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ゼロの焦点 (1961・松竹大船) | |||||
| ■ジャンル: サスペンス ■収録時間: 95分 ■スタッフ 監督 : 野村芳太郎 製作 : 保住一之助 原作 : 松本清張 脚本 : 橋本忍 / 山田洋次 撮影 : 川又昂 音楽 : 芥川也寸志 ■キャスト 久我美子(鵜原禎子) 高千穂ひづる(室田佐知子) 有馬稲子(田沼久子) 南原宏治(鵜原憲一) 加藤嘉(室田儀作) |
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■あらすじ 結婚後一週間あまりで失踪した夫憲一(南原宏治)の行方を求めて北陸・金沢を訪れる禎子(久我美子)は、夫の二重生活を知ることになる。夫の失踪事件から露呈されていく室田夫人(高千穂ひづる)と久子(有馬稲子)という二人の女性の過去。全ての真実は能登金剛の断崖絶壁を前に幕は引かれようとしていた。 ■北陸の陰鬱さに浸りたい日もある 北陸地方という響きは私の中では格別のものである。東尋坊は今までのところ10回は訪れているお気に入りの場所であり、和倉温泉、山中温泉、片山津温泉といった場所も何回も訪れている。伊豆という風光明媚な保養地と違い、何か陰鬱な雰囲気の漂う多くの男女の悲劇を吸い取っているかのようなその空気が好きなのだ。 かつて時効間近の殺人犯・福田和子が逃亡生活15年目を迎える時効寸前に捕まったのが北陸・福井市内であり、彼女が愛媛松山から逃亡して最初に腰を落ち着けた地は金沢だった。私にとって北陸はまさに「裏日本」であり、暗い過去を持つ人間は北へ北へと流れていくのかもしれない。だからこそ私は北陸に惹きつけられるのである。 そんな陰鬱な世界観に見事に合致したのが本作『ゼロの焦点』である。人間が時に起こす過ちが、やがてその身の破滅を生む姿。誰もが一寸先は転落かもしれない焦点の定まらない人生≠ニいうものの儚さを3人の名女優を使って白黒の映像の中に描ききったのがこの作品だった。 ■サスペンスの舞台設定の妙 能登金剛という舞台設定の素晴らしさ。この作品から「自殺の名所」というものがクローズアップされだしたという。そして、実際に能登金剛で自殺する人も出たというのだが、この映画を見ていても何とも陰鬱な雰囲気が出ていて、「なるほど傷心の女性が佇む姿が想像しやすい場所」だと納得できる。 「能登金剛」「東尋坊」「三段壁」といった日本独特の切り立った崖から一望する海の姿は、実に多面性を秘めている。荒波が魅せる人生そのものの姿と奏でる咆哮のような波音が、人を引き寄せるのだろう。この作品の荒波の姿も実に印象的な風情を見せ付けてくれている。 人は生まれたときから死ぬことだけは決定付けられている。だからこそ断崖絶壁と荒波は、その宿命を訪れる人々に思い起こさせてくれる。そして、一歩踏み込んでしまう人、一押ししてしまう人も出てくるのだろう。死を髣髴させるからこそ、こういった日本独特の風景が人を惹きつけて止まないのだろう。 ■三人の女性。禎子、佐知子、久子 ![]() 1人の男性に翻弄される3人の女性の姿。演じる女優はどこまでも豪華である。まずは久我美子(1931− )。そして、残る2人は高千穂ひづる(1932− )と有馬稲子(1932− )両者とも元宝塚歌劇団出身者である。 この3人の存在が、今となっては物足りないサスペンスを、陰鬱な北陸を舞台にした女の儚さを描き出した名作へと転化していってくれるのである。3人の女の情念が実に見事に炙り出されていた。咆哮した末に疲れ果てたように死に望む2人の女性の姿は、怨霊のようでもありぞっとさせられる。 そんな中で芯の強そうな女性を演じた久我美子が、ただ清楚なだけではない、なんとも生々しい人妻の色香を漂わせながら、その満たされぬ欲望の全てを亡き夫の死の真実探求に傾ける姿が、ぞくっとさせる。こういう清楚な女優が、情念を一心に体現するときに生み出される肉体の底から漂わせるエロスは、ある意味北陸の陰鬱さに相応しい観念だろう。 憲一との新婚旅行の回想シーンで、信州を訪れホテルの湯船につかる久我のみずみずしい上半身とはにかんだ表情がなんともすがすがしさよりも、じっとりしたエロスをかもし出していた。 ![]() 一方、有馬稲子は、その最初の姿で、英語を喋っているのだが、この華やかさの欠けらもない風体とあわせて意表をつかれる。そのこなれた風を装う英語の喋り方が、実にその過去のバックグラウンド(パンパン)を髣髴させてくれる。それにしても本作の有馬稲子は、幸の薄い役柄である。それでいて私の感覚から言わせれば彼女らしい美しさが出ていなかった。ちなみに当初主人公役は有馬にオファーされていたが、彼女は室田夫人役を望んでいたという。 この室田夫人役を演じる高千穂ひづるのその品の良い表情と話し方が、どんどん崩れていく様が実に素晴らしく、お姫様のような風貌が目が釣りあがって変貌する瞬間などは惚れ惚れとするほど恐ろしい。この人は美しいという以上に品格のある女性である。ある種柔らかめの高峰三枝子といった趣である。 ■ヤセの断崖の3人 ![]() 憲一が自殺したあの時、もう一人、誰かがここにいたんです そう禎子が言った後に流れる音楽と、断崖絶壁に佇む憲一の姿を回想し映すカメラが引いて、ある女性が映し出されるこの大胆さ。