役を演じて、注目されることになった。当時の夫はロナルド・レーガンだったが、彼こそは後の第40代アメリカ合衆国大統領である。ただし、ジェーンがアカデミー主演女優賞を獲得した1948年に二人は離婚した。当時はレーガンは売れない俳優であり、2人の演技力も収入も違いすぎバランスがとれなかった事が離婚の原因だったらしい。オスカー獲得の名声の年に、私生活の破綻とはまさに人生の縮図である。


− 2007年1月30日 −


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