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暗くなるまで待って   WAIT UNTIL DARK(1967・アメリカ)
■ジャンル: サスペンス
■収録時間: 109分

■スタッフ
監督 : テレンス・ヤング
製作 : メル・ファーラー
原作 : フレデリック・ノット
脚本 : ロバート・ハワード・カリントン / ジェーン=ハワード・カリントン
撮影 : チャールズ・ラング
音楽 : ヘンリー・マンシーニ

■キャスト
オードリー・ヘプバーン(スージー)
アラン・アーキン(ロート)
リチャード・クレンナ(マイク)
エフレム・ジンバリスト・Jr(サム)
サマンサ・ジョーンズ(リサ)
女性の美の概念を変え、現在に至るまで影響を与え続けているオードリー。妖精≠フ降臨により、ふくよかさ≠ヘ細さ≠ノ。切れ長の目≠ヘ大きな目≠ノ。胸のあるなしではなく、首の長さと手足のしなやかさが美の基準となり、これは現在に至っても美の基本とされている。そんな彼女が盲目になることによって、その全ての魅力が・・・どう反転していくのか・・・そして、オードリーは証明した。「盲人を演じようともその物腰の優雅さは継承されていた」という真の優雅さを。この作品の彼女の動きは、実に自然に優雅だ。そう「ゴージャス」とグロリアが表現したように。真のゴージャスの意味を女性達にこの作品を観て再認識してもらいたい。

■あらすじ


一年前の交通事故によって盲目になったスージー(オードリー・ヘプバーン)には、写真家の夫がいる。その夫がケネディ空港でブルネット美女から預かった人形。この人形には大量の覚醒剤が隠されていた。それを手に入れるために麻薬密輸組織の殺し屋ロート(アラン・アーキン)らは、スージーに接近する。


■ゴージャスをルネサンスする



オードリーという女性の美しさが、いかに自然の風貌の上に培われたものかを、普通の主婦の役柄において見せ付けてくれる。最近の女優の多くは、30代後半になると「不自然さ」の領域にまで突っ走って整形しているので、普通の主婦の役柄を演じると不自然すぎて感情移入しにくい。美貌を保ちたいのは分かるが、衰えることを恐れ鉄仮面をつけているようであり見苦しい。

近の芸能人の美意識の平坦さ(周りに流されやすい、無個性)は、中高年の女優の多くが流されている美容整形多用の風潮を見ていると良く理解できる。そういう大人たちが、最近の子供は何を考えてるのか分からないとメディアでよくコメントしているのだが、子供からすれば「その表情って何考えてるかわかんないよ?」とまず反論したいだろう。


顔面崩壊をメイクによって塗り固めることにより何が生まれたか?それは、表情の機微が不自然さへと転化していき、自らの肌の重力に対して、子供のように頑なに反発する「見苦しさ」である。「ゴージャス」という言葉を履き違えたメディアのおべんちゃらに踊らされ、鵜呑みにしているなんとか姉妹を始めとする土偶のような塗り壁女性たち。それを見て「これがゴージャスか」と知ることは、北朝鮮を見て「これが真の民主主義人民共和国なんだ」と知ることほどに的外れなのである。

まさにあっちは美の究極ではなんでもなく、醜さと知性の低さの究極である。実際はただ単にナチュラル・ビューティーは、メディア的に一銭の得にもならないから取り上げないだけである。
真の美女を目指すならば、「心の豊かさを美の糧にしていく」ぐらいのゆとりがなければいけない。最近の美人の多くは、どうもゆとりがない。そのゆとりのなさが顔面崩壊へと繋がり、精神の崩壊へと行き着くのだろう。


■障害を乗り越えさせる愛の力と笑顔の力



この作品の魅力は、事故により盲目になった30路の新妻(スージー)と、両親からも見放され、眼鏡をかけ同級生からいじめられている少女(グロリア)の友情の物語でもある。ハンディキャップを安易な解決や同情でくるみ込むのではなく、お互いにそういったものを受け入れながら助け合う美しさ。

金さえ払えばどんなことでも何とかなるべき、と考えている人が昔から多い。風貌のハンデも肥満も健康も学力も精神的病いも金で解決して欲しい。つまりそれは他力本願なのだが、そういった他力本願の中に生まれるのは、後ろ向きな孤独のみである。一方、自力で物事をなしとげようとするもの達の中には、前向きな孤独が生まれる。前者は結果として、相互不信と競走を生み出し、後者は絶対的信頼感と調和をうみだす。