このショットこそこの作品のハイライトだろう。 能登金剛で対峙する三人の人間(禎子と室田夫妻)。クライマックスにおいて、日本の風土を活用する作品の走りであり、後年テレビのサスペンスもので恥も外聞もなく使い古されるパターンとなってしまう。最もこの作品において新しい部分として特筆すべきは、事件の真相を突き止めるのが、刑事でも探偵でもない一人の未亡人=女性という部分である。 ごく普通の女性が、東京から何十時間もかかる北陸と言う北国で、真相を求め時を過ごす。最初に北陸を訪れた禎子がピンヒールを履いているところが、実に印象的である。 彼女が滞在する宿は、今は亡き片山津温泉の「白山荘」であった。この当時、この温泉町片山津はすごく栄えていたらしいが、私が2003年の年末に訪れた時は、まさに枯れ果てていた。湖が周辺にあってすばらしい場所なのだが、女性と訪れるにしては風俗店が乱立しているので、場末感が漂いすぎている。 その時私の当時の彼女がふと言ったものだ、「こんな所で働く人たちって何か都会で働けない事情を抱えてるんじゃないかな?」と。一方、室田夫婦が滞在している宿は和倉温泉の高級旅館「加賀屋」である。2006年に和倉温泉を訪れたが、実に素晴らしい場所である。 ちなみに室田夫人の夫儀作を演じるは、野村作品の常連でもある加藤嘉である。この人はこういうおどおどとする役柄をやらせても実にうまい。 ■過去の亡霊に取りつかれ滅んでいく女の姿 ![]() 本作において、疑問を感じる描写が二箇所ある(原作と共通した疑問点であるが)。一つは「なぜ受付をしていた久子が禎子を感慨深げに眺めているのか?」という点と、もう一つは「なぜあの二枚の家屋の写真を、憲一は所持していたのか?」という点である。 しかし、こういった瑣末な部疑問はさほど重要ではない。室田夫人が自ら万全に隠していた過去が、ふとした自分自身の疑心暗鬼から憲一に分かってしまう瞬間に、更に彼女の疑心暗鬼は増大していく。物語の中では憲一が夫人の過去をネタに強請ろうと考えているかどうかは明確には分からないのだが、将来を嘱望され新婚の憲一が強請をする可能性はきわめて低いだろう。 しかし、夫人は憲一を殺害するのである。これこそ、殺人というものが如何にして生み出されるのかという悲しい真実。疑心暗鬼という「魔物」がどんな人間にとっても殺人を犯しうる瞬間を生み出しかねないと納得させる説得力溢れる描写に見ているものはぞっとさせられるはずである。 人間が人を殺める時。それは過去の「悲愴な事実」から逃れようとすればするほどに、「悲愴な事実」を又一つ又一つと抱え込んでいくぞっとするほどの絶望に満ちたプロセスである。室田夫人がもし、憲一の殺害で全てを闇に葬り去れたとしても、彼女の心の中の疑心暗鬼は更に大きくなるばかりなのである。 まさに殺人が生み出す自滅のプロセスがそこにあるのである。殺人することによってさらに自分自身を傷つけているこの追い込まれていく絶望感。それが日本海の荒波と断崖絶壁の中で完膚なきまでに突きつけられるのである。ヤスの断崖のシーンの緊張感は、そういった描写の的確さゆえに生み出されているのである。だからこそ全てが終わった後の禎子の想念的なセリフも生きてくるのである。 「能登へ来た私の目的。私の気がかりなことは全部これではっきりした。しかし私にはもっとおおきなものが残された。それはこの人の世にあまりにも捉えようもないほどに深い奥行きとその広さ。あたかもそれはこの北国の底知れぬ深さ。無限の広さ。いや広く深い無限の悲しみに似ていると言えばよいのどろうか?」 ■憲一が生きていた方が禎子にとって良かったのだろうか? 最後に、この作品でどうしても気になるのが、この夫憲一という人物の存在である。エリート広告マンで、将来を嘱望されている男なのだが、実際の憲一は、巡査時代に風紀課という立場で知り合った商売女と関係を持つ自尊心にかける男だった。ずっとその頃の関係に尾を引いて元娼婦である久子を内縁の妻にするのだが、2年も経たぬうちに社会的な立場も考えて、見合いをし、結婚を決意するのである。彼もまた室田夫人と同じく過去を葬り去ろうとしていた一人だった。 戦後の混乱の中、娼婦と支えあって生きながら北陸の「薄暗い灰色の空」のもとで生きてきた男が、生活の安定に近づくに連れて「明るい空を求め」過去を断絶しようとするその姿。そんな過去との訣別を決意した憲一に対して室田夫人は、全く逆の疑心暗鬼を描いていたことから『ゼロの悲劇』が起こってしまうのである。 『ゼロの焦点』とはまさに『ゼロの犯罪』であり、人間の疑心暗鬼が生み出した本来は起こる必要もなかった犯罪のことを示唆している優れた題名なのである。 しかし、このゼロの犯罪の構図は実に見事だが、どうもやりきれないのは、憲一という男の頼りなさといい加減さである。こんないい加減な男が果たして会社にとって有能な人材だったのだろうか?むしろ禎子にとっていい加減なこんな憲一みたいな男が生きていた方が不幸だったのではないだろうか? 本作は1958年3月号から1960年1月号まで雑誌『宝石』に連載された松本清張の長編推理小説である。 − 2007年8月21日 − |
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