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ゾンビ   ZOMBIE: DAWN OF THE DEAD(1978・イタリア/アメリカ)
■ジャンル: ホラー
■収録時間: 127分

■スタッフ
監督・脚本 : ジョージ・A・ロメロ
製作 : クラウディオ・アルジェント / アルフレッド・クオモ / リチャード・P・ルビンスタイン
撮影 : マイケル・ゴーニック
特殊メイク : トム・サヴィーニ
音楽 : ゴブリン

■キャスト
ケン・フォリー(ピーター)
スコット・H・ライニガー(ロジャー)
ゲイラン・ロス(フランシーン)
デヴィッド・エムゲ(スティーヴン)
トム・サヴィーニ(ブレード)
ゾンビ
「地獄の底から這い出して、ゾンビが食う、人間を食う!残酷映画史を真紅の血のりで塗り替えた驚異のスーパー残酷!肉をくれ!もっと若い肉を!」
この宣伝コピーを作ったヤツ自身が、既に消費社会に蝕まれたゾンビそのものだった。そして、
多くの日本人は『ゾンビ』に安易な怖さを求め、メイクアップやら残酷描写といった安易な怖さの象徴的な要素だけに注目した。しかし、この作品は、単なるホラー映画ではなく、「消費社会の中で、あらゆる感覚が麻痺し、やがて欲望マシーンと化していく人間の姿」を描いた最高級の作品だった。だからこそこの作品は、間違いなく芸術の範疇に食い込んでいる。この作品にどんな怖さ≠求めるのか?あなたの怖さ≠ノ対する知性がさらけだされる作品である。表面的な怖さを求めるのか?もしくは、もっと深い内面的な怖さを感じているのか?習慣と反応が前者であり、解釈と理解が後者である。そして、それはゾンビと人間の違いでもあるのだ。ゾンビとは前者の感覚しか持たぬ人間のことを揶揄しているのである。

■あらすじ


全米各地が混乱に満ちていた。その理由は突然死者たちが人間を襲い始めた為だった。そんな混乱の中テレビ局に勤めるスティーヴンと恋人フラン。その友人でSWATのロジャーとピーターの4人はヘリコプターでゾンビの徘徊する都市部を離れた。やがて郊外のショッピング・モールの屋上に着陸し、モールに立て篭もりゾンビの襲来に備える4人だったが・・・


■ゾンビ歩きで女の子を知ったオレ


オレが小学生の頃、ゾンビといえば単純に恐ろしい手を真っ直ぐに伸ばしてゾロゾロと歩く不気味な集団だった。そして、
よくゾンビ歩きで女の子に抱きついていたマセガキだった。そんなイメージだけが先行していたオレがゾンビを始めて見たのは、中学生の時だった。

映画が公開されて十数年も経ったその時に見た印象は、古臭いという印象よりも「コレってホラーというよりも第一級のアクション映画だよな!」だった。そして、どんな少年も持つ「ボクだけの王国」=秘密基地願望溢れるその展開に熱狂した。

田舎モノの少年にとって、秘密基地を作る楽しみは何者にも変えがたいものだった。小学6年のファミコンが流行りだした時期、オレは仲間の男女を集めて、近くの竹林の中に秘密基地を作った。1980年代の話だ。そして、この作品で登場するショッピング・センターはそんなガキ心を熱狂させるに十分な最大級の秘密基地だった。

その頃はまだこの作品の深い意味など知る由もなかった。そんなガキどもを熱狂させながらロメロというオヤジは、大人を唸らせる要素も巧みに作品に組み込んでいた。


■タブーを犯すことの快感からこの作品は始まっている


ある日突然、日本中の死者が蘇えったと想像してみよう。そして、あなたを食おうと襲い掛かってきたと・・・。この作品の魅力は、
「近親相姦にも似た感覚」にある。死後の肉体が我々に襲い掛かり、お互いが情無用に殺しあう。いわば人間同士の殺戮の正当化。

我々が動物を捕って食べるかのように、ただただ食物として生きた人間を求めるゾンビたち。人間が動物達に振り向けていた無頓着な食欲が、人間自身に向けられる恐ろしさ。私たちは生き物を殺し生きているということをあのゾンビが人間を八つ裂きにするシーンで再認識させられる。

そして、このロメロという男のぞっとする凄さは、タブーに近い「略奪と殺戮の正当化」を「近親相姦を堂々と正当化」するかのように宣言しているところにある。数分前まで味方だった親友、恋人も殺し合いの対象になるという作品内の現実が否応なしに作品に特異性を生み出しているのである。