スージーとグロリアの姿はまさに後者の関係だった。だからこそ友情も成り立つのである。そして、スージーと夫の関係においても、その後者の関係が見事に築かれている。二人は、スージーが失明した後に知り合い結婚している。そして、この夫は冷たいと思えるほどに、スージーに何でも自分でさせようとする。最後の最後に難を逃れた後にも、「僕はココにいるよ」とスージーに自分の力で来させようとするのである。


盲目の中で障害と共に生きていく事が、いかに大変かがわかっているからこそ・・・。そう盲目になる=「障害を持つ」ということは健常者よりも独立した精神を必要とする。
夫はオードリーと共に本当に幸せに生きていく為にも、自分が杖になってあげるのではなく、自分が彼女の心を照らす灯になる決意をしているのだ。

これこそ、本当に大変なのだが、真実の愛の瞬間である。私自身も外見上は美しいが、障害を持つという女性と数年間お付き合いした経験があるので、この男性の気持ちが良く分かる。あの「あなたは私に盲人女性のチャンピオンになれっていうの?」と言うシーンで、抱擁を交わす一連のシークエンスなんかは実に情感溢れる素晴らしいシーンであり深みのあるシーンである。

障害には強さで立ち向かわないといけないと、二人は良く分かっているのだが、弱さが出るときもあるのだ。そんな時に乗り越えさせる力を持つのが、愛の力と、そのあとの「私を見てる?」と言ってベ〜〜っと舌を出す笑顔の力なのだ。


■妖精は、やはり永遠の妖精だった



オードリー・ヘプバーン(1929−1993)の名演技がいつの間にか本当に彼女が盲目であると錯覚させてくれる。夫の愛情だけを糧にして生きてきた彼女が、生命の危機において、少女との友情や、自分自身で生き延びる底力を発揮することによってひと回りもふた回りも成長していく。

そして、友情、愛情、生きることの喜びがオードリーの最後の泣き笑顔の中に出ているからこそこの作品は美しい。この作品は当時の夫メル・ファーラー(1954〜1968)が製作した作品であり、オードリーのこの役柄にかける意気込みも凄まじかったという。

点字を勉強し、眼科医から盲目の人の動作や表情のレクチャーを受けた上で、オードリーはスージーの演技に見事に反映させた。カラーコンタクトをはめてはいるが、目がぼやけたりするためのコンタクトの使用といったトリックは一切使わないようにしたという。

その結果、他の作品では相手を見つめるために存在した魅惑の瞳が、本作においては虚空を舞うような違った魅力を生み出し、新たなオードリーの魅力が発散されていた。そこにオードリー独特の甲高い声音による嘆き、絶叫が組み合わさり、何ともいえない可愛さが発散されていた。私はこの作品のオードリーに容貌の衰えや、成熟を全く感じない。むしろ
「絶対的に個性的な美と可愛さ」を感じる。


ちなみに
タートルネックのセーターのコーデュロイ・ジーンズのパンツルック、ピンクのニットとベージュのプリーツスカートの組み合わせが、実におしゃれで格好いい。かなりファッショナブルだ。この作品には衣装デザイナーはクレジットされていない。全てはオードリー自身がパリでチョイスした衣装だからである。

この作品を最後にオードリーは「育児に専念する為に映画からの引退を宣言」した。そして、彼女は『ロビンとマリアン』(1976)で映画に戻ってくるまで、スイスの農場で家族と共に時を過ごした。『マイ・フェア・レディ』の経過を考えると皮肉なことだが、ジャック・ワーナーはこのスージー役に当初ジュリー・アンドリュースも考えていた。(ロートはジョージ・C・スコット、マイクはロバート・レッドフォードで)


■新しい悪役像の誕生



オードリーと共にこの作品を最高級のスリラーへと昇華させたのが、いつも半口を開けている極悪非道の悪漢ロートを演じるアラン・アーキン(1934− )である。三役をこなすのだが、実に見事な成り切りぶりである。しかし、何よりもすごいのは、サングラスをかけていた時のロートがサングラスを取ったときのその変貌振りである。つまりアランは本作において四役を演じていたといっても差し支えないだろう。


「最近の映画は見せすぎるから印象が薄くなるんだ。映画とは本来、想像力を使って観るものだが、最近の作品にはその余地がない」「全部見せられてしまうと、観客は恐怖を客観視するだけになる」アラン・アーキン

とにかく憎々しく電話線を抜いて木枠に結びつけたり、冷蔵庫にタオルをかけて閉められなくしたりとその仕草のネチネチぶりが芸が細かく素晴らしい。それでいて、追いつめられるとマゾっ気たっぷりに平謝りするのである。これがロートのやらしさ=「虎視眈々とチャンスを狙う」をかもし出していて実に良い。

特に終盤にスージーをガソリンとマッチで追いつめていたロートが、ハイポをかけられ、部屋が真っ暗にされた途端に、立場が逆転しスージーに追いつめられていく屁たれっぷりが実に良い。この悪役の存在なくして本作のスリラーへの昇華もなかっただろう。


■見えていること≠ゥら見えないこと≠ヨの反転ぶり



本作はオープニング・タイトルから実に素晴らしい。縦に3段WAIT UNTIL DARKのタイトル・ロゴが出てくるのだが、この色使いがWAITが白、UNTILがグレイ、DARKが黒という風にかなり洒落ている。そんなオープニングに人形を抱えた今風の美女が歩く。全く無名の女優サマンサ・ジョンズだが、とても綺麗な女優でマイタイプである。


こんな綺麗な彼女が、死体となってスージーの家のクローゼットに隠されるのだが、そのすぐ側で盲目のスージーがスカーフを取り、そのスカーフが死体の髪に当たる瞬間の描写は実に素晴らしい。観ている側が見えているからこそ$カみ出されるスリリングさである。

このこちらが見えていること≠過敏なまでに観客に示す演出が徹底されていたからこそ、のちにこちらも見えない$^っ暗闇のシーンになったときに、観客の深層心理に効果的に危機感が煽り立てられたのである。


■ラストの8分間



この作品の最大の山場は、やはり一芝居うった3人組の正体をスージーが見抜く過程だろう。グロリアという少女の協力によって、二回の発信音という電話の合図を巧みに利用するのだが、圧巻は
鳴るはずのない電話が鳴り夫の旧友を装っていたマイク(リチャード・クレンナ)にも騙されていたとスージーが気付く瞬間の絶叫の絶望感である。

完膚なきほどに打ちのめされ追いつめられたスージーが、気を落ち着けて敵を迎え撃とうとする瞬間。健常者の女性でさえも厳しい現実を盲目の彼女がいかにして跳ね除けるか?もうこの時点で観客は物語とオードリーの一挙手一投足の虜になる。


そして、「ラストの8分間」スージーとロートの一騎打ち。夫に対して発した「私を見てる?」というセリフを見事に生かした、形勢逆転後に暗転して真っ暗な画面上が生み出す緊張感の中、冷蔵庫の扉が生み出す絶望感。しかし、絶望を乗り越えなんとかナイフをロートに刺したのだが・・・窓から逃げようとしたスージーにロートが跳びかかるシーンのショッキングさ。

見事な音の効果と共に心臓を跳び上がらせる実に効果的な躍動感に満ちたシーンである。そして、匍匐前進しながらにじり寄るロートの姿とオードリーの絶叫の対比。物語は暗転し、恐怖の一夜も反転していく。このラストの10数分の盛り上げ方は素晴らしいとしか言いようがない。


■ブロードウェイの大ヒット舞台劇



1966年『ダイヤルMを廻せ!』などで有名なフレデリック・ノット原作の舞台劇がブロードウェイで公開された。演出アーサー・ペン、リ・レミック、ロバート・デュヴァルによって374回公演され、レミックはトニー賞にもノミネートされた。ちなみに映画版でグロリアを演じていたジュリー・ヘロッドは舞台でも同役を演じていた。


この舞台を観て、メル・ファーラーが映画化を企画した。製作費400万ドルをかけて1967年1月より撮影開始され、4月に撮影終了した。結果的にアメリカだけで1100万ドルの興行成績をあげ、日本においても1968年洋画興行成績第6位(2億2600万円)の大ヒットを記録した。そして、オードリーも1967年アカデミー主演女優賞にノミネートされた。

− 2007年9月20日 −


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