そして、
ゾンビの間では共食いはしないというルールに対して、人間は殺し合うという徹底的に皮肉に満ちた描写。結局は人間が滅びるのは、人間同士のいさかいであり、それが他の生態系にどれだけ迷惑なことかという野蛮性をここまで鋭く描き挙げた作品は少ないだろう。


■死人が徘徊することに現実味を与えたことからこの作品の普遍性は始まった


ゾンビ
「死人が人を襲っている!」「人間が食料なんです!」

レンガ色の壁にもたれかかるヒロイン・フランの姿から物語は始まる。何の説明もなく唐突に、死人が地上を徘徊していることを既成事実として物語は進行していくのだが、このドキュメンタリー・タッチな流れは実に見事である。とかく現実離れした物語として描かれがちなホラー&モンスター映画に対してロメロは
、強引なる「現実感」を生み出すことによって一線を画した演出を取っている。

この作品が伝説的なホラー映画を越えた作品になった理由はロメロのこの一貫した姿勢にあった。あまりにも見せ過ぎる最近のハリウッド大作に対して、この作品はあくまでも見せ過ぎない素晴らしい姿勢で作られている。

そして、このヒロインを演じたゲイラン・ロス(1950− )の強固なフェミニズムもこの作品においては、一つの自己主張となって見事に昇華されている。ゲイランは撮影前ロメロに
「ただ悲鳴を上げるだけの役柄を演じたくないの」と言っていたという。そんな彼女の役柄に対する姿勢が、現実離れしていない女性の強さを体現させている(一方、『バイオハザード』は現実離れした女性の強さであり、全体的な作りの精神年齢は極めて低い)。ゲイランは現在ドキュメンタリーの製作者兼監督として活躍している。


■青塗りはゾンビ映画の様式美である


「プエルトリカンやニガーめ!ぶっ殺してやる!」

そして、狂った差別主義者のSWATが登場する。ゾンビ以上に凶暴なこの男。なりふり構わずに暴徒を殺害するこの狂人を食い止めるべく同じくSWATのピーターは彼を射殺する。と同時に開放された一室から登場するゾンビたち。まさに圧巻の瞬間だ。

ほどよく人間との違いを見せる青塗りメイクのシンプルさが、
この作品の真の目的は、リアルさにではなく、イメージの中にあると認識させてくれる。そして、鈍感な人は取り残されていく類いの作品である。なんだ!あのメイクは!と言ってる次元ではその人の素養も知れたものである。

キミたち。ゾンビとは青塗りの歌舞伎なんだぜ?あの歌舞伎の白塗りがより高度なメイクアップを施されたら価値がなくなるように、ゾンビ映画も青塗りがより高度になるとその世界観は根底から覆されてしまうのだ。


■ゾンビの隠されたメッセージはその動きの中にもある


ケン・フォリー ゾンビ
そして、テレビ局からヘリで飛び立つフランとその恋人スティーヴン。そして、二人のSWATピーター&ロジャー(スティーヴン役のデヴィッド・エムゲとロジャー役のスコット・H・ライニガーは実生活においても同じレストランで働いていた友人)。都会の夜の中、高層ビルの灯りが消えていく姿を尻目に去っていくヘリコプターの描写が、世界の破局が静かに、そして、急激に迫っていることを示している。

ヘリコプターから見下ろす眼下において、ゾンビを狩りの様に射撃して楽しむ人間たちの姿が映し出される。別に食料でもないゾンビを殺害する狩猟者と、食料を求めて人間を付け狙うゾンビ。
一方は、スリルと楽しみを求め、一方は、ただ必要に迫られて。一体野蛮なのはどっちだろうか?

そして、ヘリの給油のために田舎の給油所に着陸する中で、遭遇したゾンビとの格闘。このシーンにおいて、ゾンビというものの定義が画面上に明確に示される。ルール1.走らず動きは遅い(ただし、子供は走れる=トム・サビーニの身内にかぎり)。ルール2.食料は人肉。決して共食いはしない。ルール3.頭部を破壊すると死ぬ。

そして、何よりも重要なのは、この動きの遅いことである。青塗りが、ゾンビ映画の根底を支えているように、あのゆっくりとした動きが、せかせかと生きている人間の対比となっている。人間は食べることだけを目的に生きてはいない。一方、ゾンビの目的はどうやら人間を食べることだけらしい。それもゆっくりとしか動けないというハンデを持ちながら。

コレはあまり褒められた喩えではないので軽く流すが、ゾンビとは明確に健常者の五体満足な人間の驕りに対する復讐劇でもあるのだ。素早く動けるから「自分たちの方が上という視線」に対しての。

つまるところ最近の走るゾンビは、ヨーイドン!スタートで人に襲い掛かるのだが、それではゾンビと人間の違いは、「野蛮な人間」と「野蛮なゾンビ」の違いにしかならないと言うことである。それではどう足掻いたところで子供騙しな作品以上のものは作れるわけがない。


■ゾンビとは・・・ソレであり、アレである


人類の滅亡は、どうやら全面核戦争ではないらしいという確信に満ちた1970年代後半に、ロメロが考えたこと。それは
「どうやら世界は豊かさのゴール地点に到達した時から滅亡へのカウントダウンがじわりじわりと始まるのじゃないか?」だった。

つまり、
ゾンビは生態系の破壊が生み出す人類に対する弊害そのものであり、大気汚染を含む核汚染などの公害もまさに、ゾンビそのものなのだ。そして、そういったものと同時進行で、一年ごとにショッピングモールは大型化し、人間の生きるスケールは小型化していくのである。

そして、さらに多くの人間は、ゆっくりと実にゆっくりとしかし確実に、ゾンビのように無感覚に、無感動に、人間関係を気薄に、金だけを目的に、ただひたすら惰性の中で生きていくのである。


■消費社会の魅力と倦怠を完膚なきまでに捉えている


「彼らは何をしているの。なぜ彼らはここに来るの?」「生きていたときの習慣だ」


人間の欲望の発端は、多分に目先の視覚にあることがよく分かる。そうショッピングモールを占拠する4人組。彼らはまさに小さな王国の支配者である。そして、観ている側もワクワクしてしまう消費社会の魅力。
ここにロメロの凄みがある。彼は消費社会を否定しつつも、その魅力を確実に捉えているのだ。

どんなに堅いヤツだって物量攻撃の前には落ちざるを得ない。そう昔KGBのエージェントが言ったように「人間の中で落ちない人間はいない。まず物質。それでも無理なら色欲。これでかならず落ちる」らしい。そうどんな人間だって、オレだって、ショッピングモールの小さな王になりたいのだ!

そして、ワクワクするようなゾンビ狩りが始まる。やがて待ち構えるのは倦怠感と一抹の不安。そして、大きすぎる富を守らねばというゾンビから生存するという本質を忘れていく過程。全ては物品に取り付かれた人間が自ら招いた自滅行為だった。


■消費社会が満室になると、人間はどこを歩き回るようになるのか?


「地獄が満室になると、死人が地上を歩き回るようになるんだ」


しかし、
消費社会が満室になると、人間はどこを歩き回るようになるのだろうか?まさに上記のピーターのセリフは、今現在を捉えたセリフである。消費せよという強迫観念に追い立てられ、消費する為に生きているかのような人間から消費の手段が失われたら、そういう人間はどういう行為に走るのだろうか?

物質に依存し、消費することに慣れれば慣れる程、人間は弱くなっていくのではないだろうか?まさに覚醒剤を得んがために暴走する弱き人間達のように。

究極の消費社会の様相を成している現在において、もし消費することに参加できない多くの人々が生み出された時、この社会は、どうなるのだろうか?
「消費社会の崩壊は、人間のエゴを利用した果ての、消費を許されなくなった人々の、消費社会のルールの放棄から始まる」のではないだろうか?

つまり、ゾンビとは、消費社会のルールを放棄した無銭飲食者の群れであり、そういった無秩序の中で、ルールに従っていた人たちもやがてゾンビになっていく構図なのである。

ちなみに舞台となったショッピング・モールは、現在も存在するモンロービル・モールであり、ペンシルバニア州ピッツバーグにほとんど変わらぬ様相で佇んでいる。撮影は1977年から78年の冬の間(閉店後の夜の10時から朝の6時まで)に行われた。


■トム・サビーニ兄貴の飛びざま!


ゾンビ トム・サビーニ
ショッピングモールの中で緊張感を失っていく登場人物たち。そして、大型トラックを移動し、ショッピングモールから外敵の侵入を防ぐバリケードを作ろうとした時に、ロジャーは噛まれてしまうのだった。ゾンビに慣れ、その凶暴性に対して慢心が生まれた時、ロジャー自身もゾンビになってしまったのだ。

それにしても大型トラックを動かす時に流れる遊び心溢れるこの音楽の安っぽさが実に良い。そして、トランポリンを画面上に映しながらぶっとびまくるトム・サビーニ兄貴のタフネスぶりにもほっと安心させられる。彼は確認しうるだけでも2箇所でゾンビとして飛んでいる!

ゾンビ
そして、数日経ちロジャーはゾンビと変わり果てるのだった。彼もまたゆっくりとゾンビ化していった。そして、親友のピーターは彼を撃ち殺すのである。まさにホラー映画がホラーの領域を飛び越えた瞬間であり、様々な感情を生み出す名シーンである。

そして、人間にとって、死は恐れるものではなく、救いなのだと訴えかける力のある映像だった。


■ゾンビが肉を貪る姿は単に獣が肉を貪る姿でしかない


ゾンビ ゾンビ
そして、破局はゾンビからではなく人間同士の争いによって沸き起こった。ショッピング・モールに押し寄せてくる暴走族の一群(トム・サビーニは三度死ぬ!)。モール内のものを無差別に破壊し、更にゾンビに対してもオモチャのように弄んで殺戮していく。それにしてもゾンビは人間は襲うが、決して物品は破壊しない。ここでも果たしてより凶暴な生き物はどっちなのだろうか?という視点が投げかけられている。

人間にとってゾンビは、恐怖の生き物だろうが、他の生物にとっては人間のほうが遥かに恐怖な生き物である。そして、人間のエゴのぶつかり合いが、本来の生命の脅威に対する注意を怠り共倒れを生み出すのである。何かこの終盤は、世界史の愚かな人間同士の争いの縮図を見ているようだ。

ゾンビ ゾンビ
そして、暴走族たちは、ゾンビの餌食になる。まさに満を持してのゾンビの残酷描写のオンパレード。特に生きたまま内臓をつかみ出され食われる様は、中学生のときにぞっとしたほどだった。
この作品の恐るべき存在感は、高尚な消費社会への警告を発しながらも、一瞬にして、当時のホラー映画を遥かに越えた下品極まりない残酷描写で画面を覆い尽くしたところにある。


■虐げられた者にこそ、希望は見いだせる


ゾンビ ゾンビ
そして、ゾンビの真打ち登場である。そうスティーヴンは、ゾンビになってから輝いた。まさにロメロをして
「彼のゾンビ・ウォークこそ私の一番のお気に入りだ」と言わしめたゾンビぶりだ。エレベーターのドアが開くと同時に襲い掛かるあの有名なゾンビ・シーンの犠牲になったのだが、ゾンビに成り果てた彼が、登場するシーンも実にショッキングだ。

そして、彼もまた生前の習性に従い他のゾンビを隠れ家へと導いてしまうのだった。そして、彼の子供を宿した恋人フランの目の前で、友人のピーターに射殺されるのである。二人の友を殺したピーターはその償いとして自ら命を絶つ決意をする。

もう隣の部屋にまで押し寄せてきたゾンビの一群を尻目にこめかみに銃を押し付け自殺を図るピーター。一方、屋上のヘリの操縦席に座るフランは、飛び立たずにピーターを待つ。そんな緊張感溢れる展開の中、ピーターは死なずにゾンビを押しのけながらヘリに飛び乗る!「燃料は?」「あまりないわ」「…まあいいさ」そして、去っていく二人。

生き残ったのは、妊娠した白人女性と、リーダシップ溢れる黒人男性だった。そして、明確に彼はベトナム帰還兵だった。
虐げられてきたものたちがこれからの世界秩序を担うことに、希望をつないだ最後だった。そして、何よりも物質の中の安逸に閉じこもっていては、本当の人生の価値は見いだせないという意味においても、ショッピング・モールから飛び立つというラストは象徴的だった。

そして、そんな希望さえも打ち破るかのような無邪気にモール内を徘徊するゾンビ達の姿とノーテンキな音楽が流れるエンディングの軽快なる不気味さをもってこの作品は終幕を迎える。


■そのバージョンの多さの分だけマニア心をくすぐる・・・


本作には数多くのバージョンが存在するが、大まかに分けると「米国公開版」「ダリオ・アルジェント版」「ディレクターズカット版」の三バージョンに分かれる。そして、それらを見比べた上で最も完成度が高いとオレが感じた「全米公開版」を念頭に作品を云々している。

本作の製作は、『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』(1968)の続編の資金繰りに困っていたロメロに『サスペリア』(1977)のダリオ・アルジェントが手を差し伸べる形で始まる。そして、前作の約10倍の予算である50万ドルの製作費で作られた。出資の条件として、アルジェントは英語圏以外の配給権と編集権を獲得した。結果的に5500万ドルの興行収入を稼ぎ出す。

当初ロメロは結末として、ピーターの拳銃自殺と、フランのヘリコプターの羽を使った頭部切断シーンを予定していたが、あまりにも救い様がなさ過ぎるとのことで、希望の持てるエンディングに変更された。

ゾンビのエキストラには、スタッフ及びその近親者が多く出演している。そして、一般のエキストラには20ドルの現金と食事、そして、本作のオリジナルTシャツが支給されたという。

− 2007年10月27日 −


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